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ここからは、法華経の開経である無量義経の解釈にはいります。無量義とは、多くの教義のことです。仏教には、非常に多くの経典(教え)があります。キリスト教やイスラム教と比べれば、教えの多さに驚きます。なぜこのように多くの教えがあるのか、その理由を説いたのが無量義経です。無量義経の第一章は、徳行品です。
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徳行品のあらすじ
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通序
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経:是の如きを我聞きき。一時、仏、
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R訳:私はこのように聞いております。釈尊が王舎城の
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菩薩衆の名
経:其の菩薩の名を、
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経:是の諸の菩薩、皆是れ法身の大士ならざることなし。
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R訳:ここに集う文殊菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩、観世音菩薩をはじめとする八万人の菩薩たちは、どんな変化にも動揺せず世間の苦悩から解放され、真理と一体となった菩薩たちです。菩薩たちは『三学』という仏道修行者が修すべき基本の道「戒・定・慧」を修め、解脱しており、しかも解脱に至るまでの具体的な手順・経緯(プロセス)をしっかりと自覚、解脱知見しています。
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止徳
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経:其の心
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R訳:しかもどんな境遇にあっても、とらわれることなく安らかで、他人に対して要求する心はなく、不平不満を覚えず、たとえ好意や感謝をされなくても、そのことにこだわることはありません。自己中心的でなく、我欲から離れており、真相を見誤って真理と反対の見方をして、心が乱れることもありません。静かに落ち着き、煩悩に惑わされない澄み切った心で、
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観徳
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経:大智慧を得て諸法を通達し、
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R訳:すべての出来事を正しく分析・解説することができ、あらゆる人びとの機根・性質・欲望(根性欲)を見抜いていますので、善をすすめて悪をとどめる強い力と、どんな人をも納得させる説得力を持っています。ですから自由自在に人びとを教化することができるのです。菩薩はこのような尊い徳分を具えています。
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無量義経 徳行品第一
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:菩薩 の徳を、ことばを極めてほめたたえてあるのかといいますと、いちばん大切な理由は、その徳の尊さ・美しさを、心に強く焼きつけるためです。それだけでもすでに心はある程度清められ、温められているわけで、閉ざされていた胸が開け、教えを受け入れる態勢ができるのです。いわば、教えの本番にはいる準備運動というわけです。これがたいへん大切なことです。 随喜 することが重要だとされます。「従って喜ぶこと」です。サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。徳行を讃えることによって、それを聞いた者は随喜を感じることでしょう。よって、讃嘆は教えに入る前に重要なことです。
菩薩 - 菩提薩埵 梵語 のボーディサットヴァ、パーリ語のボーディサッタの中国語訳(菩提薩埵)の略です。菩提とは、仏の智慧 もしくは仏の悟りと言う意味、薩埵 というのは人ということですから、つまり〈仏の智慧・仏の悟りを得ようとして修行している人〉を指すのですが、大切なことは、自分が修行しているばかりでなく、他の人びとを救うことにも努力している人でなければ菩薩とはいいません。ここが比丘 とちがうところです。菩提薩埵 という言葉は、三蔵法師玄奘が使い始めたという説があります。つまり新訳です。大般若経にて多く使われています。旧訳 である鳩摩羅什 訳では、菩薩と訳されています。菩薩は、ボーディサットヴァ bodhisattva の訳です。ボーディが覚り、サットヴァが人なので、「覚りを求める人」のことです。法華経の場合は、「覚りに導く人」という意味合いが強いようです。
智慧 智慧 は、プラジュニャー prajñā の中国語訳です。般若 とも訳されます。意味は、一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用のことです。つまり、真理を観る能力のことをいいます。智慧という言葉を智と慧に分けた場合、慧はプラジュニャーの訳語として使われます。智は、ジュニャーナ jñāna の訳語です。ものごとを分けてとらえること(分別 )を智といい、分けずにとらえること(無分別 )を慧といいます。釈尊の覚りは、慧だといわれます。
徳行品が説かれる理由
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R論:お経のはじめに、なぜこうしてもろもろの
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太郎論:仏教を学ぶ者は、
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R論:菩薩というのは、
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太郎論:
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R論:〈智〉⇨ 多くのものごとの間にある差異を見分ける力です。〈差別相〉を知る力。〈分析〉をする力
〈慧〉⇨ すべてのものごとに共通のものを見出す力。〈平等相〉を知る力。〈総合〉を知る力
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太郎論:
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分別とは、認識するものと認識されるものを分けてみることです。主客が分かれているとみます。無分別は、認識するものと認識されるものを分けてみないことです。主客が分かれているとはみません。
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徳行品が説かれる理由
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菩薩とは
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太郎論:菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の修行中の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
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大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
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無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
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法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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菩薩とは
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呉音
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太郎論:漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。
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経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。
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ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。
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呉音
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:微渧 先ず堕ちて以て欲塵を淹 し、涅槃 の門を開き解脱 の風を扇いで世の悩熱を除き法の清涼 を致す。次に甚深 の十二因縁 を降らして、用て無明 ・老・病・死等の猛盛熾然 なる苦聚 の日光に灑 ぎ、爾 して乃ち洪 に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬 し、善の種子を布いて功徳 の田 に遍じ、普 く一切をして菩提の萌を発さしむ。智慧の日月方便の時節、大乗の事業を扶蔬増長 して、衆をして疾 く阿耨多羅三藐三菩提 を成じ、常住の快楽 、微妙真実 に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。真善知識 、是れ諸の衆生の大良福田 、是れ諸の衆生の請 せざるの師、是れ諸の衆生の安穏 の楽処 ・救処 ・護処 ・大依止処 なり。処処に衆生の為に大良導師・大導師と作る。能く衆生の盲 いたるが為には而も眼目を作し、聾 ・劓 ・唖 の者には耳 ・鼻 ・舌 を作し、諸根毀欠 せるをば能 く具足 せしめ、顛狂荒乱 なるには大正念 を作さしむ。船師・大船師なり、群生 を運載 し、生死 の河を渡して涅槃の岸に置く。医王・大医王なり、病相を分別 し薬性 を暁了 して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ。調御 ・大調御なり、諸の放逸 の行なし。猶 、象馬師 の能く調うるに調わざることなく、師子の勇猛 なる、威 、衆獣 を伏して沮壊 すべきこと難 きがごとし。菩薩の諸波羅蜜 に遊戯 し、如来の地に於て堅固にして動ぜず、願力 に安住して広く仏国を浄め、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提 を成ずることを得べし。是の諸の菩薩摩訶薩皆斯 の如き不思議の徳あり。
菩薩の敎化方法
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経:
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R訳:あたかも乾いた土に一滴の「しずく」が落ちると、そこには砂ぼこりが立たなくなるように、まず些細な教えから入って行き、数多い欲の中でわずか塵ほどのものを鎮めていきます。そして、悟りへ門を開き、解脱へと誘って行きます。それはまるで涼しい風をそよがせて熱を取り除いて冷めさせるように、人々を苦悩の熱から救って行くのでした。次に深遠な「十二因縁」の教えを説いて無明の状態から解き放ちます。それはまるで照りつける灼熱の太陽に苦しむ人が、雨を得て蘇生の喜び得るようであり、そのうえで無上の教えである「大乗の教え」を説いて、人が本来具える「善の根」に潤いを与えます。さらに善行を呼び起こす「善の種」を蒔いて、ついにはあらゆる人びとに仏の悟りの「芽生え」を起させるのであります。菩薩たちの智慧は、太陽や月のようにすべてを明らかに照らし出し、しかも人々を導く手立ては、手段も時節も的確です。大乗の救いを進めて、その成果をどんどん上げて行き、すべての人を仏の悟りへと真っ直ぐに導きます。菩薩はいつも智慧を具えていますので、限りない大悲の心を注ぐことができ、それによって苦しみ悩む無数の衆生を救っていくのです。
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自利
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経:是れ諸の衆生の
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R訳:菩薩は、まさに人々にとって「善き友」であり、幸せを育てる「良い田畑」であり、招かないでもわざわざやって来てくれる「有難い先生」であります。私たちにとっては「心の安らぎ」を与えてくれる存在、人生の「大きな支え」となる存在、私を「守ってくれる」存在、「依り所」となる存在です。菩薩は私たちを正しく導く師であり、目、耳、言葉の不自由な人にとっての目、耳、口となる方です。心が乱れ、荒み切っている時は、心を安定させ、正気を取り戻させてくれます。まるで優秀な船長ようで、人生途上で襲いかかる様々な「変化・異変」の荒波を乗り越えさせてくれ、安穏な境地へと誘ってくれます。病に応じて的確に薬を与える名医だとも言え、どんな猛獣をも従わせる優れた調教師のようです。菩薩は、仏の悟りに至るためのあらゆる修行・菩薩行を自由自在に行なえ、一切衆生救済を願う仏の力を信じていますので、「大安心」の心境で法を説くことができます。これらの菩薩は近い将来、仏の悟りに達する方々であり、以上のような大徳を具えています。
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菩薩の敎化方法
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