法介
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2023/09/18 (月) 09:06:26
この二つの妙法は天台智顗が『法華玄義』で、
「妙を明かさば、一には通釈、二に別釈なり。通に又二と為す。一には相待、二には絶待なり」
と解き明かされた『妙法蓮華経』の五仏性に備わる二つの意義です。
この「相待妙」と「絶待妙」は別々にあるものではなく、『妙法蓮華経』の経題の中に同時に含まれているというものです。別々と考えてしまうと、相待妙で法華経を第一とした後、爾前教は必要ありませんので捨てるだけになります。そのように比較対象の考えのみになってしまっているのが日蓮正宗や創価学会の解釈です。
法華経を最高の教えとさとしたいのであれば、相待妙だけでよいはずですが、「二妙」ということですので、もう一つの妙法があります。それが絶待妙です。絶待妙は、一代聖教がすなわち法華経であると考えます。
爾前経の中にも重要な法門がたくさん説かれています。それは捨てるべき教えではなく、法華経を正しく理解していく中で生きてくる教え(体内の権)なのです。法華経が説かれた後は、念仏宗だとか真言宗だとか天台宗だとか言っても意味がないのです。どの水も海に流れ込めばみんな一同に塩味の海水になるのですから。すべては『法華経』に集約されるのです。
「相待妙・絶待妙」の考え方からすると、お釈迦様が説かれた一代聖教は、無駄になるものは何一つないということです。
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