仏教のお話

Rの会:無量義経 / 4

77 コメント
views
0 フォロー
4
ダルマ太郎 2024/03/20 (水) 18:46:54 修正 >> 2

:
法華経は難しい教えではない?
:
:
Rの会では、「法華経は難しい教えではない」と教えます。難しくないのなら簡単な教えなのでしょうか? 私は、そうとは思えません。法華経の経文中にも難解な教えだと書いてあるのですから、簡単な教えではないでしょう。難しいところを省き、または簡単な意味に置き換えて教えれば、それを聞く者は簡単な教えだと思ってしまうのかも知れませんが、それだと法華経の教えを歪めていることになります。
:
法華経は、大乗仏教の経典です。多くの般若経(はんにゃきょう)がつくられた後に世に出ました。般若経には、「(くう)」の理が説かれており、法華経では、空の実践が説かれています。よって般若経を深く学び、空の理をマスターしていなければ法華経は理解できません。いきなり法華経を学んでも、ちんぷんかんぷんになってしまいます。般若経といっても、般若心経を学ぶのではなく、八千頌般若経・二万五千頌般若経などを学ぶ必要があります。般若心経は、二万五千頌般若経の抜粋なので、これだけを学んでも理解はできません。
:
Rの会では、般若経を学ばず、法華経を学びます。それだと空の理が分からないので、法華経の理解はできません。それなのに「法華経は難しい教えではない」と主張するのはおかしな話です。法華経の中でも、安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四などで空の理は説かれていますが、短い文章なので、理解できる人は少ないでしょう。般若経を学んだ人ならば分かるのでしょうが、法華経だけを読んで理解しようとしても無理があります。
:
Rの会の会員の大多数は主婦のようです。それも中高年です。そういう人たちに仏教の甚深(じんじん)の教えを説いても伝わりにくいでしょう。だから、「法華経は難しい教えではない」と言って法華経に興味を持たせようとしているのかも知れません。だとしたら、法華経という難しい経典を選ばず、もっと理解しやすい経典を選ぶべきです。たとえば、『法句経(ほっくきょう)』などが手ごろかも知れません。『法句経』は、初期仏教の経典であり、初心者でも、ある程度の理解はできると思います。
:
仏教は、対機説法です。相手の機根(きこん)・性格・欲求に応じて法を説きます。法華経は、菩薩への教えですから、一般人では歯が立ちません。機根に応じた教えを説くことが重要だと思います。
:
:
法華経は難しい教えではない?
:
:

通報 ...
  • 76
    ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 22:32:36 修正 >> 4

    :
    法華三部経
    :
    :
    無量義経
    :
    :
    R論:釈尊は、いままでの四十余年間、こういう目的で、このように法を説いてきた、じつはまだ真実をすっかりうち明けていないのだ。しかし、今まで説いてきた教えもすべて真実であり、すべて大切なものである、なぜなら、すべての教えはただ一つの真理から出ているからである。
    :
    太郎論:日本の法華経信者の多くは、無量義経の「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」という言葉を切り取って、無量義経以前の教えでは、真実は説かれていないと主張し、法華経の方便品第二の「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん) 但説無上道(たんぜつむじょうどう)」(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)を切り取って、法華経においては方便を捨てて無上の道を説くのだ、と主張します。
    :
    太郎論:「真実」は仏教用語では、「絶対の真理」「仮ではないこと」「究極のもの」「真如」を意味します。古代インドでは、真理は言葉では表せないといわれました。それは客体ではありませんから、客観的表現では表せません。言葉は人が作ったものなので、究極的な真理を言葉で表すことはできません。そのことを知っていれば、仏教経典にある教えはすべて真理ではなく、真理へと導く方便なのだと分かります。もちろん、法華経も言葉によって説かれていますから、方便です。
    :
    :
    序分・正宗分・流通分
    :
    R論:序分(じゅぶん)〉とは、そのお経は、いつ、どこで、どんな人びとを相手として、なぜお説きになったのかという大要などが書かれてある部分。正宗分の糸口。

    正宗分(しょうしゅうぶん)〉とは、そのお経の本論。中心となる意味をもった部分。

    流通分(るずうぶん)〉とは、正宗分に説いてあることをよく理解し、信じ、身に行えば、どんな功徳があるかということを説き、だからこれを大切にして、あまねく世に広めよ、そういう努力をする者にはこんな加護があるのだよ、ということを説かれた部分。
    :
    :
    法華経 迹門(しゃくもん)本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)本仏(ほんぶつ)
    :
    R論:迹門の教えは迹仏の教え。迹仏とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊のことです。ですから、迹門の教えは一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬ、ということを教えられたものです。いいかえれば、智慧の教えです。
    :
    R論:本門では、「本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉である」ということを明らかにされます。したがって本門の教えは、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ、というもので、智慧を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
    :
    太郎論:法華経には、「真理と現象」のことが説かれています。真理によって現象は起こり、住し、異変し、滅します。現象は真理によって起こります。また、真理は目に見えませんから、真理を覚るには現象を観察する必要があります。現象は真理によって起こりますから、現象を通して真理を観ることができる、という理屈です。ただし、そのことを理解するのは難しいので、法華経前半では、「言葉によって真理を知る」、ということが説かれています。真理へと導くものを方便といいますので、前半では、言葉を方便だとして説いています。後半では、「現象を通して真理を知る」、ということが説かれています。
    :
    :
    仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうぎょう)
    :
    R論:わたしどもが法華経の精神を身に行うための具体的な方法として、(釈尊は)懺悔(さんげ)するということを教えられてあるのです。
    :
    R論:修行次第で自分も仏になれるのだとわかっても、日常生活では悩みや苦しみ、いろいろな欲や悪念が次から次へと湧いてきます。それで、せっかく自分も仏になれるという勇気もくじけがちになります。つい迷いの黒雲に押し流されそうになるのです。その黒雲を払いのけるのが懺悔であり、その懺悔の方法を教えられたのが《観普賢経》なのであります。
    :
    :
    懴悔(さんげ)とは
    :
    R論:第一に、「誤りを自覚する」
    第二に、「それを改めることを心に誓う」
    第三に、「正しい道に向かう努力をする」

    :
    :
    法華三部経
    :
    :