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みんみ教徒の集い / 3371

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流浪のみんみ教徒 2022/07/01 (金) 00:03:03 修正 457e0@fac32

本日から七月に入ります。
早くも2022年も後半となり、暑さが増してくる時期でありますが、
今年は多くの地域で6月中に梅雨明けが発表される異例の事態となりました。
早くも暑さが本格化しておりますので熱中症等に注意したいところであります。

本日はびわ湖の日であります。
1980年のこの日に施行された「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」
(琵琶湖条例)の施行1周年を記念して1981年に決定された記念日であり、
1996年のこの日に施行された「滋賀県環境基本条例」で正式に定められ、
1997年から実施されております。
・琵琶湖は滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖で、
 一級水系「淀川水系」に属する一級河川であります。
 国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担っております。
 湖は鈴鹿山地/伊吹山地/野坂山地/比良山地/甲賀山地といった
 山々に囲まれた滋賀県の近江盆地に位置しております。
 669.26㎢の面積は滋賀県全域の面積の6分の1を占める大きさで、
 日本全国の湖の中で最大であり、275億tの貯水量も日本一であります。
 湖底が最も深い水域は竹生島と安曇川河口の間にあり、
 2005年には104.1mの最大水深が計測されております。
 南北の延長は長浜市西浅井町塩津~大津市玉野浦間で63.49km、
 最広部は長浜市下坂浜~高島市新旭町饗庭間の22.8km、
 最狭部は守山市水保町~大津市今堅田間の1.35kmであります。
 流域面積は3848㎢で、淀川流域の47%に当たります。
 最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側の主湖盆は「北湖」(太湖)、
 南側の副湖盆は「南湖」と呼ばれ、南湖が面積58㎢/平均水深4mであるのに対し、
 北湖は面積623㎢/平均水深41mであり、湖水の99%が北湖に蓄えられております。
・琵琶湖は世界有数の古代湖であり、その成立はおよそ440万年前まで遡ります。
 以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、
 古琵琶湖層群と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する地層における
 各累層の泥/砂/礫の構成比率の違いにより示されております。
 440万年前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県伊賀市となる場所でありました。
 まず、地盤の断層運動によりできた浅い窪地に水が溜まり、
 40~50万年ほどかけて浅くて狭い湖(断層湖)となりました。
 この湖は旧大山田村付近にあった事から「大山田湖」と呼ばれておりました。
 この湖は300万年ほど前になると阿山地方にまで北上しており、
 この時代の前期に湖は広がり、後期には甲賀地方(滋賀)に位置する
 北部の沈下により狭くて深い湖となりました。(阿山・甲賀湖、佐山湖)
 260万年ほど前には更に北上して水口地域/日野地域/多賀地域にまで広がり、
 この時期には蒲生湖沼群と呼ばれる小さな三日月湖などが多数集まった
 沼沢地群となり、その後更に河川とその周囲の湿地といった環境になるなど、
 不安定な水域でありました。この時代に水の流出方向は伊勢湾方面から
 京都・大阪方面に変わったと考えられております。
 現在、滋賀と三重/岐阜両県の水系を分断している鈴鹿山脈は
 180万年ほど前に隆起し始め、100万年ほど前になると
 現在の南湖の位置に堅田湖と呼ばれる小さな湖が形成されました。
 それと同時期に、現在の北湖中央付近にも湖がありましたが、
 その後陸地化した事が地層の調査に基づき推定されております。
 また、90万年ほど前には、現在の北湖中央を南北に横切る山地がありました。
 その後、琵琶湖の周辺に大きな地殻変動が生じ山地が隆起した43万年ほど前に、
 北湖の地域にまで琵琶湖は広がり、以降北進する事なく現在に至っております。
 40万年ほど前の琵琶湖は現在よりも細長い形状であり、
 その後に東へ向けて広がったと考えられております。
・琵琶湖が現在の位置に定まったのは旧石器時代末期頃であり、
 琵琶湖周辺ではその時代の石器が発見されておりますが詳細は不明であります。
 縄文早期後半の石山貝塚などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見され、
 一部山間部にも居住の痕跡があり、湖畔での居住を好んだ傾向が窺えます。
 また、縄文後期には丸木舟が使用されていた事も判明しております。
 弥生前期から中期にかけての湖底遺跡からは、土器/木器/石器/炭化米や
 環濠などが発見されており、灌漑・排水が比較的容易であり漁撈の便も良い
 琵琶湖畔において、初期の稲作が多く営まれていたと推測されております。
 大津京遷都が行われた飛鳥時代以降、多くの歌人によって歌が詠まれており、
 湖上の往来が盛んに行われたいた事も窺う事ができます。
 また、奈良時代から近代にかけては琵琶湖治水のために
 瀬田川の浚渫や改修が繰り返し計画/実施されております。
 なお、湖底遺跡は平安時代末期を存続の終期と推定されております。
 織田・豊臣政権においては、安土城を拠点に湖上を一括管理し、
 経済的/社会的に利用する事が試みられました。
 この頃まで安土城が築かれた大中湖一帯は政治的中心地でありましたが、
 以降琵琶湖との間に砂州が形成されるなどしたため、豊臣政権から
 徳川政権へと時代が進むにつれ、膳所や彦根にその地位を譲る事となりました。
 江戸時代の琵琶湖周辺域には200余りの集落があり、
 周囲の集落や田畑には「ホリ」と呼ばれる水路が張り巡らされておりました。
 近代以降の琵琶湖の面積は、1890年代は688㎢と推定されておりますが、
 1990年代には669㎢まで減少しております。この要因としては、
 南郷洗堰の築造に関連する水位の低下の他、干拓や埋め立てや
 湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられております。
ジャパリパークは各エリアごとに様々な特徴を有していると考えられ、
その中には様々な河川や湖が存在しているものと思われます。
その中でも判りやすい例がアニメ一期の第五話「こはん」でありますが、
第二話「じゃんぐるちほー」での河川は別の湖に繋がっている可能性もあります。
湖は、それそのものが様々な生き物の生息地であると同時に、
その周辺に暮らす全ての生き物にとっての生命線でもあります。
湖の環境を守る事は周辺地域の環境を守る事だけでなく、
地球環境全体の保全にも繋がっている事を忘れたくないものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

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