仏教のお話

Rの会:無量義経 / 2

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ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 14:16:14 修正

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はじめに
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Rの会では、『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』を主にして、その開経としての『無量義経(むりょうぎきょう)』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)』を合わせて学んでいます。この三経を法華三部経といい、妙法蓮華経並開結(みょうほうれんげきょうならびにかいけつ)とも称されます。ただし、このことは、インドの法華経で言われていたことではなく、中国において、天台大師智顗(てんだいたいしちぎ)が言い出したことです。なので、法華三部経というものが「有る」のではなく、仮にそういう風に言っています。ここでは、Rの会の法華経観をテーマにしていますので、法華三部経を取り上げることにします。
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Rの会では、インドの法華経そのものを学ぶのではなく、創設者の庭野開祖によって解釈された内容を学んでいます。それは、中国において訳された『妙法蓮華経』とも異なります。完全にオリジナルから外れているとは言いませんが、庭野開祖の法華経の解釈をインドの法華経だと信じてしまうことは問題だと思います。Rの会の法華経の解釈本には、『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』というタイトルをつけていますので、あくまでも「新しい解釈」「新釈」であることを念頭においておく必要があります。
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私が法華経の解釈をする場合は、サンスクリット原典のサッダルマ・プンダリーカ・スートラ、鳩摩羅什(くまらじゅう)の妙法蓮華経を参照にします。分からない言葉については、仏教大辞典を開いて意味を調べながら進めていきます。できるだけ、自分勝手な解釈はつつしむつもりです。しかし、開経としての『無量義経』、結経としての『仏説観普賢菩薩行法経』には、サンスクリット原典がありませんから、中国語訳の経典を参照にします。
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今回は、Rの会の高知教会で、YouTubeにて講義された『みんなで法華経を学ぼう!』を参照にします。せっかく動画になっていますから、リンクを貼らせていただきます。これによって、Rの会の法華経の新しい解釈がある程度理解できることでしょう。
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はじめに
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    ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 15:17:17 修正 >> 2

    法華経を学ぶ上での心構え
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    まず、法華経を学ぶ上での心構えが4つ説かれています。
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    ①又如来の滅度の後に、若し人あって妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜(ずいき)せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記を与え授く。
    :
    この経文は、法華経の法師品(ほっしほん)第十からの引用です。講師は、「如来が亡くなった後に、もしある人が法華経の一行でも一句でも聞いて、一瞬でもいいから「ああ、ありがたい」と思うのなら、成仏することを保証しましょう」というように解釈しています。つまり、法華経をすべて学び尽くそうとするのではなく、一行でも一句でも聞いて喜びを感じるのであれば成仏に通じるということなのでしょう。確かに何事でも学び修得するためには、最初の喜びが重要だと思います。喜びを得ることができれば、学習意欲は高まることでしょう。
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    しかし、ここに出てくる随喜(ずいき)という言葉は、「ああ、ありがたい」というような単純な意味ではありません。随喜とは、サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。法華経の一行でも一句でも聞いて、自分勝手に解釈したのでは随喜とはいえません。法華経を深く学び、共感し、喜びを得ることが成仏に通じます。そのためには、法華経に書かれたことを正しく読むことが重要です。
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    ②其の習学せざる者は 此れを暁了(ぎょうりょう)すること能わじ
    :
    この経文は、法華経の方便品第十からの引用です。暁了とは、「明らかに理解すること」「明らかにさとり知ること」です。習学とは、「知識を学んで身につけること」です。「其の習学せざる者は」とありますから、何を修学するのかが分かりません。方便品には、次のように説かれています。
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    舎利弗(しゃりほつ)当に知るべし 諸仏の法是の如く
    万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう
    其の習学せざる者は 此れを暁了すること能わじ
    汝等既已(すで)に 諸仏世の師の
    随宜(ずいぎ)方便の事を知りぬ 復諸の疑惑なく
    心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ

    :
    :
    つまり、「随宜方便の事」を修学することが勧められています。諸仏は、「万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう」のですから、方便を方便として学ぶことが大事だということです。
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    :
    ③「習学」の3つのステップ「聞解(もんげ)思惟(しゆい)修習(しゅしゅう)
    :
    この経文は、法華経の法師品第十からの引用です。聞解とは、教えを聞くこととその教えを理解することです。思惟とは、教えを理解した上で思索することです。修習とは、思惟した内容を身体で実践することです。
    :
    法師品第十には、次のように説かれています。
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    若し是の法華経を未だ聞かず、未だ解せず、未だ修習すること能わずんば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を去ること尚お遠し。若し聞解し思惟し修習することを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。
    :
    :
    教えを聞いて理解するだけではなく、教えを思惟するだけではなく、教えを実践するだけはなく、聞解・思惟・修習を行うことで最高の覚りに至ります。聞解を得意とする声聞(しょうもん)、思惟を得意とする縁覚(えんがく)、修習を得意とする菩薩(ぼさつ)。人にはタイプがあって、得意とすることは違いますが、聞解・思惟・修習をバランスよく行うことで、成仏への道は開けます。
    :
    ④『十分の一でも実践できれば、いや、その一つにでも徹することができれば、りっぱな精進(しょうじん)といえる』
    :
    法華経は、菩薩への教えですから、法華経に書かれている修行内容は、非常に難しいです。六波羅蜜(ろくはらみつ)にせよ、五種法師(ごしゅほっし)の行にしろ、凡夫はなかなか続けることはできません。できることから、こつこつの実践することが大事です。頑張ることと精進は違います。精進は、具体的に行動することを続けます。

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    法華経を学ぶ上での心構え
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    ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 01:43:07 >> 3

    「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
    :
    教えを日常生活にいかに実践すべきかを主眼に置いた
    法華三部経の真精神を学ぶため
    …義に依って語に依らざれ

    :
    宗教の本義を明らかにしたい
    あらゆる宗教に含まれているはずの共通の真理
    人類すべてが進めるような「融和と協調」の場をつくらなければならない
    〈宗教の本義〉をきわめ、その実践を最大の目的としてまとめた

    :
    これは、庭野開祖の主眼なのでしょう。法華三部経の真精神を学び、教えを日常生活にいかに実践するかを重視されたようです。また、宗教の本義を明らかにし、世界の宗教の共通の真理を明らかにして、「融和と協調」の場をつくることを目的にされたようです。宗教者として、立派な考えだと思います。しかし、法華経がはたして日常生活で実践可能な行なのかが疑問だし、宗教協力に法華経が役立つのかも疑問です。その辺のところをこの勉強会を通して学んでいきたいと思っています。
    :
    :
    義に依って語に依らざれ
    :
    この経文は、「法四依」といい、涅槃経にあります。「仏の所説の如き、是の諸の比丘、当に四法に依るべし。何等かを四となす。法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」。
    :
    法に依って人に依らざれ(依法不依人)
    …真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない
    :
    義に依って語に依らざれ(依義不依語)
    …意味に依拠して、言葉に依拠しない
    :
    智に依って識に依らざれ(依智不依識)
    …智慧に依拠して、知識に依拠しない
    :
    了義経に依って不了義経に依らざれ(依了義經不依不了義經)
    …仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない
    :
    どれも重要なことですが、逆の人が多いのも事実です。真理を無視して人の解釈に依る人、意味を知ろうとせず言葉に依る人、智慧を求めず知識に依る人、真実が完全に説かれた教えを学ぼうとせず不完全な経典に依る人など。仏教を学ぶ人は、法四依を念頭に置いておく必要があります。特に市販の解釈本に依り、経典を読まないのは誤った理解に通じますので注意が必要です。
    :
    :
    「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
    :
    :

    71
    ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 22:20:02 修正 >> 3

    :
    宗教の本義とは
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    :
    英語のリリジョン religion の訳語として、宗教という言葉が当てられました。宗教とは、もともと仏教用語で、「重要な教え」という意味です。華厳経(けごんぎょう)などに出てくる言葉です。キリスト教と仏教とでは、思想が違うし、儀礼・儀式、習慣が違いますから、宗教という言葉でくくることはできないのですが、キリスト教的な宗教の概念が広く伝わってしまい、仏教に大きな影響を与えています。
    :
    広辞苑によれば、「宗教とは、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」だと定義されています。この定義は、キリスト教的であって、仏教には当てはまりません。少なくとも、釈尊の仏教とは異なります。インドでは、思想を三つのタイプに分けてとらえました。信仰タイプ・儀礼儀式タイプ・覚りを目指すタイプです。信仰タイプはヒンドゥー教、儀礼儀式タイプはバラモン教、覚りを目指すタイプは仏教です。仏教は、神への信仰はせず、儀礼儀式をしません。覚りを目指して道を進みます。キリスト教は、神への信仰のタイプでしょうから、仏教とはタイプが違います。
    :
    現在の日本の仏教をみると、如来・菩薩・明王・神への信仰をするし、葬式などの儀式を中心にしているので、本来の仏教とは大きく異なります。しかも、覚りを目指すという大事な目的を失っていますので、果たして仏教と呼べるのかも疑問です。仏教の道は、(かい)(じょう)()という三学、八正道、六波羅蜜などが有名ですが、その最も基本となる持戒を日本仏教は捨てています。在家であれば、五戒を持ちますが、五戒とは何かを記憶している人は少ないでしょう。殺生(せっしょう)や窃盗はしなくても、邪淫(じゃいん)・嘘・飲酒は平気でしているように思えます。新興宗教であっても、仏教系ならば、五戒は守る必要がありますが、忘年会などの宴会でお酒を楽しみ、会員同士で不倫をしている人もいます。戒律の無い宗教ってどうなのでしょう?
    :
    宗教の本義を明らかにしたいのなら、まずは戒を守ることから始めるのがいいと思います。持戒によって心を浄めれば禅定(ぜんじょう)に入りやすくなるし、禅定に入ることで智慧(ちえ)を求めやすくなり、智慧を得れば成仏に近づきます。仏教の本義は、智慧を完成させ、成仏することなのですから、まずは、持戒からでしょう。
    :
    大乗仏教の修行者である菩薩は、菩薩戒を受持します。それは、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)と呼ばれるもので、止悪・修善・利他という三つの戒です。つまり、悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすというものです。止悪とは、すべての戒を守ることですから、菩薩戒を受持する者が五戒を破ることはありえません。
    :
    :
    宗教の本義とは
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  • 4
    ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 18:46:54 修正 >> 2

    :
    法華経は難しい教えではない?
    :
    :
    Rの会では、「法華経は難しい教えではない」と教えます。難しくないのなら簡単な教えなのでしょうか? 私は、そうとは思えません。法華経の経文中にも難解な教えだと書いてあるのですから、簡単な教えではないでしょう。難しいところを省き、または簡単な意味に置き換えて教えれば、それを聞く者は簡単な教えだと思ってしまうのかも知れませんが、それだと法華経の教えを歪めていることになります。
    :
    法華経は、大乗仏教の経典です。多くの般若経(はんにゃきょう)がつくられた後に世に出ました。般若経には、「(くう)」の理が説かれており、法華経では、空の実践が説かれています。よって般若経を深く学び、空の理をマスターしていなければ法華経は理解できません。いきなり法華経を学んでも、ちんぷんかんぷんになってしまいます。般若経といっても、般若心経を学ぶのではなく、八千頌般若経・二万五千頌般若経などを学ぶ必要があります。般若心経は、二万五千頌般若経の抜粋なので、これだけを学んでも理解はできません。
    :
    Rの会では、般若経を学ばず、法華経を学びます。それだと空の理が分からないので、法華経の理解はできません。それなのに「法華経は難しい教えではない」と主張するのはおかしな話です。法華経の中でも、安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四などで空の理は説かれていますが、短い文章なので、理解できる人は少ないでしょう。般若経を学んだ人ならば分かるのでしょうが、法華経だけを読んで理解しようとしても無理があります。
    :
    Rの会の会員の大多数は主婦のようです。それも中高年です。そういう人たちに仏教の甚深(じんじん)の教えを説いても伝わりにくいでしょう。だから、「法華経は難しい教えではない」と言って法華経に興味を持たせようとしているのかも知れません。だとしたら、法華経という難しい経典を選ばず、もっと理解しやすい経典を選ぶべきです。たとえば、『法句経(ほっくきょう)』などが手ごろかも知れません。『法句経』は、初期仏教の経典であり、初心者でも、ある程度の理解はできると思います。
    :
    仏教は、対機説法です。相手の機根(きこん)・性格・欲求に応じて法を説きます。法華経は、菩薩への教えですから、一般人では歯が立ちません。機根に応じた教えを説くことが重要だと思います。
    :
    :
    法華経は難しい教えではない?
    :
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    76
    ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 22:32:36 修正 >> 4

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    法華三部経
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    無量義経
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    R論:釈尊は、いままでの四十余年間、こういう目的で、このように法を説いてきた、じつはまだ真実をすっかりうち明けていないのだ。しかし、今まで説いてきた教えもすべて真実であり、すべて大切なものである、なぜなら、すべての教えはただ一つの真理から出ているからである。
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    太郎論:日本の法華経信者の多くは、無量義経の「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」という言葉を切り取って、無量義経以前の教えでは、真実は説かれていないと主張し、法華経の方便品第二の「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん) 但説無上道(たんぜつむじょうどう)」(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)を切り取って、法華経においては方便を捨てて無上の道を説くのだ、と主張します。
    :
    太郎論:「真実」は仏教用語では、「絶対の真理」「仮ではないこと」「究極のもの」「真如」を意味します。古代インドでは、真理は言葉では表せないといわれました。それは客体ではありませんから、客観的表現では表せません。言葉は人が作ったものなので、究極的な真理を言葉で表すことはできません。そのことを知っていれば、仏教経典にある教えはすべて真理ではなく、真理へと導く方便なのだと分かります。もちろん、法華経も言葉によって説かれていますから、方便です。
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    序分・正宗分・流通分
    :
    R論:序分(じゅぶん)〉とは、そのお経は、いつ、どこで、どんな人びとを相手として、なぜお説きになったのかという大要などが書かれてある部分。正宗分の糸口。

    正宗分(しょうしゅうぶん)〉とは、そのお経の本論。中心となる意味をもった部分。

    流通分(るずうぶん)〉とは、正宗分に説いてあることをよく理解し、信じ、身に行えば、どんな功徳があるかということを説き、だからこれを大切にして、あまねく世に広めよ、そういう努力をする者にはこんな加護があるのだよ、ということを説かれた部分。
    :
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    法華経 迹門(しゃくもん)本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)本仏(ほんぶつ)
    :
    R論:迹門の教えは迹仏の教え。迹仏とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊のことです。ですから、迹門の教えは一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬ、ということを教えられたものです。いいかえれば、智慧の教えです。
    :
    R論:本門では、「本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉である」ということを明らかにされます。したがって本門の教えは、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ、というもので、智慧を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
    :
    太郎論:法華経には、「真理と現象」のことが説かれています。真理によって現象は起こり、住し、異変し、滅します。現象は真理によって起こります。また、真理は目に見えませんから、真理を覚るには現象を観察する必要があります。現象は真理によって起こりますから、現象を通して真理を観ることができる、という理屈です。ただし、そのことを理解するのは難しいので、法華経前半では、「言葉によって真理を知る」、ということが説かれています。真理へと導くものを方便といいますので、前半では、言葉を方便だとして説いています。後半では、「現象を通して真理を知る」、ということが説かれています。
    :
    :
    仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうぎょう)
    :
    R論:わたしどもが法華経の精神を身に行うための具体的な方法として、(釈尊は)懺悔(さんげ)するということを教えられてあるのです。
    :
    R論:修行次第で自分も仏になれるのだとわかっても、日常生活では悩みや苦しみ、いろいろな欲や悪念が次から次へと湧いてきます。それで、せっかく自分も仏になれるという勇気もくじけがちになります。つい迷いの黒雲に押し流されそうになるのです。その黒雲を払いのけるのが懺悔であり、その懺悔の方法を教えられたのが《観普賢経》なのであります。
    :
    :
    懴悔(さんげ)とは
    :
    R論:第一に、「誤りを自覚する」
    第二に、「それを改めることを心に誓う」
    第三に、「正しい道に向かう努力をする」

    :
    :
    法華三部経
    :
    :

  • 5
    ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 19:15:56 修正 >> 2

    :
    法華経に説かれていること
    :
    :
    法華経は一切経の精髄
    :
    ① 宇宙の本当の(すがた)はどうであるか?
    ② 人間とはどんなものか?
    ③ 人間はどう生きねばならないか?
    ④ 人間と人間との関係はどうあらねばならないか?

    :
    これらのことが、法華経で説かれている、ということですが、果たしてそうなのでしょうか? 宇宙の相は明かされていないし、人間とはどういうものかも説かれていません。人間はどう生きねばならないかについては、あくまでも仏教的解釈です。人間と人間との関係についても同様です。これらのことは、Rの会で説かれることなので注意が必要です。
    :
    :
    仏はいつもいる すべての人に仏性(ぶっしょう)あり
    :
    ① 仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる
    ② すべての人に仏性(ぶっしょう)あり
    ③ だれでも努力次第で仏の境地に達せられること

    :
    「仏はいつもそばにいて、われわれを導いてくださる」というときの仏とは、肉体を持った釈尊のことではなく、真理を体とする法身仏(ほっしんぶつ)のことです。このことは、難しい内容ですので、じっくりと学ぶ必要があります。「すべての人に仏性あり」ということは、法華経には説かれていません。法華経の後につくられた『涅槃経(ねはんぎょう)』で説かれたことですので、法華経に仏性という説はありません。仏性という言葉もありません。「だれでも努力次第で仏の境地に達せられること」(皆成仏道(かいじょうぶつどう))は、法華経に説かれています。
    :
    :
    仏性(ぶっしょう)とは
    :
    仏性とは、ブッダ・ダートゥ Buddha-dhātu の訳です。ブッダとは、仏陀のことで、仏ともいいます。最高の覚りをひらかれた人のことです。ダートゥとは、生物が生存し輪廻(りんね)する空間を意味します。フィールド、世界、要素などの意味もあります。よって、仏性とは、「仏の境界」のような意味です。衆生は、生まれもって仏と同じ境界を持つということです。または、ダートゥには、原因という意味もありますので、「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味としても使われます。
    :
    解釈本を読むと、仏性とは、「仏の性質」の意味で解釈していることがあります。私たちの心には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの境界と声聞・縁覚・菩薩・仏陀という聖なる境界があり、誰もが仏と同じ性質を持つというのです。この意味での仏性を自覚するということは、我を意識するのと同じで、空なるものを有ると観ることにつながります。無我に反しています。ヒンドゥー教的な思想です。日本では、仏性とか、如来蔵に注目する傾向が強く、そのことが執着につながることに無頓着です。
    :
    仏性を「仏に成る原因」「仏に成る可能性」の意味として使うことは問題ありません。法華経で、声聞たちが授記(じゅき)されるのは、仏に成る可能性があるからです。授記とは、将来成仏することの予言です。可能性があるから、皆成仏道(かいじょうぶつどう)が説かれています。
    :
    :
    法華経に説かれていること
    :
    :

  • 6
    ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 20:35:14 修正 >> 2

    :
    仏教はただ一仏乗
    :
    :
    ○ ただ一筋しかない仏の教えの大道に目を向けさせようという、やむにやまれぬ熱意から書かれたのが、ほかならぬ≪妙法蓮華経≫だったのです。
    :
    紀元前後に般若経の一派が起こり、自らを大乗仏教だと称しました。それまでの仏教は、自分たちの修行しか考えていない劣ったものだといい小乗仏教だと蔑称で呼びました。ただし、ここで小乗仏教と呼ばれたのは、説一切有部(せついっさいうぶ)です。説一切有部は托鉢(たくはつ)をせず、精舎(しょうじゃ)にこもって経典の研究ばかりしていたため、劣っているといわれました。
    :
    やがて説一切有部と大乗仏教徒の間で対立が起こり、説一切有部は大乗を伝統のないでっちあげの仏教だと非難し、大乗は説一切有部を成仏できない仏教徒だと非難しました。そのことを哀れだと思った法華経の一派が、小乗(説一切有部)も大乗も同じく釈尊の弟子であり、誰もが修行次第で成仏できるとして「一仏乗(いちぶつじょう)」を著しました。それが法華経です。
    :
    :
    中国に〈理〉の花開く
    :
    大乗仏教は、インドから中央アジアを経て、中国に渡りました。法華経も同様です。紀元前後から編纂(へんさん)され始め、2世紀頃に成立し、中国に伝わって、数人の訳経僧(やっきょうそう)によって中国語に訳されました。その中でも鳩摩羅什(くまらじゅう)による『妙法蓮華経』が有名であり、中国・日本において法華経というと妙法蓮華経だといわれています。
    :
    鳩摩羅什は、龍樹(りゅうじゅ)の思想に傾倒しており、妙法蓮華経を訳す前に、龍樹の『中論(ちゅうろん)』『大智度論(だいちどろん)』などを訳しています。いわゆる中観派(ちゅうがんは)です。中観派は、般若経を支持しますので、鳩摩羅什は法華経よりも般若経の布教を進めていたようです。龍樹も法華経よりも般若経を支持しています。大智度論は、『二万五千頌般若経』について論じたものです。
    :
    7世紀頃、中国に智顗(ちぎ)が生まれ、実質的に天台宗の開祖となりました。智顗以前、天台では龍樹を支持しており、『中論』『大智度論』を拠り所にしていました。智顗は、それに加えて、法華経を取り入れています。よって智顗は、中観派と法華派だったのです。特に法華経については、「法華第一」と言って特別視し、仏教経典中最高の経典であると位置づけました。智顗は、法華経を徹底的に研究し、龍樹の論を参考にして、『法華玄義(ほっけげんぎ)』『法華文句(ほっけもんぐ)』『摩訶止観(まかしかん)』などの書を著し、中国や日本の多くの僧侶・仏教者に読まれました。『摩訶止観』にある「一念三千」は有名です。こうして、智顗によって法華経の「理」の花が開きました。
    :
    :
    仏教はただ一仏乗
    :
    :

    48
    ダルマ太郎 2024/03/29 (金) 22:05:43 修正 >> 6

    :
    日本で〈事〉が完成
    :
    :
    法華経は日本文明の基礎
    :
    聖徳太子は法華経の精神を基にして、有名な《十七条憲法》をつくられ、はじめて日本に〈国の法〉と〈人間のふみ行なうべき法〉を打ち立てられました。わが日本の文明の夜明けが、ほかならぬ法華経の精神によってなしとげられたという大事実を、われわれは忘れてはならないのです。
    :
    聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))は、仏教を篤く信仰しており、『法華義疏(ほっけぎしょ)』『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』という三経の解釈本を著しています。
    :
    :
    伝教大師最澄
    :
    平安朝時代の堕落
    :
    念仏の教え
    :
    禅宗が起こる
    :
    日蓮聖人の出世
    :
    :
    法華経は実践の教え
    :
    ○ 真の救いは法華経の教えの〈実践〉にあるということです。
    ○ 理解から信仰へ、信仰から実践へ、ということです。
    ○ 天台大師の解き明かされた〈理(理論)〉を徹底して実践。

    :
    :
    法華経は救い第一の教え
    :
    ○ 法華経は〈人間尊重〉の教えであり、〈人間完成〉の教えであり、その上に立つ〈人類平和〉の教えです。
    ○《法華経》はその内容が尊いのです。その精神が尊いのです。そして、その教えを実践することが尊いのです。

    :
    庭野開祖は、人間尊重・人間完成・人類平和を願っていたのでしょう。そして、その答えが法華経にあるとして、法華経の解釈をしたのでしょう。法華経をそのように読めば、そのように解釈できますので、それはそれでいいのかも知れません。しかし、法華経が説かれた目的は、衆生の仏知見(ぶっちけん)を開かせ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめ、仏知見の道に入らしめることです。このことは、方便品第二に書かれています。これを一大事因縁といいます。
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    諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
    :
    仏知見とは、「仏のものの見方」です。諸仏世尊は、衆生に仏のものの見方を開き、示し、悟らせ、道に入れるために教化します。その点でいえば、人間尊重・人間完成という目的は合っているのでしょうが、人類平和につながるのかどうかは分かりません。一切衆生を成仏させれば平和になるのでしょうが、それを目標とするには、あまりに道のりは遠いように思えます。
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    法華経は、この世に浄土(平和世界)を築く教えだといいます。凡夫にとっては、貧富の差があり、病があり、争いがあって、地獄・餓鬼・畜生・修羅の境地にあるように思えますが、仏の見方は、常に涅槃の状態であって浄土です。そのような見方を手に入れるのが法華経ではないでしょうか? 現象世界は無常ですから、自由自在に自分の思い通りにはコントロールできません。思い通りにしようとすれば、抵抗され、否定され、無視され、攻撃を受け、心身共に苦に堕ちます。夫婦・兄弟・親子でさえも、争いがあり対立するのが現実です。それなのに、世界平和を実現できるとは思えません。
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    日本で〈事〉が完成
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    70
    ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 16:44:06 修正 >> 6

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    南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
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    ○ 「ああ、ありがたい妙法蓮華経! わたくしはこのお経の真実の教えに全生命をお任せします!」
    ○ 尊いのは、あくまでも法華経の教えなのです。そして、その教えを実践することなのです。
    ○ 〈南無妙法蓮華経〉と唱えるのは、その受持と実践との信念をいよいよ心に固く植え付けるためにするのです。

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    妙法蓮華経とは、鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳した法華経のタイトルですから、南無妙法蓮華経というのは、法華経という経典への帰依だと受け取る方が多いようです。そのような解釈が間違いだとは言いませんが、帰依の対象は経典ではなく、「真理と現象」であることを知らなければなりません。妙法とは、「正しい真理」。蓮華とは、「蓮の花」のことです。蓮の花は現象であり、妙法は真理です。よって、妙法蓮華とは、「真理と現象」「現象を通して真理を観る」ということです。南無妙法蓮華経とは、「真理と現象に依る教え」に帰依するのです。このことは、法華経前半では書かれていませんが、如来寿量品第十六にて明らかになります。
    :
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    南無妙法蓮華経は、日蓮が使い始めたのではなく、天台宗ですでに唱えられていました。「朝題目。夕念仏」というように、朝には、「南無妙法蓮華経」を唱え、夕には、「南無阿弥陀仏」を唱えていたのでしょう。インドでも題目は唱えられていたようです。もちろん、サンスクリット語でです。
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    ナマス・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
    Namas Saddharma-puṇḍarīka-sūtra

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    もともとインドで唱えられていたのかは不明です。日本の題目をサンスクリット語にして唱えているだけなのかも知れません。
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    南無妙法蓮華経
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  • 7
    ダルマ太郎 2024/03/21 (木) 16:13:11 修正 >> 2

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    経・論・釈
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    :
    Rの会では、開祖の著書を拠り所にしているようです。新興宗教の場合、開祖や教祖の教えが第一にされているところが多いので、Rの会もそうなのでしょう。本来ならば、法華経という経典を拠り所にするべきですが、開祖の著書を取り上げていために、インドで編纂された法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)とは異なる結果になっていると思えます。
    :
    仏教書には、経・論・釈があります。釈尊が説法した内容を記したものが経(スートラ)です。歴史上の釈尊が説法したことが、そのまま書かれているわけではなく、釈尊が亡くなった後に高弟子たちが編纂(へんさん)した内容です。よって説法内容の記録ではありません。インドで作られたものが経であり、中国や日本で作られたものは偽経だといわれます。
    :
    経の内容は難しいため、経の内容を分かりやすく論じたものが論書(アビダルマ)です。論書は、インドの高僧によって書かれました。説一切有部(せついっさいうぶ)のアビダルマ、龍樹(りゅうじゅ)の中論・大智度論(だいちどろん)世親(せしん)大乗成業論(だいじょうじょうごうろん)唯識(ゆいしき)二十論などが有名です。論書は、経典の理解を助けるために書かれたのですから、論書だけを読むのではなく、論書と経典を合わせて学ぶ必要があります。
    :
    釈とは、経典と論書をさらに理解しやすいように書いたものであり、中国や日本の高僧によって書かれました。天台智顗(てんだいちぎ)日蓮(にちれん)親鸞(しんらん)道元(どうげん)などの著書は釈書です。釈は、経典・論書の理解を助けるために書かれたのですから、釈書だけを読むのではなく、経典・論書を合わせて学ぶ必要があります。あくまでも経典が主であることを忘れてはいけません。

    :
    現代では、各宗派の僧侶、仏教者、学者、新興宗教の代表者などが、経典の解釈本を出しています。きちんと経典に合わせて解釈する人もいますが、自分の思想を発表している人も多いです。新興宗教では、自分たちの信仰を正当化するために、本にしているところもあります。解釈本は、経典の解釈をするためのものなのですから、独断と偏見によって綴るのは誤りです。特に「南無妙法蓮華経」を唱えるところは、法華経に基づいて学ぶ必要があります。
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    経・論・釈
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