けものフレンズBBS NEO

みんみ教徒の集い / 3356

3592 コメント
views
90 フォロー
3356
流浪のみんみ教徒 2022/06/17 (金) 03:03:05 457e0@9abc9

本日は1906年に、フランス出身の東洋学者/探検家の
ポール・ユジェーヌ・ペリオ氏が中央アジアの探検に向かわれた日であります。
 ペリオ氏は1878年5月28日にバリにてお生まれになり、
 フランスの国立特別高等教育機関コレージュ・ド・フランスにて
 東洋学者シルヴァン・レヴィ氏に学ばれ、仏領インドシナのハノイにある
 フランス極東学院に就職されました。学院の図書館の漢籍を購入されるために
 1900年に北京へ派遣されましたが、そこで義和団の乱に巻き込まれ、
 包囲された北京の外国公館地域に止まられました。この包囲戦の中で
 ペリオ氏は1度目は敵の軍旗を奪うために、2度目は包囲された方々のために
 新鮮な果物を得るために敵地に潜入されました。
 後にその勇敢さが讃えられ、レジオンドヌール勲章を授与されております。
 その後はハノイに戻られ、22歳で極東学院の中国語教授に就任されました。
 1906年6月17日、ペリオ氏は軍医のルイ・ヴァイヤン氏と
 写真家のシャルル・ヌエット氏と共にパリを出発されて、
 中央アジアの探検に向かわれました。3名は鉄道でモスクワから
 タシケントに赴かれ、そこから清国領東トルキスタンに入られました。
 探検隊は8月末にカシュガルに到着し、ロシア総領事館に滞在されました。
 清国の官憲はペリオ氏の流暢な中国語に驚かれ、探検準備のために
 様々な便宜を図られました。探検隊はトゥムチュクを経てクチャに入り、
 そこでブラーフミー文字に似た文字(後にトカラ文字と呼ばれる)で書かれた
 失われた言語(後に、トカラ語のB方言クチャ語と呼ばれる)の文書を発見し、
 この文書は後にペリオ氏の師であるレヴィ氏によって解読されております。
 探検隊はウルムチ滞在中に敦煌出土の法華経古写本を見て、敦煌へ赴きました。
 敦煌の莫高窟はイギリスの探検家オーレル・スタイン氏が前年の1907年に訪れ、
 1万点の古文書を持ち帰られましたが、残された文書も多数存在しておりました。
 ペリオ氏は莫高窟を守られていた王道士と流暢な中国語で交渉されて、
 蔵経洞に入る事を許可されました。3週間にわたって蔵経洞の文書を調べられ、
 ペリオ氏は最も価値のある文書数千点を選び出されて王道士に売却を交渉され、
 王道士は莫高窟再建のために500両(約90ポンド)で売る事を承諾されました。
 中国語を含め13ヶ国語に通じておられるペリオ氏が選ばれた文書は逸品揃いで、
 その中には新発見の新羅僧・慧超氏の「往五天竺国伝」も含まれておりました。
 一行は1909年10月24日にパリに帰着しましたが、意外にもフランスの歴史学者
 エドゥアール・シャヴァンヌ氏ら極東学院の同僚の方々から、
 公金を浪費して偽造文書を持ち帰ったと激しい非難を浴びられました。
 シャヴァンヌ氏達は既にスタイン氏が敦煌文書を持ち去った後には
 何も残されていなかったと考えられていたからでありましたが、
 1912年にスタイン氏が探検旅行記を出版され、敦煌にはまだ大量の文書が
 残されていたと公表されたため、ペリオ氏の疑惑は晴れる事となりました。
 後にペリオ氏によって発表された「敦煌千仏洞」など多くの研究書は
 東洋学に大きな影響を与える事となりました。その後、ペリオ氏は
 第一次大戦中の期間はフランス武官として北京に滞在され、
 1945年10月26日、バリにてガンによって67年の生涯を閉じられました。
 「ペリオがいなければ、中国学は孤児のままだっただろう」と評価され、
 パリのギメ美術館にはペリオ氏に因んだギャラリーがあり、
 ペリオ氏が招来された文書の多くはフランス国立図書館に保存されております。
けものフレンズの各作品における主な内容は冒険および探検であります。
各作品ごとに目的は異なりますが、冒険および探検を通じて出逢いや別れ、
様々な発見を繰り返すうちに登場人物の変化や成長が描かれております。
世界には知られざる事柄がまだまだ多く残されており、
その事実は時として世の中に大きな変化をもたらす事があります。
この先、どのような発見が世の中を動かすのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。

通報 ...