仏教のお話

輪廻

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輪廻について

ダルマ太郎
作成: 2024/05/15 (水) 20:42:57
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ダルマ太郎 2024/05/15 (水) 20:44:09 修正

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輪廻とは
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まず、輪廻とは何なのかを定義しておきます。デジタル大辞泉によれば、《〈梵〉saṃsāra(サンサーラ)の訳。流れる意》仏語。生ある者が迷妄に満ちた生死を絶え間なく繰り返すこと。三界・六道に生まれ変わり、死に変わりすること。インドにおいて業の思想と一体になって発達した考え。流転。転生。輪転。「六道に輪廻する」。日本国語大辞典によれば、「仏語。回転する車輪が何度でも同じ場所に戻るように、衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと」とあります。このように、死に変わり、生まれ変わることをいいます。

輪廻は、サンサーラ saṃsāra の中国語訳です。サンサーラの本来の意味は、「共に流れる」です。これは、すべての生き物は、生と死を繰り返すという古代インドの考えの表現です。回り続ける車輪のように、衆生は輪轉(りんてん)を繰り返し、際限なく死んでいきます。仏教では、人は三界(欲界・色界・無色界)と地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻するといわれています。

輪廻は、仏教の思想だというイメージが強いのですが、もともとはバラモン教の教えでした。ヴェーダ聖典の中のウパニシャッド(奥義)に出てきた思想です。業報によって苦の世界を輪廻し、そこから解脱するために修行者は修行をしていました。業・輪廻・解脱という思想です。業の主体・輪廻の主体・解脱の主体は、アートマン(我)だといわれています。アートマンとは、個の原理であり、個の主体であり、個の実体です。

仏教では、輪廻するところを三界(欲界・色界・無色界)と地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道だといいます。これらの世界は、迷いの世界であり、苦の世界です。天界は、六道の中では安楽な境地ですが、死があるため、完全なる安楽ではありません。人は、生死を繰り返して、苦の世界を輪廻しています。輪廻から抜け出さない限りは、ずっと苦の世界にいるわけです。仏教では、輪廻から解脱する方法として八正道が説かれました。正しい道を実践することによって、成仏し、涅槃に入れるというのです。
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輪廻とは
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2
ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 11:33:28

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輪廻の有無
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輪廻は有るのか? 無いのか? 有るといえば有見だし、無いといえば無見になります。有見にしろ、無見にしろ、仏教においては邪見なので、そのような見解は否定されます。有無の両辺に偏らないことが答えです。それは、非有非無の中道でしょう。

輪廻が有ることも、輪廻が無いことも、実証ができません。どちらにせよ、根拠がないので有無を断言することはできません。輪廻が有ると主張する人は、経典に輪廻のことが書いているから事実として有るのだ、といいます。確かに経典には、輪廻のことが書いてあるけれど、それが事実なのかどうかは分かりません。経典は教本であって、釈尊の説法の記録ではありませんから、相手を救済・教化するのが経典の目的です。よって、相手に応じて説法をします。相手が輪廻を信じているのなら、それを否定せずに受け入れて、輪廻の話をすることもあります。初期仏教の経典では、このパターンが多いようです。

輪廻が有るという人の根拠は、経典にあるということだけではないでしょうか。他は、有ると信じているから有るという根拠のない思い込みです。漫画やアニメ、本、占いなどの影響で、有ると信じているのでしょう。信じることによって、何のメリットがあるのかは分かりませんが、信じている人は多いですね。

廻が無いという人は、輪廻が有ることの証明ができないからのようです。どちらにせよ、信じるか信じないかは、その人次第なのですから、個々によって考え方は異なります。
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輪廻の有無
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ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 12:12:29

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輪廻は方便
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私は、輪廻は方便だと思っています。このことを言うと輪廻肯定派の中には、激しく反論してくる人がいます。「輪廻は事実であって、方便ではない」と主張します。そういう人は、方便の意味を知らないのだと思います。方便とは、ウパーヤ upāya の訳であり、「近づく」というのが原意です。仏教では、「真理に近づける方法」のことを言います。

真理には二種があります。一つが俗諦で、もう一つが真諦です。俗諦とは、世俗の真理のことで、世俗の言葉によって表される真理です。真諦とは、言葉では表現できない真理です。第一義諦、勝義諦、真の真理、真実、正法、妙法などと言われます。言語道断・不可思議ですから、たとえ仏であっても、真諦を言葉では顕せません。しかし、釈尊は、人々に真諦を覚らせようと方便を使いました。それが俗諦です。人々が理解できることを説くことによって、そのことで真諦へと近づけたのです。言葉によって説かれたことは真諦ではなく、俗諦です。よって、言葉による説法は、すべて方便です。輪廻だけが例外ではありません。輪廻も方便です。

多くの人たちは、方便を誤解しているようです。「嘘も方便」という言葉があるために、方便を嘘のことだと思っています。嘘だと思っていない人も、軽く見ている傾向があります。方便のことをしっかり理解できれば、輪廻は方便だと納得できることでしょう。
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輪廻は方便
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ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 14:34:52 修正

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輪廻は概念
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インドの有名な論師に龍樹がいます。龍樹とは、インド名のナーガールジュナ Nāgārjuna の中国語訳です。ナーガは龍の意で、アルジュナは、インドの叙事詩『マハーバーラタ』の主人公の一人の名前です。それを樹と音写しています。龍樹は、空の理を論じて、多くの仏教徒に影響を与えました。そのことから、大乗仏教の祖と呼ばれています。

龍樹の有名な論書に『中論』があります。詩の形式で、空の理を論じています。その中で、「縁起の法を空と説き、これを仮名となし、またこれを中道の義とする」と論じています。
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論書)
衆因縁生法 我説即是無
亦爲是假名 亦是中道義

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訓読)
衆因縁生の法を 我れは即ち是れ無なりと説き
亦た是れ仮名なりと為す 亦た是れ中道の義なり

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サンスクリット)
yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe|
sā prajñaptirupādāya pratipatsaiva madhyamā||18||

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太郎訳)
多くの因縁によって生起する事象を空だと説きます
また これは名称によってのみ仮に有り
また これを中道の義だといいます

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漢訳をしたのは鳩摩羅什です。鳩摩羅什は本来「空」と訳すべきśūnyatā(シュニャター)を「無」だと訳しています。これを誤訳だという人がいますが、おそらくは、わざとそのように訳したのでしょう。なぜなら、空と訳すと「有・空の中道」だという誤解が生じるおそれがあるからです。龍樹の示す中道は、「有・無の中道」です。しかし、中国では、「有・空の中道」だと解釈しましたので、龍樹の論じていることとは異なります。

因縁によって生じるものには自性(実体)がありません。これを空といいます。空にも実体は有りませんが、人々を導くために、あえて空という言葉を用います。つまり、空というのは仮です。仮に有るので「有」であり、実体が無いので「無」です。これを非有非無の中道といいます。

ここに出てくる「仮名」とは、プラジュニャプティ prajñapti の訳です。「仮の設定」という意味です。仮設・仮説・仮名などと訳されますが、現代語に訳すと「概念」です。実体がないので、ただ付けらた名称によって存在するものです。事象は因縁に依るので実体は有りません。これを私たちは空と言います。しかし、実体は無くても、名前として、概念としては有ります。この有るでもなく、無いのでもないことを中道と言います。すなわち、有無両辺のどちらにも偏らない見方です。

縁起によるものは、すべて概念です。言葉によって表すことはできますが、実体はありません。輪廻もまた概念です。事実として有るのではなく、概念として有ります。輪廻を信じている人の頭には輪廻が有り、信じていない人には輪廻は有りません。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という境界、業・解脱なども、信念がつくっている幻です。
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輪廻は概念
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5
ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 17:25:01

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輪廻は恐怖
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仏教における業報輪廻思想は、業報によって死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わり、その後もずっと業報によって六道を輪廻するというものです。罪が深ければ、地獄に堕ちます。地獄が最も苦に満ちた場所であり、餓鬼・畜生がそれに続きます。餓鬼とは、常に飢餓の状態にあって、欲求不満によって苦しむ境界であり、その境界の生物も餓鬼と言います。畜生は、動物界のことで、その境界に住むのは動物です。これらの地獄・餓鬼・畜生を三悪道といいます。修羅とは、阿修羅のことで、もとは神でしたが、帝釈天と争って負け、海に突き落とされました。争いを好み、常に戦っています。人間とは、私たちのことです。まわりの変化に振り回され、疑惑と不安と恐怖の中で暮らしています。天とは、天上界のことで、そこに住んでいるのは神々です。六道の中では、安楽の境地ですが、寿命がありますので、死ぬ前は苦しみます。六道は、迷いの世界、苦の世界です。

インドでは、人間に生まれたことを悲しむようです。なぜなら、人間として生まれたということは、前世での行いが悪く、輪廻から解脱できなかったということだからです。バラモン教では、解脱すれば天界に生まれ変わると言いますので、人間に生まれた時点でアウトです。これから何度も輪廻を繰り返すことになります。人間ならまだいいのですが、地獄に堕ちれば、非常に長い間苦しむことになりますので、そのことを思えば苦しみます。よって、輪廻は恐怖の思想です。
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輪廻は恐怖
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ダルマ太郎 2024/05/17 (金) 15:44:44 修正

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初期仏教~大乗仏教
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仏教は、釈尊が覚りを開いて、鹿野園で五比丘に対し説法を説いた時に始まりました。それから、釈尊が亡くなって約100程年ほどして、仏教教団が保守派の上座部と革新派の大衆部とに根本分裂するまでを初期仏教といいます。

初期仏教は、アンチ・ヴェーダの教えだと言われます。なぜなら、ヴェーダ聖典の根本思想であるアートマンを否定したからです。アートマンは、個の原理・主体・実体です。これを否定してアナートマン、つまり無我を説きました。アートマン思想が広まっていたインドでは、無我の考え方は受け入れがたかったようです。紀元前3世紀頃にアショーカ大王が、インドを統一し、仏教を国教にして、仏教を保護し、仏教は大いに盛り上がりました。仏教が栄えたことによって、バラモン教は衰退しました。根本分裂の後、教団は次々と分かれましたので、この頃の仏教を部派仏教といいます。部派仏教の時代は、国からの保護を受けていたので、仏教はどんどん拡散しました。その結果、部派が増えたのです。

部派仏教の時代に最も勢力があったのは、説一切有部です。説一切有部は、人については無我だと説きましたが、法は有ると説きました。法とは、水を水として成り立たせるもの、火を火として成り立たせるもの、物を物として成り立たせるもののことです。「人無我。法有我」という説を土台にしたのです。

また、業報輪廻を積極的に説き、業報輪廻を十二因縁によって説明しました。無明・行を過去の因だとし、識・名色・六処・触・受を現世での果だとしました。愛・取・有を現世での因だとし、生・老死を来世の果だとしました。これを三世両重の因果といいます。これは、説一切有部の説であって、釈尊が説いた内容ではありません。

また、説一切有部は、食事が国から提供されるため、在家との関係を断っています。つまり、托鉢をやめてしまい、在家への説法もやめてしまいました。地方を巡って説法をする遊行もやめています。説一切有部は、それよりも経典の解釈をすることに熱中しました。いわゆるアビダルマ(論書)をつくることに懸命になったのです。大乗仏教では、説一切有部の説いた法有、業報輪廻、在家との関係を否定しました。一切法空・廻向・大乗を説いたのです。

このようにバラモン教を否定して初期仏教が説かれ、初期仏教を否定してアビダルマが論じられ、アビダルマを否定して大乗が説かれました。以前の教義を否定することによって、仏教は、より高度な教えへと発展しました。このことは、初期仏教の信者は納得しないのでしょうが、経典を読めば一目瞭然です。仏教の最終形態は、密教ですので、密教が最も高度で深い教えが説かれているのでしょう。しかし、密教は師から弟子へと伝えられる教えですから、一般人には知らされていません。よって、我々は、初期仏教経典・大乗仏教経典と中観派の論書・唯識派の論書を学ぶ必要があります。輪廻についても、初期仏教の経典だけで判断するのではなく、大乗仏教の経典も学んでから判断するべきでしょう。
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初期仏教~大乗仏教
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ダルマ太郎 2024/06/21 (金) 16:15:57 修正

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大乗二十頌論について
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龍樹作の論書に『大乗二十頌論』というのがあります。内容は、輪廻について論じています。凡夫は、真理を知らないために輪廻を妄想し、自分が作り出した輪廻によって苦しんでいるので、その妄想を解けば、輪廻から解脱できるというものです。つまり、輪廻は概念であり、事実としては無いということでしょう。輪廻肯定派にとっては、信じがたい内容でしょうね。
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大乗二十頌論について
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ダルマ太郎 2024/06/21 (金) 16:21:25

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大乗二十頌論
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龍樹菩薩造
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1.ことばで言い表せない真理を慈悲をもって説き示され、その威光は思いも及ばず、その心は執着を離れている仏陀を礼拝し奉る。

2.真実の立場でいえば、諸仏と生きとし生けるものとは、実体として生起したのでもなく、また消滅したのでもないのだから、あたかも虚空のように、その本質は同一である。

3.また移り変わるものは、かの世においても、この世にあっても、実体として生じたものではなく、条件によって生じたものである。それらは、まさしく空であり、全知者のみが、よく知りうるところである。

4.すべての存在は、その本性上、影像に等しく、清浄であり、寂静なるものであり、不二であり、真実と同じである、といわれる。

5.しかるに、愚かな人々は、我が無いのに我が有ると考えて、苦楽やあらゆる煩悩が真実からして、有るとみる。

6.そこで彼らには、六趣の輪廻と、天界における最高の楽しみ、地獄における大きな苦しみ、老・病などの苦しみが生じるであろう。

7.彼らは、虚妄の考えを起して、地獄において煮られて苦を受け、他ならぬ自らの過失のために焼かれる。あたかも竹が火によって焼かれるように。

8.あたかも幻のような人々は、もろもろの対象を楽しむ。彼らは、縁起を本性とする幻のごとき世界を歩みゆく。

9.たとえば、絵師が非常に恐ろしい夜叉の姿を自ら描いて、怖れおののくように、いまだ覚らない者は輪廻においても同じである。

10.たとえば、ある愚かな人が、ぬかるみを自らつくって、そこに落ち込むように、人々は超えがたい邪な考えのぬかるみの中に沈んでいる。

11.存在が無いことを存在が有るとみて、彼らは苦の感受を受ける。また、虚妄なる対象が彼らを疑惑の毒によって苦しめる。

12.そこで、これらの人々が庇護を失っているのを見て、慈愛堅固な心を持ち、利他に努める諸仏は、彼らを覚りへと誘う。

13.彼らも同じく資糧を積むならば、無上の智慧を得て、邪な考えの網を脱し、世界の友である覚者となるだろう。

14.真実の意味を知る人々は、世界が生じたものではなく、生起したものでないから、空であり、初め・中ごろ・終わりはないと正しく見る。

15.そこで、彼らは輪廻も涅槃もそれ自体としては存在せず、無垢であり、変異することなく、初め・中ごろ・終わりにわたって清浄である、と看取する。

16.すでに目覚めた者は、夢の中で見た対象を見ることはない。迷妄のまどろみから覚めた者は、輪廻を見ることはけっしてない。

17.魔術師が幻を現出して、のちにそれを消し去るとき、いかなるものも存在しない。それがまさしく事象の真実の本性である。

18.この世のすべては、ただ心のみであって、あたかも幻の表象のように存在している。そこから善や不善の業が生じ、それから善や不善の苦が生じる。

19.世の人々は、世界を妄想しているが、世界は生起していないように、彼ら自らも生起しているのではない。なぜなら、この生起とは妄想であり、外界の対象は存在していないから。

20.迷妄の闇に覆われて、愚かな人たちは、実体が無いものに対して、恒常であるとか、固有の実体が有るとか、楽であるとかいう思いを起こし、この輪廻の海の中をさまよう。

結頌.大乗の船に乗ること無くして、いったい誰が、妄想の水に満ちた輪廻の広大な海の彼岸に渡ることができようか。
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大乗二十頌論
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