仏教のお話

Rの会:無量義経 / 73

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ダルマ太郎 2024/04/18 (木) 22:49:03 修正 >> 49

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菩薩とは
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太郎論:菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の修行中の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
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大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
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無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
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法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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菩薩とは
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