仏教のお話

Rの会:無量義経 / 20

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ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 20:31:27 修正

一法門の名を答える

仏の言わく。善男子、是の一の法門をば名けて無量義と為す。

釈尊は即座に答えられます。「善男子よ。それは『無量義』という教えです」

仏が答えられました。「善男子、この一つの法門とは、名を無量義といいます」
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一法門の行を答える

性相空寂

菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、自ら本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。

菩薩たちが、この『無量義』の教えを修めようと望むならば、まず次のことを見極めなければなりません。それは、過去・現在・未来におけるこの世のあらゆるものごとの根源の相(すがた)は、全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』であるというものです。しかも、あらゆるものは生成発展し、『大きな調和』を保っている、このことを見極めることが必要です。

菩薩が無量義を修学しようとするならば、一切の事物・現象は、過去・現在・未来において、真理も事象として現れるすがたも、ともに実体はなく、安らかな状態だと知ることが重要です。よって、大きいとか小さいということはなく、生じるとか滅するということはなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということはありません。固定した観方や一方に偏った観方を否定します。虚空のように、すべてが一つであり、二つに分かれたものではないと観察してください。

~《性相・しょうそう》 「性」とは性質。「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)。《空・くう》とは、すべてのものごとは「縁起の法則」によって存在しているのであって、そのことから、すべてのものごとはその本質においては、平等であるという意味にもなります。この「空とは平等である」ということが、仏教としてもっとも大事な意味なのです。《寂・じゃく》とは、「大調和した状態」です。全てのものが生々発展しながらも、大きく調和して、争いや摩擦がないために「寂・しずか」であるという状態を、この字から感じとらなければなりません。〈寂光土〉も、すべてが生々溌剌(せいせいはつらつ)として活動しながら、しかも大きな調和を保っている理想の状態をいうのです。変化するものごとにとらわれていては、いつまでたっても大安心を得ることはできない、ということです。そこで、変化を超越した立場に立ってものごとを見る、という〈寂〉の立場が必要になるのです。それは (二種類の存在) で、ちょうど我々を取り巻いている虚空が、「ただ ひといろ」であるようなものだというわけです。

~性相とは、真理と事象のことです。性とは、不変平等絶対真実の本体や道理のことで、相とは、変化差別相対の現象的なすがたのことです。中国でいう「理事」と同じような意味です。真理と事象とは離れているのではなく、真理は事象によって観ることができ、事象は真理によって仮に存在します。「性」とは性質、「相」とはその性質が表に現れた相(すがた)のことだという解釈もありますが、性相空寂という場合は、真理と事象のことです。

Rの会では、空を「全ては『ただ一つ』であり、『一切が平等』である」と解釈しているようです。しかし、空にはそのような意味はありません。空とは、「実体の欠如」という意味です。サンスクリットの原語は、シューニャ śūnya です。シューニャは、「欠如」「空虚」「膨れ上がった」という意味です。『ただ一つ』や『一切が平等』ととらえると法華経は理解できないでしょう。一切の事物・現象は因縁和合によって仮に生じ、滅しているので、そのものには、我体・本体・実体と呼ばれるようなものはないという教えです。

寂とは、ニルヴァーナ nirvāṇa の訳です。煩悩の火を消した安らかな境地のことです。涅槃とも訳されます。涅槃とは、一切の因縁を結ばない境地なので、因縁によって作られるものではありません。

古代よりインドでは、事象そのものよりも、事象を成り立たせる真理のほうに興味をもっていました。リンゴがあるのは、リンゴをリンゴとして成らしめる真理があるからであり、猫があるのは、猫を猫として成らしめる真理があるからだとみたのです。真理によって事象があるという観方です。

仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)では、個を個と成らしめるものをアートマン(我)と名付けました。アートマンは個の真理であり、主宰するものであり、独立して存在し、常住するものだと考えました。また、宇宙の創造を司るものをブラフマンといい、宇宙の真理だとしました。

これを仏教では、神とか超越した存在がこの宇宙をつくるのではなく、すべては因縁に依ってあるという思想を説きました。形而上学的な考えを否定して、無我・空を説いています。真理は空であり、一切の事物・現象は空だとし、空なるものは安らかであると説きました。

空とは、実体がないことであり、寂とは因縁がないことです。因縁がないので変化はありません。実体がなく、因縁を結びませんので、大小という特徴は認識されず、生じるとか滅するという変化もありません。とどまることもなく、動くこともなく、進むことも、退くこともありません。「猫が歩いている」と言っても、猫という実体がないのであれば、歩くという行為はありません。一切は無量無辺の虚空のように差別・区別はなく無際であり、一切は一つであると観察することが勧められています。

空は、『ただ一つ』や『一切が平等』という意味ではありません。空の理を深く観察することによって、一切には差別・区別は無く、無分別だと知ることができます。無分別を覚ることが智慧であり、智慧を完成させることが覚りです。最高の覚りを得ることができれば、成仏にいたります。よって、空を覚ることは、仏教において最重要な行です。
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法とは

第一に、〈ものごと〉。「諸法実相」とか「諸法無我」という場合の「法」。
第二に、〈真理〉。
第三に、〈仏教の教え〉という意味。真理によって、正しく、その時々に応じて説かれた教え。
第四に、〈善の実践〉。自分自身のためだけでなく他の人や社会と調和して、よりよい方向にいこうとする倫理や道徳にかなった〈善いことの実践〉という意味。

~法とは、ダルマ dharma の中国語訳であり、掟、法、(宗教上の)義務、人の道、人としての道徳、道理、教え、本質、物事などの意味があります。ダルマの語根は、ダル √dhṛ です。意味は、支える、維持する、保持する、保有する、所有するなどです。つまり、人を人として支えるものが、掟、法律、義務、教えであり、掟や法律を支えるものが、人の道、人としての道徳です。また、物事を物事として支えるものが道理であり、道理を道理として支えるものが事物・現象です。法には、たくさんの意味がありますが、本来の「支えるもの」という意味を把握すれば、理解しやすくなると思います。

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