仏道の『阿頼耶識システム』

『唯識』 / 1

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法介 2023/08/27 (日) 04:17:51 修正

雑感 「聞」について、熏習と聞熏習(成唯識論に学ぶ)
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/edb68d44666b91c9eb527d8c154eb5fd?fm=entry_awp_sleep

先日の唯識講義の対論の中で、ご住職から質問をいただきました。質問の内容がよく把握できていませんでしたが、昨日、お尋ねになったのはこういうことだったんだと気づきを得ました。

 お尋ねは「種子論・熏習論」が縷縷述べられているのだが、護法合正義において、なぜ熏習ではなく、聞熏習といわれるのか」ということでありました。

 護法菩薩は、熏習の中に、二つの意味があることを明らかにしておられるのですね。僕もはっきりしておらなかったのですが、再度『成唯識論』を読み、親鸞聖人の「聞」について尋ねてみますと熏習の意味がはっきりしてきました。

 先師のご苦労もあったのでしょうが、現行熏種子ですね。この部分だけを捉えて熏習といっていたのです。これを護法菩薩は始起と押さえておいでになります。生まれて始めて起こって来たこと、という意味になりますが、始めて起こる依り所はどこにあるのかですね。「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」を依り所として生起してきたものだと教えられています。有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけである、ということなのですね。無漏には転じないということです。

 『論』には「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。

 と教えています。

 もう一つの問題は、種子生現行です。生まれながらに持っているとされる無漏種子の有無ですね。無漏の種子から現行し熏習される種子ですね。護月菩薩等は本有種子の有無によって五姓の差別を説きました。本有の無漏種子がなかったならば、いくら新熏種子を積み重ねても、人として目覚めを得ることはできないんだ、と。目覚めを得るには、新熏種子を積み重ねることではなく、本来から備わってる本有種子が必要なんだと論じているわけです。

 護法菩薩はこの二つの極論を厳しく批判されました。そこに聞熏習がだされるのですね。

 「諸の有情は無始の時より来無漏の種有り、熏習に由らずして法爾に成就せること有りと。

 無漏種子を因として現行することが有るということなのですね。それが浄法界等流の正法を聞くということなのです。

 ですから、いくら仏法を聞いても、聞いたことが成就しないということがあります。それを親鸞聖人は聞不具足と押さえておられます。簡単にいいますと、名聞・利養・勝他の為の聞法は無漏種子を増盛しないと教えておられるのであろうと思います。そしてですね、六波羅蜜を修しても、名聞・利養・勝他を依り所にしている限り、六波羅蜜は善行でありながら、悪の報いを受けると云われています。

 「依り所」を聞いていくのでしょう。名聞・利養・勝他の為にしか聞いていないことをはっきりさす。それしかないんだということが「聞」ということになりましょうか。

 自己の中に熏習されてきた、「無始以来の虚妄熏習の内因力」を聞くということ、これが無漏種子を増盛させる、自然法爾だということでしょう。これ以外には「聞」はないということなのでしょうね。

 無漏種子も有る、新熏種子もある、しかし「自己を聞く」ことが無い限り、日常のいろいろな経験は、邪見を増し、慢心を増長させ、頑なな心を作り上げるだけになる、このことも熏習といわれるけれども、聞熏習とはいわないんだ、と。ですから熏習だけでははっきりしない問題を護法菩薩は、種子生現行・現行熏種子の三法展転同時因果の内容を明らかにされたのであろうと思います。

 聞法している自己の姿勢が厳しく問われています。何を聞いているのかですね。先日のご住職の質問から教えられることが出来ました。

 「その聞熏習は唯だ有漏のみには非ず。正法を聞く時に亦た本有の無漏の種子を熏じて漸く増盛にあら令めて、展転して乃至出世の心を生ぜしむ。故に亦た此を説いて聞熏習と名づく。」と結ばれていました。

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