仏教のお話

Rの会:無量義経 / 22

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ダルマ太郎 2024/03/25 (月) 18:03:22 修正

生・住・異・滅

法の相是の如くして是の如き法を生ず。法の相是の如くして是の如き法を住す。法の相是の如くして是の如き法を異す。法の相是の如くして是の如き法を滅す。法の相是の如くして能く悪法を生ず。法の相是の如くして能く善法を生ず。住・異・滅も亦復是の如し。菩薩是の如く四相の始末を観察して悉く遍く知り已って、次に復諦かに一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ。

この『実相』を深く見極めるということは、即ち、この世の全てのものは、例外なく、『生・住・異・滅』の存在であると知ることです。つまり全ては、今までなかった現象・事物が『現象として生じ』《生》、その現象・事物が『そのままの状態で、しばらくは維持し』《住》、そしてその現象・事物が、必ず『異なった形に変化し』《異》、結局は、その現象・事物は、必ず『消滅する』のです。《滅》。菩薩は、全ての現象・事物は、例外なくこの『生・住・異・滅』の法則に従っている、ということを知らなければなりません。ですから菩薩は、全ての現象・事物は、一刻も元のままでとどまっているものはなく、一瞬一瞬、生じ、滅する『生・住・異・滅』という『四相の始末』の変化の法則が、瞬間、瞬時にはたらいているということを、しっかりと悟っていなければなりません。

事象は、このようにして、このように事象を生じます。事象は、このようにして、このように事象にとどまります。事象は、このようにして、このように事象を変化します。事象は、このようにして、このように事象を滅します。事象は、このようにして、悪い事象を生じます。事象は、このようにして、善い事象を生じます。住・異・滅も同様です。菩薩は、このように四相の始末(生・住・異・滅)を観察して、よく知ったなら、次にまた明らかに一切の事象は、瞬瞬に住するのではなく、新新に生滅すると観じ、また即時に生・住・異・滅すと観てください。

~事物・現象は、生じ・とどまり・変化し・滅しています。生・住・異・滅です。事物・現象をよく観察すれば、生じている状態・とどまっている状態・変化している状態・滅している状態があることが分かります。炎を観れば、新しい火が起こり、火はとどまり、火は変化し、火は滅します。瞬瞬に状態が変わっていることが分かります。生・住・異・滅とは、無常のことなのですが、多くの人々は長い時間をかけて変化することだととらえています。しかし、無常とは、瞬瞬の変化のことを言っていますから、刻々と変化していると知ることが重要です。悪いこと、善いことは、長くとどまるものではなく、変化するのです。

~「一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ」と説かれているように、諸法は、長くはとどまらず、新新に生滅しています。固定観念を持つことなく、現象を柔軟に受け入れることが大事です。生・住・異・滅とは、有為法です。有為法とは、因縁によって作られる現象のことです。真理は、無為法ですから、因縁によって生滅するものではありません。凡夫は、有為法の中で生きています。無為法を知りませんから、因縁に従って変化する現象を体験しています。これを「諸行無常」といいます。諸行とは、有為法のことです。
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無量義

是の如く観じ已って衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義も亦無量なり。

衆生をみると、衆生の『機根・性質・欲望 (根性欲・こんじょうよく)』が、千差万別にはたらいていることが分かります。ですから人々に法を説く時、当然、法の説き方も『千差万別』にならざるを得なくなります。仏の説法は様々な『根性欲』の衆生を対象に行うのですから、当然その教えの内容は数限りなくあることになります。

このように観じおわって人々の諸々の機根、性質、欲求に入ります。機根、性質、欲求が無量なので、それに応じた説法は無量です。説法が無量なので、したがって教義もまた無量です。

~根性欲とは、機根・性質・欲求のことです。機根とは、教えを聞いて発動する能力のことです。根性欲は、個々個人によって異なるし、個人においても、過去・現在・未来において異なり、縁によっても異なります。生・住・異・滅のどの状態にあるのかによっても、その人の根性欲は異なります。根性欲は、無量にあります。根性欲が無量なので、それに応じる説法も無量であり、説法が無量なので、教義も無量です。つまり、対機説法なので、無量の義が生じたのです。

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