仏教のお話

Rの会:無量義経 / 14

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ダルマ太郎 2024/03/21 (木) 21:52:11 修正

菩薩の敎化方法の讃嘆

ここには、菩薩がどのように衆生を教化するのかを表し、それを讃えています。まず、菩薩は、身近で分かりやすい教えを説いて悩みを除いて清涼を与えます。次に十二因縁を説いて苦悩を解き、その後、大乗の教えを説いて、覚りへと導きます。大乗を説く前に、十二因縁を説くことによって、その人の苦を除くことが大事なことです。よって、般若経や法華経を学ぶ前に、十二因縁を学んで、苦の原因を究明し、苦を滅する道を行くことが薦められます。しかし、十二因縁は分かりにくい教義であり、仏教初心者が簡単に理解できるものではありません。Rの会では、次のように十二因縁を教えていますが、この解釈は非常に分かりにくいです。

十二因縁

「肉体の生成(外縁起)」と「心の成長(内縁起)」に十二段階の法則があるという教え。〈①無明 むみょう〉⇒〈② 行 ぎょう〉⇒〈③識 しき〉⇒〈④名色 みょうしき〉⇒〈⑤六入 ろくにゅう〉⇒〈⑥触 そく〉⇒〈⑦受 じゅ〉⇒〈⑧愛 あい〉⇒〈⑨取 しゅ〉⇒〈⑩有 う〉⇒〈⑪生 しょう〉⇒〈⑫老死 ろうし〉

【十二因縁の外縁起】『肉体』(肉体の生成)の順序

〈①無明 むみょう〉過去世において輪廻し無明(無智)であった
〈②行 ぎょう〉過去世において無智の行為を繰り返して「業・ごう」を積む
〈③識 しき〉両親の夫婦生活という無明の行為で命を宿し受精後「識」が生ず
〈④名色 みょうしき〉「名」は精神、「色」は肉体。この肉体と精神が徐々に整う
〈⑤六入 ろくにゅう〉「名色」が発達して六根(眼耳鼻舌身意)が心身の中に入る。
〈⑥触 そく〉この世に出生して六根が外界に触れその機能が完成
〈⑦受 じゅ〉次に、これは受け入れる、受け入れないという感情が生まれる
〈⑧愛 あい〉特に異性を求める心、何かを求めるという心が生まれる。
〈⑨取 しゅ〉異性や何かを自分のものにしたい所有欲、「取」の心が起きる
〈⑩有 う〉「取」の心がはたらいて、異性を得て(有)結婚する
〈⑪生 しょう〉多くが結婚を通して次世代の命を宿し子を誕生させる
〈⑫老死 ろうし〉この世に生まれた者は憂悲苦悩を繰り返し、ついに「老死」に至り、人生を終える

ここで講義されている十二因縁のもとになる経典が何なのかが分かりません。おそらくは、説一切有部の「分位縁起」を基にしているのでしょう。しかし、「分位縁起」とも大部違いますから、Rの会のオリジナルなのでしょうか。十二因縁は、サンスクリット原語の意味を知らなければ理解しにくいので、次にサンスクリット原語を表しながら十二因縁を紐解きます。

〈①無明 むみょう〉アヴィドャー avidyā 無知
〈②行 ぎょう〉サンスカーラ saṃskāra 意志・行為
〈③識 しき〉ビジュニャーナ vijñāna 識別作用
〈④名色 みょうしき〉ナーマルーパ nāmarūpa 名称と姿 心と体
〈⑤六入 ろくにゅう〉シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 眼耳鼻舌身意の6感官
〈⑥触 そく〉スパルシャ sparśa 接触
〈⑦受 じゅ〉ヴェーダナー vedanā 感受
〈⑧愛 あい〉トリシュナー tṛṣṇā 渇愛
〈⑨取 しゅ〉ウパーダーナ upādāna 執着
〈⑩有 う〉 バーヴァ bhava 存在
〈⑪生 しょう〉ジャーティ jāti 生まれること
〈⑫老死 ろうし〉 ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 老いと死

無知な意志によって分別をし、心と体に分け、6つの感覚に分け、自分と自分以外とが接触します。接触によって世界を感受し、欲しいものを手に入れたいと思い、そのものに執着します。そのことで存在し、新しく生まれ、老い、死にます。。。このように無明(惑・煩悩)・行(業)によって生老死という苦に至ると説くのが十二因縁です。

凡夫は、自他を分け、個々を分けてとらえます。分別による見方です。仏は、自他を分けず、個々を分けずにとらえます。無分別による見方です。分別しませんから、差別や区別をせず、一切を一つとして観ます。これを不二ともいいます。無明とは、分別による見方をすることです。不二・無分別の理を知っていれば、一つのものを分けることはせず、直観でとらえます。自他の区別、個々の区別がなければ、自己中心な心、渇愛、執着はなくなり、苦悩を滅することができるでしょう。

分位縁起

分位縁起(ぶんいえんぎ)とは、五蘊のその時々の位相が十二支として表される説です。説一切有部では、分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられました(ウィキペディア)。

Rの会では、法華経による先祖供養を重視します。死後の世界・輪廻・転生を信じる立場にあるようです。なので輪廻を肯定する説一切有部の説を取り入れたのかも知れません。仏教においては、非有非無の中道を説きます。有に執着せず、無に執着しない立場です。なので死後の世界が有る、輪廻が有る、転生が有ると、積極的には説かないし、死後の世界は無い、輪廻は無い、転生は無いと、積極的には説きません。経典中では、輪廻(生死)について触れられるシーンがありますが、それらは輪廻を信じているインド人たちを肯定する方便だと受け取ったほうがいいです。

初期仏教においては、縁起を説く場合、時間経過については説かれていません。「此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という此縁性の縁起です。この此縁性の縁起を詳しく説いた内容が十二因縁なので、時間経過は考慮されません。時間という概念を取り入れ、十二因縁を複雑にしたのは説一切有部です。基本的な十二因縁を学ぶためには、初期仏教の経典を紐解いたほうがいいでしょう。

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  • 16
    ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 17:05:14 修正 >> 14

    声聞の名 徳を歎ず

    其の比丘の名を、大智舎利弗・神通目揵連・慧命須菩提・摩訶迦旃延・弥多羅尼子・富楼那・阿若憍陳如等・天眼阿那律・持律優婆離・侍者阿難・仏子羅雲・優波難佗・離波多・劫賓那・薄拘羅・阿周陀・莎伽陀・頭陀大迦葉・優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉という。是の如き等の比丘万二千人あり。皆阿羅漢にして、諸の結漏を尽くして復縛著なく、真正解脱なり。

    そうした菩薩と共にこの会座には、智慧第一の舎利弗や神通第一の目連、富楼那、阿難、羅睺羅など数多く(一万二千人)の比丘たちが連なっています。みな阿羅漢の境地を得ており、迷い・混乱・執着を消滅し、煩悩が出てくることなどありません。物事にとらわれず、正しいはたらきが自由自在にでき、一切の迷いから解放されています。

    三業供養

    爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、遍く衆の坐して各定意なるを観じ已って、衆中の八万の菩薩摩訶薩と倶に、座より而も起って仏所に来詣し、頭面に足を礼し繞ること百千匝して、天華・天香を焼散し、天衣・天瓔珞・天無価宝珠、上空の中より旋転して来下し、四面に雲のごとく集って而も仏に献る。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞ぐに自然に飽足す。天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の伎楽を作して仏を娯楽せしめたてまつり、即ち前んで胡跪し合掌し、一心に倶共に声を同じゅうして、偈を説いて讃めて言さく。

    その時大荘厳菩薩は周囲を見渡し、一同全員が釈尊の教えを伺おうということに集中していることを見定めて、釈尊の前に進み出ました。そして様々な供養を成し、釈尊に向かって『偈(げ・韻を踏んだ詩歌)』を唱えて讃嘆しました。

    50
    ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 01:28:44 >> 16

    大荘厳
    だいしょうごん
    荘厳という言葉は、一般的には、威厳があって気高いことを言いますが、仏教では美しく飾ることをいいます。この世界を菩薩道によって清浄化することを華や宝石で飾り付けることに喩えています。なので、大荘厳菩薩とは、大いなる菩薩道を実践している菩薩だという意味です。それほどの大菩薩ですから、智慧の眼が開かれていて、仏陀の本体である最高の真理を観察できるということでしょう。

    菩薩摩訶薩
    ぼさつ・まかさつ
    菩薩は、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の訳です。菩提(覚り)+人の合成語で、「覚りを求める人」「覚りに導く人」のことです。摩訶薩は、マハー・サットヴァ mahā-sattva の訳です。「大いなる人」のことです。大乗の菩薩のことを菩薩摩訶薩と呼んで、それまでの菩薩とは区別しています。