仏教のお話

Rの会:無量義経

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日本の仏教系新興宗教は、法華経を所依の経典にしているところが多いです。創価学会・立正佼成会・霊友会などがそれです。しかし、同じ法華経を拠り所としていても、それぞれの会の解釈が異なるため、法華経についての共通理解はなされていません。

ここでは、Rの会の法華経の解釈を例にとり、ベースとなる法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)との違いを示していきます。

ダルマ太郎
作成: 2024/03/19 (火) 21:32:28
最終更新: 2024/03/27 (水) 00:02:46
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ダルマ太郎 2024/03/25 (月) 18:54:32 修正

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一法門の義を答える
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経:無量義(むりょうぎ)とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相(むそう)也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名けて実相(じっそう)とす。菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、是の如き真実の相に安住し已って、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所に於て真に()く苦を抜く。苦既に抜き已って、復為に法を説いて、諸の衆生をして快楽(けらく)を受けしむ。
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R訳:しかしその数々の教えは、もとを正せば、もともとは『ただ一つの真理(一法)』から生ずるものなのです。『真理・法』とは、特定の(すがた)がないもので、一切の差別を作らず、一切が平等であります。これを名付けて『実相』といいます。菩薩よ。真実の教え(『すべては一つ』。必ず『生・住・異・滅』するという真実)に基づいて、そこから発した『慈悲(じひ)智慧(ちえ)のはたらき』は、必ず立派な結果となって現われます。ムダには終わりません。すなわち、相手がそのままの境遇で苦から根こそぎ救われ、生きる喜びを得るという現象となって現われるのです。
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太郎訳:無量の教義は、一つの真理より生じます。その一つの真理とは、無相です。このような無相は、特徴がなく、特徴をつくりません。特徴をつくらず特徴がないことを実相と言います。菩薩よ、このような真実の相に安住した後に発する慈悲は、明らかに正しいのであって偽りはありません。人々の中で、真によく苦を抜きます。苦を抜き終わると、またその人のために教えを説いて、諸々の人々の快楽を受けさせます。
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太郎論:「無量義とは一法より生ず」という言葉は実に重要です。「無量の教義は、一つの真理より生じている」ということは、一つ一つの教義を深く観れば、大本の真理を知ることが出来るということです。ただし、真理は言葉によって表すことはできませんから、説かれた教義をヒントにして、自分で観察するしかありません。
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太郎論:「其の一法とは即ち無相也」。一つの真理とは、無相です。特徴(相)はありません。特徴がありませんから、表現ができません。言語道断です。特徴が無く、表すことができないので、これを名付けて「実相」といいます。実相とは、真実無相のことです。Rの会では、(くう)を平等のことだと説き、無相も平等のことだと説いています。だということは、空と無相とは同義なのでしょうか? 空は、「個の実体の欠如」のことであり、無相は、「個の特徴の否定」なので意味は異なります。
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太郎論:決めつけず、こだわらず、とらわれず、固定観念を持たなければ、自由自在に相手と関わることができます。真理を覚った菩薩の慈悲は、明らかに真実であり、嘘偽りはありません。衆生の苦を抜き、衆生に安楽を与えます。抜苦与楽(ばっくよらく)です。真理を覚ることこそが、菩薩にとって非常に大事なことです。
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実相(じっそう)
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R論:ただ一つの『真理』とは、無相(特定の相のないもの)であり、一切の「差別」がなく、「差別」をつくらないもの(不相)で、一切の差別をつくらないから、一切が「平等」であり、これを名付けて『実相』というのです。
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太郎論:相というのは、ラクシャナ lakṣaṇa の訳で、特徴・特性・属性・記号・すがた・状態などの意味があります。実相は、タットヴァシャ・ラクシャナン tattvasya-lakṣaṇam の訳です。「ありのままのすがた」の意味です。「真実無相」のことだともいわれます。鳩摩羅什(くまらじゅう)は、法華経において、いくつかの語を実相と訳しています。たとえば、ダルマ・スヴァバーヴァ dharma-svabhāva がそれです。本来は、法性(ほっしょう)と訳すところを実相と訳しています。それは、仏の覚りによって照らされた内容として理解され、したがって、如実、真実、法身、涅槃、無条件無爲などの概念と同義です。
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無相・不相
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R論:《無相》の「相」というのは、「差別相」という意味。差別のある(すがた)が一切ない、すべて「平等」だというのです。《不相》 というのは、差別的なはたらきをしない。差別をつくらないという意味です。
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太郎論:「如是無相。無相不相。不相無相。名為実相」という文は難しいです。無相とは、アラクシャナ alakṣaṇa の訳で、「特徴が無い」ということです。不相のサンスクリットは不明ですが、「特徴をつくらない」「特徴を為さない」ということでしょう。よって、「無相とは特徴のないことです。特徴がないのですから特徴を認識することはできません。特徴を認識できないので特徴はありません。それがあるがままの世界です」ということです。無相とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいいます。特徴がないのですから、そのものを表す言葉はありません。言語道断であり、不可思議です。これまで、真理を言葉では表せないことを述べてきましたが、実は、事実・現象についても特徴はありませんから、そのものを表現する言葉はありません。すべてにおいて、言語表現から離れていることを実相と呼んでいます。真実は、言葉では表現できません。
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太郎論:事物・現象には、本来意味はありません。意味をつくっているのは個人です。一人一人が個々の意味をつくっています。そして、自分専用の辞書を頭に持ち、その辞書をもとにして、観念を持ちます。幼い頃は、辞書を作っても、何度も書き換えをしてきましたが、大人になると固定してしまいます。固定した辞書を持っているために、観念もまた固定し、こだわり・きめつけを強めます。機根・性質・欲求は、観念によって決定しますから、人の数ほどの異なる根性欲があり、根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量なので、教義は無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。それが無相です。特徴はないので区別や差別はなくなり、そのことで一切の執着から離れ、無分別(むふんべつ)の境地に入ります。
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一法門の義を答える
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ダルマ太郎 2024/04/03 (水) 16:50:43 修正 >> 23

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所詮(しょせん)(たん)
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経:善男子、菩薩()()く是の如く一切の法門無量義を修せん者、必ず()阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得ん。
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R訳:菩薩よ。いま説いた教えをしっかりと把握して、一人ひとりの機根・性質・欲望に応じて法を説き分けるならば、それだけであなたは必ず最高無上の悟りに達することができましょう。
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太郎訳:善男子よ。菩薩がもしこの無量義を修めたならば、必ずや速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することでしょう。
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能詮(のうせん)
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経:善男子、是の如き甚深(じんじん)無上大乗無量義経は、文理真正(もんりしんしょう)に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道(しゅまぐんどう)、得入することあることなく、一切の邪見生死(じゃけんしょうじ)壊敗(えはい)せられず。
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R訳:この奥深い『無量義の教え』は最高の教えであり、これよりも正しい、尊い教えは他にはありません。ですからこの教えを受持(じゅじ)する者は、過去・現在・未来においてすべての諸仏が必ず守護してくださるのです。菩薩よ。この教えを実践している限り、その人の精進(しょうじん)に対して妨害・邪魔・邪見が入り込む隙はありません。またその人が、どんな『変化』に遭遇しても、くじけて敗れることなどありません。
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太郎訳:善男子よ。この奥深く無上の大乗無量義経は、説かれた言葉と表現された内容が真実であり、尊く、過去・現在・未来の諸仏が共に守護しています。いかなる邪魔者も他の教えも入り込むことがなく、一切の邪な見方、変化に敗れることがありません。
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勧学(かんがく)
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経:是の故に善男子、菩薩摩訶薩若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、応当に是の如き甚深無上大乗無量義経を修学(しゅがく)すべし。
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R訳:ですから、菩薩の皆さんが『悟り』を得ようと思うならば、必ずこの『無量義の教え』を修めなければなりません。
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R訳:このことから善男子よ。菩薩がもし速やかに無上の覚りを完成させようとするのなら、この奥深く無上の大乗無量義経を修学してください。
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所詮を歎ず
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ダルマ太郎 2024/04/19 (金) 15:20:58 修正 >> 63

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正問
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経:爾の時に大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)、復仏に白して言さく、世尊、世尊の説法不可思議なり。衆生の根性亦不可思議なり。法門解脱亦不可思議なり。我等、仏の所説の諸法に於て復疑難なけれども、而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて世尊に()いたてまつる。如来の得道より已来(このかた)四十余年、常に衆生の為に諸法の四相の義・苦の義・空の義・無常・無我・無大・無小・無生・無滅・一相・無相・法性・法相・本来空寂・不来・不去・不出・不没を演説したもう。若し聞くことある者は、或は煖法(なんぽう)頂法(ちょうほう)世第一法(せだいいっぽう)須陀洹果(しゅだおんか)斯陀含果(しだごんか)阿那含果(あなごんか)阿羅漢果(あらかんが)辟支仏道(びゃくしぶつどう)を得、菩提心(ぼだいしん)を発し、第一地・第二地・第三地に登り、第十地に至りき。往日(むかし)説きたもう所の諸法の義と今説きたもう所と、何等の異ることあれば、而も甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば必ず疾く無上菩提を成ずることを得んと言う、是の事云何。唯願わくば世尊、一切を慈哀して広く衆生の為に而も之を分別(ふんべつ)し、普く現在及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。
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R訳:すると大荘厳菩薩は、再び釈尊に向かって申し上げました。「世尊よ。世尊の教えは大変奥深いものです。しかし衆生にとっては、その奥深い教えを正しく理解することは容易ではありません。私ども菩薩はこの教えに疑問や難しさを感じませんが、しかし衆生にとっては、疑問、難しさ、迷いを覚えることもあるでしょう。どうかそういう人たちのために、重ねてお尋ねいたします」
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大荘厳菩薩は質問を続けます。
「世尊は成道されてから40数年経ちました。そして『生・住・異・滅』の教えや、全てのものごとは『空』であるということ、また常に変化するという『無常』の教え、孤立して存在するものはないという『無我』の教え、そして、すべての存在の本質は、大きいとか小さいなどの差別や区別はなく、本来、『平等で調和』しているということをお教えくださいました。その結果、教えを伺った者たちは、『心暖まる境地』から、『仏法がこの世の教えの中で第一であると認識する境地』、『煩悩にとらわれなくなる境地』、『菩提心を起す境地』、『大雲(だいうん)が大空をおおうように、この世あらゆる人々を平等におおい、救う境地』等々、その人の信仰の境地も高まってまいりました」

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「しかし、世尊は何故、以前に説いた教えと、今、説く教えに違いがあり、『無量義の教えさえ実践すれば、必ず、直ぐに無上の悟りが得られる』とおっしゃるのでしょうか?(昔の教えではダメなのでしょうか?) どうか私どもを可哀相だとお考えくださり、現世のみならず未来の人々のために、疑問が少しでも残ることがないようにその真意をお教えください」
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太郎訳:その時に大荘厳菩薩は、また仏に言いました。「世尊。世尊の説法は不可思議です。思いはかることができず、言語でも表現できません。人々の根性もまた不可思議です。迷いから離れることもまた不可思議です。私たちは、仏さまの説かれた様々な教えにおいて疑問はありませんが、諸々の衆生が迷惑の心を起こすかもしれませんので、重ねて世尊に質問いたします。如来の得道より四十余年、常に人々のために諸法の四相(生住異滅)についての教え・苦についての教え・空についての教え・無常についての教え・無我についての教え・無大と無小という無分別の教え・無生無滅についての教え・一相無相についての教え・法性法相についての教え・本来空寂についての教え・不来不去不出不没についての教えを説かれました。これらの教えを聞いた者は、さまざまな声聞の果報を受け、縁覚の果報を受け、菩提心を起こし、菩薩の第十地に至ります。これまでに説かれた教えと今説かれた教えと、どこがどのように違うのでしょうか? どこが異なるから、甚深無上大乗無量義経だけが、菩薩が修行すれば必ず速やかに無上菩提を成ずることを得ると説かれるのでしょうか? このことが分かりません。ただ願わくば世尊、一切を慈しみ、哀れと思われて、広く人々のためにこのことを分かりやすく、普く現在と未来の世において教えを聞くであろう人々の余の疑網を除いてください」
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正問
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ダルマ太郎 2024/03/25 (月) 20:29:10 修正

正問に答える

是に仏、大荘厳菩薩に告げたまわく、善哉善哉、大善男子、能く如来に是の如き甚深無上大乗微妙の義を問えり。当に知るべし汝能く利益する所多く、人天を安楽し苦の衆生を抜く。真の大慈悲なり、信実にして虚しからず。是の因縁を以て、必ず疾く無上菩提を成ずることを得ん。亦一切の今世・来世の諸有の衆生をして、無上菩提を成ずることを得せしめん。善男子、我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。

すると釈尊は大荘厳菩薩にお答えになりました。
「よろしい。じつに良い質問です。この大乗の教えについて、大事なことをよくぞ聞いてくれました。あなたの質問は大きな功徳を生むもので、人間界・天上界の人びとが、迷いから救われるものとなります。まさに『真の大慈悲』です。そして真の大慈悲であるからこそ、必ず真実のはたらきがあり、実際の成果・効果となって現われます。ムダではありません。その功徳によって、あなたは必ず真っすぐに仏の境地へと至るでしょう。そして現在のみならず未来の多くの人々を、無上の悟りへと導くことができましょう」

 「善男子よ。私はかつてブッタガヤの菩提樹下で 6 年間端座して、ついに最高無上の悟りを得ることがでました。そして悟りを開いた仏眼でこの世の出来事を見ると、その時の段階の衆生に対して、悟りをそのまま説くことは、かえって良くないという結論に達しました。なぜなら、人々の『機根・性質・欲望(根性欲)』が様々であるために、その違いにしたがって教えを説き分ける必要があったためです。つまり衆生の『根性欲』の違いに合わせて、法を説いてきたのです。そのために、どうしても真実のすべてを『打ち明ける』ことは出来ず、とうとうこの40年間、究極の真理を解き明かすことはありませんでした。したがって、全ての人びとが真っすぐに、無上の悟りに達するというわけには行かなかったのであります」

仏は、大荘厳菩薩に告げました。「善哉。善哉。大いなる善男子よ。よく如来にこのような甚深無上大乗微妙の義を問いました。よく知ってください。あなたは、利益するろころ多く、人々や神々を安楽させ、衆生の苦を抜きます。真の大慈悲です。誠実であり偽りがありません。この因縁によって、必ず最高の覚りを成じます。また一切の今世と来世の人々は、必ず最高の覚りを成じることでしょう。善男子よ。私は昔菩提樹の下に端座して六年して、最高の覚りを得ることができました。仏の眼で一切の事象を観察したところ、この覚りについては説き広めないほうがいいと思いました。なぜならば、諸々の人々の性格や欲求が異なるからです。人々の性格や欲求が異なるので一人一人を覚りに導こうとするならば、一人一人に応じて種種に教えを説く必要があります。種種に教えを説くために方便力を用いました。これまでの四十余年には、未だに真実を顕していません。このことから人々の得た道は差別して、速やかに無上の覚りを得ることはできませんでした」
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~釈尊は、菩提樹の下で最高の覚りを得たとき、覚った真理は言葉にはできないと察しました。真理そのものを説くことができないので、真理に導くために方便を使うことにしました。方便とは、ウパーヤ upāya の訳であり、原意は、「近づける」です。仏教では、「真理に近づける方法」のことを方便と言います。人によって、根性欲が異なりますので、無量の方便が説かれることになりました。

「無量義とは一法より生ず」とは、「無量の方便は一つの真理より生ず」ということです。仏は、一つの真理をもとにして、無量の方便を説き、人々を成仏へと導いたのです。よって方便は、真理を知るための手掛かりに成りますが、真理そのものではありません。言葉によって説かれたことは、真理ではなく、方便だと知るべきです。四十余年には未だ真実を顕してはいません。表したのは方便であり、真理は顕していません。法華経信者の中には、法華経以前の経典には真理は説かれておらず、法華経において初めて真理が説かれるのだと解釈する人がいますが、法華経においても、文字によって説かれているのですから、そこに真理は説かれていません。
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このことは、般若経においては、基本的な教えです。鳩摩羅什訳の摩訶般若波羅蜜經習應品第三には、次のように説かれています。

佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受想行識亦但有字。

仏は舎利弗に告げました。「菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜の行を行じる時、まさにこのように思惟してください。菩薩とは、ただ名と字が有るのであり、仏もまたただ字だけがあります。般若波羅蜜もあるのは字だけであり、色もただ字だけがあり、受想行識もまた字があるだけです」

名前というのは人間がつけましたので、人類誕生以前には名前はありません。しかし、多くの人々は、そのものと名前とが一体だととらえており、名前があることによって、そのものに実体が有るとみます。個々の名前は、すべて仮です。このように般若経の作者たちは、言葉への不信を訴えています。真理を知る手掛かりとしては言葉は役に立ちますが、言葉を超えたところに真理があります。般若経を学ばずに法華経を読んでも、このような基本的なことも分かりませんので、まずは般若経を学んだ方がいいです。

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ダルマ太郎 2024/04/04 (木) 01:37:04 修正 >> 24

秘密

仏教用語の「秘密」は、サンスクリットのラハシャ rahasya の中国語訳です。秘密・神秘・難解などの意味があります。日本語の秘密とは違い、深い洞察がなければ、あるいは特別な指導や伝授がなければ、すぐには理解できない教えのことです。よって教える人の智力・方便力と教わる人の智力・高い機根がなければ教えの内容はうまく伝わりません。インドの真理は、言語道断・不可思議だといわれます。言語では表すことができないし、思惟することもできないのです。よって真理を覚ろうとする修行者は、ヨーガによって、苦行によって、目的を得ようとしました。
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真理

インドにおける真理とは、梵我一如のことをいいます。宇宙の原理であるブラフマン(梵)と個の原理であるアートマン(我)は、離れてはおらず一体だと覚ることが重視されました。ブラフマンを観ることは非常に困難ですが、アートマンであれば自身にもありますから、修行者はアートマンを観る瞑想を実践しました。しかし、アートマンを観ることも困難でした。なぜなら、アートマンは、個の原理であり、個の主体であり、個の実体だからです。究極的な主体であるアートマンは客体にはなりませんので、見られたり、認識される側にはなりません。アートマンを探して見つけたと思った瞬間、それは主体へと転じますから、凡夫には永遠に観察は難しいでしょう。客体にはならないので、言葉では表せないし、思惟の対象にもなりません。アートマンとは、仮の名称なので、アートマンという名だけでは何も分かりません。

釈尊は、菩提樹の下で真理を観て、最高の覚りを得ました。アートマンの正体を見極めた釈尊は、「無我」を説きました。無我は、アナートマン anātman の中国語訳で、「アートマンの否定」という意味です。接頭辞の「アン an- 」は、後に続く語を否定します。中国では、無・非・不などと訳されます。よって、無我・非我・不我は同じ意味です。当時の修行は、アートマン探求が目的だったので、釈尊の無我説は衝撃的であり、あまり受け入れられなかったようです。無我が、アートマンの全否定なのか、アートマンへの執着の否定なのか、それはアートマンではない、という意味なのかは分かりません。
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方便

真理は、言葉では伝えることができませんが、言葉によって真理へと近づけることができると、釈尊は覚りました。釈尊にとっての第一の覚りが真理であり、第二の覚りが方便です。方便とは、ウパーヤ upāya の訳です。意味は、「近づける」であり、仏教では、「真理に近づける方法」の意味で使われます。法華経の方便品第二には、次のように説かれています。

諸仏の随宜の説法は意趣解し難し。所以は何ん、我無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て諸法を演説す。是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯諸仏のみましまして、乃し能く之を知しめせり。

諸仏の相手に応じて説く教えは、その内容が理解し難いのです。なぜなら、私は、無数の方便、種種の因縁(関係)、譬喩(たとえ)、言辞(語源)によって諸法を演説しています。この法は、思惟・分析によって理解できるものではありません。ただ諸仏だけが、よくこれを知っているのです。

ここでの法は真理のことです。諸仏は、真理へと導くために方便を用いました。それは、因縁・譬喩・言辞によるものです。因縁とは、関係のことです。仏と弟子、弟子同士などの関係を語ることによって、その体験から真理へと導きます。譬喩とは、比喩のことです。物事の説明を印象強くするために、他の類似した物事を借りて表現することです。妙法蓮華経の蓮華とは、白蓮華のことですが、白蓮華は、清浄で美しく尊いもののシンボルなので、妙法(最高の真理)の譬喩として用いられています。言辞とは、語源のことです。言葉の持つ意味は、その語源に込められていますので、語源を伝えることによって真理へと導きます。しかし、漢訳された経典だと語源を探ることは難しいです。サンスクリットの場合は、読めばそれが語源だと分かりますが、漢訳だと分かりません。やはり翻訳だと限界があります。

釈尊が、真理に導くために巧みな方便によって説法をしても、衆生の機根が低く、真理を求める心が足りなければ、衆生は真理を知ることはできません。最高のご馳走でも、口を開けて食べようとしなければ食べられないのと同じです。衆生は、煩悩が強いので智慧を覆い隠してしまい、教えを秘密にしてしまいます。衆生の機根が高まり、真理探究の心が強まれば、繰り返し聞いてきた説法の意味が分かり、閃きが起こって真理への扉が開くのでしょうが、そうなるまで仏は衆生を育てる必要があるのでしょう。
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二諦 俗諦と真諦

釈尊は、覚りをひらいた後、「無我」を説かれました。無我というのは方便です。無我という言葉によって、機根の高い者を真理へと導かれようとされたのでしょう。真理には二種があります。一つは俗諦であり、一つは真諦です。俗諦とは、世俗の真理のことで、世間の言葉によって表現される真理です。真諦とは、言葉を超えた真理であり、言語道断・不可思議の真理です。真諦は、最高の真理であり、妙法蓮華経でいう「妙法」のことです。勝義諦・第一義諦などともいいます。法華経や無量義経は、妙法についての経典なので、非常にレベルが高いです。決して分かりやすい教えではありません。

仏が説きたいのは真諦ですが、真諦は俗世の言葉では説くことができませんから、俗諦を説いて衆生を真諦へと導いていました。たとえば、無我という俗世の言葉を使って、人々を妙法へと導きました。よって修行者は、無我を月をさす指だととらえて、その指がさす月を見ればいいのです。ところが、凡夫は指に執着してしまって月を見ようとはしません。自分で目を覆い、月を秘密にしてしまいます。釈尊は、四十余年の間、方便によって説法を続けてこられましたが、未だに真理を得た者はいません。それは、釈尊に咎があるわけではなく、衆生の機根が育っていなかったからです。

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ダルマ太郎 2024/03/25 (月) 20:59:29

四十余年未顕真実

これは、決して法惜しみをして真実を打ち明けられなかったものでないことは、もちろんです。おそばで修行してきた人たちの境地は非常に進んできていることですし、ご入滅の近づいたことをも自覚されましたので、いよいよ法の真実のすべて、究極の真理をお説きになるわけです。

釈尊は、弟子たちの機根が低かったから、真理を説かなかったのではなく、真理を説く術がないために説かなかったのです。無我・無常・苦・涅槃だと説いても、それは言葉であり、空・無相・無作を説いても、それは言葉でしかありません。無我・無常・苦・涅槃・空・無相・無作は、真理そのものではなく方便です。そのことをよく知る必要があります。

法華経で、真理をお説きになったというのであれば、その経文を引用してください。じっくりと考えれば、そのことは真理ではなく、方便だと気づくことでしょう。法華経には、「諸仏は、無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の諸仏に従いたてまつって法を聞きしも、究竟して皆一切種智を得たり」と説かれているように、諸仏が説くのは方便であって、真理は説くことはできません。

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ダルマ太郎 2024/03/26 (火) 20:49:26 修正

水の譬え

善男子、法は譬えば水の能く垢穢を洗うに、若しは井、若しは池、若しは江、若しは河、渓・渠・大海、皆悉く能く諸有の垢穢を洗うが如く、其の法水も亦復是の如し、能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う。善男子、水の性は是れ一なれども江・河・井・池・渓・渠・大海、各各別異なり。其の法性も亦復是の如し、塵労を洗除すること等しくして差別なけれども、三法・四果・二道不一なり。善男子、水は倶に洗うと雖も而も井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ず。如来世雄の法に於て自在なるが如く、所説の諸法も亦復是の如し、初・中・後の説、皆能く衆生の煩悩を洗除すれども、而も初は中に非ず、而も中は後に非ず。初・中・後の説、文辞一なりと雖も而も義各異なり。

善男子よ、例えば水には井戸や池、大きな川や谷川、用水路や海など様々な水があります。それぞれは違う水です。しかし違う水ではあっても、どの水も『汚れを洗い落とす』という意味では『同じ水』ですが、井戸と池は違います。また谷川や用水路、海も違います。これと同じで如来は自由自在に教えを説きますが、説く教えの現われ方はさまざまです。つまり仏の教えは、人々の苦しみを取り除くという点では『同じ』であり『違い』はありませんが、私が説いた初期の教え、中期の教え、そして後期の教えは、『同じ』ようのようでも、『違い』があるのです。すべての教えが同一だとは言えません。『内容の深さ』において違いがあるのです。

善男子よ。教えは、たとえば水がよく垢や汚れを洗うように、井戸にせよ、池にしろ、小さな川にせよ、大きな川にせよ、大海にせよ、よく物の汚れを落とします。教えも同じように、よく人々の様々な煩悩の垢を洗います。善男子よ。水の性は一つだけれど、江・河・井・池・渓・渠・大海、それぞれに差があります。その水の量によって、洗える物の大きさ・量は異なります。法の性もまた同じです。塵労を洗い除く働きは等しくて差別はありませんが、結果としての果報は同じではありません。善男子よ。すべての水は洗うという働きは同じでも、井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ずです。如来は法において自在であり、所説の教えも自在です。初・中・後の説、すべてよく衆生の煩悩を洗除しますが、しかも初は中に非ず、しかも中は後に非ずです。初・中・後の説は、言葉としては同じでも、義は異なります。
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諸法は本より来空寂なり

善男子、我樹王を起って波羅奈・鹿野園の中に詣って、阿若拘隣等の五人の為に四諦の法輪を転ぜし時も、亦諸法は本より来空寂なり。代謝して住せず念念に生滅すと説き、中間此及び処処に於て、諸の比丘竝に衆の菩薩の為に、十二因縁・六波羅蜜を弁演し宣説し、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説き、今復此に於て、大乗無量義経を演説するに、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説く。善男子、是の故に初説・中説・後説、文辞是れ一なれども而も義別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。

善男子よ、鹿野苑で私が初めて法を説いた時、私は五比丘のために『四諦』を説きました。この時もこの世の実相は『空寂』であると説きました。また中期以降、比丘や菩薩に『十二因縁』、『六波羅蜜』を説きましたが、その時、同じくこの世の実相は『空寂』であると説きました。そして今、ここで『無量義経』を説くにあたっても、同様にこの世の実相は『空寂』であると説いています。しかし善男子よ。初期、中期、そして後期である今においても、私が説く『言葉は同じ』ではありますが、その内容には大きな『開き』があります。内容に『開き』があるため、それを受け止める人々の『受け取り方』にも違いが生じます。ですから、教えを聞いて得た『悟り』にも、当然『違い』が生まれてくるのです。

善男子よ。最初、鹿野園において、五比丘に対し四諦の法輪を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。中間、霊鷲山などにおいて、諸々の比丘や菩薩に対し十二因縁・六波羅蜜を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。今、またここにおいて、大乗無量義経を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。善男子よ。このことによって、初説・中説・後説、言葉は同じではありますが、義は異なります。義が異なるので、衆生の理解は異なり、理解が異なるために、結果としての果報は同じではありません。

~「諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅する」というのは、「あらゆる事物・現象は、もともと空であり、安楽の境地にある。一瞬たりともとどまらず、刻々と生滅する」ということです。真理としては、本来空寂ですが、凡夫がとらえる現象世界においては、変化してとどまらず、刻々と生滅するのです。そのことを伝えるために初説においては四諦を説き、中説においては十二因縁・六波羅蜜を説き、後説においては大乗無量義経を説きましたので、教義が異なります。教義が異なるために結果としての果報は同じではありません。
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果報

善男子。初め四諦を説いて声聞を求むる人の為にせしかども、而も八億の諸天来下して法を聴いて菩提心を発し、中ろ処処に於て、甚深の十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせしかども、而も無量の衆生菩提心を発し、或は声聞に住しき。次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、而も百千の比丘・万億の人天・無量の衆生、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏因縁の法の中に住することを得。善男子、是の義を以ての故に、故に知んぬ説は同じけれども而も義は別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。

善男子よ。私は初期において声聞の境地を求める者に【四諦】を説き、中期において縁覚の境地を求める者に【十二因縁】を説いてきました。それでも多くの人が菩提心を起し、なかには煩悩の迷いを捨て切る声聞の境地に達した者もいました。そして様々な大乗の教えを説いて、『歴劫修行・りゃっこうしゅぎょう』(生まれ変わり死に変わりして修行を続けていくこと)の大切さを示しましたが、これによって多くの比丘たちや、万億の人間界・天界の人びとは、それぞれが『声聞』や『縁覚』の境地、または『縁起の法則』を身につけることができたのでした。

色付き文字善男子よ。初め、声聞の人々に四諦を説いた時、八億の諸天は菩提心を起こしました。中間、縁覚の人々に十二因縁を説いた時、無量の衆生は菩提心を起こし、次に大乗の教え、般若経、華厳経を説いて、菩薩が非常に長い年月をかけて修行をすることを説いた時、多くの比丘、万億の人天、無量の衆生は、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏などの因縁の法の中に住することを得ました。善男子よ。このことから知ってください。説は同じでも義はことなり、義が異なるので衆生の理解は異なります。理解が異なるので結果としての果報は同じではありません。

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ダルマ太郎 2024/04/05 (金) 00:17:11 修正 >> 26

四諦・十二因縁・六波羅蜜

仏は、声聞の弟子たちには四諦を説き、縁覚の弟子たちには十二因縁を説き、菩薩の弟子たちには六波羅蜜を説いたといいます。
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四諦・八正道

声聞の弟子たちには、四諦の法門を説いて聖者の位へと導きました。声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の訳で、「教えを聞く者」という意味です。釈尊の時代は、仏教徒は誰もが釈尊の教えを聞いて学んでいましたから、誰もが声聞と呼ばれていましたが、部派仏教の時代になると出家修行者の中の聞解する弟子たちのことを指すようになりました。四諦とは、四つの真理のことで、「苦についての真理」「苦の原因についての真理」「苦を滅した境地についての真理」「苦を滅する道についての真理」のことをいいます。苦諦・集諦・滅諦・道諦です。

人生は苦であるととらえることが苦諦です。それでは、苦の原因とは何でしょうか? それは、渇愛であり、執着であり、根本的には無知なことだといわれます。渇愛とは、喉が渇いて水を欲するような欲求のことです。必要なものを必要な時に必要なだけ受けるのであればいいのですが、度を越して必要以上のものを手に入れようとするから、それが手に入らず苦しみます。欲しいものに執着すると、平常心ではおれず、心が乱れ、盗んだり、相手を騙したり、傷つけることもあります。そういう状態は苦です。根本的な原因は無知です。真理を知らないから、無我なのに自我を認めて自己主義になり、自己中心なので迷惑な存在となって孤立し、苦を感じます。無常なのに変化することを受け入れられずに、決めつけ、こだわり、固定的な概念に執着し、頑固になり、まわりとの調和がとれずに苦になります。俗世界は、因縁によって生じ、滅しますので、個人の力ではコントロールできません。コントロールできないのに、思い通りにしようとするから、苦を感じます。苦の原因を知ったならば、それを滅すれば、苦を滅することができると分かります。そして、具体的に苦の原因を滅する修行が道諦です。

衆生は苦しみもがいていますので、人生は苦であると説き、苦の原因は真理を知らないからであると説き、真理を知れば苦を滅することが出来ると説き、真理を知りたければ八正道を修めなさいと説きました。ようするに四諦は、八正道に導く方便です。八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことで、最初の正見を得るための修行です。身口意の三業を正しく調え、正しく生活し、正しく続け、正しく気づき、正しい禅定を行うことによって、正しい見方を得ます。四諦・八正道は、声聞への教えです。つまり出家修行者への教えですから、一般人への教えではありません。よって、よく学び、実践しなければ、真理を得ることはできません。
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十二因縁

縁覚の弟子たちには、十二因縁の法門を説いて、辟支仏(びゃくしぶつ)へと導きました。縁覚とは、プラトイェカブッダ pratyekabuddha の訳であり、「師の指導を受けずに独自に覚りを開いた人」のことです。出家して声聞になった弟子は、ある程度師の教えを聞いて修行をし、修行を積んだ者は、僧伽(さんが)を離れて孤立し、人里離れた山奥に住んで、独りで覚りを求めました。独りで覚りを求めるので、「独覚」ともいいます。禅定に入り、思惟することによって覚りを目指しました。思惟した内容は、主に十二因縁でした。十二因縁については、以前にも説明しましたが、再び詳しく説明いたします。

十二因縁とは、「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」という苦の原因のことです。通常は、老死の後に、「憂悲苦悩」という言葉が入ります。つまり、憂悲苦悩の原因は、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死のそれぞれであり、また連鎖縁起によるものという教えです。

苦の原因を思惟する時は、「憂悲苦悩の原因は老死にある」と観ます。老死は、自分の思い通りにはなりませんので、それに抵抗すれば苦になります。「老死の原因は生まれることにある」「生まれることの原因は生存にある」「生存の原因は渇愛と執着にある」「渇愛と執着の原因は感受にある」「感受の原因は自他の接触にある」「接触の原因は六つの感覚器官にある」「六つの感覚器官の原因は心と体にある」「心と体の原因は識別にある」「識別の原因は誤った意志にある」「誤った意志は真理を知らないことにある」というように、連鎖縁起を逆にたどっていきます。そうすることで、苦の根本原因が真理を知らないこと、すなわち無明であると覚ることができます。このことは、実際に禅定に入り、思惟しなければ分かりません。

妙法蓮華経化城喩品第七には、次のように説かれています。

広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死憂悲苦悩に縁たり。無明滅すれば則ち行滅す、行滅すれば則ち識滅す、識滅すれば則ち名色滅す、名色滅すれば則ち六入滅す、六入滅すれば則ち触滅す、触滅すれば則ち受滅す、受滅すれば則ち愛滅す、愛滅すれば則ち取滅す、取滅すれば則ち有滅す、有滅すれば則ち生滅す、生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す。

仏は、広く十二因縁の教えを説かれました。無知を原因として誤った意志があり、誤った意志を原因として分別があり、分別を原因として心と体という区別があり、心と体の区別を原因として六つの感覚器官の区別があり、六つの感覚器官の区別を原因として自他の接触があり、自他の接触を原因として感受があり、感受を原因として渇愛があり、渇愛を原因として執着があり、執着を原因として生存があり、生存を原因として生があり、生を原因として老死・憂悲苦悩があります。無知を滅すれば誤った意志は滅し、誤った意志を滅すれば分別は滅し、分別を滅すれば心と体という区別は滅し、心と体という区別を滅すれば六つの感覚器官の区別が滅し、六つの感覚器官の区別を滅すれば自他の接触が滅し、自他の接触を滅すれば感受が滅し、感受を滅すれば渇愛が滅し、渇愛を滅すれば執着が滅し、執着を滅すれば生存が滅し、生存を滅すれば生が滅し、生を滅すれば老死・憂悲苦悩が滅します。

「無明は行に縁たり」という場合の縁とは、因に対する縁、すなわち直接的原因に対する間接的原因という意味ではなく、単に「原因」という意味です。縁は、プラティヤヤ pratyaya の訳であり、この言葉には、「原因」という意味がありますから、「無明を原因として行がある」という意味になります。

無明とは、真理を知らないことです。真理については、言語道断なので説かれていませんが、俗諦でいうところの無我・無常・空・無相・無分別などの言葉によって導かれる内容であることは間違いありません。特に問題になるのが無分別です。この世界は本来一つですが、真理を知らなければ世界をバラバラに分け、一つ一つに名をつけ、実体があるかのようにとらえます。「これは何ですか?」と問われれば、「これはリンゴです」と名前を答えて、さもそのものの実体を答えた気に成ります。ものには、名前などありません。人類が便宜上そのように名付けているだけです。般若経には、「リンゴはリンゴではない。故にリンゴという」というような言葉が繰り返しでてきます。「菩薩は菩薩ではない。故に菩薩という」「仏は仏ではない。故に仏という」というように。初めてこの文章を読むと意味不明です。論理的ではないように思えます。これらは、「リンゴにはリンゴという名はない。固定した名がないので、仮にリンゴという名をつけることができる」という意味です。すべての名は、仮であることを知らなければなりません。

分別によって、自他を分け、個々を分けて、分けたものには名前をつけてきました。心と体、六つの感覚器官というように。このことで自我意識が強くなり、自分が他と接触して、心地よければ近づき、心地よくなければ避けるという差別を起こし、それが欲求となり、欲求に執着します。こうして、欲しいものを手に入れ、嫌なものを遠ざけて、自我はさらに強くなり、生存することに成ります。生存するものは、瞬瞬に生住異滅をくりかえします。つまり、生まれ、維持し、老い、死んでいきます。こうして苦を感じ続けることになります。

十二因縁は、此縁性が基本にあります。「此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す」というものです。本来は、時間経過については問題にしていませんでしたが、部派仏教の時代になって、時間経過を重要視し、業報の思想と結びついて輪廻説を強く支持するようになりました。

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ダルマ太郎 2024/04/05 (金) 23:54:34 >> 26

六波羅蜜

菩薩の弟子たちには、六波羅蜜を説いて、智慧の完成へと導きました。智慧を完成させれば成仏できますので、仏は菩薩を成仏へと導いたわけです。菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の訳で、「覚り+人」という意味です。「覚ることが決定している人」「覚りを目指す人」「覚りへと導く人」などの意味があります。法華経には、二種類の菩薩が登場します。三乗の菩薩と一乗の菩薩です。三乗の菩薩とは、菩薩ではあるけれど慈悲と智慧が足りないために、声聞衆と争う者たちです。声聞たちは、自分たちの成長のことしか考えていないので劣った修行者だと攻撃しました。一乗の菩薩は、声聞・縁覚・菩薩という区別をせず、また争いをしません。無分別であり、無諍です。

菩薩には、六波羅蜜の修行を勧めました。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という修行です。布施とは、与えること・分かち合うことです。持戒とは、戒を守ることです。忍辱とは、感情をコントロールすることです。精進とは、布施・持戒・忍辱の行を繰り返し続けることです。禅定とは、精神を統一し集中して、布施・持戒・忍辱・精進している日々を振り返ることです。智慧とは、禅定によって妄想から離れ、深く思惟し、観察して、気づき・察し・閃き・覚ることです。波羅蜜とは、「完成」のことです。布施を行い、そのことを思惟・観察することによって智慧を得ることによって、布施は完成します。これを布施波羅蜜といいます。最終的には、智慧を完成させ、智慧波羅蜜を得ることが六波羅蜜の目標です。智慧波羅蜜とは、般若波羅蜜のことですから、般若経の大きなテーマになっています。

声聞の修行とされる八正道との大きな違いは、六波羅蜜には布施があることです。自他を分別せずに、無分別の境地に入るには、慈悲の心が必要であり、慈悲を行動に表すのが布施だからです。持戒は、初期仏教の時代から重視される行です。在家であっても、五戒を守る必要があります。五戒とは、生き物を殺さないこと・盗まないこと・邪な性行為をしないこと・嘘をつかないこと・お酒を飲まないことです。仏教教団においては、入団する時に三帰五戒を誓います。仏法僧に帰依し、五戒を守ることを長老たちの前で誓い、その誓いが認められた者が仏弟子になります。ところが、日本の仏教界ではこの入団の誓いをしていないところが多いため、五戒を守ろうという意識が欠けています。特に禁酒に関しては、無視されています。僧侶でもお酒を飲み、美味しい肉を食べ、異性と共にする人が多いのではないでしょうか。忍辱とは、感情のコントロールのことです。怒り・悲しみ・憎しみ・嫉妬・悦びなどの感情に心が支配されることなく、平常心を保ちます。

仏の教えとは、「諸々の悪いことをせず、諸々の善いことをし、心を浄めること」だといいます。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」です。布施は、「諸々の善いことをし」であり、持戒は、「諸々の悪いことをせず」であり、忍辱は、「心を浄めること」に当たります。よって、この三つの行は重要なので、禅定や智慧が分からなくても続ける方がいいです。

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ダルマ太郎 2024/03/26 (火) 21:25:43 修正

月をさす指

是の故に善男子、我道を得て初めて起って法を説きしより、今日、大乗無量義経を演説するに至るまで、未だ曾て苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去なり、而も諸の衆生四相に遷さるると説かざるにあらず。

私はこれまで変わることなく【苦・空・無常・無我】を説き、この世は生ずることも滅することはなく、 【一相・いっそう】といって真理の根本は『ただ一つ』であり、【無相・むそう】という『差別のない相(すがた)』で、『現象に現われる相(すがた)・性質』、つまり【法相・ほっそう/法性・ほっしょう】は、「来る」ことも「去る」こともない『すべては一つ』であると説いてきました。そして目の前の物事・現象を、【生・住・異・滅】という『変化』に心を惑わせ、迷ってはならないと説いてきました。

このことから善男子よ。私は道を得て初めて法を説いた時より、今日、大乗無量義経を説くに至るまで、未だ曾て、苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去、しかも諸々の衆生四相に変化すると説かなかったことはありませんでした。

~苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小などの言葉は、俗世においては真理だと思われています。しかし、それらは俗諦であって、最高の真理ではありません。俗諦とは、俗世の言葉によって表された真理のことです。言葉の制約があるために、最高の真理については言い表すことはできません。最高の真理とは、真諦のことであり、法華経では、妙法といわれています。俗諦は、方便であり、真諦へと導くために説かれました。釈尊は、真理そのものは説いて来なかったけれど、真理を覚れるように重要なヒントを示されてこられたのです。これらの言葉は「月をさす指」だと知る必要があります。賢者は指がさす方を見て月を知りますが、愚者は指に執着して月を見ようとはしません。

~ところで、Rの会では、「ただ一つ」「すべては一つ」だということを強調されています。「一相といって真理の根本は『ただ一つ』であり」と説明していますが、何が一つなのかがよく分かりません。真理の根本とは何なのでしょう? 真理自体が分からないのに、真理の根本が分かるのでしょうか? しかも、それが「ただ一つ」だとする根拠は何でしょうか? 一相とは、「差別や対立のない絶対的な平等」のことです。絶対的な平等なので、「ただ一つ」だと言っているのかも知れませんが、どうも納得がいきません。もう少し説明が必要だと思います。何が一つなのか? なぜ一つなのか? どのように一つなのか?

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ダルマ太郎 2024/03/26 (火) 22:18:26 修正

法身仏の説法

善男子、是の義を以ての故に、一切の諸仏は二言あることなく、能く一音を以て普く衆の声に応じ、能く一身を以て百千万億那由他無量無数恒河沙の身を示し、一一の身の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙種種の類形を示し、一一の形の中に又若干百千万億那由他阿僧祇恒河沙の形を示す。善男子、是れ則ち諸仏の不可思議甚深の境界なり。二乗の知る所に非ず、亦十地の菩薩の及ぶ所に非ず、唯仏と仏とのみ乃し能く究了したまえり。

善男子よ。一切の諸仏が説く『真理』は、二つはありません。ただ一つだけです。しかし、その『真理』を多くの人々に説くためには、仏は様々な説き方、現わし方をするのです。ですから『仏の本体はただ一つですが、その一つの身が無数の身に変わり、無数のはたらきという〈変化〉として現れる』のです。このことは、声聞や縁覚の境地の人には理解することができません。いや、たとえ菩薩のなかの最高の境地の菩薩であっても、このことは分からないでしょう。ただ仏だけが本当に知り得るものです。

善男子よ。このことから、一切の諸仏は二言あることなく、よく一音によって衆生の声に応じ、よく一身をもって、無量の身を示し、それぞれの身の中にまた無量の種種の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。このことは、諸仏の不可思議で甚深の境界です。声聞・縁覚の知る所ではなく、また十地の菩薩の及ぶ所ではありません。ただ仏と仏とのみが、よく究了しています。

~いよいよ難しいことになってきました。仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」であり、その分身がいろいろ様々な形をとって現われ、いろいろ様々なはたらきや、形式によって、我々を教え、導き、救っていてくださるのだということも、静かに思いをこらしてみると、確かにそうだ、と解ってきます。特にここで大切なのは、仏がいろいろ様々な身となり、いろいろ様々なはたらきや形式で人を導かれるということです。(仏は常に仏の形や、宗教家の形をとって世の中に現われるとは限りません。その現われは千差万別なのです。)

~仏の本体は「ただ一つの宇宙の大真理・大生命」である、という表現には違和感があります。仏の本体は真理(法)なのでしょうが、それを大生命というと違うように思えます。仏教では、無我や空を説いて、一切の実体を否定しているのに、大生命という言葉を使うことによって、そこに実体を見ることになりそうだからです。この表現だと、宇宙には仏という超人的な存在がおり、人々を救い教化していると考える人が出てくるのではないでしょうか? まるで、神のような存在です。仏は神ではありませんので、このような表現はしないほうがいいでしょう。

~ここでは、真理を体とする仏である「法身仏」のことが説かれています。現象は、真理によって展開しますので、現象としての応身仏と真理としての法身仏は一体です。法身仏は、一人一人の衆生に応じて、教化・救済のために、相応しい現象を起こしていると観ます。現象こそが法身仏の説法なのです。これまで、「仏は方便(言葉)によって真理へと導く」とお伝えしてきましたが、ここでは、「本仏は現象によって真理へと導く」と説かれています。方便とは、言葉だけではなく、現象のことでもあります。仏菩薩が、相手に相応しく示現して教化・救済することを「普門示現」といいます。法華経の観世音菩薩普門品第二十五では、普門示現が詳しく説かれています。このことは、諸仏の不可思議甚深の境界であり、声聞・縁覚・十地の菩薩には分からないことです。ただ仏と仏とが知っています。

~仏は、苦・空・無常・無我・非真・非仮・非大・非小・本来生ぜず今亦滅せず、一相・無相・法相・法性・不来・不去、しかも諸々の衆生四相に変化すると説いてきました。それは、俗諦であり、最高の真理へと導くための教えです。ここでは、そのことを無量に展開する教えというテーマで説いています。仏は一音によって衆生を救います。一音とは、一つの真理のことです。その一つの真理は、もとは一つの身であっても、無量の衆生を救うために無量の身を示し、またその身の中に無量の類形を示し、それぞれの形の中にまた無量の形を示します。つまり、無量の衆生を救い教化するために、真理は無量の現象を示すのです。それが善い内容であっても、悪い内容であっても、その現象を通して私たちを学ばせようとしています。

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ダルマ太郎 2024/03/26 (火) 22:22:35 修正

無量義経を結歎する

善男子、是の故に我説く、微妙甚深無上大乗無量義経は、文理真正なり、尊にして過上なし。

善男子よ。この尊い『無量義の教え』は、その内容は真実であり、正しく、この上なく尊いものです。これ以上の教えは他にはありません。
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経約を明かす

三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔外道、得入すること有ることなし。一切の邪見生死に壊敗せられずと。

ですからこの教えを実践し、法を広める者は、過去・現在・未来の全ての諸仏から守護されるのです。そして邪魔者から妨害され、よこしまな見方・考え方に惑うことはなく、人生のどんな『変化』に出会っても、くじけたり、打ち負かされることなどありません。
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勧学

菩薩摩訶薩、若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、当応に是の如き甚深無上大乗無量義経を修学すべし。

菩薩が、もし速やかに無上の覚りを成じたいのなら、まさにこの無量義経を修学してください。
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此方 随喜し供養する分

仏、是れを説きたもうこと已って、是に三千大千世界六種に震動し、自然に空中より種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、又無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味食充満盈溢し、天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎したてまつる。

釈尊がこのようにお説きになりますと、世界中は感動のあまりに打ち震い、天から美しい花々が降ってきました。そして様々な香(かぐわ)しい香りや、価(あたい)もつけられない数々の貴重な宝が降りそそがれ、釈尊のみならず、その教えを聞く菩薩や一般の人々にも注がれて供養されました。
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他方 随喜し供養する分

又復六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動し、亦天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価宝・天厨・天鉢器・天百味・天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具を雨らし、天の妓楽を作して彼の仏及び彼の菩薩・声聞・大衆を歌歎したてまつる。南西北方四維上下も亦復是の如し。

そして東方の世界で同じような奇瑞(きずい)が起こり、そればかりか十方世界の全てでも同じように仏と菩薩、人々が供養されるのでありました。
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菩薩の得益

是に衆中の三万二千の菩薩摩訶薩は無量義三昧を得、三万四千の菩薩摩訶薩は無数無量の陀羅尼門を得、能く一切三世の諸仏の不退の法輪を転ず。

すると、聴聞(ちょうもん)している多くの菩薩たちは、無量義の教えに集中する禅定の境地(『無量義三昧』)を得ました。そして、悪をとどめ、善を行う無限の力を得て、三世の諸仏が説き続けて来た『無量義の教え』を受け継いで、それを説き広めることができるようになりました。
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小乗の得益

其の諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・大転輪王・小転輪王・銀輪・鉄輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者及び諸の眷属百千衆倶に、仏如来の是の経を説きたもうを聞きたてまつる時、或は煖法・頂法・世間第一法・須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏果を得、

その諸々の男性の出家者・女性の出家者・男性の在家者・女性の在家者・天の神々・龍神・鬼神・精霊・阿修羅・ガルーダ・キンナラ・マホガラ・大転輪王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・長者・及び諸々の多くの眷属と共に、仏のこの経を聞いた時、さまざまな果報を得ました。
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大乗の得益

又菩薩の無生法忍を得、又一陀羅尼を得、又二陀羅尼を得、又三陀羅尼を得、又四陀羅尼・五・六・七・八・九・十陀羅尼を得、又百千万億陀羅尼を得、又無量無数恒河沙阿僧祇陀羅尼を得て、皆能く随順して不退転の法輪を転ず。無量の衆生は阿耨多羅三藐三菩提の心を発しき。

また、菩薩は無生法忍を得、多くの陀羅尼を得、皆、よく従って不退転の教えを転じました。無量の人々は、無上の覚りを求める心を起しました。
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ダルマ太郎 2024/03/26 (火) 22:35:10 修正

無量義経 十功徳品第三

無量義経 十功徳品第三

流通分

無量義経は、三章構成です。第一章の「徳行品」が序分、「説法品第二」が正宗分、「十功徳品第三」が流通分に当たります。流通とは、パルヤヴァダーパイトル paryavadāpayitṛ の中国語訳であり、「途切れることも止まることもなく、継続的に流れるという意味」です。川の流れのように、教えを切らさず、滞らさずに広めることをいいます。よって流通分では、正宗分で説かれた内容を弟子たちが受持し、仏が弟子たちに広宣流布を委ね、弟子たちがそれを誓願します。その時、仏は、その教えの功徳を明かすことで弟子たちを鼓舞します。十功徳品でも功徳が主に伝えられています。
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功徳(くどく)

グゥナ guṇa = 徳、美徳、才能、性質
プゥニャ puṇya = 清い、清浄な、善行
優れた美徳、貴重な品質。自分の善行に応じて蓄積されるもの

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流通分の重要さ

~われわれ凡夫は尊い教えを聞くとその当座は、なるほどと深く感銘します。その教えを実践してゆきたいという気持にもなります。しかし、よほどの人でない限りその気持ちはしっかりと固まったものではなく、何か身辺に面白くない変化が起こると、つい教えられたことを忘れて、怒ったり、驚いたり、悲しんだり、悩んだりしがちです。ですから、われわれ凡夫は、教えを聞いたらどんなことがあっても、教えを放さないという決定(けつじょう)を起こさなければなりません。そのためには、この教えにつかまっておれば、どんなことがあっても大丈夫だ! という確信がなければなりません。その確信を心に植え付けるために説かれるのが〈流通分〉です。
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心が環境を変える

~われわれの人生途上にはさまざまな変化が起こります。真実の教えを知らない者は、その千差万別の現象・変化に引きずり回されて、心の安まりはありません。環境にどのような変化が起ころうとも究極の真理(本仏)に生かされているのだという安心感をもって悠々としておれば、どのようなことが起こっても動ぜずに適切な判断にしたがって行動できますから、境遇は必ず好転するようになるのです。

~この世のすべては仏教の根本の教えである〈縁起の法則〉が説き示しているように、因と縁の和合によって変化していくものなのです。ですから自分がどのような因となり、縁となっていくかによって、自分をとりまく環境はどのようにでもかわるのです。つまり、私たちは仏さまの「智慧・慈悲」を身につけて、〈千変万化する現象もすべて自分がその因となり縁となっているのだから、自分が良い方向に行くことを念じ、努力を続けていけば必ず物事は良くなっていくのだ〉と確信し、行動することが第一なのです。まさしく〈三界は唯心の所現〉なのです。それを困難なことに出合うと、すぐに難しいことだからこそ、環境を変えることなど不可能だとあきらめてしまうのは、われわれが小さな我にとらわれているからにほかならないのです。もしわれわれが本当に仏さまと相通ずる心を持つことができ、仏さまのお心の如くに行動することができるようになれば、その程度に応じて、確かに環境を変えることができるのです。
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~この解説を読むと、物事には、善いことと悪いことが有るということが前提になっているようです。善いとか悪いというのは、分別による見方なので、真理においてはそのような区別はありません。性相空寂です。真理と事象には、実体が無く、縁起から離れていますので安楽の境地です。これは因である、これは縁である、これは果である、と固定的に観るのも分別ですから、真理を知ろうとするのなら、そういう思考からも離れたほうがいいでしょう。せっかく説法品で性相空寂を学んだのですから、それを活かした方がいいように思います。
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三界は唯心の所現

~「三界唯心」とは、華厳経に出てくる言葉であり、三界における事象は個々の心が作っていると観る教えです。後の唯識に大きな影響を与えています。三界とは、仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死(輪廻)を繰り返し、苦しみ多き迷いの生存領域を分類したもので、欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の3種を指します。つまり、凡夫の世界です。凡夫の世界は、実は個人が心で描いているのであって、実在する世界とは異なります。このことに気づくためには、深く瞑想をし、思惟する必要があるのであって、簡単に気づけることではありません。無量義経だけでも難しいのに、華厳経まで取り上げると聞く者は混乱してしまうのではないでしょうか?
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67
ダルマ太郎 2024/04/08 (月) 12:24:43 >> 30

無量義の教えを讃嘆する

爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、復仏に白して言さく。世尊、世尊是の微妙甚深無上大乗無量義経を説きたもう。真実甚深甚深甚深なり。

『無量義の教え』を聞いて心から感動した大荘厳菩薩は、仏さまに感激と御礼を申し上げます。「世尊。よくぞこの奥深い大乗の教えである『無量義経』をお説きくださいました。この教えは誠に絶対真実の教えであり、この上もなく尊く、深遠な教えであります。
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所利益の人を挙げて、能利益の経を讃嘆する

所以は何ん、此の衆の中に於て、諸の菩薩摩訶薩及び諸の四衆・天・龍・鬼神・国王・臣民・諸有の衆生、是の甚深無上大乗無量義経を聞いて、陀羅尼門・三法・四果・菩提の心を獲得せざることなし。当に知るべし、此の法は文理真正なり、尊にして過上なし。三世諸仏の守護したもう所なり。衆魔群道、得入することあることなし。一切の邪見生死に壊敗せられず。所以は何ん、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に。

なぜならば、この法を聴聞した出家・在家の修行者をはじめ鬼神、国王やその家来、一般の人々、そして菩薩に至る全ての者たちは、極めて高い信仰の境地を得ることができました。そして、無上の悟りを求める心を起こさない者は一人としていませんでした。この教えは真実であって正しく、これ以上尊いものは他にはありません。そして、過去・現在・未来の三世の諸仏がお守りくださるものであります。そしてどんな妨害や間違った考え、その他の様々な教えも、この教えを侵すことはできません。この教えは一切の誤った考えや、人生途上におけるどんな『出来事』、この世の一切の『変化』にも動揺し、打ち負かされることはありません。なぜなら、この教えをひとたび聞けば、この世のすべての出来事・ありようが完璧に分かり、どんな場合にも正しく対応することがでるようになるからです。
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得分の益を挙げて、未聞の失を示す

若し衆生あって是の経を聞くことを得るは、則ち為れ大利なり。所以は何ん、若し能く修行すれば必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり。其れ衆生あって聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は為れ大利を失えるなり。無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故に。

この教えを聞けば、即座に大きな功徳を得ることができ、教え通り修行すれば、真っすぐに仏の悟りを得ること出来るようになります。反対にこの教えを聞くことが出来ないと、大きな利益を失うことになります。その人は無限の時間をかけても、ついに仏の悟りを得ることは出来ません。そればかりか、人生の大きなまわり道をすることになり、険しい苦難の道をさまようことになります。
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菩薩の発問

世尊、是の経典は不可思議なり。唯願わくは世尊、広く大衆の為に慈哀して是の経の甚深不思議の事を敷演したまえ。世尊、是の経典は何れの所よりか来たり、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住する。乃ち是の如き無量の功徳不思議の力あって、衆をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしめたもうや。

ですから世尊よ、どうか私たちを憐れとお考えくださり、この奥深い教えが広く人々のなかに留まるよう、この教えの『実践』の面から具体的にお教え下さい。世尊。お伺いしたいことがあります。この教えは一体『どこから来たもの』であり、そして『どこへ向かうための教え』、『何を目的とした教え』でしょうか? また、この教えは『どこに留まるもの』であり、『どのような者が教え理解できるのか』。この三つのことをお教えください。このことを理解できれば、この教えの功徳がどれほど優れているのかが分かりますので、人々は真っ直ぐに最高の悟りを得ることができることでしょう。
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31
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 09:22:10 修正

述歎

爾の時に世尊、大荘厳菩薩摩訶薩に告げて言わく。善哉善哉、善男子、是の如し是の如し、汝が説く所の如し。善男子、我是の経を説くこと甚深甚深真実甚深なり。

すると世尊は大変お喜びになり、お答えくださいました。「よろしい、大荘厳菩薩よ。そなたの言う通りこの教えはこの上なく尊く深遠なるものです。私がこの教えを説く理由は、私の深い、深い心から出ているものです。
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所以は何ん、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむるが故に、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に、諸の衆生に於て大に利益するが故に、大直道を行じて留難なきが故に。

なぜこの教えを説くのかと言えば、この教えは人々を直接、仏の悟りへと導くものだからです。そして、この教えを一度聞けば、あらゆる物事を正しく、的確に判断することができます。
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来至住の問に答う

善男子、汝、是の経は何れの所よりか来り、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住すると問わば、当に善く諦かに聴くべし。善男子、是の経は本諸仏の室宅の中より来り、去って一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す。善男子、是の経は是の如く来り是の如く去り是の如く住したまえり。

あなたはこの教えの『①大本・②目的・③誰が、この教えを護持するのか』についての質問をしましたが、それについて答えましょう。いいですか、よく聞くのですよ。この教えの『大本』は、『諸仏の本心・諸仏の本願』からあらわれたもので、それは《真実の慈悲》から生じたものであり、教えの『目的』は、一切衆生に『最高無上の悟りを求める心を起こさしめる』《最高の智慧を得る》ために説かれたものであり、『誰が教えを護持するのか』は、それは人が『菩薩行を実践する』所に存在するもので、《たゆみない実践の中で、その真価を発揮》するのであります。しかもそればかりではありません。
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①無量義の教えはどこから来たのか? → 諸仏の心の内
②無量義の教えはどこへ去るのか?  → 一切衆生の覚りを求める心
③無量義の教えはどこに留まるのか? → 多くの菩薩の修行の中

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如来の試問

善男子、汝、寧ろ是の経に復十の不思議の功徳力あるを聞かんと欲するや不や。

「この教えを実践すると、甚大な『十の功徳』があります。大荘厳よ、この『十の功徳』を聞きたいとは思いませんか」。
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大荘厳菩薩の言さく。願わくは聞きたてまつらんと欲す。

大荘厳菩薩は、即座に申し上げました。「世尊よ。どうぞその『十の功徳』についてお教え下さい」。
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十功徳

①浄心不思議力
②義生不思議力
③船師不思議力
④王子不思議力
⑤龍子不思議力
⑥治等不思議力
⑦賞封不思議力
⑧得忍不思議力
⑨抜済不思議力
⑩登地不思議力

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32
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 09:43:10 修正

第一の功徳 浄心不思議力

仏の言わく。善男子、第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、愚痴多き者には智慧の心を起さしめ、未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、有為を楽う者には無為の心を志さしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、有漏を為す者には無漏の心を起さしめ、煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名く。

【第一の功徳 】『四無量心』と『六波羅蜜』を修し、自他一体となっていく・・・

世尊はお答えになりました。「もしある人がこの『無量義』の教えを聞いて、一行でも一句でも理解したならば、次のような功徳を得ることができます。まず『第一の功徳』とは、だれもが仏を目指すという『発菩提心』を起こします。そしてあらゆる人と自他一体になることができ、『四無量心(慈悲喜捨)』の徳目を具え、大慈悲心を起こすことができます。そしてそればかりか、人を妬(ねた)む心や物事にとらわれる愛着の心を無くし、さらには何よりも『六波羅蜜』の徳行を修めることができます。さらには、自分だけではなく他の人々と共に救われなければ、『本当の幸せはない』ということが判り、ひとりでに他を救おうという心が自然と涌き起こります。殺生・妄語・邪淫などの悪行は全て無くなり、現象の変化に惑わされず、仏道精進が後戻りすることが無くなり、煩悩を無くそうという心が、これもまた自然と起きるようになります」

○未発心者→発菩提心
○無慈仁者→起於慈心
○好殺戮者→起大悲心
○生嫉妬者→起隨喜心
○有愛著者→起能捨心
○諸慳貪者→起布施心
○多驕慢者→起持戒心
○瞋恚盛者→起忍辱心
○生懈怠者→起精進心
○諸散乱者→起禅定心
○於愚癡者→起智慧心
○未能度彼者→起度彼心
○行十悪者→起十善心
○楽有為者→志無為心
○有退心者→作不退心
○為有漏者→起無漏心
○多煩悩者→起除滅心

慈心

自他一体になると、他者の幸せを願わずにはおれない。

慈とは、マイトリー maitrī の中国語訳です。ミトラ mitra が語源で、もともとの意味は、「友情」です。真の友情があれば、相手の喜びを自分のことのように喜び、相手の幸せを自分の幸せのように願うことでしょう。しかし、そのような友情は親友のような深い関係でなければなかなか育ちません。一生を通じて親友と言えるのは少ないと思います。仏教では、出会う人を友人だと思って接し、相手が必要とすることを必要なだけ施します。そのためには、自他一体という無分別の境地に入ることが大事です。

33
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 10:18:14

第二の功徳 義生不思議力

善男子、第二に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得ん者、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、則ち能く百千億の義に通達して、無量数劫にも受持する所の法を演説すること能わじ。所以は何ん、其れ是の法は義無量なるを以ての故に。善男子、是の経は譬えば一の種子より百千万を生じ、百千万の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量なるが如く、是の経典も亦復是の如し。一法より百千の義を生じ、百千の義の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量無辺の義あり。是の故に此の経を無量義と名く。善男子、是れを是の経の第二の功徳不思議の力と名く。

【第二の功徳】 教えを少し聞いただけで、全ての仏の教えが理解できる・・・

「『第二の功徳』は、この教えのほんの一部だけを聞いたとしても、ただそれだけで、『数えきれない、仏の全ての教えの内容に通ずる』ことができます。したがって、その人が会得した教えを説こうとするならば、無限の時間を費やしても説き尽くすことが出来ません。なぜならこの『無量義の教え』は、あまりにも深遠であるからです。たとえて言うならば一つの種子から多くの実がなり、そして最終的に限りない種が生じるよう、この『無量義の教え』はこれをもととして数限りない教えの内容が生まれ出て来るのです。だから『無量義』と名づけたのであります」

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ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 10:26:46 修正

第三の功徳 船師不思議力

善男子、第三に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、百千万億の義に通達し已って、煩悩ありと雖も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん。諸の衆生に於て憐愍の心を生じ、一切の法に於て勇健の想を得ん。壮んなる力士の諸有の重き者を能く担い能く持つが如く、是の持経の人も亦復是の如し。能く無上菩提の重き宝を荷い、衆生を担負して生死の道を出す。未だ自ら度すること能わざれども、已に能く彼を度せん。猶お船師の身重病に嬰り、四体御まらずして此の岸に安止すれども好き堅牢の舟船常に諸の彼を度する者の具を弁ぜることあるを、給い与えて去らしむるが如く、是の持経者も亦復是の如し。五道諸有の身百八の重病に嬰り、恒常に相纏わされて無明・老・死の此の岸に安止せりと雖も、而も堅牢なる此の大乗経無量義の能く衆生を度することを弁ずることあるを、説の如く行ずる者は、生死を度することを得るなり。善男子、是れを是の経の第三の功徳不思議の力と名く。

【第三の功徳】 煩悩があっても煩悩が無いのと同じになり、人生の「変化」に負けない・・・

「『第三の功徳』は、まだ心の底に『煩悩』が残っていても、全く煩悩がないのと同じようになり、人生におけるどんな『変化』にあおうとも、動揺し、引きずり込まれ、恐れたり、悩み苦しむようなことはありません。そして、煩悩に苦しむ全ての人に『救いの手』を差し伸べる心が生まれ、どんな困難をも乗り切る『勇気と力』を得ることができます。たとえ自分は悟っていなくても、他の人を悟りへと導くことが出来るようになります。それは、渡し守の船頭が病気で船を操作することができなくても、船がしっかりしていて道具も揃い、その道具の使い方を教えていれば、誰でも人を向こう岸へ渡らせることができるように、『無量義』の教え通りに行うならば、人々を様々な人生の『変化』による苦しみから救い出すことができるようになります」

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ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 14:11:20 修正

第四の功徳 王子不思議力

善男子、第四に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、勇健の想を得て、未だ自ら度せずと雖も而も能く他を度せん。諸の菩薩と以て眷属と為り、諸仏如来、常に是の人に向って而も法を演説したまわん。是の人聞き已って悉く能く受持し、随順して逆らわじ。転た復人の為に宜しきに随って広く説かん。

善男子、是の人は譬えば国王と夫人と、新たに王子を生ぜん。若しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復国事を領理すること能わずと雖も已に臣民に宗敬せられ、諸の大王の子を以て伴侶とせん、王及び夫人、愛心偏に重くして常に与みし共に語らん。所以は何ん、稚小なるを以ての故にといわんが如く、善男子、是の持経者も亦復是の如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して、共に是の菩薩の子を生ず。若し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句、若しは一偈、若しは一転、若しは二転、若しは十、若しは百、若しは千、若しは万、若しは億万・恒河沙無量無数転せば、復真理の極を体ること能わずと雖も、復三千大千の国土を震動し、雷奮梵音をもって大法輪を転ずること能わずと雖も、已に一切の四衆・八部に宗み仰がれ、諸の大菩薩を以て眷属とせん。深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく、常に諸仏に護念し慈愛偏に覆われん、新学なるを以ての故に。善男子、是れを是の経の第四の功徳不思議の力と名く。

【第四の功徳】 菩薩たちと仲間になり、仏から手厚く守護される・・・

「『第四の功徳』は、この教えを一句でも聞けば、悟りを得るためのあらゆる困難にも負けない強い心が生じ、まだ悟っていなくとも、他の人を救えるようになります。その人は多くの菩薩の仲間となり、いつも仏がその人に向き合って、一対一で法を説いてくださいます。そして教えを聞くと、すっかり身に具えることができ、教え通りに実践をして、行動に誤りがありません。さらに多くの人に法を説き、 相手の機根に応じて的確に法を説くことができるようになります」。

「この人は、例えば、王家に生まれた王子が、多くの愛情を受けて育ち、幼いながらも他国の王族と対等に付き合うことが出来る王子に育ち、国王と王妃が常にそばにいて王子を守ってくれているように、教えを実践する人のそばには、いつも仏がついていて守ってくれます。そしてこの人が法を説くならば、人間のみならず仏法を守護する諸天善神からも敬われるようになり、大菩薩の仲間入りを果たすことができます。そして、真実を誤らずに説くことが出来、いつも諸仏から深い慈悲を受けて、親が子を守るように手厚く守護されます」

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ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 14:39:17

第五の功徳 龍子不思議力

善男子、第五に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、其れ是の如き甚深無上大乗無量義経を受持し読誦し書写することあらん。是の人復具縛煩悩にして、未だ諸の凡夫の事を遠離すること能わずと雖も、而も能く大菩薩の道を示現し、一日を演べて以て百劫と為し、百劫を亦能く促めて一日と為して、彼の衆生をして歓喜し信伏せしめん。善男子、是の善男子・善女人、譬えば龍子始めて生れて七日に、即ち能く雲を興し亦能く雨を降らすが如し。善男子、是れを是の経の第五の功徳不思議の力と名く。

【第五の功徳】 大菩薩と同じ行動ができ、一日の精進が何万年分の精進と同じになる・・・

「『第五の功徳』は、まだ『煩悩』が残り、凡夫の境界にいても、大菩薩と同じ尊い結果現象を現わすことが出来、 一日の精進が何万年分の修行に値するようになります。また何万年分の修行の成果が、その人の一日の精進で悟りを得ることが出来るようになります。ですからその人が説く法を聞くと、多くの人々は『仏法を聞く喜び』をすぐさま得られるようになります。たとえその人が凡夫の身であっても、変わりはありません。それは生後7日目の龍の子であっても、ちゃんと雲を起こし、雨を降らせることができるのと同じであります」

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ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 14:45:31

第六の功徳 治等不思議力

善男子、第六に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経典を受持し読誦せん者は、煩悩を具せりと雖も、而も衆生の為に法を説いて、煩悩生死を遠離し一切の苦を断ずることを得せしめん。衆生聞き已って修行して得法・得果・得道すること、仏如来と等しくして差別なけん。譬えば王子復稚小なりと雖も、若し王の巡遊し及び疾病するに、是の王子に委せて国事を領理せしむ。王子是の時大王の命に依って、法の如く群僚百官を教令し正化を宣流するに、国土の人民各其の要に随って、大王の治するが如く等しくして異ることあることなきが如く、持経の善男子・善女人も亦復是の如し。若しは仏の在世若しは滅度の後、是の善男子未だ初不動地に住することを得ずと雖も、仏の是の如く教法を用説したもうに依って而も之を敷演せんに、衆生聞き已って一心に修行せば、煩悩を断除し、得法・得果・乃至得道せん。善男子、是れを是の経の第六の功徳不思議の力と名く。

【第六の功徳】人生苦を断ち切れ、尊い境地に至ってなくても人を幸せに導ける・・・

「『第六の功徳』は、その人が煩悩を持つ身であっても、その人が衆生のために法を説くと、多くの人々を、煩悩による苦や変化に動揺する『凡夫の境地』から離れさせ、『人生苦』を断ち切ることが出来るようになります。そしてその人自身も仏と同じ悟りの境地に達することができます。それはあたかも、王子が幼い時、大王が不在または病弱であっても、王子が大王の言いつけの通りに政(まつりごと)を行えば、国全体が自然と治まっていくのと同じです。その人が菩薩の境地に至っていなくても、その人が説いた教えを実践していくと、世の多くの人々は煩悩を除き去り、菩薩の道を得ることができるようになります」。

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ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 14:55:43

第七の功徳 賞封不思議力

善男子、第七に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、仏の在世若しは滅度の後に於て、是の経を聞くことを得て、歓喜し信楽し希有の心を生じ、受持し読誦し書写し解説し説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し、即ち是の身に於て無生法忍を得、生死・煩悩一時に断壊して菩薩の第七の地に昇らん。

譬えば健やかなる人の王の為に怨を除くに、怨既に滅し已りなば王大に歓喜して、賞賜するに半国の封悉く以て之を与えんが如く、持経の善男子・善女人も亦復是の如し。諸の行人に於て最も為れ勇健なり。六度の法宝求めざるに自ら至ることを得たり。生死の怨敵自然に散壊し、無生忍の半仏国の宝を証し、封の賞あって安楽ならん。善男子、是れを是の経の第七の功徳不思議の力と名く。

【第七の功徳】 日々の行動が自然と『六波羅蜜』の通りになり、人生苦から解放・・・

「『第七の功徳』は、その人が仏の教えを聞いて喜びを覚え、さらに仏の教えを強く求める心を起こしたならば、『五種法師の行』を修することができ、その結果、最高の悟りを求める決意を立てるようになります。そして様々な善行を行うようになり、そればかりか人の不幸を取り除き、苦しみ悩む全ての人を救う願いを持つようになります。その人は未だ六波羅蜜を完全に修めていなくても、自然と『六波羅蜜』を完成したようになります。そして、娑婆世界に生きる凡夫の身でありながらも、目の前の現象に引きずられて苦しむことはなくなり、煩悩を断つことが出来るようになります。さらに菩薩の高い境地を得ることができ、それによって多くの人々と『自他一体』になる境地を得ます。譬えば、全ての敵をことごとく打ち払った最高の勇士に対して、国王は大いに喜び、国土の半分の領地を褒美として与えるのと同じで、教えの実践者は自然と『六波羅蜜』を身につけることができ、しかも成仏するための半分の功徳にあたる『無生法忍・むしょうぼうにん』という境地を自得するようになります。そして結果的に、悟りを得ることになり、安楽に過ごすことができるようになります」

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ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 15:04:22 修正

第八の功徳 得忍不思議力

色付き文字善男子、第八に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、人あって能く是の経典を得たらん者は、敬信すること仏身を視たてまつるが如く等しくして異ることなからしめ、是の経を愛楽し、受持し読誦し書写し頂戴し、法の如く奉行し、戒・忍を堅固にし、兼ねて檀度を行じ、深く慈悲を発して、此の無上大乗無量義経を以て、広く人の為に説かん。若し人先より来、都べて罪福あることを信ぜざる者には、是の経を以て之を示して、種種の方便を設け強て化して信ぜしめん。経の威力を以ての故に、其の人の信心を発し炊然として回することを得ん。信心既に発して勇猛精進するが故に、能く是の経の威徳勢力を得て、得道・得果せん。是の故に善男子・善女人、化を蒙る功徳を以ての故に、男子・女人即ち是の身に於て無生法忍を得、上地に至ることを得て、諸の菩薩と以て眷属と為りて、速かに能く衆生を成就し、仏国土を浄め、久しからずして無上菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第八の功徳不思議の力と名く。

【第八の功徳】 経典の力(経力)を得て、たちまちにして人々を幸せにする・・・

「『第八の功徳』は、その人は『経典』を仏の身と同じように敬うようになります。教えを心から愛し、『五種法師』や『六波羅蜜』の徳行を行うようになり、無量義の教えを多くの人々に説くようになるでしょう。そして経典の力によって、教えを信じきれない者に、信仰心を引き起こさせ、経典の力で、その人の心を、たちまちにして仏道へと振り向けさせます。そして娑婆世界に生きる凡夫の身でありながらも、どんな現象の変化にも動揺しない安穏の境地を得ます。そればかりか多くの菩薩の仲間入りを果たし、多くの人々の人格を完成させ、この世の中を清らかにして行きます。そして、さほど長い年月をかけずして、最高の仏の境地に達することができるでしょう」

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ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 15:14:40

第九の功徳 抜済不思議力

善男子、第九に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経を得ることあって歓喜踊躍し、未曾有なることを得て、受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為に是の経の義を分別し解説せん者は、即ち宿業の余罪重障一時に滅尽することを得、便ち清浄なることを得て、大弁を逮得し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧・首楞厳三昧を獲、大総持門に入り、勤精進力を得て速かに上地に越ゆることを得、善く分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して悉く解脱せしめん。是の故に是の経に此の如きの力います。善男子、是れを是の経の第九の功徳不思議の力と名く。

【第九の功徳】「宿業余罪」を滅し、自分の分身が誕生して人々の苦を救う・・・

「『第九の功徳』は、この教えに触れて心が躍動し、大きな感動を覚えて『五種法師の行』を行うようになります。そして、人々に法を説き、教えの内容をかみくだいて解説してあげたならば、その人は、長い長い過去世から積み重ねて来た『悪業』(宿業)を、一瞬にして滅し (宿業余罪滅尽)、速やかに清らかな身となります。しかもどんな人に対しても仏の道に導くことの出来る教化力を身につけ、仏と菩薩だけが達することのできる『首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい)』という境地を得ることができます。そして悪をとどめ、善を保つ力を具えます。そして常に精進して菩薩の境界に登り詰め、ここに居ながらにして、あらゆるところに自分の分身を派遣できるようになります。つまり、自分の精神を受け継ぐ人々を、さまざまなところに誕生させ、あらゆる人を教化し、すべての人の苦を救うようになります」

41
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 15:22:23

第十の功徳 登地不思議力

善男子、第十に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、若し是の経を得て大歓喜を発し、希有の心を生じ、既に自ら受持し読誦し書写し供養し説の如く修行し、復能く広く在家出家の人を勧めて、受持し読誦し書写し供養し解説し、法の如く修行せしめん。既に余人をして是の経を修行せしむる力の故に、得道・得果せんこと、皆是の善男子・善女人の慈心をもって勤ろに化する力に由るが故に、是の善男子・善女人は即ち是の身に於て便ち無量の諸の陀羅尼門を逮得せん。凡夫地に於て、自然に初めの時に能く無数阿僧祇の弘誓大願を発し、深く能く一切衆生を救わんことを発し、大悲を成就し、広く能く衆の苦を抜き、厚く善根を集めて一切を饒益せん。而して法の沢を演べて洪に枯涸に潤おし、能く法の薬を以て諸の衆生に施し、一切を安楽し、漸見超登して法雲地に住せん。恩沢普く潤し慈被すること外なく、苦の衆生を摂して道跡に入らしめん。是の故に此の人は、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第十の功徳不思議の力と名く。

【第十の功徳】凡夫の身であっても、菩薩の「最高の境地」に達する・・・

「『第十の功徳』は、自ら『五種法師の行』を行うばかりでなく、他の人々に『五種法師の行』を行わせるようになり、その功徳によって自らが仏の悟りを得るようになります。そしてまだ凡夫の身でありながら、一切の人々を救う誓いを立て、人々の苦を抜き去り、一切の利益を与えることができるようになります。それはあたかも、渇ききった人々の心を水で潤すように、また、薬によって人々の心の病を治すように、教えによって人々を救い出すようになります。つまりその人は、菩薩の最高の境地である一切の人々を救う『法雲地・ほううんぢ(「菩薩の十地」の第十地)』の境地に達することができるのです。この人は、全ての人々を慈しみの心で包み込み、人生苦に喘ぐ人々を、仏の足跡(仏の道)に導き、その功徳によって、さほど長い年月をかけずに仏の悟りを得ることができます」

42
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 15:35:54

十功徳力を結す

善男子、是の如き無上大乗無量義経は、極めて大威神の力ましまして、尊にして過上なし。能く諸の凡夫をして皆聖果を成じ、永く生死を離れて皆自在なることを得せしめたもう。是の故に是の経を無量義と名く。能く一切衆生をして、凡夫地に於て、諸の菩薩の無量の道牙を生起せしめ、功徳の樹をして欝茂扶蔬増長せしめたもう。是の故に此の経を不可思議の功徳力と号く。

「このように、この教えは極めて大きな力を持ち、この上なく尊い教えであります。そしてどんな人でも素晴らしい信仰の境地へ至らしめ、人生のあらゆる変化にも揺るがされず、何ごとにもとらわれない『自由自在』の心に導くものです。それゆえ『無量義』と名づけられたのです。そして全ての人が菩薩行を実践するように導くことができ、それによって功徳の樹木が生い茂るように伸び、広がって行きます。これがこの教えの不可思議な功徳力であります」

43
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 16:00:56 修正

菩薩の領解

時に大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩、声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、仏の所説の如き甚深微妙無上大乗無量義経は、文理真正に、尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず。是の故に此の経は乃ち是の如き十の功徳不思議の力います。

その時、大荘厳菩薩及び八万の菩薩たちが、口をそろえて世尊に申し上げました。「世尊よ。世尊がお説きになった、深淵な教えである『無量義経』は、この上な尊く、真実そのものです。ですから、この教えの通り修行している限り、三世(過去・現在・未来)の諸仏が守護してくださり、どのような邪魔ものにも妨害されることはなく、間違った考えや、人生の様々な『変化』に遭遇しても動揺し、挫け、打ち負かされることはありません。この教えに十の不可思議な功徳があることも、よく解らせていただきました」。

重ねて時会の得益を讃える

大に無量の一切衆生を饒益し、一切の諸の菩薩摩訶薩をして各無量義三昧を得、或は百千陀羅尼門を得せしめ、或は菩薩の諸地・諸忍を得、或は縁覚・羅漢の四道果の証を得せしめたもう。世尊慈愍して快く我等が為に是の如き法を説いて、我をして大に法利を獲せしめたもう。甚だ為れ奇特に未曾有也。世尊の慈恩実に報ずべきこと難し。

「この教えはあらゆる人々に余すところなく利益を与え、素晴らしい境地に至らしめるものです。尊いみ教えをいただき、こんな有難い経験をしたことはこれまでにございません。尊く素晴らしい教えをお説きくださった世尊の深いお慈悲に、私どもはどのようにしてお報いしてよいかわからないくらい、深く感謝申し上げます。誠に世尊は、広大無辺な慈恩のお方であられます」

44
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 17:52:06

此土の供養

是の語を作し已りし、爾の時に三千大千世界六種に震動し、上空の中より復種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、又無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして、上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎す。

以上、讃嘆と感謝の言葉を大荘厳菩薩たちが申し述べると、世界中が感動のあまり打ち震い、空からたくさんの美しい花びらが舞い降り、芳しい香りと様々な宝物が仏および教えを聴聞している菩薩をはじめとする多くの人々に降り注がれました。

他土東方の供養

又復六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動す。亦天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らし、天厨・天鉢器・天百味、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して彼の仏及び諸の菩薩・声聞・大衆を歌歎す。南西北方四維上下も亦復是の如し。

すると東方の世界のみならず、あらゆる十方世界・宇宙全体にある無数の仏の世界でも、同様の現象が起こり、仏と菩薩と大衆が供養されるのでありました。

45
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 17:55:55

菩薩たちに付属する

爾の時に仏、大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩に告げて言わく、汝等当に此の経に於て深く敬心を起し法の如く修行し、広く一切を化して勤心に流布すべし。常に当に慇懃に昼夜守護して、諸の衆生をして各法利を獲せしむべし。汝等真に是れ大慈大悲なり。以て神通の願力を立てて、是の経を守護して疑滞せしむることなかれ。汝、当時に於て必ず広く閻浮提に行ぜしめ、一切衆生をして見聞し読誦し書写し供養することを得せしめよ。是れを以ての故に、亦疾く汝等をして速かに阿耨多羅三藐三菩提を得せしめん。

その時、世尊は、大荘厳菩薩をはじめとする多くの菩薩たちにお告げになりました。
「そなたたちは、この教えを深く信じ、敬い、心を尽くして一切の人々を教化しなければなりません。その行いこそが『真の大慈大悲』なのです。この教えを弘めることで、みなさんは『五種法師の行』をつとめられるようになり、真っ直ぐに仏の悟りを得ることができるようになるのです」

46
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 18:02:01

滅後弘経の仏勅を敬い受く

是の時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と即ち座より起って仏所に来詣して、頭面に足を礼し遶ること百千匝して、即ち前んで胡跪し倶共に声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、我等快く世尊の慈愍を蒙りぬ。我等が為に是の甚深微妙無上大乗無量義経を説きたもう。敬んで仏勅を受けて、如来の滅後に於て当に広く是の経典を流布せしめ、普く一切をして受持し読誦し書写し供養せしむべし、唯願わくは憂慮を垂れたもうことなかれ。我等当に願力を以て、普く一切衆生をして此の経を見聞し読誦し書写し供養することを得、是の経の威神の福を得せしむべし。

すると大荘厳菩薩と八万の菩薩たちは一斉に立ち上がり、世尊の御前に進み出て、み足に額をつけて礼拝し、『帰依』の誠を捧げて申し上げました。
「世尊よ。私共に大きなお慈悲をおかけくださったことを、心から感謝申し上げます。私たちは、『法を弘めよ。それこそが大慈大悲』という仏さまのお言いつけを謹んでお受けし、仏さまがお亡くなられた後も、しっかりとこの教えを弘め、あまねく人々がこの教えを信じ、読誦・書写・供養できるように法を弘めます」
と決意を申し上げました。

47
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 18:08:26

流通を讃嘆する

爾の時に仏讃めて言わく、善哉善哉諸の善男子、汝等今者真に是れ仏子なり。弘き大慈大悲をもって深く能く苦を抜き厄を救う者なり。一切衆生の良福田なり。広く一切の為に大良導師と作れり。一切衆生の大依止処なり。一切衆生の大施主なり。常に法利を以て広く一切に施せと。

それをお聞きになった仏さまは心から喜ばれ、「よろしい。大変結構です。お前たちは今こそ、ほんとうに『仏の子』です。そなた達こそ、大きな『慈悲の心』をもって、人々の苦しみを救い、一切の人々の幸福を生み出す力となり、素晴らしい導師であり、心の支え、依り所となる人です。どうかこの教えの利益を、常に広く人々に与えてあげて下さい」

経を聞いて受持する

爾の時に大会皆大に歓喜して、仏の為に礼を作し、受持して去りにき。

この仏さまのお言葉を受けて、一同は『大歓喜』し、仏さまに礼拝をして、そして教えをしっかりと胸に刻んで受持し、法会の席を立って行きました。