法介の『ゆゆしき世界』

三周の説法 法介のほ~『法華経』その⑥ / 6

22 コメント
views
0 フォロー
6
法介 2023/09/20 (水) 10:01:25 修正

信解品』の長者窮子の譬について少し掘り下げてお話を致します。

三界と言うのは凡夫が住む欲界仏が住む色界、そして真如の世界である無色界の三つの世界の事を言いまして、仏教の世界観はこの三界で構成されております。

空観(色界)にある仏が、「非空」という方便を用いて「有」の凡夫が住む欲界に現れ、方便を取り払って「空」の色界の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、実体である「有」を完全に寂滅して「空」に入ろうとします。それが「有る無し」で空を理解した「無の境地」をひたすらに目指す析空に陥った小乗の灰身滅智です。

しかし大乗を起こした通教の利根の菩薩(龍樹)は、小乗のように「有」を滅するのではなく、「非空」の実在における仏を観じることで「有」を滅することなく有(俗諦)を空(真諦)へと転換します。これが体空です。心で観じ取る、いわゆる体感する空(相依性縁起)です。

それによって小乗では滅するべき対象であった煩悩が、大乗では煩悩を菩提へと転じる「煩悩即菩提」が説解き明かされます。

智顗の『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。
.
.

從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空①。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法②。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法③。破用既均異時相望故言平等也。(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで)
.
.

「此の観は衆生を化せんが為なることを眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う」
(仏は非空から仮に入るから従空入仮観という)--- ①

「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ」
(前観(凡夫の空観・仮観・中観)は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)--- ②

「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う」
(後観(仏の空観・仮観・中観)は非空(有)から非有(空)へ入空観する)--- ③
.
.

仏は方便として有を用いる(非空)のですが、さらに用いた有を破して空に入ります(非有)。その仏の空観を観じた凡夫は、本来なら従仮入空観で「有を破して空に入る」ところを「(方便として)有を破して(方便の)空に入る(非有)」に転じることで、有を滅することなく方便として空に入る「非有」の従空入仮観を観じます。

こちらでより詳しく解説しております。

12.維摩經玄疏
https://sinnyo.blog.jp/archives/19878164.html
.
.

この意味するところが智顗の『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」の中で次のように書かれております。
.
.

「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(真実の仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(悟りの空・仮の非有・非空)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空観)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」(維摩經玄疏 529a11-15)
.
.

これが具体的にどういう事かと言いますと、今世で身を滅して天上界へ転生する(灰身滅智)しかなかった凡夫が、今世で方便として空へ入る事が出来るということです。(凡夫も仏に成ることが出来るということ)

しかし、「方便として空へ入る(非有)」となると、その前提に破するべき方便としての有(非空)がある訳です。分かりにくい表現なので例えてお話ししましょう。

不幸な境遇に生まれてきた子供がいたとしましょう。不幸な境遇というのが実在の「」です。「有を滅して空に入る」には、不幸な境遇という事実を打ち消すか、そういった感情を完全に寂滅させるしかありません

ですがその事実を方便と受け止めるとどうなるでしょう。

意味があって不幸な境遇に生まれてきたのであってその意味を分かっていないから悩み苦しんでいるのです。不幸な境遇は何かを成す為の方便の姿であってその真意を悟った時、不幸な境遇も苦では無くなるのです。その意味(真理)を観じとるのが非空の有から入る非有の仏の従空入仮観(仏の空観)です。これが凡夫が仏の智慧をかりて悟りを得るという「煩悩即菩提」の理です。

この例えから何か思い浮かびませんか。
.
.

そうです三周の説法の中の「長者窮子の譬」です。
.
.

ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。

父親は偶然見たその窮子(困窮しきった人物)が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。

そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。

この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。『ウィキペディア』より

通報 ...