龍樹菩薩といえば二諦が知られていますね。 以下、龍樹『根本中頌』第二十四章「四聖諦の考察」より、訳は『龍樹『根本中頌』を読む』桂紹隆、五島清隆。
第八偈 >諸仏は二諦[という二種の異なるレベルの真実]に依って教え(法)を説くのである。 >すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)究極的な意味での真実(勝義諦)である。 第九偈 >その二諦の区別を知らない人は[諸]仏の深遠なる教えの真実を知らない。 第十偈 >言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない >究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。
「はじめに」で善巧方便の話をさせて頂きましたが、龍樹菩薩はお釈迦様が示されたその方便について『大智度論』にて >1.「世界悉檀(世間に定まった説き方)」 >2.「各各爲人悉檀(人それぞれになされる定まった説き方)」 >3.「対治悉檀(対症治療の定まった説き方)」 >4.「第一義悉檀(最高の意味での定まった説き方)」 >(『「空」の発見――ブッダと龍樹の仏教対話術を支える論理』 石飛道子 より) と四種類があった指摘されております。
しかしながら、論じると云ってもそれは先にいう善巧方便と云うことであり、決してこれが絶対的に正しいという立場を示すものではありません。
>師は答えた、「マーガンディヤよ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。 >無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。 >それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ(これが内心の平安である)」。 >(スッタニパータ 839)
>わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。 >もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。 >(スッタニパータ 837)
これを善巧方便って云うのだとか。 すなわち >仏・菩薩が衆生教化のために設ける巧妙な手立て・手段のこと。 >(岩波仏教辞典 第二版 より) なのだと。 ここでは仏教は勿論ですが、古今東西の思想や哲学等様々な視座から仏教についてあれこれを論じてみようと思います。
龍樹菩薩といえば二諦が知られていますね。
以下、龍樹『根本中頌』第二十四章「四聖諦の考察」より、訳は『龍樹『根本中頌』を読む』桂紹隆、五島清隆。
第八偈
>諸仏は二諦[という二種の異なるレベルの真実]に依って教え(法)を説くのである。
>すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)究極的な意味での真実(勝義諦)である。
第九偈
>その二諦の区別を知らない人は[諸]仏の深遠なる教えの真実を知らない。
第十偈
>言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない
>究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。
「はじめに」で善巧方便の話をさせて頂きましたが、龍樹菩薩はお釈迦様が示されたその方便について『大智度論』にて
>1.「世界悉檀(世間に定まった説き方)」
>2.「各各爲人悉檀(人それぞれになされる定まった説き方)」
>3.「対治悉檀(対症治療の定まった説き方)」
>4.「第一義悉檀(最高の意味での定まった説き方)」
>(『「空」の発見――ブッダと龍樹の仏教対話術を支える論理』 石飛道子 より)
と四種類があった指摘されております。
しかしながら、論じると云ってもそれは先にいう善巧方便と云うことであり、決してこれが絶対的に正しいという立場を示すものではありません。
>師は答えた、「マーガンディヤよ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。
>無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。
>それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ(これが内心の平安である)」。
>(スッタニパータ 839)
>わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
>もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
>(スッタニパータ 837)
これを善巧方便って云うのだとか。
すなわち
>仏・菩薩が衆生教化のために設ける巧妙な手立て・手段のこと。
>(岩波仏教辞典 第二版 より)
なのだと。
ここでは仏教は勿論ですが、古今東西の思想や哲学等様々な視座から仏教についてあれこれを論じてみようと思います。