仏教のお話

仏教用語

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ここでは、仏教用語の意味を中心にします。

ダルマ太郎
作成: 2024/05/26 (日) 00:01:18
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ダルマ太郎 2024/05/26 (日) 00:12:14

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五蘊(ごうん)
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五陰(ごおん)・五衆とも訳されます。スカンダ・パンチャカ skandha-pañcaka の訳で、「五つの集合」という意味です。世界を構成する五つの要素のことだといわれます。それは、中国語では色受想行識、日本語訳では物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用です。なぜ、五蘊が世界を構成するのかというと、私たちにとっての世界とは認識されたものだからです。認識するから、それは有りますが、認識しなければありません。よって、認識されるものと認識するものによって、世界は構成されます。では、五蘊の一つ一つをみていきましょう。
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(物質的現象)ルーパ rūpa
形あるもの、色があるもののことで、物質・物質性・身体の意です。他の四つが精神的作用なのに対し、物質的存在を指します。認識の対象です。

(感受作用)ヴェダナー vedanā
外部の対象から感覚を受け取る精神機能。感覚・感情。苦・楽・不苦不楽などの印象。

(想起作用)サンジュニャー saṃjñā
連想思考または象徴機能の集合体、心の中に浮かぶイメージを指します。対象のありかたを心で把握すること。表象、一致、理解、意識、知識、合図、命名。

(意志作用)サンスカーラ saṃskāra
意志、意図、または渇望の原因となる精神機能です。

(認識作用)ビジュニャーナ vijñāna
認知機能、つまり識別機能です。識別を通じて知ることです。

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五蘊は、連鎖縁起して認識を生じます。たとえば、それを見て快く感じ、それがリンゴという名で美味しい果物だと想ったならば、それに近づこうとして、それを認識します。または、その人と出会い不快に感じ、その人がチンピラで質が悪いと想ったならば、その人から離れようとし、その人を認識します。もし、それを感受しても何も感じず、何も想わず、無視したとしたら、認識は起こりません。人混みで多くの人を認識しないのは、このためです。しかし、風景としては認識していますから、その人の世界にはいます。このように感情・思考・意志によって認識します。人それぞれに感情のパターン、思考のパターン、意志のパターンは異なりますので、それを個性と言います。つまり、個の性格です。

ところで、私たちは、外部の対象を感受しているのでしょうか? 眼や耳は、外部のあるがままの世界を見たり、聞いたりできるのでしょうか? 答えは否です。私たちは、外部の対象をあるがままには感受できません。眼は光を信号にし、耳は音を信号にして脳に伝えて、脳で世界を仮設していますから、実際の世界と仮設世界とは異なります。その仮設世界を私たちは感受し、想起しています。仮設された世界は、鏡に映った像のように実体が有りません。実体の無い世界を認識し、それを世界だと思っています。少し考えれば、そのことが事実だと分かりますが、多くの人は、仮設世界を現実世界だとして生きています。

つまり、五蘊のすべては脳にあります。脳の外には私たちの世界は有りません。仮設世界を感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。現実世界を感受するためには智慧が必要です。智慧とは、真実を観る能力です。しかし、私たちの智慧は、煩悩に覆われているので働いていません。煩悩を滅し、智慧の働きを活発にしなければなりません。

唯識では、外部の対象を否定しています。私たちの内側にある世界以外に世界は無く、その世界は心が造ると言います。それが真実なのかどうかは、覚らないと分かりません。唯識以外では、外部には現実の世界が有るけれど、それを認知できていない、と説きます。果たして真実はどちらなのでしょうか? 真実を覚れば、その人は仏陀と呼ばれます。仏陀に成れば、苦から解放され、自由自在の境地になるといいます。しかし、凡夫の私には、なぜ真実を覚れば、苦から解放されるのかが謎です。一体、何が起こるのでしょう?
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五蘊
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ダルマ太郎 2024/05/27 (月) 20:20:54

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無我
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無我は、アナートマン anātman の訳です。アートマンの否定という意味です。アートマン ātman とは、インド思想の中心にあるもので、個の原理・個の主体・個の実体のことをいいます。個の原理とは、私を私として成り立たせるもの、という意味です。全体の原理のことをブラフマン brahman といいます。アートマンとブラフマンは同一だと覚ることが、インド思想では重視されます。梵我一如といいます。個の主体とは、心身の中心のことです。感情・思考・意志・行動の主導者です。または、業・輪廻・解脱の主体です。アートマンは、絶対なる主体なので、決して認識されません。認識したら、それはアートマンではありません。個の実体とは、「真に存在するもの」のことです。

釈尊の時代、多くの修行者がアートマンを求めて出家をしました。絶対的な主体であり、客体にはならないアートマンを覚ることは不可能のような気がしますが、修行者たちは、ヨーガをし、苦行をしてアートマンを認識しようとしました。一つの方法として、これがアートマンである、と感じたら、それを片っ端に否定することが勧められました。そうして最後に残ったのがアートマンだというのです。果たして、どれくらいの成功者がいたのかは不明です。

釈尊は、29歳で出家し、師について瞑想をしましたが、瞑想では覚れないと分かって苦行に入りました。約6年もの間、過酷な苦行を行いましたが、苦行でも覚れないと分かって苦行を捨てました。そして、菩提樹の下で禅定に入り、遂に覚りを得ました。その時、何を覚ったのかは不明です。真実に目覚められたのでしょうが、それがアートマンに関するものなのかは分かりません。ただ、覚られた仏陀は、無我を説きました。それが、「アートマンは無い」という全否定なのか、「アートマンに執着するな」というものなのか、「あなたが想うものは、アートマンでは無い」というものなのかは不明です。

無我とは、アートマンの否定のことです。よって、アートマンという概念を知らなければ無我は分かりません。しかし、中国に仏教が入ってきたとき、中国にはアートマンという思想がなかったので、当然無我も理解できませんでした。アートマンを訳す言葉が無かったため、「我」という漢字を借りたくらいです。我とは、円盤状ののこぎりの様な武器のことですので、アートマンとの関連はありません。新しい意味で使われ始めた我という字は、後に「私」という意味でも使われるようになったので、余計に混乱しました。日本の仏教は中国経由で入ってきましたので、日本でも我・無我は理解されませんでした。そもそもバラモン教の思想であるアートマンを否定して無我だと言ったのですから、バラモン教を知らなければ理解できないと思います。

4世紀に鳩摩羅什が、摩訶般若波羅蜜経や龍樹の大智度論・中論を訳し、合わせて座学で仏教を講義しました。このことで、中国では、無我や空などの重要な仏教用語の意味が知られることになりました。それでも、日本での無我の解釈には誤りが多いようです。ネットの情報を鵜呑みにせず、仏教用語辞典などで、きちんと意味を把握したほうがいいです。
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