仏教のお話

Rの会:無量義経 / 49

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ダルマ太郎 2024/03/29 (金) 23:12:22 修正 >> 10

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徳行品が説かれる理由
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R論:お経のはじめに、なぜこうしてもろもろの菩薩(ぼさつ)の徳を、ことばを極めてほめたたえてあるのかといいますと、いちばん大切な理由は、その徳の尊さ・美しさを、心に強く焼きつけるためです。それだけでもすでに心はある程度清められ、温められているわけで、閉ざされていた胸が開け、教えを受け入れる態勢ができるのです。いわば、教えの本番にはいる準備運動というわけです。これがたいへん大切なことです。
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太郎論:仏教を学ぶ者は、随喜(ずいき)することが重要だとされます。「従って喜ぶこと」です。サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。徳行を讃えることによって、それを聞いた者は随喜を感じることでしょう。よって、讃嘆は教えに入る前に重要なことです。
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菩薩(ぼさつ) - 菩提薩埵(ぼだいさった)
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R論:菩薩というのは、梵語(ぼんご)のボーディサットヴァ、パーリ語のボーディサッタの中国語訳(菩提薩埵)の略です。菩提とは、仏の智慧(ちえ)もしくは仏の悟りと言う意味、薩埵(さった)というのは人ということですから、つまり〈仏の智慧・仏の悟りを得ようとして修行している人〉を指すのですが、大切なことは、自分が修行しているばかりでなく、他の人びとを救うことにも努力している人でなければ菩薩とはいいません。ここが比丘(びく)とちがうところです。
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太郎論:菩提薩埵(ぼだいさった)という言葉は、三蔵法師玄奘が使い始めたという説があります。つまり新訳です。大般若経にて多く使われています。旧訳(くやく)である鳩摩羅什(くまらじゅう)訳では、菩薩と訳されています。菩薩は、ボーディサットヴァ bodhisattva の訳です。ボーディが覚り、サットヴァが人なので、「覚りを求める人」のことです。法華経の場合は、「覚りに導く人」という意味合いが強いようです。
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智慧(ちえ)
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R論:〈智〉⇨ 多くのものごとの間にある差異を見分ける力です。〈差別相〉を知る力。〈分析〉をする力
〈慧〉⇨ すべてのものごとに共通のものを見出す力。〈平等相〉を知る力。〈総合〉を知る力

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太郎論:智慧(ちえ)は、プラジュニャー prajñā の中国語訳です。般若(はんにゃ)とも訳されます。意味は、一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用のことです。つまり、真理を観る能力のことをいいます。智慧という言葉を智と慧に分けた場合、慧はプラジュニャーの訳語として使われます。智は、ジュニャーナ jñāna の訳語です。ものごとを分けてとらえること(分別(ふんべつ))を智といい、分けずにとらえること(無分別(むふんべつ))を慧といいます。釈尊の覚りは、慧だといわれます。
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分別とは、認識するものと認識されるものを分けてみることです。主客が分かれているとみます。無分別は、認識するものと認識されるものを分けてみないことです。主客が分かれているとはみません。
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徳行品が説かれる理由
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    ダルマ太郎 2024/04/18 (木) 22:49:03 修正 >> 49

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    菩薩とは
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    太郎論:菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の修行中の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
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    大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
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    無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
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    法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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    菩薩とは
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    ダルマ太郎 2024/04/19 (金) 00:28:51 修正 >> 49

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    呉音(ごおん)
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    太郎論:漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。
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    経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。
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    ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。
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    呉音
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