仏教のお話

Rの会:無量義経 / 21

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ダルマ太郎 2024/03/24 (日) 21:39:43 修正

衆生の誤った見方

而るに諸の衆生、虚妄に是は此是は彼、是は得是は失と横計して、不善の念を起し衆の悪業を造って六趣に輪回し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。

ところが人々は、目の前に現われた現象を見て、自分にとっての善悪、損得、好き嫌い等で物事を判断し、価値付けをして、自分中心の身勝手な計算をしてしまいます。その結果、『不善の心』を起こして、結局は様々な悪い行いをしてしまい、そのためにいつも『六道』をグルグル回って、数々の苦を受け続けることになり、結果的にいつまでたっても、その苦しみの境界から抜け出せないでいます。

しかし、諸々の衆生は、分別の見方をするために、真実から離れて「これはこちら」「これはあちら」、「これは得」「これは損」と誤って善くない想いを起こし、多くの悪い業をつくって六道を輪廻して、諸々の苦毒を受けて、非常に長い間、自力では出ることができません。

~真理を覚れば、無分別の境地に入りますので、自他・個々を分けません。差別・区別がありませんから、執着から離れています。我執や欲を滅し、安らかな境地に住します。しかし、凡夫は真理を知らないために、分別をします。自他を分け、個々を分けるので、差別・区別をし、自分に執着し、自分の欲しいものに執着します。そのことで、苦の境地に堕ちます。

このことは、十二因縁でも説かれています。無明とは、真理を知らないことです。つまり、空・無分別を覚っていないので分別の見方をします。分別による意志によって、すべてを分けて認識することに成ります。心と体、六つの感覚器官、自他を分けることによって、自分が他を欲し、手に入れようとし、執着します。そのことで、煩悩のある生存となり、新しい自分が生まれ、やがて老い、死ぬという苦に入ります。分別して見るために、自他を分け、自分に主体が有るという錯覚を起こし、我意識が強くなり、自己主義になります。わがまま勝手にふるまうために、まわりとの調和がとれず、敵をつくって孤立し、どんどん憂悲苦悩を感じるようになります。
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六趣(ろくしゅ)

凡夫が輪廻する六趣の迷いの境涯 六道ともいいます

地獄(ナラカ・ガーティ naraka-gati)
地獄道…生前の罪による罰を受け続ける亡者たちの境涯

餓鬼(プレタ・ガーティ preta-gati)
餓鬼道…常に飢えと渇きによる欲求不満状態にある死者の霊の境涯

畜生(ティルヤニョニ・ガーティ tiryagyoni-gati)
畜生道…横になって這う物、すなわち動物衆の境涯

修羅(アスラ・ガーティ asura-gati)
阿修羅道…常に争いの状態にある阿修羅衆の境涯

人間(マヌシャ・ガーティ manuṣya-gati)
人間道…人間衆の境涯

天上(デーヴァ・ガーティ deva-gati)
天道…神々の境涯

六道輪廻

輪廻とは、肉体が死に変わり、生まれ変わって、六趣の境涯を巡り続けることをいいます。この思想は、仏教以前のヴェーダの宗教(バラモン教)の頃から説かれていた説です。善行を繰り返せば天上界へと趣き、悪行を繰り返せば、人間界・畜生界・餓鬼界・地獄界に堕ちると説いています。仏教でも初めは天上界を安楽の境地としていましたが、神々は覚っていないので迷いの世界に住すると言われるようになりました。輪廻から解脱するためには、覚りをひらいて仏に成る道しかありません。天台大師智顗は、迷いの六道に対して、聖なる四道を設定しました。声聞道・縁覚道・菩薩道・仏道です。合わせて十界といいます。十界説は、智顗の説ですので、インドの法華経にはそのような説はありません。

仏教では、輪廻や六道は方便だといいます。輪廻や六道が存在するわけではなく、人々を善に導くためにそのように説いたとします。多くの国では、治安のために法律を定めて、罪と罰を制定することで、人々の道徳・倫理を正していますが、インドでは、業・輪廻・解脱というシステムによって人々の道徳・倫理を正しています。

六道は、心の境地を表しているともいいます。いずれも、自己主義な心です。

地獄…苦が続く状態
餓鬼…欲求不満の状態
畜生…智慧のない状態
修羅…争いの状態
人間…不安定な状態 疑惑
天上…束の間の安楽の状態 喜び

我にとらわれていなければ、これらの苦の状態は起こりません。そのためには自他分別から離れるために「無我」を覚ることが必要であり、個々の分別から離れるために「空」を覚ることが必要です。
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大慈悲

菩薩摩訶薩、是の如く諦かに観じて、憐愍の心を生じ大慈悲を発して将に救抜せんと欲し、又復深く一切の諸法に入れ。

菩薩よ。このように衆生は、苦しみの中から抜け切れないでいるということをはっきりと見極めて、だからこそ衆生に対して『あわれみの心』を起こし、大きな慈悲心を奮い立たせて、衆生を『根こそぎ、完全に救い出す』という決意をしなければなりません。そしてその尊い目的を達成させるためには、どうしても一切の物事の『実相』というものを、より深く見極めていることが必要なのです。

菩薩は、衆生が分別の見方をしているために苦に堕ちていることをあきらかに観じて、不憫に感じたならば、大慈悲心をおこして、まさに救いぬくことを欲し、さらに深く一切の諸法を観察することが必要です。

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    ダルマ太郎 2024/04/02 (火) 15:10:29 >> 21

    輪廻は有るのか?

    釈尊が、死後の世界をどのように説かれていたのかは分かりません。経典を読めば、悪業を重ねていると死後に地獄・餓鬼・畜生の世界に趣くと説かれていますが、それは事実を説いているのか、方便なのかが分からないのです。死後の世界は未知ですから、誰も知る者はいません。釈尊でさえも、死後の世界についての事実は分からないでしょう。謎の世界です。仏は、神通力を持っており、凡夫が知り得ない死後の世界のことも把握しているという方もいますが、本当に神通力を使えたのかは不明です。

    仏は、相手に応じて教えを説きます。当時のインドの人々は、業報による輪廻を信じていましたから、仏はそれを否定せずに受け入れて輪廻を説いていたのかも知れません。悪いことをすれば地獄に堕ちるという話をすれば、人々は道徳・倫理を護って人の道を行くでしょうから。しかし、仏教徒として修行を続けている人たちには、輪廻を否定しているようです。何にせよ、存在を肯定すれば執着につながりますから、そうならないように輪廻はない、と説いています。たとえば、サンスクリットの法華経の如来寿量品には、「輪廻はない」(アサンサーラasaṃsāra) と説かれています。なぜか鳩摩羅什訳の妙法蓮華経にはこの経文はありません。

    さらに修行を積んだ人には、「輪廻は想いの中にあるけれど、事実としては存在しない」と教えます。仮には有るけれど実体としては無いのです。そして、最終的には、「非有非無の中道」を説きます。「有ることの否定、無いことの否定という中道」です。輪廻が有るということを否定し、輪廻が無いことを否定して、有無両辺への執着から離れさせるのです。無執着へと導く仏教においては、死後の世界・輪廻は、思惟の対象にはならないということでしょう。

    輪廻肯定派は、断固として輪廻が有ると主張します。輪廻が無いと都合が悪いのでしょうか? 執着すれば、無分別の境地には入れませんから、修行の妨げになると思うのですが。輪廻するのなら、何が輪廻するのでしょうか? 仏教では、無我を説いていて、個の主体・本体・実体は否定されています。我が無いのに何が輪廻するというのでしょうか? Rの会では、魂が輪廻すると教えているようですが、それだとヒンドゥー教的な思想ですから、仏教とは言い難いです。