仏教のお話

仏教随感

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仏教随感
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仏教について、想うところ、感じるところを綴っていこうと思います。
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ダルマ太郎
作成: 2024/04/12 (金) 23:03:37
最終更新: 2024/04/21 (日) 01:04:06
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ダルマ太郎 2024/04/12 (金) 23:29:19

天台大師智顗の教相判釈
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教相判釈(きょうそうはんじゃく)とは、仏教経典を分類・体系化し、相互の関係や価値を判定して仏の究極の教えがどこにあるのかを解釈することです。インドでは、釈尊が教えを説き、その教えが阿含経としてまとめられ、紀元前後に大乗仏教が起こってからは、時代に応じた経典が多く編纂されました。般若経・維摩経・法華経・浄土三部経・華厳経・涅槃経・解深密経・大日経などがあります。約千年の歴史の中で、順々に経典は作られましたので、インドでは、たくさんの経典の中で究極の教えがどの経典にあるのかを解釈することはありませんでした。それまでの経典に加上して、新しい経典が作られるのですから、後に出来た経典の方が勝れているとみなされていました。
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中国では、大量の経典が一挙に入ってきましたので、どの経典を学ぶべきかの判断が難しかったようです。多くの仏教者は、華厳経や涅槃経を勧めていますが、一致はしていません。
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中国の天台大師智顗の解釈では、最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったので、次に平易な『阿含経』を説いたとしました。次に、『方等経』、『般若経』を説き、最後の八年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとしました。よって、最後に説いた『法華経』が釈尊のもっとも重要な教えであると主張しています。これにより、天台宗は、法華経を第一とし、所依の経典としました。学ぶべきは、法華経であると宣言したのです。このことで、法華経は注目され、日本でも法華経はよく読まれました。
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智顗:華厳経→阿含経→方等経→般若経→法華経(涅槃経)
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事実:阿含経→般若経→法華経→華厳経→大日経
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智顗は、経典に書いてある内容から判断して、経典成立の順を表しました。しかし、これは事実に反しています。最初に説かれたのは阿含経であり、法華経は初期大乗仏教時代です。よって、法華経を最高の経典だとする根拠を失います。現代では、智顗の教相判釈を参考にする仏教者は少なくなりましたが、天台系・日蓮系では、今でも信じられています。
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弘法大師空海の秘蔵宝鑰
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秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)は、空海が830年ごろに著した平安前期の仏教書です。淳和天皇の勅により撰述されたとされ、空海の代表作とされています。その中で、人の心を十段階で説明しています。十住心といいます。無宗教の煩悩に満ちた人・道徳を学ぶ人・声聞・縁覚・菩薩の道を進む人といった分類です。空海は密教なので、最高位は、真言密教になっています。この内容は、空海の教相判釈です。
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第一異生羝羊心 - 煩悩に満ちた人
第二愚童持斎心 - 儒教
第三嬰童無畏心 - 老荘思想
第四唯蘊無我心 - 声聞
第五抜業因種心 - 縁覚
第六他縁大乗心 - 大乗仏教…唯識
第七覚心不生心 - 大乗仏教…中観
第八一道無為心 - 大乗仏教…天台宗…法華経
第九極無自性心 - 大乗仏教…華厳宗…華厳経
第十秘密荘厳心 - 真言密教

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法華経は、智慧の門の入り口であり、華厳経は智慧の門に入った教えであり、真言密教は智慧に住した教えだとしています。法華経は、智慧に導くことから、非常に重要な教えだと思うのですが、法華経信者は、三番目ということが気に入らないようです。密教だけでなく、華厳経にも負けていることに合点がいかないのでしょう。空海は法華経を謗法していると批判する人もいます。おそらくは、秘蔵宝鑰をよく読まずに批判しているのでしょう。読めば納得のいく内容だと思うのですが・・・。
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ダルマ太郎 2024/04/13 (土) 15:03:44 修正

輪廻について
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「輪廻はあるのか?」という質問は、今でも知恵袋でよく見かけます。「ある」という人と「ない」という人とで、議論が繰り返されています。輪廻肯定派は、仏教経典に書かれていることを根拠にし、輪廻否定派は、無我を説く仏教においては、何が輪廻しているのかが不明だといいます。そもそも死後の世界については、客観的な証拠がありませんから、輪廻の有無を論じること自体がナンセンスだと思うのですが、私見を述べさせていただきます。
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結論から言えば、「輪廻は仮に有り、実体は無い」のだと思います。輪廻が有るという人は、そのことを信じているので、脳に「輪廻は有る」と記憶されているでしょう。しかし、それは概念であって実体はありません。事実ではないのです。実体はありませんが、概念としては有りますので、「無い」とは断言できません。つまり、非有非無の中道です。有るのはなく、無いのではありません。
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輪廻とは、サンスクリット語のサンサーラ saṃsāra の訳です。世俗的な人生、放浪、繰り返す人生などの意味があります。中国では、輪廻というよりも、「生死」と訳すことが多いようです。鳩摩羅什も妙法蓮華経を訳すとき、サンサーラを生死と訳しています。輪廻は、インドの思想であり、中国や日本にはありませんでした。仏教が入ってきて知られるようになりました。死んだらおしまい、というのが本来の日本人の思想です。
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近年、若い人たちも輪廻を信じるようになってきました。テレビで怪しいスピリチャルの人が、「あなたの前世はローマのお姫様です」などといって、生まれ変わりの思想を広めました。また、漫画やアニメを中心に転生ものが人気なので、それに影響を受けた人も多いのでしょう。因果応報などといって、現在不幸なのは、前世での悪業が原因だ、などという説も飛び交っています。今、私が重病なのは過去世の私に原因がある、大怪我をして障害を持ったのは私の業報なのだろう、貧乏なのも、異性にもてないのも、醜い容姿も、頭が悪いのも、すべて私の因果なのだ・・・。反省するのはいいけれど、何の証拠もない過去世のことで自分を責めるのは意味がありません。因果応報を他者に当てはめ、相手の心身環境の苦を前世の結果だといって、蔑む人もいます。

因縁・因果は、あらゆるものと関りを持っていますから、人が考えるほど単純ではありません。ほんの少しタイミングがずれただけで、物事は大きく変わってしまいます。何が因で、何が縁で、何が果で、何が果報なのかは分かりません。自然界の一部を切り取った場合は、因果は理解できます。旗が揺れるのは風が吹いているからだし、煙が立つのは火があるからです。そういう分かりやすい実例を挙げて、釈尊は縁起を説明しました。しかし、すべてのものは、すべてのものと関係がありますから、現実は複雑です。ましてや「報」が入るとお手上げです。報とは業報のことで、行為に依る報いのことです。私たちは、心の行為・口の行為・身体の行為をしています。心の行為とは意志のこと、口の行為とはしゃべること、身体の行為とは動作のことです。

因果応報という言葉は仏教経典にはでてきません。戒律の書で一度だけ使われていますが、一度だけですので、重視されていた言葉だとは思えません。同じような意味の業報はよく使われます。カルマ・パラ karma-phala、カルマ・ヴィパーカ karma-vipākaの訳語です。善悪の行為は、楽苦として、行為者が受け取ることに成ります。

因果応報というと、「バカと言ったらバカと言われた」「人を殴ったら、別の人に殴られた」「騙したら騙された」と言った感じが多いと思います。業報の場合は、そういうピンポイントではありません。「善因善果・善因楽果。悪因悪果・悪因苦果」というものです。「善い心がけは、善い言動となり、善い言動を積めば安楽の境地に入る。悪い心がけは、悪い言動となり、悪い言動を積めば苦の境地に入る」というように、広い意味で考えられます。凡人や子供には、「悪いことをすると地獄に堕ちるよ」と言って脅しました。この脅しは効果があったようで、インドでは、法律よりも業報論で倫理道徳をしつけたようです。

インドには、カースト制度があり、バラモン教に属している限りは、この制度に縛られていました。バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(奴隷)という階級制度です。この階級は、親の身分を引き継ぎます。バラモンの子はバラモンであり、シュードラの子はシュードラです。どんなに努力精進しようとも、この階級は一生決まっています。他の国であれば、虐げられるシュードラは反乱を起こしそうですが、インドの民衆は業報を信じ切っているために、自分の今の身分は過去の悪業にある、と割り切って静かに暮らしているようです。このように業報は、人生と大きく関わっているため、業報を否定する者はいませんでした。
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釈尊の時代は、輪廻思想が浸透していましたから、釈尊もそれを受け入れて説法に取り入れていたようです。しかし、釈尊が輪廻を肯定していたのかは謎だし、輪廻を否定していたのかも謎です。経典に書いていることをそのまま読めば、輪廻はあるというように思えますが、それは人々を真理に導くための方便である可能性が高いです。
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真理は無相だといわれます。相とは「特徴」のことですから、無相とは、「特徴の否定」です。特徴とは、「他と比べて特に目立ったり、他との区別に役立ったりする点」のことですので、それ自体だけでは特徴はありません。他と比べた時に特徴を表すことができます。この世界のすべてが白色であれば、白色という特徴はありません。赤や黒という他の色があることで、白という特徴を識別できます。人は、それの特徴を観て定義をします。しかし、それには実際は特徴はありませんから、すべての定義は仮であることが分かります。定義がないので、それのことを言葉では表せません。
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仏教では、二つの真理があると説かれます。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗が使う言葉によって表すことができる真理のことです。よって、縁起・無我・無常・空・無相などは言葉で表していますので、これは俗諦です。真諦とは、絶対の真理のことです。言葉では表せず、思惟する対象でもありません。仏が覚っている真理とは真諦です。これを正法・妙法ともいいます。輪廻とは、言葉で表していますから俗諦です。真諦ではありません。よって、俗諦としては輪廻は説かれるけれど、真諦としては、非有非無の中道なのでしょう。
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輪廻肯定派は、経典に輪廻のことが書いてあるのだから、「輪廻は有る」と主張します。経典に書かれていることが本当のことならば、釈尊が生まれてすぐに立ち上がり、七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と言ったことも本当だというのでしょうか? マーヤ夫人の脇の下から生まれたり、神々や悪魔や龍や妖怪なども実在するというのでしょうか? 経典には、比喩表現・象徴表現が多いので、すべてを本当のことだと受け取ると真意が分からなくなると思います。譬喩は譬喩として読んだほうがいいです。
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輪廻肯定派の多くは、初期仏教の信者でしょう。業・輪廻・解脱というヴェーダの教えを引き継ぎ、根本的な教義にしています。善悪の業によって、楽果という果報を受け、それによって輪廻します。輪廻から解脱するためには、善業を積まなければならないという教えです。大乗仏教では、空の理によって輪廻は有るのではなく、無いのではないと説かれるようになっています。初期仏教は俗諦であり、大乗仏教は真諦なのでしょう。
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3
ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 21:03:09 修正

空について
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(くう)とは、サンスクリット語のシューニャ śūnya、または、シューニャター śūnyatā の中国語訳です。シューニャが形容詞で、シューニャターが名詞です。サンスクリット語の場合は、形容詞と名詞の違いが分かりやすいのですが、漢訳では分かりにくいです。名詞形のときに、「空性」ということもありますが、ほとんどの場合は、「空」と書かれています。
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空とは、無自性(むじしょう)と同じ意味です。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳であり、「それ自身で存在する本体」のことです。西洋哲学の「実体」と同じ意味なので、現代は自性のことを実体と言い、無自性のことを「実体の欠如」と言っています。このブログでも実体という言葉を使うことにします。
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空とは、もともと「欠如」の意味でしたが、大乗仏教で「実体の欠如」という意味で使われるようになりました。これは、上座部の説一切有部(せついっさいうぶ)が、「人無我。法有我」を称えたため、それを否定するために使われた言葉です。人は無我だし、法には実体がないので、「人無我。法無我」と言い、後に一切法空といいました。説一切有部は、その名の通り、「法有」を説くので、大乗仏教とは対立しています。
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般若心経
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大乗仏教徒は、空の理を弘めるために、多くの般若経を編纂(へんさん)し、世に出しました。しかし、その内容は難しく、意味不明の文章が続くため、あまり理解はされていなかったようです。たとえば、日本でも有名な般若心経の内容は深淵であり、一般人には理解不能です。なぜなら、般若心経は、二万五千頌般若経の抜粋だからです。ただでさえ難解な経典の抜粋を読んでも、ほとんどの人は理解できないでしょう。僧侶や教団の教育担当者でさえも、分かっていないので、中にはとんでもない解釈をする人もいます。
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「色即是空。空即是色」という言葉は、ほとんどの人が聞いたことがあると思います。でも、意味を知っている人はわずかです。二万五千頌般若経を読みもせずに解釈している人が多いために、自分勝手な解釈をしています。空を霊界だと解釈したり、エネルギーだと解釈したり。実体が無い、という意味から離れてしまっています。霊界にせよ、エネルギーにせよ、そのような名で呼ばれているのであれば、それは空の事ではありません。空は、絶対的に認識の対象にはなりませんから、名前を付けることはできません。「空」というのも仮であり、空もまた空です。サンスクリット原文では、「色即是空。空即是色」は次のように表されます。
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yad rūpaṃ sā śūnyatā
ya śūnyatā tad rūpaṃ

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物質、それは空である
空、それは物質である

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物質は、因縁によって仮に有りますので、実体は有りません。空です。空とは、実体のないことなので、固定化することはありません。よって、さまざまな物質として生起することができます。「リンゴはリンゴではありません。よってリンゴといいます」という文章は変です。これは、「リンゴにはリンゴという実体は無い。よってリンゴという名も無い。人が便宜上、仮にリンゴという名をつけ、共有し、使っているに過ぎない。リンゴには、固定した名が無いから、仮の名をつけることができる」。よって、物質に実体が有れば、それは固定して存在し続けるので、変化することはありません。種はずっと種だし、実はずっと実のままです。物質が固定化せず、変化し続けるのは、物質が空だからです。
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無我や空は、日本人の概念にはありませんから、新しい思想だとして受け入れるしかありません。自分の考えだけで定義できるような内容ではありません。「色即是空。空即是色」という言葉だけを切り取って考えれば迷走します。ちゃんと全文を読んでから吟味しましょう。般若心経には、「舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。」というように、五蘊(ごうん)の色以外の受想行識についても空であると説いています。また空であるから、受想行識が生起するとも書いています。五蘊とは、物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用のことです。身体と心のことです。色即是空。空即是色だけでなく、それらについても考える必要があります。
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空について
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4
ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 21:11:25

龍樹の中論について
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空は、龍樹によって論じられ、そのおかげで多くの仏教者が空の理を知ることになりました。『中論』という論書によって、空は広く知られるようになりました。現在でも、大乗仏教者にとっては、入門の書として親しまれています。私も何度も読み、色んな解釈本を手掛かりにしましたが、中論もかなり難しいです。中論には、最初に次のような偈があります。
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帰敬序
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不生亦不滅 不常亦不斷
不一亦不異 不來亦不出
能説是因縁 善滅諸戲論
我稽首禮佛 諸説中第一

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不生亦た不滅 不常亦た不断
不一亦た不異 不来亦た不出
能く是の因縁を説き 善く諸の戯論を滅す
我れは稽首して仏を礼す 諸説中の第一なりと

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生ぜず 滅せず 
常でなく 断たれることなく
同一でなく 異なることなく 
来ることなく 出ることのない
様々な言語的思想の消滅という
めでたい「縁起の理法」を
お説きになられた仏を
あらゆる説法者の中で最も
優れた方として敬意を表し
礼をいたします

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中論の解釈をした青目(ピンガラ)は、この偈について次のように解釈しています。
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所謂一切法の不生、不滅、不一、不異等の畢竟じて空、無所有なるを説きたまえり。般若波羅蜜中に説くが如し、仏は須菩提に告げたまわく、「菩薩は道場に坐する時、十二因縁を観ずるに、虚空の如くして尽くすべからず」と。仏の滅度の後、後の五百歳の像法中に、人根転た鈍たり、深く諸法に著して、十二因縁、五陰、十二入、十八界等に決定相を求め、仏意を知らずして、但だ文字のみに著す。大乗法中に畢竟空を説くを聞きても、何の因縁の故に空なるかを知らず、即ち疑見を生ずらく、「若し都て畢竟じて空ならば、云何が罪福の報応等有るを分別せん」と。是の如きには則ち世諦と、第一義諦と無く、是の空相を取りて而も貪著を起し、畢竟空の中に種種の過を生ず。龍樹菩薩は、是れ等の為の故に、此の中論を造る。
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生じる・滅じないと観るのは、そのような観念が私たちにあるからです。空においては、不生・不滅です。生じることなく、滅することはありません。仏は、「菩薩は道場に坐する時、十二因縁を観ずるに、虚空の如くして尽くすべからず」と説いたと言います。ともすれば、私たちは、十二因縁の一つ一つの言葉にとらわれてしまいがちですが、「言葉には執着せず、そのことが導く真理を観なさい」ということでしょう。言葉は所詮人が作ったものですから、そこには真理はありません。真理を感得したいのなら、瞑想をし、教えを思惟し、智慧によるしかありません。仏が亡くなって五百年もすれば、修行者は、義を見ずに言葉を見るようになりました。十二因縁、五陰、十二入、十八界等の言葉の定義を決めることに一生懸命になり、仏意を知ろうとせず、ただ文字のみに執着しています。文字・言葉に意味はないので、そのことを「空」という言葉で説いても、なぜ空を説くのかを考えもせず、疑って、「もし、すべてが空ならば、罪や福の業報を分けて説くのだ?」と。これらの人々は、世諦(俗諦)と第一義諦(真諦)を知らず、空の特徴をみて、執着を起し、空の義を誤ってしまいます。龍樹菩薩は、これらの為に中論を造ったのです。
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このように、空を知るためには、言葉への信頼を捨てる必要があります。言葉に頼れば、名のあるものは実体が有るとみるようになりますから、空の理を知るためには、「言葉への不信」は重要です。日本では、言霊を信じる傾向が強いのですが、インドの思想である空を学ぶためには、言葉は人が作った道具なのだと認識するほうがいいです。
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龍樹の中論について
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5
ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 21:13:03

世俗諦と第一義諦
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龍樹は、世諦(俗諦)と第一義諦(真諦)について、次のように論じています。
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諸佛依二諦 爲衆生説法
一以世俗諦 二第一義諦
若人不能知 分別於二諦
則於深佛法 不知眞實義
若不依俗諦 不得第一義
不得第一義 則不得涅槃

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諸仏は二諦に依って 衆生の為に法を説きたもう
一には世俗諦を以って 二には第一義諦なり
若し人は二諦を知りて 分別すること能わざれば
則ち深き仏法に於いて 真実義を知らず
若し俗諦に依らざれば 第一義を得ず
第一義を得ずんば 則ち涅槃を得ざらん

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世俗諦とは、世間においての真理のことです。世俗の言葉によって説かれる真理ですから、真実の真理とは異なります。仮の真理です。第一義諦とは、最高の真理のことです。絶対の真理なので、言葉によっては明かすことはできません。二諦について知らなければ、説かれた言葉に執着し、その奥にある真実の真理には気づかないでしょう。
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第一義は、すべて仮の言説によります。言説とは世俗です。このことから、世俗の言葉に依らなければ、第一義は説くことができません。第一義を得ることができなければ、どうやって涅槃に至ることを得られるでしょう。このことから、二諦が必要です。
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空の理を学ぶためには、言葉についてよく知る必要があります。般若経には、言葉遊びみたいな文章がたくさん出てきます。それらは、読む人の言葉についての固定観念が試されています。意味が分からない人は、言葉への信頼が強く、言葉に実体を持っている人でしょう。
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世俗諦と第一義諦
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7
ダルマ太郎 2024/04/30 (火) 21:24:58

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輪廻は幻
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太郎論:輪廻が事実として有ると主張する人に、その根拠を質問したら、経典に書いてあるからだと答えました。確かに初期仏教の経典には、輪廻のことが書かれています。大乗仏教の経典にも書かれています。経典に書いてあるのなら、それを信じるのが仏教徒だろう? と、輪廻を信じないことを責める口調です。
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経典とは、釈尊の説法の記録ではありません。人々を救済・教化するための教本です。なので、人々を覚りに導くために、数々の方便を用います。業・輪廻・解脱は方便なので、そういうことが事実として有るわけではありません。しかし、輪廻を信じる人は、輪廻が有ると思い込み、その思い込みによって概念化しています。よって、事実としては無いけれど、概念としては有るという幻をつくってしまいます。輪廻を信じない人は輪廻に対する恐怖感はありませんが、輪廻を信じる人は、幻に悩み苦しみます。
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輪廻は幻
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8
ダルマ太郎 2024/05/04 (土) 12:08:15

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法華経という経典について
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太郎論:法華経は、紀元前一世紀ころから、インド北部のガンダーラあたりで編纂されたという説が有力です。2世紀ころには、ほぼ完成していたようです。主にクシャーン王国の人たちに向けて説かれました。特にカニシカ大王は、仏教を篤く信仰し、仏教を保護していましたので、仏教は広く伝わったようです。
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インドの法華経の経典は、サンスクリット語で書かれました。釈尊は、サンスクリット語は上位カーストしか理解できないので、平民でも分かるような言葉で布教するようにと指示していましたが、釈尊が亡くなって五百年も経てば、高弟子たちの意見を通し、サンスクリット語が採用されました。インドでは、宗教関係や公文書は、サンスクリット語を使うことが一般的だったため、仏教でもそうしたのでしょう。初期仏教の経典は、釈尊の教えを口伝していますので、由緒正しいとみられます。大乗仏教の経典は、紀元前後から作られたので、伝統がなく、大乗非仏説だといって、上座部の説一切有部などから非難されています。新しい経典を広く伝えるために、大乗のリーダーたちは、仲間に書写を勧め、書写によって布教しました。
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最初に作られた大乗仏教の経典は、般若波羅蜜多経です。八千頌般若経・二万五千頌般若経・金剛般若経などの大量の般若経典が世に出ました。般若経典は、空の理が説かれています。それに続いて、空の行を説く、法華経が作られました。法華経は、シルクロードを通って中央アジア、中国へと伝わりました。中国では、天才訳経僧の鳩摩羅什が、妙法蓮華経という名で漢訳しました。
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中国では、自国の文化を重視しますので、訳経が終わるとサンスクリットの経典は破棄されたようです。なので、中国には、サンスクリットの経典は残っていません。天台大師智顗は、サンスクリット経典を読まず、漢訳の妙法蓮華経を読んで学んでいたようです。日本の僧侶たちも漢訳法華経を学び、読誦していました。日蓮上人も漢訳を読んでいたようです。
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近年になって、サンスクリット本からの現代語訳が、いくつか出版されています。中でも、植木雅俊氏の本が人気があります。私は、植木氏の梵文『法華経』翻訳語彙典 二巻、法華経 梵漢和対照・現代語訳 二巻を持っています。特に翻訳語彙典は、法華経に出てくるサンスクリット語の単語の意味をすべて日本語に訳していますから、非常に役に立ちます。文章と単語の和訳がされています。二巻で十万円を超えますが、法華経を研究している人にとっては必需品です。
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鳩摩羅什の妙法蓮華経とサンスクリット原典には、色々と異なる点があります。日蓮系の人たちは、方便品第二の十如是を重視しますが、サンスクリット本にはありません。薬草諭品第五の後半は妙法蓮華経にはありません。小さな違いは、けっこう多いです。真に法華経を学びたいのであれば、サンスクリット本を勉強することをお薦めします。
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法華経という経典について
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9
ダルマ太郎 2024/05/06 (月) 12:11:12

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三宝帰依
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太郎論:在家は、仏教徒になる時に「三帰五戒」を誓います。三帰とは、三宝帰依のことです。仏陀・仏陀の教え・僧伽に帰依することです。僧伽とは、サンガ saṃgha の訳です。もとの意味は集団・衆であり、出家者のグループのことを僧伽といいました。僧というのは、僧伽の略です。本来は、集団のことでしたが、日本では、個人のことをいうようになりました。お坊さんのことを僧といいます。仏陀や仏陀の教えと同じように僧伽に帰依するのは、僧伽が教えを守り、仏道修行の手本を示すからです。戒律を護って浄く正しく生きる姿に帰依しました。

日本には、戒律がありませんので、僧伽への帰依はしていないようです。仏道修行の手本となる僧がいないことは、在家にとっては残念なことです。儀礼儀式で読経をしても、ほとんどの人は帰依はしないでしょう。新興宗教においては、僧伽自体がないところも多いので、三宝帰依は成り立っていません。
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五戒
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太郎論:五戒とは、在家信者が護るべき五つの戒めのことです。それは、不殺生戒 せっしょう ・不偸盗戒 ちゅうとう ・不邪淫戒・不妄語戒 もうご ・不飲酒戒 おんじゅ の五つです。殺さない・盗まない・邪な性行為をしない・嘘をつかない・酒を飲まないことです。在家は五戒ですが、出家者の場合は、男性だと250、女性だと350の律があります。戒の場合は反省をするだけで、特に罰はありませんが、律の場合は罪に応じた罰があります。五戒は、律にも含まれていますが、不邪淫戒は、淫戒になります。つまり、性行為のすべてが禁じられ、自慰なども禁止されました。夢精以外はアウトです。

新興宗教団体では、三帰五戒を誓いません。よって、戒を守りません。虫や小動物を平気で殺すし、人のものを黙って持っていくし、不倫をするし、嘘をつくし、お酒を飲みます。悪いことをすれば、ワクワク・ドキドキします。この興奮が忘れられず、罪を犯すのでしょう。映画やドラマでは、犯罪がテーマになることが多いです。殺人事件・強盗・不倫・詐欺のシーンは多く、飲酒は日常的に行われます。それだけ、人は犯罪に魅力があるのでしょう。だから、仏教では戒律を定めるのだと思います。

もし、日本で仏教を再び盛り上げたいのなら、出家者は律を在家者は戒を守るのがいいでしょう。戒を守ることで心が平穏になり、禅定に入りやすくなるからです。禅定に入らなければ、智慧は得られず、智慧が無ければ成仏できません。
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