仏教のあれこれ

北宗禅と南宗禅

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五祖弘忍(東山法門)

 ―慧能(南宗禅)
   ―荷擇神会(荷擇宗)   
   ―青山行思―石頭希遷(石頭宗)〜曹洞宗・雲門宗・法眼宗
   ―南岳懐譲―馬祖道一(洪州宗)〜臨済宗・潙仰宗
   ―南陽慧忠
   ―永嘉玄覚 
 ―神秀(北宗禅)―普寂        

鹿野苑
作成: 2024/03/31 (日) 15:16:05
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1
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:16:47

北宗禅は離念を南宗禅は無念を説くわけです。
以下有名な偈ですがw

(離念の立場)
 身は是れ菩提樹、心は明鏡の台のごとし。
 時時に勤めて払拭して、塵埃に染さしむること莫れ。

(無念の立場)
 菩提は本より樹無し、明鏡も亦た台に非ず。
 本来無一物、何れの処にか塵埃有らん。

2
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:17:12

北宗禅の特色は、以下の通り指摘されております。

(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。
(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。

つまり現実態の迷える自己を坐禅によって克服し、その底に潜在している「仏」とひとしき本来の自己を回復する、という考え方です。

(『禅思想史講義』小川隆 より)

3
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:17:53

以下は参考までに。
神秀の偈文に似てますねw

大道は本来り広く遍ねく、円浄にして本より有り、因従り得るにはあらず。
加えば浮雲の底の日光の似し、雲霧滅し尽さば、日光自ずから現る。
何ぞ更に多くの広学知見もて、文字語言を渉歴り、覆って生死の道に帰するを用いん。
口を用いて文を説き、伝えて道と為す者は、
此の人、名利を貪求りて、自からを壊し他を壊すなり。
亦た銅鏡を磨くが如し、鏡面上の塵落ち尽くさば、鏡は自り明浄なり。
(『楞伽師資記』「求那跋陀羅の章」より)

4
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:18:08

北宗禅の思想、どうでしょうか?
此れこそ印度伝来の禅修の正統を継ぐものであり、別におかしくはないと思うのですが…

しかし、神会は慧能を引き合いに出して”No”と否定した訳です。

5
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:18:21

最初期の禅宗は、いわばありのままの迷える自己を、坐禅という行によって克服し、もともとあった仏としての自己を回復する、という禅でした。
その意味ではたしかに「坐禅・内観の法を修めて、人間の心の本性をさとろうとする宗派」だった、といっていいでしょう。
(禅思想史講義』小川隆 より)

6
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:18:37

端的に云ってしまうと南宗禅は、坐禅をインド的な身体的技法から精神的なものへと転換してしまったのです。
以下『禅の思想史講義』からそれを追ってみましょう。

7
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:18:48 修正

若し人に教えて凝心入定、住心看浄、起心外照、摂心内証”せしめば、此れは是れ菩提を障うるなり。
今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。
若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。
(『菩提達磨南宗定是非論』)

8
鹿野苑 2024/03/31 (日) 15:20:35 >> 7

つまり、北宗の坐禅は
 >身を坐して住心入定せしむる
ものであり、南宗は
 >”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、
 >禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
って訳です。
要約すると ”無念にして本性を観るのが坐禅である” という主張でありましょう。

9
鹿野苑 2024/03/31 (日) 17:14:06

更に南宗禅の特色として。

給事中房琯、「煩悩即菩提」の義を問う。
答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。
(石井本三九『神会和尚禅話録』)

10
鹿野苑 2024/03/31 (日) 17:14:18

ここで小川先生の見解を一瞥して見ましょう。

(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。
(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。
(3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。

11
鹿野苑 2024/03/31 (日) 17:14:35

どうでしょうか。
一旦まとめておきます。

<北宗禅>
(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。
(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
<南宗禅>
(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。
(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。
(3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。

12
鹿野苑 2024/03/31 (日) 17:15:13

更に南宗禅の要旨を見てみましょう。

然して此の法門は、契要を直指して、繁文を仮らず。
但る一切の来生は、心本と無相。
言う所の相とは、並て是れ妄心なり。
何者か見れ妄?
意を作して心を住め、空を取り浄を取る所より、乃至ては心を起して菩提涅槃を証せんと求むるまで、並て虚安に属す。
他だ意を作すことさえ莫ければ、心には自から物無し、即ち物心無し。
かく自性は空寂にして、空の体上に、自り本智有り、知を謂いて以て照用と為す。
故に『般若経』に云く「応無所住面生其心」と。
「応無所」は本寂之体、「而生其心」は本智之用なり。
担だ意を作すことさえ莫ければ、自ら当に悟入すべし。
努力、努力!
(『神会語録』胡適本第五段(石井本ナシ)、『神会和尚禅話録』)