本日はイギリスの牧師/博物学者でいらっしゃる、
ギルバート・ホワイト氏の命日であります。
・1720年7月18日、ロンドンの南西約80kmに位置するハンプシャー州の村
セルボーンにてお生まれになり、家庭教師から勉学を学ばれた後に、
オックスフォードのオリオル・カレッジに進学されました。
1746年に執事の命を受けられ、以後、セルボーンも含むハンプシャー州と
ウィルトシャー州にて助任司祭を務められました。
1758年に父親が亡くなられるとセルボーンに戻られて
ウェイクス荘に定住され、1763年に正式に相続されました。
1784年に第4代セルボーン副牧師に任命されて以降、その職を全うされました。
ホワイト氏はその後の生涯にわたって独身を通され、
1793年6月26日に72年の生涯を閉じられました。
ホワイト氏の生前の姿については肖像画が残されておらず、
姿勢の良い痩せ形の風体をされていたとのみ伝えられており、
また、墓についてはセント・メアリー教会の敷地内に建てられております。
・ホワイト氏はセルボーンにて副牧師を務められる傍ら、
少年時代から興味を持たれていた博物学の研究に殆どの時間を費やされ、
その成果を約20年間にわたって博物学者のトマス・ペナント氏と
デインズ・バリントン氏に送り続けられました。
ペナント氏らとの親交は、ホワイト氏の弟ベンジャミン氏が
博物学書の出版を手がけられていた関係から始まったものであり、
ペナント氏とバリントン氏に届けられた書簡を纏められた形で1789年に
ベンジャミン氏によって出版されたのが「セルボーンの博物誌」であります。
流麗な文体と鋭い観察眼とを兼ね備えた「セルボーンの博物誌」は、
博物誌の古典として今日まで受け継がれており、
「たとえ英国が滅びても本書は永遠に残るだろう」と称えられております。
その特徴は、当時の標本主義の博物学とは対称的に、
鳥/植物/昆虫などの生態や自然景観の観察を、当地の歴史や
山彦/日時計/田舎の迷信といった風土と共に記録している点にあり、
18~19世紀に牧師の方々が居住地域の博物誌を纏める習慣が流行した中で、
ホワイト氏の著作だけが古典と認められている所以でもあります。
また、文学史上においては「政争から身を引き自然に遊ぶ隠棲者の随想」として、
イギリスの随筆家/伝記作家のアイザック・ウォルトン氏の著作
「釣魚大全」と双璧をなすものとも評価されております。
・「セルボーンの博物誌」に見られるようなホワイト氏の著述スタイルは
「生態地域主義」とも呼ばれ、自然環境をめぐるノンフィクション文学である
ネイチャーライティングの起点をなすものとして評価されております。
更にイングランドにおけるエコロジー・ムーブメントの
先駆的存在としても認められており、その著作はイギリスにおいて
最も多くの版を重ねる書の一つとなっている他、学術界では現象学の立場に立つ
場所論の視点からもしばしば参照されております。
・アメリカの博物学者ジョン・バローズ氏が「『博物誌』を読んだら、
セルボーンの村を見たいと思った」と述べられたように、今日のセルボーンは
ホワイト氏の名声により博物誌の愛好家たちの聖地となっており、
多くの「セルボルニアン」を生み出しております。
中でも、ホワイト氏が生涯の殆どを過ごされたウェイクス荘が、
オーツ・メモリアル・トラストによって当時の内装が維持された博物館
「ギルバート・ホワイト・ハウス」となって公開されております。
ウェイクス荘には「セルボーンの博物誌」の元原稿が展示されている他、
建物の裏庭にはホワイト氏の描かれた花/野菜/樹木が植えられております。
自然に存在するものについて研究する学問である博物学は、
ジャパリパークにとっても非常に重要なものであります。
生物の源である海洋/土地/気候/気象/植生は全て繋がっており、
サンドスターという特異性を含めたフレンズという存在にとっても
決して切り離して考える事のできない要素であります。
先人の方々が代々研究されてきた様々な学問は、
時代と共に様々な形に変化しながら私達の生活の礎となっており、
それぞれの学問がいかに大変なものであるかを痛感せざるを得ません。
私達は先の世代の方々に何を残す事ができるのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。