仏教のお話

無量義経:説法品第二

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無量義経説法品第二の解釈をします。

説法品は、無量義経の中心の章です。大荘厳菩薩が、「菩薩が速やかに成仏する方法とは、どういうものですか?」と質問をし、釈尊がそれに答えて説法をします。「仏陀の教えは、人に応じて説かれるために、無量の教義があるけれど、すべての教義は一つの真理から生じます」と答えて、その一つの真理とは「無相」だと明かします。相とは特徴のことですから、無相とは、「特徴の否定」です。このことを覚ったことによって生じる慈悲は本物であり、一つの真理によって説かれる教えは、人々の苦を抜き、楽を与えます。そのようにして衆生と関わることで、必ずや速やかに無上の覚りを得られると説きます。

ダルマ太郎
作成: 2024/06/02 (日) 11:24:47
最終更新: 2024/06/02 (日) 16:15:58
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ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 11:34:58 修正

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第一 大衆正に問う分
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経:その時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と、この偈を説いて仏を讃めたてまつることおわって 倶に仏に白して言さく。世尊。我等八万の菩薩の衆、今、如来の法の中に於て、諮問(しもん)する所あらんと欲す。不審(いぶかし)、世尊愍聴(みんちょう)を垂れたまいなんや否や。
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訳:その時に大荘厳菩薩は、多くの菩薩たちと共にこの詩 (徳行品の讚歎偈) を説いて、仏を称嘆し終ると、共に仏に申し上げました。世尊。私たち八万の菩薩は、今、世尊の教えの中において、ぜひ質問したい事がございます。はっきりせず、分かりにくい内容なのですが、お教え頂けますでしょうか?
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第二 如来 許しを垂る分
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経:仏、大荘厳菩薩 及び八万の菩薩に告げたまわく。善哉善哉、善男子。善くこれ時なることを知れり、汝が所問を(ほしいまま)にせよ。如来久しからずして当に般涅槃すべし。涅槃の後も、普く一切をして、また余の疑無からしめん。何の所問をか欲する、便ち之を説くべし。
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訳:仏は、大荘厳菩薩と八万の菩薩たちに告げました。素晴らしいことです。善男子よ。よくぞ、今、この時に質問をされました。あなたの聞きたい事をぜひ訊いてください。私は間もなく、この世を去ろうとしています。私が亡くなった後に、人々が、教えに対し不信感を抱かない様にしておきたいと思います。どの様な質問ですか? 何でも答えしましょう。
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大衆正に問う分
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ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 17:18:25 修正

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第三 菩薩 正に問う分
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①所行の法門を問う
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経:ここに大荘厳菩薩、八万の菩薩と、即ち共に声を同じうして仏に白して言さく。世尊。菩薩摩訶薩 、()阿耨多羅三貎三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき。
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訳:そこで、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちは、声を合わせて仏に申し上げました。世尊。菩薩が速やかに無上の覚りを得ようとするならば、どの様な教えを修行すればよろしいでしょうか? 
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②疾成の法を問う
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経:何等の法門か よく菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ぜしむるや。
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**どの様な教えが、菩薩をして、まっすぐに無上の覚りを得させるでしょうか?
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第四 如来 略して答える分
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経:仏、大荘厳菩薩 及び八万の菩薩に告げて言わく。善男子、一の法門あり。よく菩薩をして 疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得せしむ。もし菩薩あって この法門を学せば、則ち よく阿耨多羅三貎三菩提を得ん。
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訳:仏は、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちに答えました。善男子よ。ここに、一つの法門があります。菩薩が速やかに無上の覚りを得られる法門です。もし、菩薩が、この法門を学べば、無上の覚りを得ることができます。
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論:大荘厳菩薩の質問は、「菩薩が速やかに無上の覚りを得る方法について」です。ここで重要なのは、「速やかに」ということです。これまでは、菩薩が無上の覚りを得るためには非常に長い時間がかかると言われていました。これを歴劫修行といいます。しかし、説法品で説かれるのは、速やかに無上の覚りを得る方法です。このことは、菩薩たちにとって最も欲しい情報でしょう。もちろん、私たちにとっても興味関心のある内容です。
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菩薩 正に問う分
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3
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 18:40:46 修正

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第五 重ねて三疑を問う分
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経:世尊。この法門とは、()を何等となづくる。その義云何(いかん)。菩薩 云何が修行せん。
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訳:世尊。その法門は何という名称でしょうか? その教義はどの様なものですか? 菩薩は、どの様に修行すればよろしいでしょうか?
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論:大荘厳菩薩は、重ねて質問しました。それは、一法門の名称と教義と修行方法です。釈尊が教えを説くときには、その教えの名称・教義・修行方法を説きます。大荘厳菩薩はそのことを熟知していますから、質問したのでしょう。
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重ねて三疑を問う分
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4
ダルマ太郎 2024/06/02 (日) 21:30:22 修正

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第六 如来 広く説く分
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1.三疑を答える
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①一法門の名を答える
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経:仏の言わく。善男子、この一の法門をば名づけて無量義と為す。
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訳:仏は答えました。善男子、この一つの法門とは、名を無量義といいます。
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②一法門の行を答える-1
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経:菩薩、無量義を修学(しゅがく)することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、(おのずか)ら本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。しかるに諸の衆生、虚妄に、これは此、これは彼、これは得、これは失と横計して、不善の念を起し 衆の悪業を造って六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。
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訳:菩薩が無量義を修学しようとするならば、一切の現象は、過去・現在・未来において、真理・現象ともに空であり寂であると、知ることが必要です。空とは、そのものに実体がないことをいい、寂とは、因縁のない境地です。よって、大きいとか小さいということはなく、生じるとか滅するということはなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということはありません。固定した観方や一方に偏った観方を否定します。虚空のように、すべてが一つであり、二つに分かれたものではないと観察してください。しかし、人々は真理に反して、これは迷いである、これは悟りである、これは得である、これは失であると、決めつけてこだわり、自分勝手に解釈をして、そのために善くない思いを起こし、多くの悪い業を造って、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界を輪廻し、数々の苦を受けて、非常に長い期間、苦の世界から出ることができません。
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三疑を答える
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5
ダルマ太郎 2024/06/03 (月) 14:17:09 修正

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性相空寂(しょうそうくうじゃく)
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性相とは、真理と事象のことです。性とは、不変平等絶対真実の本体や道理のことで、相とは、変化差別相対の現象的なすがたのことです。中国でいう「理事」と同じような意味です。真理と事象とは離れているのではなく、真理は事象によって観ることができ、事象は真理によって仮に存在します。「性」とは性質、「相」とはその性質が表に現れた(すがた)のことだという解釈もありますが、性相空寂という場合は、真理と事象のことです。
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空とは、シューニャ śūnya の訳です。「欠如」「空虚」「膨れ上がった」という意味です。たとえば、空瓶というと中に入るべきものが入っていないことであり、空席というのは人が座っていない状態です。このように日本語にも空の概念はあります。大乗仏教で空において否定されるのは自性です。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳で、素質・本性・固有のあり方・本来のあり方という意味です。水が水であるための、火が火であるための本性のことです。大乗仏教では、そんな自性を否定して空を説きました。一般的には、自性という言葉はあまり使われず、実体ということが多いようです。空とは、「実体の欠如」のことです。

空である根拠は、事象が因縁によって有るからです。因と縁との和合によって生じるのですから、個々には実体は有りません。水が氷にもなれば、水蒸気にもなるのは、水に水としての固定した実体が無いからです。もし水という実体が有れば、いつまでも水として有り続けるので、氷にもならないし、蒸気にもなりません。種が発芽し、成長して花を咲かせ、実を作るのも、種に種としての実体が無いからです。実体が無いから、発芽し、花を咲かせ、実をつけます。水が氷にもなり蒸気にもなるのは、温度との関係です。水と温度との因縁によって変化しています。種も水や温度・養分との関係で変化しています。そういうように因縁を結べるのは、個々に実体がないからです。大乗仏教では、一切法空、諸法空、五蘊皆空と言って、すべての事象には実体が無いと説いています。すべてなので、それには例外はありません。因縁によってあるものは、すべて空です。
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寂とは、ニルヴァーナ nirvāṇa の訳です。煩悩の火を消した安らかな境地のことです。涅槃とも訳されます。涅槃とは、一切の因縁を結ばない境地なので、因縁によって作られるものではありません。

空とは、実体がないことであり、寂とは因縁がない状態のことです。因縁がないので変化はありません。実体がなく、因縁を結びませんので、大小という特徴は認識されず、生じるとか滅するという変化もありません。とどまることもなく、動くこともなく、進むことも、退くこともありません。「猫が歩いている」と言っても、猫という実体がないのであれば、歩くという行為はありません。一切は無量無辺の虚空のように差別・区別はなく無際であり、一切は一つであると観察することが勧められています。

空の理を深く観察することによって、一切には差別・区別は無く、無分別だと知ることができます。無分別を覚ることが智慧であり、智慧を完成させることが覚りです。最高の覚りを得ることができれば、成仏にいたります。よって、空を覚ることは、仏教において最重要な行です。
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性相は空寂であると説いています。真理においても、現象においても、空であり、涅槃の状態だというのです。一般的には、現象世界は迷いの世界であり、苦に満ちた状態だといいますから、涅槃とは逆です。龍樹菩薩は、世間と涅槃は同一であると論じています。
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中論観涅槃品第二十五より
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涅槃与世間 無有少分別
世間与涅槃 亦無少分別

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涅槃は世間と少分の別も有ること無く
世間は涅槃と亦た少分の別も無し

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na saṃsārasya nirvāṇāt kiṃcid asti viśeṣaṇam |
na nirvāṇasya saṃsārāt kiṃcid asti viśeṣaṇam ||19||

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輪廻には涅槃との区別は全くありません
涅槃は輪廻と少しの区別もありません

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訳経僧の鳩摩羅什は、輪廻を世間と訳しています。原文では、サンサーラ saṃsāra ですので輪廻です。輪廻する世界を世間と言いますので、鳩摩羅什はそのように訳したのでしょう。一般人にとっては、輪廻する世間と涅槃の境地は同じとはいえませんが、出世間法においては同じだというのでしょう。つまり、出世間的真理です。または、第一義諦・勝義諦・真諦ともいいます。真理には二種があります。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗の真理であり、世俗の言葉で表せる真理です。真諦とは、絶対なる真理であり、言葉では表せない真理です。無量義経・法華経では、俗諦と真諦は重視されています。
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性相空寂
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6
ダルマ太郎 2024/06/03 (月) 19:09:35 修正

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②一法門の行を答える-2
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経:菩薩、無量義を修学(しゅがく)することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、(おのず)から本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし。
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論:菩薩が無量義の教えを学ぼうとするのなら、すべての事象は、過去においても、未来においても、現在においても、真理・事象は空であり、涅槃であると知る必要があります。自然にそのようになっています。よって、事象には大小はなく、生じるとか滅するということもなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということもありません。虚空のように一法です。

龍樹の中論には、「不生・不滅。不常・不断。不一・不異。不来・不出」が説かれ、般若心経では、「不生不滅。不垢不浄。不増不減」が説かれています。ものごとの両辺を否定することによって、一切を否定する表現です。真諦(真実)へと導くために説かれる場合、このような否定形がよく使われます。真諦は、言葉では表現できないので、このように否定することによって導きます。つまり、ここでは真諦について述べています。
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経:しかるに諸の衆生、虚妄に、これは此、これは彼、これは得、これは失と横計して、不善の念を起し 衆の悪業を造って六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。
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論:人々は真理について無知なので、誤って世間を見ます。ものごとを分けて考え、損得で判断します。悪意をもって、悪事を行い、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道を輪廻し、様々な苦を受けて長い間自力で出ようとはしません。

ここには、真理を知らない者が苦しむことが説かれています。十二因縁にあるように、無明(真理を知らないこと)の者は、誤った意志によって分けて認識するため、自他を分け、個々を分けます。その結果、自分を可愛がって我執が強くなり、ものを区別するために差別します。自分が得することを優先するために、欲が強くなり、執着が強くなって、煩悩が増大します。そのために、悪事を行って、迷いの世界を輪廻し苦しみ続けるのです。
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一法門の行を答える-2
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9
ダルマ太郎 2024/06/04 (火) 11:33:49 >> 6

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六道輪廻について
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六趣輪廻ともいいます。真理を知らない人々は、悪業を積んで、死後、迷いの世界を輪廻するといいます。輪廻はバラモン教の時代に浸透した思想ですが、六道輪廻は仏教からです。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のことで、苦しみの度合いが最も重いのが地獄であり、最も軽いのが天上界です。地獄・餓鬼・畜生は、三悪道といわれます。

地獄とは、罪人の牢獄だといわれます。地中深くに八つの熱地獄と八つの寒地獄があり、生前の罪によって堕ちる地獄が異なります。獄卒として鬼がおり、罪人を様々なやりかたで苦しめます。針山、釜、炎、溶けた金属、煮え湯などで痛めつけられますから罪人はすぐに死んでしまいます。死んでもすぐに生まれ変わり、何度も何度も地獄で苦しみます。しかし、キリスト教の地獄と違って、いつかは地獄から他の境地に生まれ変わることができます。つまり、永遠に地獄にいるわけではありません。

餓鬼とは、飢餓に苦しむ鬼です。インドで鬼というのは、日本でいう幽霊のようなものです。喉が渇き、お腹がへっても、水や食料を口に入れると燃えてしまうので飢えた状態がずっと続きます。餓鬼は、地獄の近くにある餓鬼界や人間界、天上界に住むと言います。

畜生とは、動物のことです。人間界と同じ場所に住み、人間が認識することができます。本能のままに生きていますから、食べたいときには他の動物を殺してでも食べ、交尾をしたいときは、相手が親兄弟でもします。弱肉強食なので、いつも死が間近にあります。智慧のない状態です。

修羅とは、阿修羅のことで、もとは天上界に居た神です。争いを好み、帝釈天と戦って負け、海中に落とされました。修羅界とは、争いの世界です。

人間とは、私たち人類のことです。人間界に住んでいます。六道の中では、天上界の次に苦しみの少ない世界です。心が散乱で落ち着かず、まわりの変化に惑わされます。影響を受けやすいので倫理・道徳を学べば善を行いますが、誘惑によって悪をする傾向があります。善い縁があれば、成仏への道を進みます。

天とは、天上界のことであり、そこに住む神々のことです。バラモン教では、天上界は輪廻から解脱してから趣くところだといわれていましたが、仏教では迷いの世界だといわれています。神であっても、寿命があるために、死ぬ前には苦しむからです。死後は、六道を輪廻しますからゴールではありません。
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六道輪廻について
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7
ダルマ太郎 2024/06/03 (月) 21:37:28

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②一法門の行を答える-2
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経:菩薩摩訶薩。是の如く諦かに観じて、憐愍(れんみん)の心を生じ、大慈悲を発して(まさ)救抜(くばつ)せんと欲し、またまた深く一切の諸法に入れ。法の相 是の如くして 是の如き法を生ず。法の相 是の如くして 是の如き法を住す。法の相 是の如くして 是の如き法を異す。法の相 是の如くして 是の如き法を滅す。法の相 是の如くして よく悪法を生ず。法の相 是の如くして よく善法を生ず。住、異、滅もまたまた是の如し。菩薩 是の如く四相の始末を観察して、悉く遍く知りおわって、次にまた諦かに一切の諸法は念念に住せず、新新に生滅すと観じ、また即時に 生、住、異、滅すと観ぜよ。是の如く観じおわって、衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義もまた無量なり。
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訳:菩薩よ。この様に、真理を観る智慧がないために、迷いの世界を輪廻する人々を哀れだと思ったならば、大慈悲心を起こして救い抜くことを願い、願ったならば、もう一度深く一切の事物・現象を観察して下さい。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となって生じます。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となってとどまります。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となって変化します。事物・現象は、このような場合には、このような事物・現象となって滅します。事物・現象は、このような場合には、悪い事物・現象となって生じます。事物・現象は、このような場合には、善い事物・現象となって生じます。とどまることも、変化も、滅するのも、同じです。

菩薩よ。以上の様に、生じること、とどまること、変化すること、滅することの原因と結果を観察して、よく理解できたならば、次に、明らかに一切の現象は、瞬間瞬間に変化し、瞬間瞬間に生滅することを観察し、また同時に、生じ、とどまり、変化し、滅すると観察してください。この様に観察したならば、人々の様々な根性欲(機根、性質、欲望)の観察に入ります。根性欲は、人それぞれで異なりますから、根性欲は無量です。根性欲が無量であれば、その一人一人に応じて法を説く必要がありますので、説法もまた無量です。説法が無量ですから、その内容もまた無量です。
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②一法門の行を答える-2
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ダルマ太郎 2024/06/04 (火) 11:31:09 修正

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②一法門の行を答える-3
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経:菩薩摩訶薩。是の如く諦かに観じて、憐愍(れんみん)の心を生じ、大慈悲を発して(まさ)救抜(くばつ)せんと欲し、またまた深く一切の諸法に入れ。

論:凡夫は、真理を知らないために分別をし、我に執着し、悪事を重ねて苦の世界を輪廻します。そのことを観じたならば、憐みの心を生じ、大慈悲の心を起して、救済することを欲し、再び深くすべての事象を観察するようにと説いています。苦しんでいる人々を救うためには、憐みの心、大慈悲の心が必要だということでしょう。慈悲とは、自分と相手を分けずに、相手を自分として関わることです。そして、事物・現象を深く観察することが勧められています。
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経:法の相 是の如くして 是の如き法を生ず。法の相 是の如くして 是の如き法を住す。法の相 是の如くして 是の如き法を異す。法の相 是の如くして 是の如き法を滅す。

論:如とは、真理のことですので、真理のままに事象は生じ、維持し、変異し、滅します。真理によって事象は生じ、維持し、変異し、滅します。現象は真理によってあるということです。
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経:法の相 是の如くして よく悪法を生ず。法の相 是の如くして よく善法を生ず。住、異、滅もまたまた是の如し。

論:悪が生じるのも、善が生じるのも同じです。悪意は、真理によって生じ、維持し、変異し、滅します。善意も真理によって生じ、維持し、変異し、滅します。住、異、滅も同じです。
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経:菩薩 是の如く四相の始末を観察して、悉く遍く知りおわって、次にまた諦かに一切の諸法は念念に住せず、新新に生滅すと観じ、また即時に 生、住、異、滅すと観ぜよ。

論:菩薩は、生住異滅という現象の変化を観察して、悉く遍く知り終わったなら、さらに深く観察します。そして、一切の現象は、瞬瞬にとどまることなく、新新に生滅することを観じて、即時に変化していることを観察します。たとえば、ロウソクの火は、瞬間的に生じ、維持し、変異し、生滅します。維持すると言ってもほんの一瞬です。たくさんの火が生じては滅することによって火は燃え続けています。
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経:是の如く観じおわって、衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義もまた無量なり。

論:根性欲とは、機根・性質・欲求のことです。機根とは、教えを受けて理解する能力のことです。この機根・性質・欲求もまた瞬間的に生じ、維持し、変異し、生滅します。まわりの変化によって、どんどん変わりますから根性欲は無量です。しかも、たくさんの人々を救済するためには、人それぞれの根性欲に合わせますので無量です。このように衆生と関われば、根性欲は無量なので、説法は無量であり、説法が無量なので、教義もまた無量です。
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一法門の行を答える-3
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ダルマ太郎 2024/06/04 (火) 23:07:15

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③一法門の義を答える
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経:無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして、相なきを名づけて実相とす。菩薩摩訶薩。是の如き真実の相に安住しおわって、発する所の慈悲、明諦にして虚しからず。衆生の所に於いて、真によく苦を抜く。苦 既に抜きおわって、また為に法を説いて、諸の衆生をして快楽(けらく)を受けしむ。
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訳:無量の教えの内容は、一つの真理から生じます。その一つの真理とは、無相ですから言葉にすることはできません。無相とは、分別を離れた無分別の境地です。無相ですから相をみることはできず、よって相をとらえることはできず、相をとらえることができないから、相がないと観ることを、名付けて実相といいます。菩薩摩訶薩よ。この様な真実の相を覚り、その覚りが完全に自分のものになったことによって生じる慈悲は、明らかに本物です。この世界で、よく人々の苦を抜き去ります。苦を抜きおわったならば、また、人々のために教えを説いて、多くの人々に、人生の真の喜びを受けさせます。
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③一法門の義を答える
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11
ダルマ太郎 2024/06/06 (木) 16:40:25

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無量義は一法より生ず
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経:無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして、相なきを名づけて実相とす。
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論:仏教の経典は、山ほどあります。キリスト教の聖書やイスラム教のコーランに比べると膨大です。なぜ、そのように多くの経典があるのでしょう? それは、人々の根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量だから教義もまた無量です。つまり、対機説法だから多くの教義があるわけです。よって、多くの経典がつくられました。人々を救おうとするから、そのような結果になったのでしょう。

教義は無量でも、無量の教義は一つの真理より生じるといいます。一つの真理をもとにして、無量の教えを展開するのです。その一つの真理とは無相です。この無相とは、相が無く、相にはならず、相にならずして、相がないことを実相といいます。相とは、ラクシャナー lakṣaṇā の訳で、意味は、特徴・形です。この場合は、特徴の意味ですので、無相とは「特徴が無い」ということです。一つの真理とは、特徴が無いということです。

特徴とは、他と比べることによって成り立ちます。大きいというのは、それよりも小さいものがなければ成り立たず、長いというのは、それよりも短いものがなければ成り立ちません。そのもの自体では、大きいとか小さいとか、長いとか短いという特徴をみることはできません。つまり、因縁によって特徴はあります。
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経:菩薩摩訶薩。是の如き真実の相に安住しおわって、発する所の慈悲、明諦にして虚しからず。衆生の所に於いて、真によく苦を抜く。苦 既に抜きおわって、また為に法を説いて、諸の衆生をして快楽けらくを受けしむ。

論:一切の事象には特徴がありません。特徴が無いので、執着の対象はありません。よって、菩薩は、無執着によって教えを説くのです。とらわれが無いので自由自在に教えを説くことができます。相手が男だとか女だとか、大人だとか子供だとか、金持ちだとか貧乏だとかを観ることが無く、ただ真理を知らないために迷い、悩み、苦しんでいることを観て、真理を学習できるように関わります。そのような関わりの中で生じる慈悲は本物です。人々の苦を抜き、人々を安楽へと導きます。
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論:無量義の行をまとめると、まず菩薩は、真理においても現象においても、空であり涅槃であると学ぶことが大事です。あらゆるものには実体は無く、因縁によって現象を作りませんので、大きいとか小さいという特徴はありません。生じる・滅する、とどまる・動く、進む・退くという特徴もありません。一切の特徴はないので執着の対象はありません。二つに分けてみるのではなく、すべては一つであることを観察することが必要です。

しかし、人々は、分けて認識しますから、自分の感情に従って人やものと関り、区別や差別を作ります。一つ一つの特徴をみて、欲しいものには近づこうとし、欲しくないものとは離れようとします。欲しくても手に入らないことは多いし、欲しくなくても離れられないことは多々ありますから、そのことで苦が生じます。真理を知らなければ、分別することは続きますので苦はずっと続きます。

そういう人々を救うために、さらに事象の観察をすれば、事象は真理によって生じ、維持し、変異し、滅することが分かります。瞬瞬に変化しています。個の変化は、真理によって有るのです。悪も善も同じです。教えを受けて理解する能力(根)、性格、欲求も変化しています。当然ながら、機根・性格・欲求も瞬瞬に生住異滅しています。よって、根性欲は無量であり、人それぞれで根性欲は異なりますから無数無量です。相手に合わせて説法をしようとすれば、説法は無量であり、説法が無量なので教義もまた無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。その真理は無相です。つまり、特徴が無いことです。特徴が無いので、説法者は一切に執着することなく相手と関わります。そのような関わりの中で生じる慈悲は本物です。人々の苦を抜き、人々を安楽へと導きます。
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無量義は一法より生ず
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12
ダルマ太郎 2024/06/06 (木) 17:00:04 修正

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2.結歎
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経:善男子。菩薩 もし、よく是の如く一切の法門 無量義を修せん者、必ず疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得ん。善男子。是の如き 甚深無上大乗無量義経は、文理真正に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず。この故に善男子、菩薩摩訶薩 もし疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、まさに是の如き甚深、無上大乗、無量義経を修学すべし。

訳:善男子。菩薩が、この様に一切の法門の源である無量義の教えをよく修めたならば、必ず、速やかに最高の覚りを得ることができます。善男子。この様に非常に奥深い大乗の無量義の教えは、道理がきちんとしており、この上もなく尊い教えです。過去、現在、未来の諸仏が共に守護する教えです。修行を妨げる様々なものたちや仏教以外の様々な教えが入る余地はなく、一切の邪見やまわりの変化に振り回されて崩れるという事はありません。このために善男子よ。菩薩が速やかに最高の覚りを得ようと願うならば、非常に奥深くこの上のない大乗の無量義の教えを修学してください。
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結歎
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13
ダルマ太郎 2024/06/06 (木) 22:05:56

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大衆、重ねて徴かに問う分
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三徳の不可思議を歎ず
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経:その時に大荘厳菩薩、また仏に白して言さく。世尊。世尊の説法不可思議なり。衆生の根性 また不可思議なり。法門解脱 また不可思議なり。

訳:その時に大荘厳菩薩が、また仏に申し上げました。世尊。世尊の説法は、非常に深遠で思議できません。人々の根性欲も、また深遠で思議できません。教えも修行方法も、また深遠で思議できません。
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発問の所由を明かす

経:我等、仏の諸説の諸法に於いて、また 疑難なけれども、しかも諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて、世尊に()いたてまつる。

訳:私たちは、世尊の説かれる様々な教えにおいて、疑問や困難はございませんが、人々は、迷いとまどうこともあろうかと存じます。そのような迷いやとまどいが起こらないように、重ねて世尊にお伺いいたします。
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正問を挙ぐ
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経:如来の得道より以来 四十余年、常に衆生の為に 諸法の四相の義、苦の義、空の義、無常、無我、無大、無小、無生、無滅、一相、無相、法性、法相、本来空寂、不来、不去、不出、不没を演説したもう。もし聞くことある者は、或は、忍法、頂法、世第一法、須陀洹果(しゅだおんか)斯陀含果(しだごんか)阿那含果(あなごんか)阿羅漢果(あらかんが)辟支仏道(じゃくしぶつどう)を得、菩提心を発し、第一地、第二地、第三地に登り、第十地に至りき。むかし説きたもう所の諸法の義と、今説きたもう所と、何等の異なることあれば、しかも、甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば 必ず ()く無上菩提を成ずることを得んと言う。この事如何。ただ願わくは世尊、一切を慈哀して広く衆生の為にしかもこれを分別(ふんべつ)し、普く現在 及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。

訳:世尊は、悟りを得てから、四十余年の間、常に人々のために様々な教えを説かれてきました。それは、一切の現象が、生じ、とどまり、変化し、滅するという「四相の義」、一切が苦であるとする「苦の義」、事物・現象は、縁起に依って仮に生滅するために、そのものには実体はないとする「空の義」、縁起に依って生滅するものは必ず変化するという「無常の義」、自分という概念、自分のものという概念を否定する「無我の義」、大・小にこだわらず「無大・無小」と観ること、生・滅にとらわれず「無生・無滅」と観ること、真理は一つであるという「一相」、有無の相を超越した「無相」、一切のものごとの真理としての性である「法性」、真理としての相である「法相」、本来は空であり寂であるとする「本来空寂」、「不来・不去」、「不出・不没」という涅槃の境地を演説されてきました。

もし、この教えを聞くことができた者は、最初は心温まるものを感じる程度から徐々に高まり、その教えの尊さに気づき、煩悩を捨てることによって迷いの世界から脱することができると学び、実践して、ついには阿羅漢果という声聞の最高の境地を得る事ができました。または、縁覚の者は辟支仏道を得、悟りを目指す心を起こし、第一地、第二地、第三地に登り、第十地の境地に至りました。

さて、これまでに説かれた教えと、今説かれた教えと、どの様な違いがあるのでしょう? しかも、この大乗の無量義の教えのみ、菩薩が修学すれば、必ずまっすぐに最高の悟りを成すと言われるのには、どの様な理由があるからでしょう? ただ、願わくは世尊、一切の人々を哀れと思われて、広く人々のために詳しく分けてお説き頂き、広く、現在、未来に教えを聞くすべての人々が、少しの疑いを持つことのないように、お教えくださいますようお願い申し上げます。
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大衆、重ねて徴かに問う分
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14
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 00:30:15 修正

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用語の意味-1
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不可思議(ふかしぎ)
アチントヤ acintya
計り知れない、神秘的な。仏の智慧や神通力というのは、それを思い測ったり言葉で言い表したりすることはできない、ということ。

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四相(しそう)
生住異滅。生=生起。住=維持。生起した状態を保つ。異=その状態が変異する。滅=消滅。一切の事象は、瞬瞬に変化するということ。無常。

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()
ドゥフカ duḥkha
憂悲苦悩。心身を悩ませること。不快。不自由。自分の思い通りにならないこと。対義語は楽。

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(くう)
シューニャ śūnya(形)シューニャター śūnyatā(名)
無自性。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva のことで、物それ自体の独自の本性、もの・ことが常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体のこと。根本的な性質、存在の本質を表す。西洋哲学の実体に相応する概念である。大乗仏教では、自性を否定して空が説かれた。

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無常(むじょう)
アニトヤ anitya
常住の否定。因縁によって作られたものは、常住ではないということ。

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無我(むが)
アナートマン anātman
アートマンの否定。アートマンとは、ヴェーダの根本思想で、個の原理、個の主体、個の実体のこと。仏教では、アートマンを否定して無我を説いた。

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無大・無小
真諦へと導く俗諦。真諦とは、真の真理・真実・正法・妙法のことで、絶対の真理なので言葉では表せない。俗諦とは、世俗の言葉によって表した真理。真諦は言葉によって説くことができないため、仏陀は、俗諦によって真諦へと導いた。真諦においては、一切の概念が無いので、時間や空間という概念も無い。空間的概念が無いので、大きいとか、小さいという見方はできない。

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無生・無滅
真諦へと導く俗諦。時間的概念が無いので、生じる・滅するという見方はできない。

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一相・無相
真諦へと導く俗諦。すべては一つの特徴であり、すべてには特徴は無い。

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用語の意味-1
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15
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 00:39:08

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用語の意味-2
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法性(ほっしょう)
ダルマター dharmatā
物事の真の性質、現実。エッセンス。諸法実相。

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法相(ほっそう)
一切の存在の特徴。万象のありさま。

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本来空寂(ほんらいくうじゃく)
真諦へと導く俗諦。一切の事象は根本的に空であり、涅槃であるということ。つまり、万物には実体は無く、安楽の境地である。

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不来・不去(ふらいふこ)
真諦へと導く俗諦。来るものはなく、去るものはない。

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不出・不没
真諦へと導く俗諦。出るものはなく、没するものはない。

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忍法
現象における忍耐の位。

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頂法
堕落した行為に逆戻りするか、先に進んで見道に入るかのどちらかになる位。

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世第一法
世俗の中で最も高い位。

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用語の意味-2
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16
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 00:45:53

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用語の意味-3
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須陀洹果(しゅだおんか)
スローターパンナ・パラ srotāpanna
聖者の道に到達したこと。

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斯陀含果(しだごんか)
サクリダーガーミン・パラ sakṛdāgāmin-phala
聖者の第二段階目に到達したこと。

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阿那含果(あなごんか)
アナーガーミン・パラ anāgāmin-phala
聖者の第三段階目に到達したこと。

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阿羅漢果(あらかんが)
アルハット・パラ arhat-phala
聖者の最終段階に到達したこと。

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辟支仏道(じゃくしぶつどう)
独覚の覚り。

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発菩提心(はつぼだいしん)
ボディ・チッタ・ウトパーダ bodhi-citta-utpāda
覚りを目指す心を起すこと。

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第一地~第十地
菩薩修行の階位である52位の中、第41~50位まで。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教下利益することが、大地が万物を載せ、これを潤益することに似ているから「地」と名づく。

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用語の意味-3
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17
ダルマ太郎 2024/06/08 (土) 01:57:40 修正

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如来 広く説く分-1
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能問を讚歎す
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経:ここに仏、大荘厳菩薩に告げたまわく。善哉善哉、大善男子。よく如来に 是の如き甚深無上大乗微妙の義を問えり。

訳:そこで仏は、大荘厳菩薩に告げました。素晴らしい、素晴らしいことです。大善男子よ。よく私に、この様に非常に奥深くこの上のない大乗の無量義の教えについて質問をしてくれました。
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利益の不虚を明かす
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経:まさに知るべし。汝よく利益(りやく)する所多く、人・天を安楽し、苦の衆生を抜く。真の大慈悲なり、真実にして虚しからず。

訳:あなたは、この質問によって、多くの功徳を得ることが出来るでしょう。この答えを得れば、多くの人々や神々は安らぎの境地に入り、人々を苦から救うことができます。あなたの質問は、真の大慈悲のあらわれです。本物であって、偽りではありません。
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自他の疾かに成ずることを明かす
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経:この因縁を以って、必ず 疾く無上菩提を成ずることを得ん。また、一切の今世、来世の諸有の衆生をして、無上菩提を成ずることを得せしめん。

訳:この因縁によって、必ず速やかに無上の覚りを得ることが出来るでしょう。また、今世と来世の人々は、無上の覚りを得ることが出来るでしょう。
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如来 広く説く分-1
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