「化城喩品」は、お釈迦さまと声聞の弟子達との前世よりの因縁が説き明かされる章で、「化導の始終」「種熟脱の三益」が示されていることから智顗も大変重視しておられました。『法華文句』巻七(下)では次のような事が書かれております。。
佛告諸比丘是十六下。第二明中間常相逢値。
逢値有三種。若相逢遇常受大乘。此輩中間皆已成就不至于今。
若相逢遇遇其退大仍接以小。此輩中間猶故未盡。
今得還聞大乘之教。三但論遇小不論遇大。則中間未度。
于今亦不盡。方始受大乃至滅後得道者是也。
現代語に訳すとこのようになります。
「仏告諸比丘十六の下、第二に中間に常に相逢値することを明す。逢値に三種有り、若し相逢遇して常に大乗を受くれば、此の輩中間に皆已に成就して今に至らず。若し相逢遇して其の大を退するに遇て仍ち接するに小を以てせば、此輩中間に猶故に末だ尽きず、今還て大乗の教を聞くことを得、三に但小に遇うことを論じて大に遇うことを論ぜず。則ち中間に末だ度せず。今に亦尽くさず、方に始めて大を受く、乃至滅後得道の者是なり」
つまり三千塵点劫の時に大乗を信じて実践した者は中間において仏道を成就して釈尊在世には現れないが、大乗を聞いておきながら退転して小乗に落ちた者は、中間では成仏できずに釈尊在世に再び生まれ出でて法華経を再度聴聞して得脱する。さらに小乗に執着して大乗を聞こうとしなかった者は、三千塵点劫の中間では当然成仏できておらず、釈迦在世の世に於いて初めて大乗を聞き、釈尊滅後に大乗を受けて得道するとされている。
要するに三千塵点劫の時点を中間点として釈迦在世の世を終点として「下種益と熟益、そして脱益」が説かれている訳です。
日蓮聖人も『唱法華題目抄』の中で次のように仰せです。
十六王子の法華経説法を聞いた人は幾千万とも分からないほどであった。その説法を聴いてその場で悟りを得ることができた人は不退の位に入った。また、法華経を不十分にしか理解できず、結縁しただけの人々もいたが、その人々は法華経の説法を聞いた場でも、また釈尊在世以前の中間の期間も、不退の位に入らないで三千塵点劫を経てしまった。それゆえに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻し、只今釈迦如来が法華経を説かれるのを聴いて不退の位に入ったのである。舎利弗・目連・迦葉・阿難などがその人々である。その人々よりも更に信心が薄い人々は、釈尊在世でも悟ることができずに未来無数劫を経過しなければならないのであろうか。それは分からないが、われわれも大通智勝仏の十六の王子に結縁した者であろうか。
舎利弗・目連・迦葉・阿難といえば、「三周の説法」では舎利弗は法説周で、目連と迦葉は譬説周で、阿難は最後の因縁説周で未来に成仏する証しとしての「記別」をそれぞれ授けらております。(熟益)