仏教のお話

Rの会:無量義経

77 コメント
views
0 フォロー

日本の仏教系新興宗教は、法華経を所依の経典にしているところが多いです。創価学会・立正佼成会・霊友会などがそれです。しかし、同じ法華経を拠り所としていても、それぞれの会の解釈が異なるため、法華経についての共通理解はなされていません。

ここでは、Rの会の法華経の解釈を例にとり、ベースとなる法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)との違いを示していきます。

ダルマ太郎
作成: 2024/03/19 (火) 21:32:28
最終更新: 2024/03/27 (水) 00:02:46
通報 ...
2
ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 14:16:14 修正

:


:
:
はじめに
:
Rの会では、『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』を主にして、その開経としての『無量義経(むりょうぎきょう)』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)』を合わせて学んでいます。この三経を法華三部経といい、妙法蓮華経並開結(みょうほうれんげきょうならびにかいけつ)とも称されます。ただし、このことは、インドの法華経で言われていたことではなく、中国において、天台大師智顗(てんだいたいしちぎ)が言い出したことです。なので、法華三部経というものが「有る」のではなく、仮にそういう風に言っています。ここでは、Rの会の法華経観をテーマにしていますので、法華三部経を取り上げることにします。
:
Rの会では、インドの法華経そのものを学ぶのではなく、創設者の庭野開祖によって解釈された内容を学んでいます。それは、中国において訳された『妙法蓮華経』とも異なります。完全にオリジナルから外れているとは言いませんが、庭野開祖の法華経の解釈をインドの法華経だと信じてしまうことは問題だと思います。Rの会の法華経の解釈本には、『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』というタイトルをつけていますので、あくまでも「新しい解釈」「新釈」であることを念頭においておく必要があります。
:
私が法華経の解釈をする場合は、サンスクリット原典のサッダルマ・プンダリーカ・スートラ、鳩摩羅什(くまらじゅう)の妙法蓮華経を参照にします。分からない言葉については、仏教大辞典を開いて意味を調べながら進めていきます。できるだけ、自分勝手な解釈はつつしむつもりです。しかし、開経としての『無量義経』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経』には、サンスクリット原典がありませんから、中国語訳の経典を参照にします。
:
今回は、Rの会の高知教会で、YouTubeにて講義された『みんなで法華経を学ぼう!』を参照にします。せっかく動画になっていますから、リンクを貼らせていただきます。これによって、Rの会の法華経の新しい解釈がある程度理解できることでしょう。
:
:
はじめに
:
:

3
ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 15:17:17 修正 >> 2

法華経を学ぶ上での心構え
:
:
まず、法華経を学ぶ上での心構えが4つ説かれています。
:
①又如来の滅度の後に、若し人あって妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜(ずいき)せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記を与え授く。
:
この経文は、法華経の法師品(ほっしほん)第十からの引用です。講師は、「如来が亡くなった後に、もしある人が法華経の一行でも一句でも聞いて、一瞬でもいいから「ああ、ありがたい」と思うのなら、成仏することを保証しましょう」というように解釈しています。つまり、法華経をすべて学び尽くそうとするのではなく、一行でも一句でも聞いて喜びを感じるのであれば成仏に通じるということなのでしょう。確かに何事でも学び修得するためには、最初の喜びが重要だと思います。喜びを得ることができれば、学習意欲は高まることでしょう。
:
しかし、ここに出てくる随喜(ずいき)という言葉は、「ああ、ありがたい」というような単純な意味ではありません。随喜とは、サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。法華経の一行でも一句でも聞いて、自分勝手に解釈したのでは随喜とはいえません。法華経を深く学び、共感し、喜びを得ることが成仏に通じます。そのためには、法華経に書かれたことを正しく読むことが重要です。
:
:
②其の習学せざる者は 此れを暁了(ぎょうりょう)すること能わじ
:
この経文は、法華経の方便品第十からの引用です。暁了とは、「明らかに理解すること」「明らかにさとり知ること」です。習学とは、「知識を学んで身につけること」です。「其の習学せざる者は」とありますから、何を修学するのかが分かりません。方便品には、次のように説かれています。
:
:
舎利弗(しゃりほつ)当に知るべし 諸仏の法是の如く
万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう
其の習学せざる者は 此れを暁了すること能わじ
汝等既已(すで)に 諸仏世の師の
随宜(ずいぎ)方便の事を知りぬ 復諸の疑惑なく
心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ

:
:
つまり、「随宜方便の事」を修学することが勧められています。諸仏は、「万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう」のですから、方便を方便として学ぶことが大事だということです。
:
:
③「習学」の3つのステップ「聞解(もんげ)思惟(しゆい)修習(しゅしゅう)
:
この経文は、法華経の法師品第十からの引用です。聞解とは、教えを聞くこととその教えを理解することです。思惟とは、教えを理解した上で思索することです。修習とは、思惟した内容を身体で実践することです。
:
法師品第十には、次のように説かれています。
:
若し是の法華経を未だ聞かず、未だ解せず、未だ修習すること能わずんば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を去ること尚お遠し。若し聞解し思惟し修習することを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。
:
:
教えを聞いて理解するだけではなく、教えを思惟するだけではなく、教えを実践するだけはなく、聞解・思惟・修習を行うことで最高の覚りに至ります。聞解を得意とする声聞(しょうもん)、思惟を得意とする縁覚(えんがく)、修習を得意とする菩薩(ぼさつ)。人にはタイプがあって、得意とすることは違いますが、聞解・思惟・修習をバランスよく行うことで、成仏への道は開けます。
:
④『十分の一でも実践できれば、いや、その一つにでも徹することができれば、りっぱな精進(しょうじん)といえる』
:
法華経は、菩薩への教えですから、法華経に書かれている修行内容は、非常に難しいです。六波羅蜜(ろくはらみつ)にせよ、五種法師(ごしゅほっし)の行にしろ、凡夫はなかなか続けることはできません。できることから、こつこつの実践することが大事です。頑張ることと精進は違います。精進は、具体的に行動することを続けます。

:
:
法華経を学ぶ上での心構え
:
:

69
ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 01:43:07 >> 3

「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
:
教えを日常生活にいかに実践すべきかを主眼に置いた
法華三部経の真精神を学ぶため
…義に依って語に依らざれ

:
宗教の本義を明らかにしたい
あらゆる宗教に含まれているはずの共通の真理
人類すべてが進めるような「融和と協調」の場をつくらなければならない
〈宗教の本義〉をきわめ、その実践を最大の目的としてまとめた

:
これは、庭野開祖の主眼なのでしょう。法華三部経の真精神を学び、教えを日常生活にいかに実践するかを重視されたようです。また、宗教の本義を明らかにし、世界の宗教の共通の真理を明らかにして、「融和と協調」の場をつくることを目的にされたようです。宗教者として、立派な考えだと思います。しかし、法華経がはたして日常生活で実践可能な行なのかが疑問だし、宗教協力に法華経が役立つのかも疑問です。その辺のところをこの勉強会を通して学んでいきたいと思っています。
:
:
義に依って語に依らざれ
:
この経文は、「法四依」といい、涅槃経にあります。「仏の所説の如き、是の諸の比丘、当に四法に依るべし。何等かを四となす。法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」。
:
法に依って人に依らざれ(依法不依人)
…真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない
:
義に依って語に依らざれ(依義不依語)
…意味に依拠して、言葉に依拠しない
:
智に依って識に依らざれ(依智不依識)
…智慧に依拠して、知識に依拠しない
:
了義経に依って不了義経に依らざれ(依了義經不依不了義經)
…仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない
:
どれも重要なことですが、逆の人が多いのも事実です。真理を無視して人の解釈に依る人、意味を知ろうとせず言葉に依る人、智慧を求めず知識に依る人、真実が完全に説かれた教えを学ぼうとせず不完全な経典に依る人など。仏教を学ぶ人は、法四依を念頭に置いておく必要があります。特に市販の解釈本に依り、経典を読まないのは誤った理解に通じますので注意が必要です。
:
:
「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
:
:

71
ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 22:20:02 修正 >> 3

:
宗教の本義とは
:
:
英語のリリジョン religion の訳語として、宗教という言葉が当てられました。宗教とは、もともと仏教用語で、「重要な教え」という意味です。華厳経(けごんぎょう)などに出てくる言葉です。キリスト教と仏教とでは、思想が違うし、儀礼・儀式、習慣が違いますから、宗教という言葉でくくることはできないのですが、キリスト教的な宗教の概念が広く伝わってしまい、仏教に大きな影響を与えています。
:
広辞苑によれば、「宗教とは、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」だと定義されています。この定義は、キリスト教的であって、仏教には当てはまりません。少なくとも、釈尊の仏教とは異なります。インドでは、思想を三つのタイプに分けてとらえました。信仰タイプ・儀礼儀式タイプ・覚りを目指すタイプです。信仰タイプはヒンドゥー教、儀礼儀式タイプはバラモン教、覚りを目指すタイプは仏教です。仏教は、神への信仰はせず、儀礼儀式をしません。覚りを目指して道を進みます。キリスト教は、神への信仰のタイプでしょうから、仏教とはタイプが違います。
:
現在の日本の仏教をみると、如来・菩薩・明王・神への信仰をするし、葬式などの儀式を中心にしているので、本来の仏教とは大きく異なります。しかも、覚りを目指すという大事な目的を失っていますので、果たして仏教と呼べるのかも疑問です。仏教の道は、(かい)(じょう)()という三学、八正道、六波羅蜜などが有名ですが、その最も基本となる持戒を日本仏教は捨てています。在家であれば、五戒を持ちますが、五戒とは何かを記憶している人は少ないでしょう。殺生(せっしょう)や窃盗はしなくても、邪淫(じゃいん)・嘘・飲酒は平気でしているように思えます。新興宗教であっても、仏教系ならば、五戒は守る必要がありますが、忘年会などの宴会でお酒を楽しみ、会員同士で不倫をしている人もいます。戒律の無い宗教ってどうなのでしょう?
:
宗教の本義を明らかにしたいのなら、まずは戒を守ることから始めるのがいいと思います。持戒によって心を浄めれば禅定(ぜんじょう)に入りやすくなるし、禅定に入ることで智慧(ちえ)を求めやすくなり、智慧を得れば成仏に近づきます。仏教の本義は、智慧を完成させ、成仏することなのですから、まずは、持戒からでしょう。
:
大乗仏教の修行者である菩薩は、菩薩戒を受持します。それは、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)と呼ばれるもので、止悪・修善・利他という三つの戒です。つまり、悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすというものです。止悪とは、すべての戒を守ることですから、菩薩戒を受持する者が五戒を破ることはありえません。
:
:
宗教の本義とは
:
:

4
ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 18:46:54 修正 >> 2

:
法華経は難しい教えではない?
:
:
Rの会では、「法華経は難しい教えではない」と教えます。難しくないのなら簡単な教えなのでしょうか? 私は、そうとは思えません。法華経の経文中にも難解な教えだと書いてあるのですから、簡単な教えではないでしょう。難しいところを省き、または簡単な意味に置き換えて教えれば、それを聞く者は簡単な教えだと思ってしまうのかも知れませんが、それだと法華経の教えを歪めていることになります。
:
法華経は、大乗仏教の経典です。多くの般若経(はんにゃきょう)がつくられた後に世に出ました。般若経には、「(くう)」の理が説かれており、法華経では、空の実践が説かれています。よって般若経を深く学び、空の理をマスターしていなければ法華経は理解できません。いきなり法華経を学んでも、ちんぷんかんぷんになってしまいます。般若経といっても、般若心経を学ぶのではなく、八千頌般若経・二万五千頌般若経などを学ぶ必要があります。般若心経は、二万五千頌般若経の抜粋なので、これだけを学んでも理解はできません。
:
Rの会では、般若経を学ばず、法華経を学びます。それだと空の理が分からないので、法華経の理解はできません。それなのに「法華経は難しい教えではない」と主張するのはおかしな話です。法華経の中でも、安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四などで空の理は説かれていますが、短い文章なので、理解できる人は少ないでしょう。般若経を学んだ人ならば分かるのでしょうが、法華経だけを読んで理解しようとしても無理があります。
:
Rの会の会員の大多数は主婦のようです。それも中高年です。そういう人たちに仏教の甚深(じんじん)の教えを説いても伝わりにくいでしょう。だから、「法華経は難しい教えではない」と言って法華経に興味を持たせようとしているのかも知れません。だとしたら、法華経という難しい経典を選ばず、もっと理解しやすい経典を選ぶべきです。たとえば、『法句経(ほっくきょう)』などが手ごろかも知れません。『法句経』は、初期仏教の経典であり、初心者でも、ある程度の理解はできると思います。
:
仏教は、対機説法です。相手の機根(きこん)・性格・欲求に応じて法を説きます。法華経は、菩薩への教えですから、一般人では歯が立ちません。機根に応じた教えを説くことが重要だと思います。
:
:
法華経は難しい教えではない?
:
:

76
ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 22:32:36 修正 >> 4

:
法華三部経
:
:
無量義経
:
:
R論:釈尊は、いままでの四十余年間、こういう目的で、このように法を説いてきた、じつはまだ真実をすっかりうち明けていないのだ。しかし、今まで説いてきた教えもすべて真実であり、すべて大切なものである、なぜなら、すべての教えはただ一つの真理から出ているからである。
:
太郎論:日本の法華経信者の多くは、無量義経の「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」という言葉を切り取って、無量義経以前の教えでは、真実は説かれていないと主張し、法華経の方便品第二の「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん) 但説無上道(たんぜつむじょうどう)」(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)を切り取って、法華経においては方便を捨てて無上の道を説くのだ、と主張します。
:
太郎論:「真実」は仏教用語では、「絶対の真理」「仮ではないこと」「究極のもの」「真如」を意味します。古代インドでは、真理は言葉では表せないといわれました。それは客体ではありませんから、客観的表現では表せません。言葉は人が作ったものなので、究極的な真理を言葉で表すことはできません。そのことを知っていれば、仏教経典にある教えはすべて真理ではなく、真理へと導く方便なのだと分かります。もちろん、法華経も言葉によって説かれていますから、方便です。
:
:
序分・正宗分・流通分
:
R論:序分(じゅぶん)〉とは、そのお経は、いつ、どこで、どんな人びとを相手として、なぜお説きになったのかという大要などが書かれてある部分。正宗分の糸口。

正宗分(しょうしゅうぶん)〉とは、そのお経の本論。中心となる意味をもった部分。

流通分(るずうぶん)〉とは、正宗分に説いてあることをよく理解し、信じ、身に行えば、どんな功徳があるかということを説き、だからこれを大切にして、あまねく世に広めよ、そういう努力をする者にはこんな加護があるのだよ、ということを説かれた部分。
:
:
法華経 迹門(しゃくもん)本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)本仏(ほんぶつ)
:
R論:迹門の教えは迹仏の教え。迹仏とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊のことです。ですから、迹門の教えは一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬ、ということを教えられたものです。いいかえれば、智慧の教えです。
:
R論:本門では、「本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉である」ということを明らかにされます。したがって本門の教えは、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ、というもので、智慧を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
:
太郎論:法華経には、「真理と現象」のことが説かれています。真理によって現象は起こり、住し、異変し、滅します。現象は真理によって起こります。また、真理は目に見えませんから、真理を覚るには現象を観察する必要があります。現象は真理によって起こりますから、現象を通して真理を観ることができる、という理屈です。ただし、そのことを理解するのは難しいので、法華経前半では、「言葉によって真理を知る」、ということが説かれています。真理へと導くものを方便といいますので、前半では、言葉を方便だとして説いています。後半では、「現象を通して真理を知る」、ということが説かれています。
:
:
仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうぎょう)
:
R論:わたしどもが法華経の精神を身に行うための具体的な方法として、(釈尊は)懺悔(さんげ)するということを教えられてあるのです。
:
R論:修行次第で自分も仏になれるのだとわかっても、日常生活では悩みや苦しみ、いろいろな欲や悪念が次から次へと湧いてきます。それで、せっかく自分も仏になれるという勇気もくじけがちになります。つい迷いの黒雲に押し流されそうになるのです。その黒雲を払いのけるのが懺悔であり、その懺悔の方法を教えられたのが《観普賢経》なのであります。
:
:
懴悔(さんげ)とは
:
R論:第一に、「誤りを自覚する」
第二に、「それを改めることを心に誓う」
第三に、「正しい道に向かう努力をする」

:
:
法華三部経
:
:

5
ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 19:15:56 修正 >> 2

:
法華経に説かれていること
:
:
法華経は一切経の精髄
:
① 宇宙の本当の(すがた)はどうであるか?
② 人間とはどんなものか?
③ 人間はどう生きねばならないか?
④ 人間と人間との関係はどうあらねばならないか?

:
これらのことが、法華経で説かれている、ということですが、果たしてそうなのでしょうか? 宇宙の相は明かされていないし、人間とはどういうものかも説かれていません。人間はどう生きねばならないかについては、あくまでも仏教的解釈です。人間と人間との関係についても同様です。これらのことは、Rの会で説かれることなので注意が必要です。
:
:
仏はいつもいる すべての人に仏性(ぶっしょう)あり
:
① 仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる
② すべての人に仏性(ぶっしょう)あり
③ だれでも努力次第で仏の境地に達せられること

:
「仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる」というときの仏とは、肉体を持った釈尊のことではなく、真理を体とする法身仏(ほっしんぶつ)のことです。このことは、難しい内容ですので、じっくりと学ぶ必要があります。「すべての人に仏性あり」ということは、法華経には説かれていません。法華経の後につくられた『涅槃経(ねはんぎょう)』で説かれたことですので、法華経に仏性という説はありません。仏性という言葉もありません。「だれでも努力次第で仏の境地に達せられること」(皆成仏道(かいじょうぶつどう))は、法華経に説かれています。
:
:
仏性(ぶっしょう)とは
:
仏性とは、ブッダ・ダートゥ Buddha-dhātu の訳です。ブッダとは、仏陀のことで、仏ともいいます。最高の覚りをひらかれた人のことです。ダートゥとは、生物が生存し輪廻(りんね)する空間を意味します。フィールド、世界、要素などの意味もあります。よって、仏性とは、「仏の境界」のような意味です。衆生は、生まれもって仏と同じ境界を持つということです。または、ダートゥには、原因という意味もありますので、「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味としても使われます。
:
解釈本を読むと、仏性とは、「仏の性質」の意味で解釈していることがあります。私たちの心には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの境界と声聞・縁覚・菩薩・仏陀という聖なる境界があり、誰もが仏と同じ性質を持つというのです。この意味での仏性を自覚するということは、我を意識するのと同じで、空なるものを有ると観ることにつながります。無我に反しています。ヒンドゥー教的な思想です。日本では、仏性とか、如来蔵に注目する傾向が強く、そのことが執着につながることに無頓着です。
:
仏性を「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味として使うことは問題ありません。法華経で、声聞たちが授記(じゅき)されるのは、仏に成る可能性があるからです。授記とは、将来成仏することの予言です。可能性があるから、皆成仏道(かいじょうぶつどう)が説かれています。
:
:
法華経に説かれていること
:
:

6
ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 20:35:14 修正 >> 2

:
仏教はただ一仏乗
:
:
○ ただ一筋しかない仏の教えの大道に目を向けさせようという、やむにやまれぬ熱意から書かれたのが、ほかならぬ≪妙法蓮華経≫だったのです。
:
紀元前後に般若経の一派が起こり、自らを大乗仏教だと称しました。それまでの仏教は、自分たちの修行しか考えていない劣ったものだといい小乗仏教だと蔑称で呼びました。ただし、ここで小乗仏教と呼ばれたのは、説一切有部(せついっさいうぶ)です。説一切有部は托鉢(たくはつ)をせず、精舎(しょうじゃ)にこもって経典の研究ばかりしていたため、劣っているといわれました。
:
やがて説一切有部と大乗仏教徒の間で対立が起こり、説一切有部は大乗を伝統のないでっちあげの仏教だと非難し、大乗は説一切有部を成仏できない仏教徒だと非難しました。そのことを哀れだと思った法華経の一派が、小乗(説一切有部)も大乗も同じく釈尊の弟子であり、誰もが修行次第で成仏できるとして「一仏乗(いちぶつじょう)」を著しました。それが法華経です。
:
:
中国に〈理〉の花開く
:
大乗仏教は、インドから中央アジアを経て、中国に渡りました。法華経も同様です。紀元前後から編纂(へんさん)され始め、2世紀頃に成立し、中国に伝わって、数人の訳経僧(やっきょうそう)によって中国語に訳されました。その中でも鳩摩羅什(くまらじゅう)による『妙法蓮華経』が有名であり、中国・日本において法華経というと妙法蓮華経だといわれています。
:
鳩摩羅什は、龍樹(りゅうじゅ)の思想に傾倒しており、妙法蓮華経を訳す前に、龍樹の『中論(ちゅうろん)』『大智度論(だいちどろん)』などを訳しています。いわゆる中観派(ちゅうがんは)です。中観派は、般若経を支持しますので、鳩摩羅什は法華経よりも般若経の布教を進めていたようです。龍樹も法華経よりも般若経を支持しています。大智度論は、『二万五千頌般若経』について論じたものです。
:
7世紀頃、中国に智顗(ちぎ)が生まれ、実質的に天台宗の開祖となりました。智顗以前、天台では龍樹を支持しており、『中論』『大智度論』を拠り所にしていました。智顗は、それに加えて、法華経を取り入れています。よって智顗は、中観派と法華派だったのです。特に法華経については、「法華第一」と言って特別視し、仏教経典中最高の経典であると位置づけました。智顗は、法華経を徹底的に研究し、龍樹の論を参考にして、『法華玄義(ほっけげんぎ)』『法華文句(ほっけもんぐ)』『摩訶止観(まかしかん)』などの書を著し、中国や日本の多くの僧侶・仏教者に読まれました。『摩訶止観』にある「一念三千」は有名です。こうして、智顗によって法華経の「理」の花が開きました。
:
:
仏教はただ一仏乗
:
:

48
ダルマ太郎 2024/03/29 (金) 22:05:43 修正 >> 6

:
日本で〈事〉が完成
:
:
法華経は日本文明の基礎
:
聖徳太子は法華経の精神を基にして、有名な《十七条憲法》をつくられ、はじめて日本に〈国の法〉と〈人間のふみ行なうべき法〉を打ち立てられました。わが日本の文明の夜明けが、ほかならぬ法華経の精神によってなしとげられたという大事実を、われわれは忘れてはならないのです。
:
聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))は、仏教を篤く信仰しており、『法華義疏(ほっけぎしょ)』『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』という三経の解釈本を著しています。
:
:
伝教大師最澄
:
平安朝時代の堕落
:
念仏の教え
:
禅宗が起こる
:
日蓮聖人の出世
:
:
法華経は実践の教え
:
○ 真の救いは法華経の教えの〈実践〉にあるということです。
○ 理解から信仰へ、信仰から実践へ、ということです。
○ 天台大師の解き明かされた〈理(理論)〉を徹底して実践。

:
:
法華経は救い第一の教え
:
○ 法華経は〈人間尊重〉の教えであり、〈人間完成〉の教えであり、その上に立つ〈人類平和〉の教えです。
○《法華経》はその内容が尊いのです。その精神が尊いのです。そして、その教えを実践することが尊いのです。

:
庭野開祖は、人間尊重・人間完成・人類平和を願っていたのでしょう。そして、その答えが法華経にあるとして、法華経の解釈をしたのでしょう。法華経をそのように読めば、そのように解釈できますので、それはそれでいいのかも知れません。しかし、法華経が説かれた目的は、衆生の仏知見(ぶっちけん)を開かせ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめ、仏知見の道に入らしめることです。このことは、方便品第二に書かれています。これを一大事因縁といいます。
:
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
:
仏知見とは、「仏のものの見方」です。諸仏世尊は、衆生に仏のものの見方を開き、示し、悟らせ、道に入れるために教化します。その点でいえば、人間尊重・人間完成という目的は合っているのでしょうが、人類平和につながるのかどうかは分かりません。一切衆生を成仏させれば平和になるのでしょうが、それを目標とするには、あまりに道のりは遠いように思えます。
:
法華経は、この世に浄土(平和世界)を築く教えだといいます。凡夫にとっては、貧富の差があり、病があり、争いがあって、地獄・餓鬼・畜生・修羅の境地にあるように思えますが、仏の見方は、常に涅槃の状態であって浄土です。そのような見方を手に入れるのが法華経ではないでしょうか? 現象世界は無常ですから、自由自在に自分の思い通りにはコントロールできません。思い通りにしようとすれば、抵抗され、否定され、無視され、攻撃を受け、心身共に苦に堕ちます。夫婦・兄弟・親子でさえも、争いがあり対立するのが現実です。それなのに、世界平和を実現できるとは思えません。
:
:
日本で〈事〉が完成
:
:

70
ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 16:44:06 修正 >> 6

:
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
:
:
○ 「ああ、ありがたい妙法蓮華経! わたくしはこのお経の真実の教えに全生命をお任せします!」
○ 尊いのは、あくまでも法華経の教えなのです。そして、その教えを実践することなのです。
○ 〈南無妙法蓮華経〉と唱えるのは、その受持と実践との信念をいよいよ心に固く植え付けるためにするのです。

:
:
妙法蓮華経とは、鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳した法華経のタイトルですから、南無妙法蓮華経というのは、法華経という経典への帰依だと受け取る方が多いようです。そのような解釈が間違いだとは言いませんが、帰依の対象は経典ではなく、「真理と現象」であることを知らなければなりません。妙法とは、「正しい真理」。蓮華とは、「蓮の花」のことです。蓮の花は現象であり、妙法は真理です。よって、妙法蓮華とは、「真理と現象」「現象を通して真理を観る」ということです。南無妙法蓮華経とは、「真理と現象に依る教え」に帰依するのです。このことは、法華経前半では書かれていませんが、如来寿量品第十六にて明らかになります。
:
:
南無妙法蓮華経は、日蓮が使い始めたのではなく、天台宗ですでに唱えられていました。「朝題目。夕念仏」というように、朝には、「南無妙法蓮華経」を唱え、夕には、「南無阿弥陀仏」を唱えていたのでしょう。インドでも題目は唱えられていたようです。もちろん、サンスクリット語でです。
:
ナマス・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
Namas Saddharma-puṇḍarīka-sūtra

:
:

:
もともとインドで唱えられていたのかは不明です。日本の題目をサンスクリット語にして唱えているだけなのかも知れません。
:
:
南無妙法蓮華経
:
:

7
ダルマ太郎 2024/03/21 (木) 16:13:11 修正 >> 2

:
経・論・釈
:
:
Rの会では、開祖の著書を拠り所にしているようです。新興宗教の場合、開祖や教祖の教えが第一にされているところが多いので、Rの会もそうなのでしょう。本来ならば、法華経という経典を拠り所にするべきですが、開祖の著書を取り上げていために、インドで編纂された法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)とは異なる結果になっていると思えます。
:
仏教書には、経・論・釈があります。釈尊が説法した内容を記したものが経(スートラ)です。歴史上の釈尊が説法したことが、そのまま書かれているわけではなく、釈尊が亡くなった後に高弟子たちが編纂(へんさん)した内容です。よって説法内容の記録ではありません。インドで作られたものが経であり、中国や日本で作られたものは偽経だといわれます。
:
経の内容は難しいため、経の内容を分かりやすく論じたものが論書(アビダルマ)です。論書は、インドの高僧によって書かれました。説一切有部(せついっさいうぶ)のアビダルマ、龍樹(りゅうじゅ)の中論・大智度論(だいちどろん)世親(せしん)大乗成業論(だいじょうじょうごうろん)唯識(ゆいしき)二十論などが有名です。論書は、経典の理解を助けるために書かれたのですから、論書だけを読むのではなく、論書と経典を合わせて学ぶ必要があります。
:
釈とは、経典と論書をさらに理解しやすいように書いたものであり、中国や日本の高僧によって書かれました。天台智顗(てんだいちぎ)日蓮(にちれん)親鸞(しんらん)道元(どうげん)などの著書は釈書です。釈は、経典・論書の理解を助けるために書かれたのですから、釈書だけを読むのではなく、経典・論書を合わせて学ぶ必要があります。あくまでも経典が主であることを忘れてはいけません。

:
現代では、各宗派の僧侶、仏教者、学者、新興宗教の代表者などが、経典の解釈本を出しています。きちんと経典に合わせて解釈する人もいますが、自分の思想を発表している人も多いです。新興宗教では、自分たちの信仰を正当化するために、本にしているところもあります。解釈本は、経典の解釈をするためのものなのですから、独断と偏見によって綴るのは誤りです。特に「南無妙法蓮華経」を唱えるところは、法華経に基づいて学ぶ必要があります。
:
:
経・論・釈
:
:

10
ダルマ太郎 2024/03/21 (木) 17:46:23 修正

:


:
無量義経(むりょうぎきょう) 徳行品(とくぎょうほん)第一
:
ここからは、法華経の開経である無量義経の解釈にはいります。無量義とは、多くの教義のことです。仏教には、非常に多くの経典(教え)があります。キリスト教やイスラム教と比べれば、教えの多さに驚きます。なぜこのように多くの教えがあるのか、その理由を説いたのが無量義経です。無量義経の第一章は、徳行品です。菩薩(ぼさつ)声聞(しょうもん)・仏の徳と行を讃えます。法華経でも、「供養(くよう)恭敬(くぎょう)尊重(そんじゅう)讃歎(さんたん)」という言葉が何度も出てきますが、他者を讃嘆することは、重要なことだとされています。
:
:
徳行品のあらすじ
:
通序
:
:是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城(おうしゃじょう)耆闍崛山(ぎしゃくせん)の中に住したまい、大比丘(びく)衆万二千人と倶なりき。菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)八万人あり。(てん)(りゅう)夜叉(やしゃ)乾闥婆(けんだつば)阿修羅(あしゅら)迦楼羅(かるら)緊那羅(きんなら)摩睺羅伽(まごらが)あり。諸の比丘(びく)比丘尼(びくに)及び優婆塞(うばそく)優婆夷(うばい)も倶なり。大転輪王・小転輪王・金輪・銀輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者、各眷属(けんぞく)百千万数にして自ら圍遶(いにょう)せると、仏所に来詣(らいけい)して頭面に足を礼し、(めぐ)ること百千(そう)して、香を焼き華を散じ、種々に供養すること已って、退いて一面に坐す。
:
:
R訳:私はこのように聞いております。釈尊が王舎城の霊鷲山(りょうじゅせん)にいらっしゃった時のことです。静かに端座しておられる釈尊のまわりには、一万二千人の大比丘、八万人の菩薩や、鬼神、動物の神々、他教(バラモン教)の神々、出家修行者、在家修行者、諸国の王たちやその家来たちが詰めかけています。そしてあらゆる人々が釈尊のみ足に額を付けて礼拝し、様々な供養を行っています。
:
:
菩薩衆の名

:其の菩薩の名を、文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)大威徳蔵法王子(だいいとくぞうほうおうじ)無憂蔵法王子(むうぞうほうおうじ)大弁蔵法王子(だいべんぞうほうおうじ)弥勒菩薩(みろくぼさつ)導首菩薩(どうしゅぼさつ)薬王菩薩(やくおうぼさつ)薬上菩薩(やくじょうぼさつ)華幢菩薩(けどうぼさつ)華光幢菩薩(けこうどうぼさつ)陀羅尼自在王菩薩(だらにじざいおうぼさつ)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)大勢至菩薩(だいせいぼさつ)常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)宝印首菩薩(ほういんしゅぼさつ)宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)毘摩跋羅菩薩(びまばつらぼさつ)香象菩薩(こうぞう)大香象菩薩(だいこうぞうぼさつ)師子吼王菩薩(ししくおうぼさつ)師子遊戯世菩薩(ししゆけせぼさつ)師子奮迅菩薩(ししふんじんぼさつ)師子精進菩薩(しししょうじんぼさつ)勇鋭力菩薩(ゆえいりきぼさつ)師子威猛伏菩薩(ししいみょうぶくぼさつ)荘厳菩薩(しょうごんぼさつ)大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。
:
:
法身(ほっしん)
:
:是の諸の菩薩、皆是れ法身の大士ならざることなし。(かい)(じょう)()解脱(げだつ)解脱知見(げだつちけん)成就(じょうじゅ)せる所なり。
:
R訳:ここに集う文殊菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩、観世音菩薩をはじめとする八万人の菩薩たちは、どんな変化にも動揺せず世間の苦悩から解放され、真理と一体となった菩薩たちです。菩薩たちは『三学』という仏道修行者が修すべき基本の道「戒・定・慧」を修め、解脱しており、しかも解脱に至るまでの具体的な手順・経緯(プロセス)をしっかりと自覚、解脱知見しています。
:
:
止徳
:
:其の心禅寂(ぜんじゃく)にして、常に三昧(さんまい)に在って、恬安憺泊(てんなんたんぱく)無為無欲(むいむよく)なり。顛倒乱想(てんどうらんそう)、復入ることを得ず。静寂清澄(じょうじゃくしょうちょう)志玄虚漠(しげんこまく)なり。之を守って動ぜざること億百千劫、無量の法門悉く現在前せり。
:
:
R訳:しかもどんな境遇にあっても、とらわれることなく安らかで、他人に対して要求する心はなく、不平不満を覚えず、たとえ好意や感謝をされなくても、そのことにこだわることはありません。自己中心的でなく、我欲から離れており、真相を見誤って真理と反対の見方をして、心が乱れることもありません。静かに落ち着き、煩悩に惑わされない澄み切った心で、甚深微妙(じんじんみみょう)で奥深く、限りなく広く大きな心を持っています。こういう心境を億千万年という長い期間保ち続けていますので、動揺することがなく仏の全ての教え・この世のあらゆる物事の真相を正しく見極めています。
:
:
観徳
:
:大智慧を得て諸法を通達し、性相(しょうそう)の真実を暁了(ぎょうりょう)分別(ふんべつ)するに、有無・長短、明現顕白(みょうげんけんびゃく)なり。又善く諸の根性欲(こんじょうよく)を知り、陀羅尼(だらに)無碍弁才(むげべんざい)を以て、諸仏の転法輪(てんぽうりん)、随順して能く転ず。
:
:
R訳:すべての出来事を正しく分析・解説することができ、あらゆる人びとの機根・性質・欲望(根性欲)を見抜いていますので、善をすすめて悪をとどめる強い力と、どんな人をも納得させる説得力を持っています。ですから自由自在に人びとを教化することができるのです。菩薩はこのような尊い徳分を具えています。
:
:
無量義経 徳行品第一
:
:

49
ダルマ太郎 2024/03/29 (金) 23:12:22 修正 >> 10

:
徳行品が説かれる理由
:
:
R論:お経のはじめに、なぜこうしてもろもろの菩薩(ぼさつ)の徳を、ことばを極めてほめたたえてあるのかといいますと、いちばん大切な理由は、その徳の尊さ・美しさを、心に強く焼きつけるためです。それだけでもすでに心はある程度清められ、温められているわけで、閉ざされていた胸が開け、教えを受け入れる態勢ができるのです。いわば、教えの本番にはいる準備運動というわけです。これがたいへん大切なことです。
:
太郎論:仏教を学ぶ者は、随喜(ずいき)することが重要だとされます。「従って喜ぶこと」です。サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。徳行を讃えることによって、それを聞いた者は随喜を感じることでしょう。よって、讃嘆は教えに入る前に重要なことです。
:
:
菩薩(ぼさつ) - 菩提薩埵(ぼだいさった)
:
R論:菩薩というのは、梵語(ぼんご)のボーディサットヴァ、パーリ語のボーディサッタの中国語訳(菩提薩埵)の略です。菩提とは、仏の智慧(ちえ)もしくは仏の悟りと言う意味、薩埵(さった)というのは人ということですから、つまり〈仏の智慧・仏の悟りを得ようとして修行している人〉を指すのですが、大切なことは、自分が修行しているばかりでなく、他の人びとを救うことにも努力している人でなければ菩薩とはいいません。ここが比丘(びく)とちがうところです。
:
太郎論:菩提薩埵(ぼだいさった)という言葉は、三蔵法師玄奘が使い始めたという説があります。つまり新訳です。大般若経にて多く使われています。旧訳(くやく)である鳩摩羅什(くまらじゅう)訳では、菩薩と訳されています。菩薩は、ボーディサットヴァ bodhisattva の訳です。ボーディが覚り、サットヴァが人なので、「覚りを求める人」のことです。法華経の場合は、「覚りに導く人」という意味合いが強いようです。
:
:
智慧(ちえ)
:
R論:〈智〉⇨ 多くのものごとの間にある差異を見分ける力です。〈差別相〉を知る力。〈分析〉をする力
〈慧〉⇨ すべてのものごとに共通のものを見出す力。〈平等相〉を知る力。〈総合〉を知る力

:
太郎論:智慧(ちえ)は、プラジュニャー prajñā の中国語訳です。般若(はんにゃ)とも訳されます。意味は、一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用のことです。つまり、真理を観る能力のことをいいます。智慧という言葉を智と慧に分けた場合、慧はプラジュニャーの訳語として使われます。智は、ジュニャーナ jñāna の訳語です。ものごとを分けてとらえること(分別(ふんべつ))を智といい、分けずにとらえること(無分別(むふんべつ))を慧といいます。釈尊の覚りは、慧だといわれます。
:
分別とは、認識するものと認識されるものを分けてみることです。主客が分かれているとみます。無分別は、認識するものと認識されるものを分けてみないことです。主客が分かれているとはみません。
:
:
徳行品が説かれる理由
:
:

73
ダルマ太郎 2024/04/18 (木) 22:49:03 修正 >> 49

:
菩薩とは
:
:
太郎論:菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の修行中の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
:
大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
:
無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
:
法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
:
:
菩薩とは
:
:

74
ダルマ太郎 2024/04/19 (金) 00:28:51 修正 >> 49

:
呉音(ごおん)
:
:
太郎論:漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。
:
経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。
:
ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。
:
:
呉音
:
:

72
ダルマ太郎 2024/04/18 (木) 20:49:08 修正 >> 10

:
菩薩の敎化方法
:
経:微渧(みたい)先ず堕ちて以て欲塵を(ひた)し、涅槃(ねはん)の門を開き解脱(げだつ)の風を扇いで世の悩熱を除き法の清涼(しょうりょう)を致す。次に甚深(じんじん)十二因縁(じゅうにいんねん)を降らして、用て無明(むみょう)・老・病・死等の猛盛熾然(みょうじょうしねん)なる苦聚(くじゅ)の日光に(そそ)ぎ、(しこう)して乃ち(おおい)に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬(にんし)し、善の種子を布いて功徳(くどく)(でん)に遍じ、(あまね)く一切をして菩提の萌を発さしむ。智慧の日月方便の時節、大乗の事業を扶蔬増長(ふそぞうちょう)して、衆をして()阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じ、常住の快楽(けらく)微妙真実(みみょうしんじつ)に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。
:
:
R訳:あたかも乾いた土に一滴の「しずく」が落ちると、そこには砂ぼこりが立たなくなるように、まず些細な教えから入って行き、数多い欲の中でわずか塵ほどのものを鎮めていきます。そして、悟りへ門を開き、解脱へと誘って行きます。それはまるで涼しい風をそよがせて熱を取り除いて冷めさせるように、人々を苦悩の熱から救って行くのでした。次に深遠な「十二因縁」の教えを説いて無明の状態から解き放ちます。それはまるで照りつける灼熱の太陽に苦しむ人が、雨を得て蘇生の喜び得るようであり、そのうえで無上の教えである「大乗の教え」を説いて、人が本来具える「善の根」に潤いを与えます。さらに善行を呼び起こす「善の種」を蒔いて、ついにはあらゆる人びとに仏の悟りの「芽生え」を起させるのであります。菩薩たちの智慧は、太陽や月のようにすべてを明らかに照らし出し、しかも人々を導く手立ては、手段も時節も的確です。大乗の救いを進めて、その成果をどんどん上げて行き、すべての人を仏の悟りへと真っ直ぐに導きます。菩薩はいつも智慧を具えていますので、限りない大悲の心を注ぐことができ、それによって苦しみ悩む無数の衆生を救っていくのです。
:
:
自利
:
経:是れ諸の衆生の真善知識(しんぜんちしき)、是れ諸の衆生の大良福田(だいろうふくでん)、是れ諸の衆生の(しょう)せざるの師、是れ諸の衆生の安穏(あんのん)楽処(らくしょ)救処(くしょ)護処(ごしょ)大依止処(だいえししょ)なり。処処に衆生の為に大良導師・大導師と作る。能く衆生の(めし)いたるが為には而も眼目を作し、(りょう)()()の者には()()(ぜつ)を作し、諸根毀欠(しょこんきけつ)せるをば()具足(ぐそく)せしめ、顛狂荒乱(てんのうこうらん)なるには大正念(だいしょうねん)を作さしむ。船師・大船師なり、群生(ぐんじょう)運載(うんさい)し、生死(しょうじ)の河を渡して涅槃の岸に置く。医王・大医王なり、病相を分別(ふんべつ)薬性(やくしょう)暁了(ぎょうりょう)して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ。調御(じょうご)・大調御なり、諸の放逸(ほういつ)の行なし。(なお)象馬師(ぞうめし)の能く調うるに調わざることなく、師子の勇猛(ゆうみょう)なる、()衆獣(しゅじゅう)を伏して沮壊(そえ)すべきこと(かた)きがごとし。菩薩の諸波羅蜜(しょはらみつ)遊戯(ゆけ)し、如来の地に於て堅固にして動ぜず、願力(がんりき)に安住して広く仏国を浄め、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得べし。是の諸の菩薩摩訶薩皆(かく)の如き不思議の徳あり。
:
:
R訳:菩薩は、まさに人々にとって「善き友」であり、幸せを育てる「良い田畑」であり、招かないでもわざわざやって来てくれる「有難い先生」であります。私たちにとっては「心の安らぎ」を与えてくれる存在、人生の「大きな支え」となる存在、私を「守ってくれる」存在、「依り所」となる存在です。菩薩は私たちを正しく導く師であり、目、耳、言葉の不自由な人にとっての目、耳、口となる方です。心が乱れ、荒み切っている時は、心を安定させ、正気を取り戻させてくれます。まるで優秀な船長ようで、人生途上で襲いかかる様々な「変化・異変」の荒波を乗り越えさせてくれ、安穏な境地へと誘ってくれます。病に応じて的確に薬を与える名医だとも言え、どんな猛獣をも従わせる優れた調教師のようです。菩薩は、仏の悟りに至るためのあらゆる修行・菩薩行を自由自在に行なえ、一切衆生救済を願う仏の力を信じていますので、「大安心」の心境で法を説くことができます。これらの菩薩は近い将来、仏の悟りに達する方々であり、以上のような大徳を具えています。
:
:
菩薩の敎化方法
:
:

14
ダルマ太郎 2024/03/21 (木) 21:52:11 修正

菩薩の敎化方法の讃嘆

ここには、菩薩がどのように衆生を教化するのかを表し、それを讃えています。まず、菩薩は、身近で分かりやすい教えを説いて悩みを除いて清涼を与えます。次に十二因縁を説いて苦悩を解き、その後、大乗の教えを説いて、覚りへと導きます。大乗を説く前に、十二因縁を説くことによって、その人の苦を除くことが大事なことです。よって、般若経や法華経を学ぶ前に、十二因縁を学んで、苦の原因を究明し、苦を滅する道を行くことが薦められます。しかし、十二因縁は分かりにくい教義であり、仏教初心者が簡単に理解できるものではありません。Rの会では、次のように十二因縁を教えていますが、この解釈は非常に分かりにくいです。

十二因縁

「肉体の生成(外縁起)」と「心の成長(内縁起)」に十二段階の法則があるという教え。〈①無明 むみょう〉⇒〈② 行 ぎょう〉⇒〈③識 しき〉⇒〈④名色 みょうしき〉⇒〈⑤六入 ろくにゅう〉⇒〈⑥触 そく〉⇒〈⑦受 じゅ〉⇒〈⑧愛 あい〉⇒〈⑨取 しゅ〉⇒〈⑩有 う〉⇒〈⑪生 しょう〉⇒〈⑫老死 ろうし〉

【十二因縁の外縁起】『肉体』(肉体の生成)の順序

〈①無明 むみょう〉過去世において輪廻し無明(無智)であった
〈②行 ぎょう〉過去世において無智の行為を繰り返して「業・ごう」を積む
〈③識 しき〉両親の夫婦生活という無明の行為で命を宿し受精後「識」が生ず
〈④名色 みょうしき〉「名」は精神、「色」は肉体。この肉体と精神が徐々に整う
〈⑤六入 ろくにゅう〉「名色」が発達して六根(眼耳鼻舌身意)が心身の中に入る。
〈⑥触 そく〉この世に出生して六根が外界に触れその機能が完成
〈⑦受 じゅ〉次に、これは受け入れる、受け入れないという感情が生まれる
〈⑧愛 あい〉特に異性を求める心、何かを求めるという心が生まれる。
〈⑨取 しゅ〉異性や何かを自分のものにしたい所有欲、「取」の心が起きる
〈⑩有 う〉「取」の心がはたらいて、異性を得て(有)結婚する
〈⑪生 しょう〉多くが結婚を通して次世代の命を宿し子を誕生させる
〈⑫老死 ろうし〉この世に生まれた者は憂悲苦悩を繰り返し、ついに「老死」に至り、人生を終える

ここで講義されている十二因縁のもとになる経典が何なのかが分かりません。おそらくは、説一切有部の「分位縁起」を基にしているのでしょう。しかし、「分位縁起」とも大部違いますから、Rの会のオリジナルなのでしょうか。十二因縁は、サンスクリット原語の意味を知らなければ理解しにくいので、次にサンスクリット原語を表しながら十二因縁を紐解きます。

〈①無明 むみょう〉アヴィドャー avidyā 無知
〈②行 ぎょう〉サンスカーラ saṃskāra 意志・行為
〈③識 しき〉ビジュニャーナ vijñāna 識別作用
〈④名色 みょうしき〉ナーマルーパ nāmarūpa 名称と姿 心と体
〈⑤六入 ろくにゅう〉シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 眼耳鼻舌身意の6感官
〈⑥触 そく〉スパルシャ sparśa 接触
〈⑦受 じゅ〉ヴェーダナー vedanā 感受
〈⑧愛 あい〉トリシュナー tṛṣṇā 渇愛
〈⑨取 しゅ〉ウパーダーナ upādāna 執着
〈⑩有 う〉 バーヴァ bhava 存在
〈⑪生 しょう〉ジャーティ jāti 生まれること
〈⑫老死 ろうし〉 ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 老いと死

無知な意志によって分別をし、心と体に分け、6つの感覚に分け、自分と自分以外とが接触します。接触によって世界を感受し、欲しいものを手に入れたいと思い、そのものに執着します。そのことで存在し、新しく生まれ、老い、死にます。。。このように無明(惑・煩悩)・行(業)によって生老死という苦に至ると説くのが十二因縁です。

凡夫は、自他を分け、個々を分けてとらえます。分別による見方です。仏は、自他を分けず、個々を分けずにとらえます。無分別による見方です。分別しませんから、差別や区別をせず、一切を一つとして観ます。これを不二ともいいます。無明とは、分別による見方をすることです。不二・無分別の理を知っていれば、一つのものを分けることはせず、直観でとらえます。自他の区別、個々の区別がなければ、自己中心な心、渇愛、執着はなくなり、苦悩を滅することができるでしょう。

分位縁起

分位縁起(ぶんいえんぎ)とは、五蘊のその時々の位相が十二支として表される説です。説一切有部では、分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられました(ウィキペディア)。

Rの会では、法華経による先祖供養を重視します。死後の世界・輪廻・転生を信じる立場にあるようです。なので輪廻を肯定する説一切有部の説を取り入れたのかも知れません。仏教においては、非有非無の中道を説きます。有に執着せず、無に執着しない立場です。なので死後の世界が有る、輪廻が有る、転生が有ると、積極的には説かないし、死後の世界は無い、輪廻は無い、転生は無いと、積極的には説きません。経典中では、輪廻(生死)について触れられるシーンがありますが、それらは輪廻を信じているインド人たちを肯定する方便だと受け取ったほうがいいです。

初期仏教においては、縁起を説く場合、時間経過については説かれていません。「此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という此縁性の縁起です。この此縁性の縁起を詳しく説いた内容が十二因縁なので、時間経過は考慮されません。時間という概念を取り入れ、十二因縁を複雑にしたのは説一切有部です。基本的な十二因縁を学ぶためには、初期仏教の経典を紐解いたほうがいいでしょう。

16
ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 17:05:14 修正 >> 14

声聞の名 徳を歎ず

其の比丘の名を、大智舎利弗・神通目揵連・慧命須菩提・摩訶迦旃延・弥多羅尼子・富楼那・阿若憍陳如等・天眼阿那律・持律優婆離・侍者阿難・仏子羅雲・優波難佗・離波多・劫賓那・薄拘羅・阿周陀・莎伽陀・頭陀大迦葉・優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉という。是の如き等の比丘万二千人あり。皆阿羅漢にして、諸の結漏を尽くして復縛著なく、真正解脱なり。

そうした菩薩と共にこの会座には、智慧第一の舎利弗や神通第一の目連、富楼那、阿難、羅睺羅など数多く(一万二千人)の比丘たちが連なっています。みな阿羅漢の境地を得ており、迷い・混乱・執着を消滅し、煩悩が出てくることなどありません。物事にとらわれず、正しいはたらきが自由自在にでき、一切の迷いから解放されています。

三業供養

爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、遍く衆の坐して各定意なるを観じ已って、衆中の八万の菩薩摩訶薩と倶に、座より而も起って仏所に来詣し、頭面に足を礼し繞ること百千匝して、天華・天香を焼散し、天衣・天瓔珞・天無価宝珠、上空の中より旋転して来下し、四面に雲のごとく集って而も仏に献る。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞ぐに自然に飽足す。天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の伎楽を作して仏を娯楽せしめたてまつり、即ち前んで胡跪し合掌し、一心に倶共に声を同じゅうして、偈を説いて讃めて言さく。

その時大荘厳菩薩は周囲を見渡し、一同全員が釈尊の教えを伺おうということに集中していることを見定めて、釈尊の前に進み出ました。そして様々な供養を成し、釈尊に向かって『偈(げ・韻を踏んだ詩歌)』を唱えて讃嘆しました。

50
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 01:28:44 >> 16

大荘厳
だいしょうごん
荘厳という言葉は、一般的には、威厳があって気高いことを言いますが、仏教では美しく飾ることをいいます。この世界を菩薩道によって清浄化することを華や宝石で飾り付けることに喩えています。なので、大荘厳菩薩とは、大いなる菩薩道を実践している菩薩だという意味です。それほどの大菩薩ですから、智慧の眼が開かれていて、仏陀の本体である最高の真理を観察できるということでしょう。

菩薩摩訶薩
ぼさつ・まかさつ
菩薩は、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の訳です。菩提(覚り)+人の合成語で、「覚りを求める人」「覚りに導く人」のことです。摩訶薩は、マハー・サットヴァ mahā-sattva の訳です。「大いなる人」のことです。大乗の菩薩のことを菩薩摩訶薩と呼んで、それまでの菩薩とは区別しています。

15
ダルマ太郎 2024/03/22 (金) 20:03:10 修正

仏身歎

大なる哉大悟大聖主
垢なく染なく所著なし
天人象馬の調御師
道風徳香一切に薫じ
智恬かに情泊かに慮凝静なり
意滅し識亡して心亦寂なり
永く夢妄の思想念を断じて
復諸大陰入界なし

大いなる大導師よ
一切の汚れが無く どんな現象にも心が乱れず 執着もなく
天界・人界のすべてのものを自由に導く力を具えておられます
その徳の高さは まるで香(かぐわ)しいお香のように 
ひとりでに周囲の人々の心に染み入って行きます
人に対して見返りや 求める心などなく 常に相手の幸せだけを願われます
心にとらわれがなく 常に静かに澄み切ったお心でいらっしゃいます
そして夢想・妄想によって心乱れることなどなく
外界からのどんな影響を受けない
超越した境地にいらっしゃいます

51
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 01:40:39 修正 >> 15

内証身(内密の身)…法身仏

其の身は有に非ず亦無に非ず
因に非ず縁に非ず自他に非ず
方に非ず円に非ず短長に非ず
出に非ず没に非ず生滅に非ず
造に非ず起に非ず為作に非ず
坐に非ず臥に非ず行住に非ず
動に非ず転に非ず閑静に非ず
進に非ず退に非ず安危に非ず
是に非ず非に非ず得失に非ず
彼に非ず此に非ず去来に非ず
青に非ず黄に非ず赤白に非ず
紅に非ず紫種々の色に非ず

その身体は
有ではなく 無ではなく
因ではなく 縁ではなく
自でも 他でもなく
四角ではなく 円ではなく
短くも 長くもなく
出ではなく 没ではなく
生まれるのでも
滅するのでもありません
造られたのではなく
起こったのではなく
為すのでもなく
作るのでもありません
坐っているのではなく
寝ているのではなく
行くのでも
止まるのでもありません
動くのではなく 転がるのではなく
動きが止まっているのではなく
進むのではなく 退くのではなく
安全でも 危険でもありません
肯定ではなく 否定ではなく
得でも 損でもありません
あちら側はなく こちら側はなく
去るのではなく 来るのでもなく
青ではなく 黄ではなく
赤でもなく 白でもなく
紅ではなく 紫やその他の色でもありません

仏の存在は、有るとか無いとか世間的な考え方で推し量ることはできず、形や色を以って示すことができません。まさに、法身・報身・応身の三身一体となった常住不変の存在です。

徳行品では、仏を讃嘆するとき、まず法身仏としての仏を讃えています。法身仏とは、真理(法)を体とする仏のことです。法華経の時代は、法身仏と応身仏という二身仏が説かれていました。真理と現象のことです。現象は真理によってあり、真理は現象によってありますから、その二つはコインの裏表のように一体です。真理が事象として現れたものが応身です。または化身ともいいます。よって、肉体を持って生まれた釈尊は応身仏です。法華経では、法身仏と応身仏のことが説かれており、無量義経においても法身仏と応身仏のことが説かれていますので、法身仏について学ぶことは必要です。避けて通れば法華経・無量義経から離れてしまいます。非常に難しい内容なので省略したのでしょうが、妙法を学ぶためには、法身仏は把握しておく必要があります。

法華経の後、唯識の時代に、仏の三身が説かれるようになりました。法身仏と応身仏に報身仏が加えられたのです。報身仏とは、修行の果報として成仏した仏のことです。法華経には、報身仏のことは説かれていませんが、日本では法華経を三身仏として読む傾向が強いようです。

さて、経文にある「其の身は有に非ず亦無に非ず~」とはどういう意味なのでしょうか?  

17
ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 17:43:12 修正

其の身は有に非ず亦無に非ず

「その身は有るのではなく、無いのではない」というのは、非有非無の中道のことです。凡夫は、物事を有る、無いで判断しますが、真理においては、有るのではなく、無いのではありません。因縁によって生起し、滅しますから、個々の存在は、仮に存在し、仮に滅しています。あらゆる存在には実体はありません。これを「空」(シューニャ śūnya)といいます。大乗仏教の重要な教義です。

個の存在は空ですので、個そのものには特徴はありません。特徴とは、他と比べることによって認識されるのですから、個自体だけでは特徴は見出すことはできません。特徴とは、サンスクリットのラクシャナ lakṣaṇa の訳であり、中国語では、「相」と訳されました。特徴・形・しるし・記号などの意味があります。特徴が無いことを「無相」(アラクシャナ alakṣaṇa)といい、空と並んで大乗仏教では重視されます。

「因に非ず縁に非ず自他に非ず」という文以降は、無相について述べられています。凡夫は、言葉によって、そのものの特徴を知ろうとしますが、そもそも、真理においては特徴はありません。無相です。

真理

真理は、固定してとらえることができませんので、真理を表すときは否定形を使います。肯定をすれば、何らかの概念にこだわる結果になりますので、無我・無常・無相・無作のように否定して表します。空とは、「無自性」のことですので、これも否定形です。ただし、これらの表現がそのまま真理のことをいうのではなく、真理へと導く方便であると知っておく必要があります。

53
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 08:35:29 修正 >> 17

修徳の三身

戒・定・慧・解・知見より生じ
三昧・六通・道品より発し
慈悲・十力・無畏より起り
衆生善業の因縁より出でたり

持戒・禅定・智慧・解脱・解脱知見より生じ
精神集中・六つの超自然的な力・三十七の修行法より発し
慈悲・仏が持つ十種の智力・畏れない態度から起こり
衆生の善業の 因縁より出ます

三学・五分法身

戒・禅定・智慧を修めることを「三学」といいます。仏道修行者が修めるべき基本的な修行項目のことです。また、三学に解脱・解脱知見を合わせて「五分法身」といいます。五分法身とは、法身の大士が具えている五種の功徳性のこと。解脱身のことです。

戒(かい)
シーラ śīla
自分自身をコントロールする内面的な道徳規範を戒といい、戒を守ることを持戒といいます。

禅定(ぜんじょう)
ディヤーナ dhyāna
特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させることです。

智慧(ちえ)
プラジュニャー prajñā
諸法実相を観察することによって、体得できる実践的精神作用を慧といい、煩悩を完全に断つ主因となる精神作用を智といいます。

解脱(げだつ)
ヴィモークシャ vimokṣa
煩悩に縛られていることから解放され、迷いの苦を脱することです。

解脱知見(げだつちけん)
ヴィムクティ・ジュニャーナ・ダルシャナ vimukti-jñāna-darśana
解脱していることを自分自身で認識していること。

54
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 12:24:57 >> 17

三十二相に約して内証身を歎ず

示して丈六紫金の暉を為し
方整照曜として甚だ明徹なり
毫相月のごとく旋り項に日の光あり
旋髪紺青にして頂に肉髻あり
浄眼明鏡のごとく上下に眴ぎ
眉 紺舒に方しき口頬なり
唇舌赤好にして丹華の若く
白歯の四十なる猶お珂雪のごとし
額広く鼻修く面門開け
胸に万字を表して師子の臆なり
手足柔軟にして千輻を具え
腋掌合縵あって内外に握れり
臂修肘長に指直く繊し
皮膚細軟にして毛右に旋れり
踝膝露現し陰馬蔵にして
細筋鎖骨鹿膊脹なり
表裏映徹し浄くして垢なし
濁水も染むるなく塵を受けず
是の如き等の相三十二あり
八十種好見るべきに似たり

身の丈は一丈六尺、体全体から紫金の輝きを放つなど三十二の徳相を具えています。前から、後ろから拝しても透き通るお姿で、泥水に染まることなく、たとえ塵が降りかかってもそれで身を汚すことはありません。仏はこうした三十二の徳相と共に、八十の優れた相(八十種好)を具えています。

55
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 12:50:19 >> 17

有相の諸相好をのこって諸相好を示現する

而も実には相非相の色なし
一切の有相眼の対絶せり
無相の相にして有相の身なり
衆生身相の相も亦然なり

このように特徴のある姿をされていますが
実際には 相があるとかないということを
超越された方であり
すべての相は 見たままではありません
真実としては 相はありませんが
人々のために 相を持って現れられました
人々の相も またその通りです

相の用

能く衆生をして歓喜し礼して
心を投じ敬を表して慇懃なることを成ぜしむ
是れ自高我慢の除こるに因って
是の如き妙色の躯を成就したまえり

人々は そのような仏さまの相をみて
喜び 礼拝をなして
心から帰依をし 敬意を表して
真心を込めるようになります
仏は 驕り高ぶりを捨てることによって
このような素晴らしい相を得られました

能敬所敬の無著

今我等八万の衆
倶に皆稽首して咸く
善く思相心意識を滅したまえる
象馬調御無著の聖に帰命したてまつる

今 私たち八万の衆は
ともに皆 深く敬意を表しています
あらゆる思想や執着心 意識を滅せられ
象や馬をうまく調教するように
人々の心を善に導かれる
執着のない聖なるお方に帰依いたします

能説の教生

稽首して法色身
戒・定・慧・解・知見聚に帰依したてまつる

心から礼をなし
法身としても 色身としても
戒律・禅定・智慧・解脱
解脱知見を成しとげられたことに
帰依いたします

56
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 01:21:15 >> 17

所説の法輪

稽首して妙種相に帰依したてまつる
稽首して難思議に帰依したてまつる
梵音雷震のごとく響八種あり
微妙清浄にして甚だ深遠なり
四諦・六度・十二縁
衆生の心業に随順して転じたもう
若し聞くことあるは意開けて
無量生死の衆結断せざることなし
聞くことあるは或は須陀洹
斯陀・阿那・阿羅漢
無漏無為の縁覚処
無生無滅の菩薩地を得
或は無量の陀羅尼
無碍の楽説大弁才を得て
甚深微妙の偈を演説し
遊戯して法の清渠に澡浴し
或は躍り飛騰して神足を現じ
水火に出没して身自由なり
如来の法輪相是の如し
清浄無辺にして思議し難し
我等咸く復共に稽首して
法輪転じたもうに時を以てするに帰命したてまつる
稽首して梵音声に帰依したてまつる
稽首して縁・諦・度に帰依したてまつる

57
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 01:40:01 >> 17

所説の法輪

心から礼をなし
素晴らしいお姿に帰依いたします
心から礼をなし
非常に深いお智慧に帰依いたします
仏さまのお声は 雷が鳴り響くように
多くの人々に広まります
そのお声による教えは
誰もが好きになれる声であり
柔らかく 違和感がなく 智慧があり
納得ができ 正しく 奥深く 尽きることがなく
他と比べることのない程に優れ
清浄で 非常に奥深い趣があります
四諦 六波羅蜜 十二因縁など
人々の心と行いに応じて
教えを説かれます
もし この教えを聞くことができれば
心から執着が除かれ
多くの変化へのとらわれから
離れることができます

58
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 01:41:38 >> 17

所説の法輪 2

仏さまのみ教えを聞くことによって
声聞の弟子たちは
まずは 思想の迷いを捨てて
須陀洹の位に入り
次には 貪 瞋 癡の
三毒を捨てて 斯陀含の位に進み
次には 色欲 貪欲 財欲などの
欲を捨てて 阿那含の位になり
最後には 煩悩を捨てて
阿羅漢の果を得ることができます
または 煩悩なく 執着のない
縁覚の境地に入り
または 無分別の菩薩の果を
得ることができます
あるいは 多くの善をすすめ悪をとどめる言葉や
障害を乗り越えて 自由自在に
すすんで説法をする大いなる説得力を得て
非常に奥深く 極めて優れた詩を説き
修行を自由自在に行って
法の清らかな水路で洗い清め
または 身を躍らせて
空を飛びまわる様な神の足を現じ
水中 火中に出入りしても
自由な身体を持てるようになります
如来の教えは 以上の様に清浄無辺にして
人々の考えの域をはるかに超えています
私たちは また共に深く頭を下げ
時に応じて説法をされる
その教えに帰依いたします
深く頭を下げ
清きお声に帰依いたします
深く頭を下げ
十二因縁 四諦の法門 六波羅蜜の
教えに帰依いたします

59
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 10:57:59 >> 17

仏徳歎

総じて因行を歎ず

世尊往昔の無量劫に
勤苦に衆の徳行を修習して
我人天龍神王の為にし
普く一切の諸の衆生に及ぼしたまえり

世尊は はるかなる昔より
非常に苦労をされ
数々の徳行を修められました
ご自分のためだけではなく
人や天の神々のために
様々な魔神たちのためにされ
その功徳は 広く人々に及ぼしました

60
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 11:00:43 >> 17

別して六波羅蜜を歎ず

能く一切の諸の捨て難き
財宝妻子及び国城を捨てて
法の内外に於て悋む所なく
頭目髄脳悉く人に施せり
諸仏の清浄の禁を奉持して
乃至命を失えども毀傷したまわず
若し人刀杖をもって来って害を加え
悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず
劫を歴て身を挫けども惓惰したまわず
昼夜に心を摂めて常に禅にあり
遍く一切の衆の道法を学して
智慧深く衆生の根に入りたまえり

とても捨てがたい様々な
財宝 妻子 国城を捨てて
それらの物質的な物
外面的なものだけではなく
内面的な執着も
惜しむことなく捨て去りました
その頭脳によって悟られたこと
目で正しくとらえられた世界は
すべて他者に施され
諸仏によって唱えられました
清浄なる戒律を大切に保たれて
命にかけても破られる事はありませんでした
もし 人が刀や杖を持って現われて
振りまわし危害を加えようとしても
悪口を言い 激しく罵っても
一度たりとも
お怒りになることはありませんでした
非常に長い年月
修行を続けられても怠けることはなく
昼も夜も心を穏やかにして乱れる事がなく
この世の一切の修行の道
教えを学んでおり
智慧が深く
人々の機根を見通されています

 

61
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 11:01:51 >> 17

果徳

是の故に今自在の力を得て
法に於て自在に法王と為りたまえり
我復咸く共倶に稽首して
能く諸の勤め難きを勤めたまえるに
帰依したてまつる

この様な理由から
今、自在の力を得て
教えにおいて自在にして
法の王となられました
私たちは また ことごとく
皆ともに頭を深く下げ
よく諸々の勤め難くを勤められた
そのご努力に心から帰依いたします

19
ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 18:37:17 修正

無量義経 説法品第二

https://www.youtube.com/watch?v=FiUK4GSEdFI&t=1s

~この品は、仏陀の説法について述べられています。仏陀は、悟りを得られてから、こういう目的で、こういう順序によって法をお説きになった、その法というのは、いろいろさまざまに説かれてきたけれども、根本の真理の法は「ただ一つ」である。その一つの法から、無量の(数かぎりない)法が生まれるのである、ということを説かれたのが、この章であります。

無量義経の第二章は、説法品です。無量義経の中心であり、無量義についての教義が説かれています。法華経と通じる内容ですので、合わせて学ぶと理解が深まります。

大衆正に問う分

爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と、是の偈を説いて仏を讃めたてまつることを已って、倶に仏に白して言さく、世尊、我等八万の菩薩の衆、今者如来の法の中に於て、諮問する所あらんと欲す。不審、世尊愍聴を垂れたまいなんや不や。

大荘厳菩薩と八万の菩薩たちが世尊の大徳を讃えたあと、世尊に次のように質問をしました。「世尊よ。私ども一同は、仏さまにぜひお伺いをしたいことがございます。如何でしょうか。お聞き下さり、お教えいただけますでしょうか?」

如来 許しを垂る分

仏、大荘厳菩薩及び八万の菩薩に告げたまわく、善哉善哉、善男子、善く是れ時なることを知れり、汝が所問を恣にせよ。如来久しからずして当に般涅槃すべし。涅槃の後も、普く一切をして復余の疑無からしめん。何の所問をか欲する、便ち之を説くべし。

善いかな、善いかな。大事な時に質問をしてくれました。なんでも質問をしなさい。じつは、私はもう少しでこの世を去ろうとしています。私が亡くなった後、疑問が残ることがないよう、何でも聞きなさい。何でも伝えましょう。

すると釈尊は大荘厳菩薩と八万の菩薩たちにお答えになりました。「素晴らしいことです。善男子よ。よくぞ、今、この時に質問をされました。あなたの聞きたい事をぜひ訊いてください。私は間もなく、この世を去ろうとしています。私が亡くなった後に、人々が、教えに対し不信感を抱かない様にしておきたいと思います。どの様な質問でしょうか? 何でも答えしましょう。

菩薩 正に問う分

是に大荘厳菩薩、八万の菩薩と、即ち共に声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、菩薩摩訶薩疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき、何等の法門か能く菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしむるや。

すると大荘厳菩薩と八万の菩薩たちは、声をそろえて申し上げました。「世尊よ。私ども菩薩が、まわり道をせず『真っすぐ』に最高無上の悟りを得るためには、どんな教えを修行したら良いのでしょうか?」

そこで、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちは、声を合わせて仏に申し上げました。「世尊。菩薩が速やかに最上の覚りを得ようとするならば、どの様な教えを修行すればよろしいでしょうか? どの様な教えが、菩薩をして、速やかに最高の覚りを得させるでしょうか?」

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
アヌッタラー・サムヤック・サンボーディ 
anuttarāṃ-samyak-sambodhiṃ
最も正しい覚りのことで、「正覚」とも訳されます。菩提 ボーディ bodhi とは、目覚めることですので、「さとり」に当てる漢字は、「覚り」のほうがいいように思えます。「悟り」もよく使われますが、悟は自分の心を知ることであり、覚は真理に目覚めることですから意味がことなります。

如来 略して答える分

仏、大荘厳菩薩及び八万の菩薩に告げて言わく、善男子、一の法門あり、能く菩薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得せしむ。若し菩薩あって是の法門を学せば、則ち能く阿耨多羅三藐三菩提を得ん。世尊、是の法門とは号を何等と字くる、其の義云何、菩薩云何が修行せん。

釈尊はお答えになりました。「みなさん。ここに一つの教えがあります。これこそが、菩薩の皆さんを『真っすぐ』に最高無上の悟りへと導くものです。この教えを学び実践するならば、ただちに『仏の悟り』を得るでしょう」

三疑を問う(名・義・行)

世尊、是の法門とは号を何等と字くる、其の義云何、菩薩云何が修行せん。

大荘厳菩薩は、釈尊のことばを待ちきれずに直ぐにお尋ねします。「世尊。それは何という教えですか? その教えの内容とはどのようなものですか? そして、どのように修行したらよろしいのでしょうか?」

世尊。その法門は何という名称でしょうか? その内容はどの様なものですか? 菩薩は、どの様に修行すればよろしいでしょうか?

68
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 21:14:04 >> 19

疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずる

大荘厳菩薩は、釈尊に、「世尊、菩薩摩訶薩疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき、何等の法門か能く菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしむるや」と問いました。無上の正しい覚りを得る方法を問うたのですが、その時に、「疾く」という条件が入っています。「疾く」とは、速やかに・急いで、という意味ですから、速やかに無上の覚りを得るにはどのような修行をすべきかを質問しています。

これまでは、歴劫修行が説かれていました。菩薩が覚りを得るには、三阿僧祇劫の修行が必要だというのです。阿僧祇とは、「数えきれない」という意味ですので、非常に長い期間をかけないと成仏できないというのでしょう。それに対して無量義経では、「疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずる」のですから、歴劫修行の逆です。即身成仏です。法華経にも、「我先仏の所に於て此の経を受持し読誦し、人の為に説きしが故に疾く阿耨多羅三藐三菩提を得たり」という経文がありますから、歴劫修行は否定されています。
:
:

20
ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 20:31:27 修正

一法門の名を答える

仏の言わく。善男子、是の一の法門をば名けて無量義と為す。

釈尊は即座に答えられます。「善男子よ。それは『無量義』という教えです」

仏が答えられました。「善男子、この一つの法門とは、名を無量義といいます」
:
:
一法門の行を答える

性相空寂

菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、自ら本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。

菩薩たちが、この『無量義』の教えを修めようと望むならば、まず次のことを見極めなければなりません。それは、過去・現在・未来におけるこの世のあらゆるものごとの根源の相(すがた)は、全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』であるというものです。しかも、あらゆるものは生成発展し、『大きな調和』を保っている、このことを見極めることが必要です。

菩薩が無量義を修学しようとするならば、一切の事物・現象は、過去・現在・未来において、真理も事象として現れるすがたも、ともに実体はなく、安らかな状態だと知ることが重要です。よって、大きいとか小さいということはなく、生じるとか滅するということはなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということはありません。固定した観方や一方に偏った観方を否定します。虚空のように、すべてが一つであり、二つに分かれたものではないと観察してください。

~《性相・しょうそう》 「性」とは性質。「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)。《空・くう》とは、すべてのものごとは「縁起の法則」によって存在しているのであって、そのことから、すべてのものごとはその本質においては、平等であるという意味にもなります。この「空とは平等である」ということが、仏教としてもっとも大事な意味なのです。《寂・じゃく》とは、「大調和した状態」です。全てのものが生々発展しながらも、大きく調和して、争いや摩擦がないために「寂・しずか」であるという状態を、この字から感じとらなければなりません。〈寂光土〉も、すべてが生々溌剌(せいせいはつらつ)として活動しながら、しかも大きな調和を保っている理想の状態をいうのです。変化するものごとにとらわれていては、いつまでたっても大安心を得ることはできない、ということです。そこで、変化を超越した立場に立ってものごとを見る、という〈寂〉の立場が必要になるのです。それは (二種類の存在) で、ちょうど我々を取り巻いている虚空が、「ただ ひといろ」であるようなものだというわけです。

~性相とは、真理と事象のことです。性とは、不変平等絶対真実の本体や道理のことで、相とは、変化差別相対の現象的なすがたのことです。中国でいう「理事」と同じような意味です。真理と事象とは離れているのではなく、真理は事象によって観ることができ、事象は真理によって仮に存在します。「性」とは性質、「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)のことだという解釈もありますが、性相空寂という場合は、真理と事象のことです。

Rの会では、空を「全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』である」と解釈しているようです。しかし、空にはそのような意味はありません。空とは、「実体の欠如」という意味です。サンスクリットの原語は、シューニャ śūnya です。シューニャは、「欠如」「空虚」「膨れ上がった」という意味です。『ただ一つ』や『一切が平等』ととらえると法華経は理解できないでしょう。一切の事物・現象は因縁和合によって仮に生じ、滅しているので、そのものには、我体・本体・実体と呼ばれるようなものはないという教えです。

寂とは、ニルヴァーナ nirvāṇa の訳です。煩悩の火を消した安らかな境地のことです。涅槃とも訳されます。涅槃とは、一切の因縁を結ばない境地なので、因縁によって作られるものではありません。

古代よりインドでは、事象そのものよりも、事象を成り立たせる真理のほうに興味をもっていました。リンゴがあるのは、リンゴをリンゴとして成らしめる真理があるからであり、猫があるのは、猫を猫として成らしめる真理があるからだとみたのです。真理によって事象があるという観方です。

仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)では、個を個と成らしめるものをアートマン(我)と名付けました。アートマンは個の真理であり、主宰するものであり、独立して存在し、常住するものだと考えました。また、宇宙の創造を司るものをブラフマンといい、宇宙の真理だとしました。

これを仏教では、神とか超越した存在がこの宇宙をつくるのではなく、すべては因縁に依ってあるという思想を説きました。形而上学的な考えを否定して、無我・空を説いています。真理は空であり、一切の事物・現象は空だとし、空なるものは安らかであると説きました。

空とは、実体がないことであり、寂とは因縁がないことです。因縁がないので変化はありません。実体がなく、因縁を結びませんので、大小という特徴は認識されず、生じるとか滅するという変化もありません。とどまることもなく、動くこともなく、進むことも、退くこともありません。「猫が歩いている」と言っても、猫という実体がないのであれば、歩くという行為はありません。一切は無量無辺の虚空のように差別・区別はなく無際であり、一切は一つであると観察することが勧められています。

空は、『ただ一つ』や『一切が平等』という意味ではありません。空の理を深く観察することによって、一切には差別・区別は無く、無分別だと知ることができます。無分別を覚ることが智慧であり、智慧を完成させることが覚りです。最高の覚りを得ることができれば、成仏にいたります。よって、空を覚ることは、仏教において最重要な行です。
:
:
法とは

第一に、〈ものごと〉。「諸法実相」とか「諸法無我」という場合の「法」。
第二に、〈真理〉。
第三に、〈仏教の教え〉という意味。真理によって、正しく、その時々に応じて説かれた教え。
第四に、〈善の実践〉。自分自身のためだけでなく他の人や社会と調和して、よりよい方向にいこうとする倫理や道徳にかなった〈善いことの実践〉という意味。

~法とは、ダルマ dharma の中国語訳であり、掟、法、(宗教上の)義務、人の道、人としての道徳、道理、教え、本質、物事などの意味があります。ダルマの語根は、ダル √dhṛ です。意味は、支える、維持する、保持する、保有する、所有するなどです。つまり、人を人として支えるものが、掟、法律、義務、教えであり、掟や法律を支えるものが、人の道、人としての道徳です。また、物事を物事として支えるものが道理であり、道理を道理として支えるものが事物・現象です。法には、たくさんの意味がありますが、本来の「支えるもの」という意味を把握すれば、理解しやすくなると思います。

21
ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 21:39:43 修正

衆生の誤った見方

而るに諸の衆生、虚妄に是は此是は彼、是は得是は失と横計して、不善の念を起し衆の悪業を造って六趣に輪回し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。

ところが人々は、目の前に現われた現象を見て、自分にとっての善悪、損得、好き嫌い等で物事を判断し、価値付けをして、自分中心の身勝手な計算をしてしまいます。その結果、『不善の心』を起こして、結局は様々な悪い行いをしてしまい、そのためにいつも『六道』をグルグル回って、数々の苦を受け続けることになり、結果的にいつまでたっても、その苦しみの境界から抜け出せないでいます。

しかし、諸々の衆生は、分別の見方をするために、真実から離れて「これはこちら」「これはあちら」、「これは得」「これは損」と誤って善くない想いを起こし、多くの悪い業をつくって六道を輪廻して、諸々の苦毒を受けて、非常に長い間、自力では出ることができません。

~真理を覚れば、無分別の境地に入りますので、自他・個々を分けません。差別・区別がありませんから、執着から離れています。我執や欲を滅し、安らかな境地に住します。しかし、凡夫は真理を知らないために、分別をします。自他を分け、個々を分けるので、差別・区別をし、自分に執着し、自分の欲しいものに執着します。そのことで、苦の境地に堕ちます。

このことは、十二因縁でも説かれています。無明とは、真理を知らないことです。つまり、空・無分別を覚っていないので分別の見方をします。分別による意志によって、すべてを分けて認識することに成ります。心と体、六つの感覚器官、自他を分けることによって、自分が他を欲し、手に入れようとし、執着します。そのことで、煩悩のある生存となり、新しい自分が生まれ、やがて老い、死ぬという苦に入ります。分別して見るために、自他を分け、自分に主体が有るという錯覚を起こし、我意識が強くなり、自己主義になります。わがまま勝手にふるまうために、まわりとの調和がとれず、敵をつくって孤立し、どんどん憂悲苦悩を感じるようになります。
:
:
六趣(ろくしゅ)

凡夫が輪廻する六趣の迷いの境涯 六道ともいいます

地獄(ナラカ・ガーティ naraka-gati)
地獄道…生前の罪による罰を受け続ける亡者たちの境涯

餓鬼(プレタ・ガーティ preta-gati)
餓鬼道…常に飢えと渇きによる欲求不満状態にある死者の霊の境涯

畜生(ティルヤニョニ・ガーティ tiryagyoni-gati)
畜生道…横になって這う物、すなわち動物衆の境涯

修羅(アスラ・ガーティ asura-gati)
阿修羅道…常に争いの状態にある阿修羅衆の境涯

人間(マヌシャ・ガーティ manuṣya-gati)
人間道…人間衆の境涯

天上(デーヴァ・ガーティ deva-gati)
天道…神々の境涯

六道輪廻

輪廻とは、肉体が死に変わり、生まれ変わって、六趣の境涯を巡り続けることをいいます。この思想は、仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)の頃から説かれていた説です。善行を繰り返せば天上界へと趣き、悪行を繰り返せば、人間界・畜生界・餓鬼界・地獄界に堕ちると説いています。仏教でも初めは天上界を安楽の境地としていましたが、神々は覚っていないので迷いの世界に住すると言われるようになりました。輪廻から解脱するためには、覚りをひらいて仏に成る道しかありません。天台大師智顗は、迷いの六道に対して、聖なる四道を設定しました。声聞道・縁覚道・菩薩道・仏道です。合わせて十界といいます。十界説は、智顗の説ですので、インドの法華経にはそのような説はありません。

仏教では、輪廻や六道は方便だといいます。輪廻や六道が存在するわけではなく、人々を善に導くためにそのように説いたとします。多くの国では、治安のために法律を定めて、罪と罰を制定することで、人々の道徳・倫理を正していますが、インドでは、業・輪廻・解脱というシステムによって人々の道徳・倫理を正しています。

六道は、心の境地を表しているともいいます。いずれも、自己主義な心です。

地獄…苦が続く状態
餓鬼…欲求不満の状態
畜生…智慧のない状態
修羅…争いの状態
人間…不安定な状態 疑惑
天上…束の間の安楽の状態 喜び

我にとらわれていなければ、これらの苦の状態は起こりません。そのためには自他分別から離れるために「無我」を覚ることが必要であり、個々の分別から離れるために「空」を覚ることが必要です。
:
:
大慈悲

菩薩摩訶薩、是の如く諦かに観じて、憐愍の心を生じ大慈悲を発して将に救抜せんと欲し、又復深く一切の諸法に入れ。

菩薩よ。このように衆生は、苦しみの中から抜け切れないでいるということをはっきりと見極めて、だからこそ衆生に対して『あわれみの心』を起こし、大きな慈悲心を奮い立たせて、衆生を『根こそぎ、完全に救い出す』という決意をしなければなりません。そしてその尊い目的を達成させるためには、どうしても一切の物事の『実相』というものを、より深く見極めていることが必要なのです。

菩薩は、衆生が分別の見方をしているために苦に堕ちていることをあきらかに観じて、不憫に感じたならば、大慈悲心をおこして、まさに救いぬくことを欲し、さらに深く一切の諸法を観察することが必要です。

62
ダルマ太郎 2024/04/02 (火) 15:10:29 >> 21

輪廻は有るのか?

釈尊が、死後の世界をどのように説かれていたのかは分かりません。経典を読めば、悪業を重ねていると死後に地獄・餓鬼・畜生の世界に趣くと説かれていますが、それは事実を説いているのか、方便なのかが分からないのです。死後の世界は未知ですから、誰も知る者はいません。釈尊でさえも、死後の世界についての事実は分からないでしょう。謎の世界です。仏は、神通力を持っており、凡夫が知り得ない死後の世界のことも把握しているという方もいますが、本当に神通力を使えたのかは不明です。

仏は、相手に応じて教えを説きます。当時のインドの人々は、業報による輪廻を信じていましたから、仏はそれを否定せずに受け入れて輪廻を説いていたのかも知れません。悪いことをすれば地獄に堕ちるという話をすれば、人々は道徳・倫理を護って人の道を行くでしょうから。しかし、仏教徒として修行を続けている人たちには、輪廻を否定しているようです。何にせよ、存在を肯定すれば執着につながりますから、そうならないように輪廻はない、と説いています。たとえば、サンスクリットの法華経の如来寿量品には、「輪廻はない」(アサンサーラasaṃsāra) と説かれています。なぜか鳩摩羅什訳の妙法蓮華経にはこの経文はありません。

さらに修行を積んだ人には、「輪廻は想いの中にあるけれど、事実としては存在しない」と教えます。仮には有るけれど実体としては無いのです。そして、最終的には、「非有非無の中道」を説きます。「有ることの否定、無いことの否定という中道」です。輪廻が有るということを否定し、輪廻が無いことを否定して、有無両辺への執着から離れさせるのです。無執着へと導く仏教においては、死後の世界・輪廻は、思惟の対象にはならないということでしょう。

輪廻肯定派は、断固として輪廻が有ると主張します。輪廻が無いと都合が悪いのでしょうか? 執着すれば、無分別の境地には入れませんから、修行の妨げになると思うのですが。輪廻するのなら、何が輪廻するのでしょうか? 仏教では、無我を説いていて、個の主体・本体・実体は否定されています。我が無いのに何が輪廻するというのでしょうか? Rの会では、魂が輪廻すると教えているようですが、それだとヒンドゥー教的な思想ですから、仏教とは言い難いです。

22
ダルマ太郎 2024/03/25 (月) 18:03:22 修正

生・住・異・滅

法の相是の如くして是の如き法を生ず。法の相是の如くして是の如き法を住す。法の相是の如くして是の如き法を異す。法の相是の如くして是の如き法を滅す。法の相是の如くして能く悪法を生ず。法の相是の如くして能く善法を生ず。住・異・滅も亦復是の如し。菩薩是の如く四相の始末を観察して悉く遍く知り已って、次に復諦かに一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ。

この『実相』を深く見極めるということは、即ち、この世の全てのものは、例外なく、『生・住・異・滅』の存在であると知ることです。つまり全ては、今までなかった現象・事物が『現象として生じ』《生》、その現象・事物が『そのままの状態で、しばらくは維持し』《住》、そしてその現象・事物が、必ず『異なった形に変化し』《異》、結局は、その現象・事物は、必ず『消滅する』のです。《滅》。菩薩は、全ての現象・事物は、例外なくこの『生・住・異・滅』の法則に従っている、ということを知らなければなりません。ですから菩薩は、全ての現象・事物は、一刻も元のままでとどまっているものはなく、一瞬一瞬、生じ、滅する『生・住・異・滅』という『四相の始末』の変化の法則が、瞬間、瞬時にはたらいているということを、しっかりと悟っていなければなりません。

事象は、このようにして、このように事象を生じます。事象は、このようにして、このように事象にとどまります。事象は、このようにして、このように事象を変化します。事象は、このようにして、このように事象を滅します。事象は、このようにして、悪い事象を生じます。事象は、このようにして、善い事象を生じます。住・異・滅も同様です。菩薩は、このように四相の始末(生・住・異・滅)を観察して、よく知ったなら、次にまた明らかに一切の事象は、瞬瞬に住するのではなく、新新に生滅すると観じ、また即時に生・住・異・滅すと観てください。

~事物・現象は、生じ・とどまり・変化し・滅しています。生・住・異・滅です。事物・現象をよく観察すれば、生じている状態・とどまっている状態・変化している状態・滅している状態があることが分かります。炎を観れば、新しい火が起こり、火はとどまり、火は変化し、火は滅します。瞬瞬に状態が変わっていることが分かります。生・住・異・滅とは、無常のことなのですが、多くの人々は長い時間をかけて変化することだととらえています。しかし、無常とは、瞬瞬の変化のことを言っていますから、刻々と変化していると知ることが重要です。悪いこと、善いことは、長くとどまるものではなく、変化するのです。

~「一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ」と説かれているように、諸法は、長くはとどまらず、新新に生滅しています。固定観念を持つことなく、現象を柔軟に受け入れることが大事です。生・住・異・滅とは、有為法です。有為法とは、因縁によって作られる現象のことです。真理は、無為法ですから、因縁によって生滅するものではありません。凡夫は、有為法の中で生きています。無為法を知りませんから、因縁に従って変化する現象を体験しています。これを「諸行無常」といいます。諸行とは、有為法のことです。
:
:
無量義

是の如く観じ已って衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義も亦無量なり。

衆生をみると、衆生の『機根・性質・欲望 (根性欲・こんじょうよく)』が、千差万別にはたらいていることが分かります。ですから人々に法を説く時、当然、法の説き方も『千差万別』にならざるを得なくなります。仏の説法は様々な『根性欲』の衆生を対象に行うのですから、当然その教えの内容は数限りなくあることになります。

このように観じおわって人々の諸々の機根、性質、欲求に入ります。機根、性質、欲求が無量なので、それに応じた説法は無量です。説法が無量なので、したがって教義もまた無量です。

~根性欲とは、機根・性質・欲求のことです。機根とは、教えを聞いて発動する能力のことです。根性欲は、個々個人によって異なるし、個人においても、過去・現在・未来において異なり、縁によっても異なります。生・住・異・滅のどの状態にあるのかによっても、その人の根性欲は異なります。根性欲は、無量にあります。根性欲が無量なので、それに応じる説法も無量であり、説法が無量なので、教義も無量です。つまり、対機説法なので、無量の義が生じたのです。

23
ダルマ太郎 2024/03/25 (月) 18:54:32 修正

:
一法門の義を答える
:
:
経:無量義(むりょうぎ)とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相(むそう)也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名けて実相(じっそう)とす。菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、是の如き真実の相に安住し已って、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所に於て真に()く苦を抜く。苦既に抜き已って、復為に法を説いて、諸の衆生をして快楽(けらく)を受けしむ。
:
R訳:しかしその数々の教えは、もとを正せば、もともとは『ただ一つの真理(一法)』から生ずるものなのです。『真理・法』とは、特定の(すがた)がないもので、一切の差別を作らず、一切が平等であります。これを名付けて『実相』といいます。菩薩よ。真実の教え(『すべては一つ』。必ず『生・住・異・滅』するという真実)に基づいて、そこから発した『慈悲(じひ)智慧(ちえ)のはたらき』は、必ず立派な結果となって現われます。ムダには終わりません。すなわち、相手がそのままの境遇で苦から根こそぎ救われ、生きる喜びを得るという現象となって現われるのです。
:
太郎訳:無量の教義は、一つの真理より生じます。その一つの真理とは、無相です。このような無相は、特徴がなく、特徴をつくりません。特徴をつくらず特徴がないことを実相と言います。菩薩よ、このような真実の相に安住した後に発する慈悲は、明らかに正しいのであって偽りはありません。人々の中で、真によく苦を抜きます。苦を抜き終わると、またその人のために教えを説いて、諸々の人々の快楽を受けさせます。
:
太郎論:「無量義とは一法より生ず」という言葉は実に重要です。「無量の教義は、一つの真理より生じている」ということは、一つ一つの教義を深く観れば、大本の真理を知ることが出来るということです。ただし、真理は言葉によって表すことはできませんから、説かれた教義をヒントにして、自分で観察するしかありません。
:
太郎論:「其の一法とは即ち無相也」。一つの真理とは、無相です。特徴(相)はありません。特徴がありませんから、表現ができません。言語道断です。特徴が無く、表すことができないので、これを名付けて「実相」といいます。実相とは、真実無相のことです。Rの会では、(くう)を平等のことだと説き、無相も平等のことだと説いています。だということは、空と無相とは同義なのでしょうか? 空は、「個の実体の欠如」のことであり、無相は、「個の特徴の否定」なので意味は異なります。
:
太郎論:決めつけず、こだわらず、とらわれず、固定観念を持たなければ、自由自在に相手と関わることができます。真理を覚った菩薩の慈悲は、明らかに真実であり、嘘偽りはありません。衆生の苦を抜き、衆生に安楽を与えます。抜苦与楽(ばっくよらく)です。真理を覚ることこそが、菩薩にとって非常に大事なことです。
:
:
実相(じっそう)
:
R論:ただ一つの『真理』とは、無相(特定の相のないもの)であり、一切の「差別」がなく、「差別」をつくらないもの(不相)で、一切の差別をつくらないから、一切が「平等」であり、これを名付けて『実相』というのです。
:
太郎論:相というのは、ラクシャナ lakṣaṇa の訳で、特徴・特性・属性・記号・すがた・状態などの意味があります。実相は、タットヴァシャ・ラクシャナン tattvasya-lakṣaṇam の訳です。「ありのままのすがた」の意味です。「真実無相」のことだともいわれます。鳩摩羅什(くまらじゅう)は、法華経において、いくつかの語を実相と訳しています。たとえば、ダルマ・スヴァバーヴァ dharma-svabhāva がそれです。本来は、法性(ほっしょう)と訳すところを実相と訳しています。それは、仏の覚りによって照らされた内容として理解され、したがって、如実、真実、法身、涅槃、無条件無爲などの概念と同義です。
:
:
無相・不相
:
R論:《無相》の「相」というのは、「差別相」という意味。差別のある(すがた)が一切ない、すべて「平等」だというのです。《不相》 というのは、差別的なはたらきをしない。差別をつくらないという意味です。
:
太郎論:「如是無相。無相不相。不相無相。名為実相」という文は難しいです。無相とは、アラクシャナ alakṣaṇa の訳で、「特徴が無い」ということです。不相のサンスクリットは不明ですが、「特徴をつくらない」「特徴を為さない」ということでしょう。よって、「無相とは特徴のないことです。特徴がないのですから特徴を認識することはできません。特徴を認識できないので特徴はありません。それがあるがままの世界です」ということです。無相とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいいます。特徴がないのですから、そのものを表す言葉はありません。言語道断であり、不可思議です。これまで、真理を言葉では表せないことを述べてきましたが、実は、事実・現象についても特徴はありませんから、そのものを表現する言葉はありません。すべてにおいて、言語表現から離れていることを実相と呼んでいます。真実は、言葉では表現できません。
:
太郎論:事物・現象には、本来意味はありません。意味をつくっているのは個人です。一人一人が個々の意味をつくっています。そして、自分専用の辞書を頭に持ち、その辞書をもとにして、観念を持ちます。幼い頃は、辞書を作っても、何度も書き換えをしてきましたが、大人になると固定してしまいます。固定した辞書を持っているために、観念もまた固定し、こだわり・きめつけを強めます。機根・性質・欲求は、観念によって決定しますから、人の数ほどの異なる根性欲があり、根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量なので、教義は無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。それが無相です。特徴はないので区別や差別はなくなり、そのことで一切の執着から離れ、無分別(むふんべつ)の境地に入ります。
:
:
一法門の義を答える
:
:

63
ダルマ太郎 2024/04/03 (水) 16:50:43 修正 >> 23

:
所詮(しょせん)(たん)
:
:
経:善男子、菩薩()()く是の如く一切の法門無量義を修せん者、必ず()阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得ん。
:
R訳:菩薩よ。いま説いた教えをしっかりと把握して、一人ひとりの機根・性質・欲望に応じて法を説き分けるならば、それだけであなたは必ず最高無上の悟りに達することができましょう。
:
太郎訳:善男子よ。菩薩がもしこの無量義を修めたならば、必ずや速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することでしょう。
:
:
能詮(のうせん)
:
経:善男子、是の如き甚深(じんじん)無上大乗無量義経は、文理真正(もんりしんしょう)に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道(しゅまぐんどう)、得入することあることなく、一切の邪見生死(じゃけんしょうじ)壊敗(えはい)せられず。
:
R訳:この奥深い『無量義の教え』は最高の教えであり、これよりも正しい、尊い教えは他にはありません。ですからこの教えを受持(じゅじ)する者は、過去・現在・未来においてすべての諸仏が必ず守護してくださるのです。菩薩よ。この教えを実践している限り、その人の精進(しょうじん)に対して妨害・邪魔・邪見が入り込む隙はありません。またその人が、どんな『変化』に遭遇しても、くじけて敗れることなどありません。
:
太郎訳:善男子よ。この奥深く無上の大乗無量義経は、説かれた言葉と表現された内容が真実であり、尊く、過去・現在・未来の諸仏が共に守護しています。いかなる邪魔者も他の教えも入り込むことがなく、一切の邪な見方、変化に敗れることがありません。
:
:
勧学(かんがく)
:
経:是の故に善男子、菩薩摩訶薩若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、応当に是の如き甚深無上大乗無量義経を修学(しゅがく)すべし。
:
R訳:ですから、菩薩の皆さんが『悟り』を得ようと思うならば、必ずこの『無量義の教え』を修めなければなりません。
:
R訳:このことから善男子よ。菩薩がもし速やかに無上の覚りを完成させようとするのなら、この奥深く無上の大乗無量義経を修学してください。
:
:
所詮を歎ず
:
:

75
ダルマ太郎 2024/04/19 (金) 15:20:58 修正 >> 63

:
正問
:
:
経:爾の時に大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)、復仏に白して言さく、世尊、世尊の説法不可思議なり。衆生の根性亦不可思議なり。法門解脱亦不可思議なり。我等、仏の所説の諸法に於て復疑難なけれども、而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて世尊に()いたてまつる。如来の得道より已来(このかた)四十余年、常に衆生の為に諸法の四相の義・苦の義・空の義・無常・無我・無大・無小・無生・無滅・一相・無相・法性・法相・本来空寂・不来・不去・不出・不没を演説したもう。若し聞くことある者は、或は煖法(なんぽう)頂法(ちょうほう)世第一法(せだいいっぽう)須陀洹果(しゅだおんか)斯陀含果(しだごんか)阿那含果(あなごんか)阿羅漢果(あらかんが)辟支仏道(びゃくしぶつどう)を得、菩提心(ぼだいしん)を発し、第一地・第二地・第三地に登り、第十地に至りき。往日(むかし)説きたもう所の諸法の義と今説きたもう所と、何等の異ることあれば、而も甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば必ず疾く無上菩提を成ずることを得んと言う、是の事云何。唯願わくば世尊、一切を慈哀して広く衆生の為に而も之を分別(ふんべつ)し、普く現在及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。
:
R訳:すると大荘厳菩薩は、再び釈尊に向かって申し上げました。「世尊よ。世尊の教えは大変奥深いものです。しかし衆生にとっては、その奥深い教えを正しく理解することは容易ではありません。私ども菩薩はこの教えに疑問や難しさを感じませんが、しかし衆生にとっては、疑問、難しさ、迷いを覚えることもあるでしょう。どうかそういう人たちのために、重ねてお尋ねいたします」
:
大荘厳菩薩は質問を続けます。
「世尊は成道されてから40数年経ちました。そして『生・住・異・滅』の教えや、全てのものごとは『空』であるということ、また常に変化するという『無常』の教え、孤立して存在するものはないという『無我』の教え、そして、すべての存在の本質は、大きいとか小さいなどの差別や区別はなく、本来、『平等で調和』しているということをお教えくださいました。その結果、教えを伺った者たちは、『心暖まる境地』から、『仏法がこの世の教えの中で第一であると認識する境地』、『煩悩にとらわれなくなる境地』、『菩提心を起す境地』、『大雲(だいうん)が大空をおおうように、この世あらゆる人々を平等におおい、救う境地』等々、その人の信仰の境地も高まってまいりました」

:
「しかし、世尊は何故、以前に説いた教えと、今、説く教えに違いがあり、『無量義の教えさえ実践すれば、必ず、直ぐに無上の悟りが得られる』とおっしゃるのでしょうか?(昔の教えではダメなのでしょうか?) どうか私どもを可哀相だとお考えくださり、現世のみならず未来の人々のために、疑問が少しでも残ることがないようにその真意をお教えください」
:
太郎訳:その時に大荘厳菩薩は、また仏に言いました。「世尊。世尊の説法は不可思議です。思いはかることができず、言語でも表現できません。人々の根性もまた不可思議です。迷いから離れることもまた不可思議です。私たちは、仏さまの説かれた様々な教えにおいて疑問はありませんが、諸々の衆生が迷惑の心を起こすかもしれませんので、重ねて世尊に質問いたします。如来の得道より四十余年、常に人々のために諸法の四相(生住異滅)についての教え・苦についての教え・空についての教え・無常についての教え・無我についての教え・無大と無小という無分別の教え・無生無滅についての教え・一相無相についての教え・法性法相についての教え・本来空寂についての教え・不来不去不出不没についての教えを説かれました。これらの教えを聞いた者は、さまざまな声聞の果報を受け、縁覚の果報を受け、菩提心を起こし、菩薩の第十地に至ります。これまでに説かれた教えと今説かれた教えと、どこがどのように違うのでしょうか? どこが異なるから、甚深無上大乗無量義経だけが、菩薩が修行すれば必ず速やかに無上菩提を成ずることを得ると説かれるのでしょうか? このことが分かりません。ただ願わくば世尊、一切を慈しみ、哀れと思われて、広く人々のためにこのことを分かりやすく、普く現在と未来の世において教えを聞くであろう人々の余の疑網を除いてください」
:
:
正問
:
: