みんみとは、全て
みんみとは、虚無
あなたももう気づいているでしょう
みんみの素晴らしさに
気づかないふりをするのはもうおやめなさい
皆様に素敵なみんみがありますように
みんみぃ
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週間フレンズ+月刊けものを統合し、総合ファンスレとしてリニューアル
詳しい事はスレで
2024/9/9
久々の日記更新。この前三次コラボに行ってきました。親になると子供目線で施設を見たり色々と気付きが出てきますね。
2025/01/05
龍もなんやかんや一年くらい鎮座してもらってたので撤収してもらいました。去年はありがとうね
ガチャは黒龍しか来なかったけども
ここまでがあなたのコンテンツ
ここからもあなたのコンテンツ
本日は1843年にデンマークの首都・コペンハーゲンにて、
テーマパーク「チボリ公園」が開園した日であります。
・チボリ公園は1843年8月15日にデンマークの首都
コペンハーゲンにて開園した遊園地で、
1583年に開園したデンマーク・クランペンボーの「デュアハウスバッケン」、
1766年に開園したオーストリア・ウィーンの「プラーター公園」内にある
遊園地に次いで、世界で3番目に歴史のあるテーマパークであります。
1843年、出版業を営まれるジャーナリストのゲオ・カールステンセン氏が、
当時のデンマーク国王・クリスチャン8世から約6haの土地を借り受けられ、
コペンハーゲンに誕生させたのが始まりである。
土地を貸し出される際に国王は態度を渋っておられましたが、
カールステンセン氏は「娯楽を提供する事で国民の関心が政治から離れる」
との提言によって国王を説得されたと言われております。
開園初日の来場者数は3615人。その後、チボリ公園の魅力は国内外へと伝わり、
開園1周年の日には来場者数は16000人を突破しております。
現在においては敷地面積は82717㎡となり、創設以来の来場者数は
2億7千万人以上を数える世界有数の観光スポットとなっております。
童話「人魚姫」で有名な作家のハンス・クリスチャン・アンデルセン氏は、
作品の執筆にあたって構想を練られる際に
チボリ公園にしばしば足を運ばれたと言われております。
また、ウォルト・ディズニー氏はディズニーランドについての
構想を練られる際にチボリ公園に再三にわたって足を運ばれ、
様々な点を参考にされたと言われております。
・そして、日本においてチボリ公園で思い浮かぶ場所といえば、
岡山県倉敷市にて営業されていた「倉敷チボリ公園」でありましょう。
1997年に旧倉敷紡績(クラボウ)倉敷工場跡地に開園し、
運営は岡山県などが出資する第三セクターの
「チボリ・ジャパン株式会社」によって行われておりました。
名前の通り、デンマークのチボリ公園をモデルとしており、
敷地面積・約12haの園内にはデンマークやアンデルセン氏をイメージした
庭園/アトラクション/ショップ/レストラン/劇場などが点在しておりました。
開園直後のお盆期間には東京ディズニーランドに次いで多い来場者数を記録し、
開園後の数年間は200万人台を保っておりましたが、
景気の後退など様々な要因によって来場者数は年々減少していきました。
2008年11月の時点で20ヵ所のアトラクション、
13店の土産物店、14店のレストランが展開されておりましたが、
経営難のため2008年12月31日(正確には2009年1月1日の午前1時)の
営業終了をもって閉園し、11年の歴史に幕を下ろす事となりました。
なお、閉園後も「アンデルセン広場」は残っており、
その中心にある「からくり時計」は今でも稼動しております。
けものフレンズにおいて遊園地で思い浮かぶのは、
やはりアニメ一期の最終回かもしれません。
例えば倉敷チボリ公園のように閉園した遊園地は器材等が撤去されますが、
あの「ゆうえんち」はセルリアンの襲来以降は完全に放置された状態で、
老朽化したままのアトラクションは文明の終焉を思わせるものでありました。
しかし、フレンズの方々にとっては遊び場の一つであり、
無邪気に遊んでおられる姿が微笑ましくある一方、
ある種の物悲しさをも感じさせると考えるのは私だけでありましょうか?
余暇を楽しむという事をある種の無駄と捉える方もおられるかもしれませんが、
生き物にとって「楽しむ時間」というものは、健康面を含めた生涯の充実にとって
極めて重要なものであり、それは歴史が証明しております。
楽しむ事が笑顔や優しさを生み出し、その優しさが周りの方々の幸せを呼ぶ事、
その広がりや循環こそが世界の平和に欠かす事のできない要素であり、
その事を終戦記念日の本日だからこそ改めて考えていきたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1858年にイギリスのヴィクトリア女王とアメリカのブキャナン大統領が、
大西洋横断電信ケーブルの完成を祝うメッセージを交換された日であります。
・大西洋横断電信ケーブルとは大西洋を通る電信用の海底ケーブルであります。
最初のケーブルは1858年に、大英帝国(現・アイルランド領)の
ヴァレンティア島とアメリカ(現・カナダ領)のニューファンドランド島
の間に敷設され、実用可能な最初のケーブルは1866年に敷設されました。
・電信は1830年代後半に実用化され、1840年代にはヨーロッパや
アメリカにおいて陸上の電信網が急速に普及していきました。
これに対して海底の電信は、電線を覆う絶縁物質に適した
材料を選び出す必要があり、陸路に比べて敷設が遅れていました。
しかし、マレー半島の樹木から採れる「ガタパーチャ」と呼ばれる樹液が
素材として使用できる事が判明し、海底ケーブル敷設の道が開けました。
初の海底ケーブルは、1850年にブレット兄弟によって
ドーバー海峡に敷設されました。このケーブルは敷設翌日に起こった
不慮の事故により切断されてしまいましたが翌年に再び敷設され、
英国とフランスをケーブルで結ぶ事に成功しております。
この成功によって海底ケーブルは一つのブームとなり、イギリスから
アイルランド/ベルギー/オランダへのルート、そして地中海や黒海など、
1855年の時点で25本の海底ケーブルが敷設されました。
しかし、この時点で大西洋にはまだケーブルが敷設されておらず、
情報伝達は未だに蒸気船に頼っていたというのが実情でありました。
・その後、アメリカの実業家サイラス・フィールド氏によって、
大西洋にケーブルを通す事を計画が立てられました。
しかし、大西洋を結ぶにはおよそ3000kmのケーブルが必要であり、
更にケーブルを深さ3000mの深海に通す事にもなるため、
事業は困難が予想されました。幸いにも敷設予定の地形は平坦であるという
確認が取れており、資金も順調に集まってケーブル製造が急ピッチで進められ、
1857年7月にケーブルは完成し、翌月に敷設のための航海が開始されました。
この最初の敷設は途中でケーブルが切断されてしまい失敗に終わり、
翌年に行われた2度目の敷設は航海中に記録的な暴風雨に見舞われ、
後に作業を再開するもアクシデントに対処するうちに食料や船の燃料が不足し、
作業を続ける事が出来ず断念しましたが、同年のうちに3度目の敷設のための
航海が行われ、この航海によって、ようやくケーブルの敷設が達成されました。
その後、ケーブルの構造等に起因する信号の減衰が著しくなり、
敷設されたケーブルは2か月余りで役目を終える事となりました。
海底ケーブル事業は抜本的な見直しを図る事となり、構造等を大幅に見直した
新しいケーブルや当時最大の蒸気船の使用など準備が進められました。
1865年に行われた4度目の敷設工事はケーブルの短絡や切断等によって
失敗となりましたが、翌年に行われた敷設工事でケーブルの接続に成功し、
前年に落下したケーブルの引上げ/接続作業にも成功し、ここにようやく
念願のヨーロッパ~アメリカ間の海底ケーブル接続が実現されました。
時代的にジャパリパークが開業した時点で、既に衛星通信等のワイヤレス通信が
一般的なものとなっているであろう事が想像できます。
ジャパリパークに海底ケーブルが接続されているのかは判然としておりませんが、
広大なパークには高速/大容量の通信手段が欠かせないはずであります。
通信手段の進歩は目覚ましく、今や何時でも何処でも誰とでも、
しかも簡単に繋がるのが一般的となっております。
しかし、そこに至るまでには例えば前述のような
苦難や試行錯誤の時代があった事を覚えておくべきであります。
繋がる事は「当たり前」ではなく「ありがたい」ものなのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1868年に明治政府によって、江戸幕府によって開設された
「昌平坂学問所」が「昌平学校」として復興された日であります。
・昌平坂学問所は1790年に神田湯島に設立された
江戸幕府直轄の教学機関および施設であります。
正式名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称されます。
元々は1630年に林羅山氏(林鵞峰氏の父親)が徳川家康公から与えられた
上野忍岡の屋敷地にて営まれていた儒学の私塾を起源としております。
林氏はここに孔子廟を設けて祭祀を行われ、これらの維持運営はその後
代々の林家当主によって継承されましたが、その後の1690年に五代将軍・
徳川綱吉公が神田湯島にこの孔子廟を移築する事を命じられた事で
際講堂や学寮が整備され、この地は孔子の生地である
「昌平郷」に因んで「昌平坂」と命名されました。
1790年、「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、
その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離され、
1797年までに制度等を含めて幕府の直轄機関として整備されました。
これが幕府教学機関としての「昌平坂学問所」の始まりであります。
・幕末期においては洋学の「開成所」や医学(西洋医学)の「医学所」と
並び称される規模の教学機関でありましたが、維新期の混乱に際して
一時閉鎖された後に新政府に接収され、1868年8月17日
(慶応4年6月29日)に官立の「昌平学校」として再出発する事となりました。
しかし、この昌平学校は従来のような儒学や漢学中心の教育機関ではなく、
儒学よりも皇学(国学・神道)に重点を置いた機関として位置づけられたため、
旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立が燻る事となりました。
特に昌平学校が高等教育および学校行政を担当する「大学校」の中枢として
位置づけられて以降は、儒学派と国学派の主導権争いがますます激化したため、
「大学本校」と改称されていた昌平学校は1870年8月8日に休校となり、
そのまま翌年に廃止される事となりました。
・こうして1871年に閉鎖された昌平学校でありますが、
江戸時代に開設された教育/研究機関としての昌平坂学問所は、
「幕府天文方」の流れを汲む「開成所」や、「種痘所」の流れを汲む「医学所」と共に、
その系譜が後の東京大学へと繋がる事となります。
また、敷地としての学問所跡地は現在その殆どが
東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっております。
けものフレンズにおいて学校で思い浮かぶものといえば、
ITSUKI氏が制作されているミニアニメかもしれません。
これまで「ずっけも!」第11話を含めて9つのエピソードが描かれており、
そのどれもがフレンズの方々の楽しく微笑ましい内容となっております。
学校は世の中に必要な知識や経験を得られる重要な場所であります。
もちろん、学校で学ぶ事ができる内容は限られておりますが、
学舎にていろんな方々と交流しながら勉学に励む時間は、
それそのものが人生における貴重なひとときなのであります。
大人になってから過ごす時間が長い人生を有意義なものにするためにも、
学生の皆様に素晴らしい時間を過ごしてほしいと願うばかりであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
シリーズです
改めて見返してみるのもいいかもしれませんね
本日は健康食育の日であります。
8月18日が「米の日」に制定されている事に因んで、
日本健康食育協会によって制定されました。
食の大切さを伝える食育活動を「健康食育」として普及させるのが目的であります。
・一般社団法人 日本健康食育協会は、2005年に施行された「食育基本法」を
きっかけとして同年に設立された「健康・食育検定協議会」を前身としております。
2011年12月28日に現在の一般社団法人に改組しており、
事務局は東京都新宿区に構えております。
「健康食育」を軸に、指導者の育成/健康経営教育プログラムの開発/
地域住民の健康サポートを通じた地域の活性化など、
食とい側面から様々な問題の解決を図り、
1人でも多くの方の健康を実現する事で社会貢献を目指しております。
日本健康食育協会では資格認定講座「健康食育マスター講座」を主宰しております。
受講される方の目的に合わせて「健康食育ジュニアマスター」と
「健康食育シニアマスター」という2つの認定資格が設けられており、
資格を取得する事を目的にするのではなく、資格取得をスタートとし、
その資格を生活やビジネスに活かす事を目的としております。
また、「健康食育シニアマスター」を取得された方を対象とした
会員制の組織「食育の答 研究会」も運営しており、
資格を仕事に活かしたいビジネス実践者のための
特別なコース「ビジネスコース」も設けられております。
その他、ワークショップやセミナー等の開催や、
協会代表の柏原ゆきよ氏の公式サイトやメルマガ、
YouTubeでの情報発信も行われております。
ジャパリパークにお住まいのフレンズの方々の主食はジャパリまんでありますが、
その開発には様々な専門家の方々の意見が反映されているものと思われ、
その中には食育に関する専門家もいらっしゃると想像できます。
また、職員の方々の健康管理においても同様であろうと思われます。
食の多様化が進んだ現代の日本でありますが、そんな世の中だからこそ
米を中心とした和食に改めて注目したいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
ごはん!
本日は世界オランウータンの日であります。
いつ、どなたによって制定されたかは明らかになっておりません。
・オランウータンとは、ヒト科オランウータン属に分類される構成種の総称で、
語源はマレー語の「orang(人)hutan(森)=森の人」であります。
アジアの熱帯にのみ生息しており、国でいえばインドネシアとマレーシア、
島でいえばスマトラ島北部とボルネオ島が生息域となっております。
構成種はオランウータン1種から基亜種のボルネオオランウータンと
亜種のスマトラオランウータンに分類されておりましたが、
2017年にスイス・チューリヒ大などの国際研究チームによって、
スマトラオランウータンのトバ湖以南の個体群が、形態や分子系統解析から
タパヌリオランウータンとして分割・新種記載されております。
オランウータンの特徴は様々な資料にて示されておりますが、
その中でも際立ったものを幾つか挙げてみますと、
・下腕の橈骨と尺骨が非常に長く、腕全体の長さは脚の2倍もある。
また、大腿骨を骨盤に保持する股関節の靭帯がないため、
ヒトや他の霊長類と異なり、足の動きに制約が少ない。
・ゴリラやチンパンジーのようなナックルウォークをせず、
地面を歩くときは第2関節から第3関節の間を地面に着け、
腕で体全体を前後に振り子のように振りながら前に進む。
・低地の熱帯雨林に生息し、樹上で生活をする。広い行動圏を持ち、
メスよりもオスの方が行動圏が大きく、1日あたり200~300mを移動する。
基本的に単独で生活するが、採食の際には1つの樹木に
複数の個体が集まる事もある。幼獣や若齢個体では集団で遊ぶ、
ペアで行動する、子連れの母親の後をつける事もある。
・東南アジアの熱帯雨林では数年に1度だけ森の木々が一斉に開花/結実する
「一斉開花」と呼ばれる現象があり、その年に「食いだめ」をして
体内の脂肪を蓄え、果実が少ない時期はこの脂肪を消費しながら耐える。
・子供の時期に亡くなる確率は非常に低く、数%という報告がある。
寿命は未だ判然としていないが、飼育下では50年生きた個体も存在する。
・大人のオスの顔の両脇にある「フランジ」と呼ばれる張り出しは
強いオスの象徴で、フランジは一度大きくなると小さくなる事はない。
フランジを持つオスは大きな「のど袋」を持ち、
「ロング・コール」と呼ばれる独特の音声を発する。
・握力は大人のオスで500kg程度と推定されている。
以上の事だけでも、オランウータンの特徴が際立っております。
けものフレンズにはオランウータンのフレンズがいらっしゃいます。
旧アプリ版にはボルネオオランウータン様が登場されており、
「森の王」ヘラジカ様のもとで森の食料の管理を務めておられます。
また、「ボルネオ保全プロジェクト」とのコラボにおいてリデザインされ、
その際には名前が「オランウータン」様となっております。
オランウータンは、開発や森林火災による生息地の破壊、
展示用やペット用の乱獲などにより生息数は減少しており、
生息地においては販売や飼育が法的に禁止されております。
そして、ワシントン条約附属書においても絶滅危惧種に指定されております。
日本においては複数の動物園にて飼育されておりますが、
1990年をピークに個体数は減少しており、それを受ける形で
ポンゴ属(オランウータン属)単位で特定動物に指定されております。
自然を好む「森の人」は私達にとって大切な仲間であります。
彼らのためにも、日々の取り組みを積み重ねていきたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
オランウータンの日なので、けもねお公式ツイッターでみんみ教徒さんのこちらのコメント紹介させてもらってもよろしいでしょうか?
やたら長い文章でありますが、
このようなものでよろしければ、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます!
本日は1994年に広島県にて、新交通システム・広島新交通1号線
(アストラムライン)の本通~広域公園前が開業した日であります。
・広島高速交通広島新交通1号線は、広島県広島市中区の本通駅から
同市安佐南区の広域公園前駅に至る、広島高速交通株式会社の
自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)路線であります。
日本語の「明日」に英語の「トラム」(路面電車)という意味から付けられた、
アストラムライン(Astram line)が通称となっております。
・広島市中心部と広島市北西部(主に安佐南区)の
住宅地とを結ぶ足として建設が進められた路線で、
広島市中心部から長楽寺駅までの区間が1989年に建設が着手されました。
一方で、安佐南区と佐伯区に跨がるニュータウン「広島西部丘陵都市」の
一角に整備された広島広域公園を主会場とする「広島アジア大会」が
1994年10月に開催される事が決定されたのを受けて、その会場へと
アクセスできる鉄道として長楽寺駅~広域公園前駅間も1990年に着工され、
1994年8月20日に本通駅~長楽寺駅~広域公園前駅間の18.4kmの全区間が
同時開業しております。現在は市中心部と住宅地とを結ぶ機能の他、
広島広域公園内に建設された広島広域公園陸上競技場
(エディオンスタジアム広島)へのアクセス路線としての機能も有しております。
全線が既存の道路、本通駅~中筋駅間は国道54号、
中筋駅~大原駅間は広島県道38号広島豊平線、
大原駅~伴中央駅間は広島県道265号伴広島線、
伴中央駅~広域公園前駅間は広島県道71号広島湯来線の上空
(または地下)を走っております。現在営業中のAGTの中では総延長日本一で、
また一部区間のみながら地下を走行するものは
桃花台新交通桃花台線に次いで2例目であります。
本通駅~新白島駅の先までの1.9km(全線の10.3%)が地下区間であります。
このうち、本通駅~県庁前駅間の0.3km(全線の1.6%)が
鉄道事業法に基づく鉄道区間であり、この区間のみ「地下鉄」とみなされ、
地下高速鉄道整備事業費補助制度を受けておりました。
なお、案内軌条式鉄道による地下鉄は日本で札幌市営地下鉄とここだけで、
側方案内軌条式を採用している地下鉄としては日本で唯一であります。
残る県庁前駅~広域公園前駅間の18.1km(全線の98.4%)は、
地下線も高架線も含めて軌道法に基づく軌道区間であります。
また、広島県内のみならず、中国地方の鉄道で
初めて自動改札機が導入された路線でもあります。
なお、案内軌条式鉄道としては、オーストラリア・アデレードで運行される
ガイドウェイバスシステム「アデレード・オーバーン」が、
1989年8月20日に全線開業しております。
けものフレンズにおいて案内軌条式鉄道に近いものといえば、
アニメ二期にて登場したジャパリラインかもしれません。
ジャパリラインはモノレールとなっており、
レールからの給電による走行はもちろん、太陽光発電による
バッテリーでの自走も行う事ができるシステムを備えております。
温室効果ガスに対する規制がこれから更に厳しくなり、
乗り物にはますます地球環境に対する配慮が求められます。
地球に優しい移動手段は私達に課せられた課題であり、
それは私達の日々の取り組みの一つでもあるのです。
本日もお祈りいたします、みんみー。
みん・・・み
本日は1924年に「國民新聞」が日本で初めて
天気図を新聞に掲載した日であります。
・「國民新聞」は徳富蘇峰氏によって1890年2月1日に國民新聞社から
創刊された日刊新聞で、現在の「東京新聞」の前身の一つであります。
徳富氏が雑誌「國民之友」にて成功を収められた後に創刊された日刊新聞で、
最初は「平民主義」を提唱し、その立場から政治問題を論じる内容でありました。
やがて、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を取るようになり、
明治後期から大正初期にかけては藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、
「御用新聞」とも呼ばれるほどの政府系新聞の代表的存在となりました。
日露戦争終結時には世論に対して講和賛成を唱えたため、
1905年9月5日には講和反対派の暴徒による焼き討ちに遭い、
憲政擁護運動でも第3次桂内閣を代弁する立場を取ったため、
1913年2月11日には護憲派の民衆による襲撃にも遭っております。
この間、1907年9月に日本新聞史上初めて地方版を創設し、
1924年8月21日には、同じく史上初の天気図の掲載でも知られております。
大正中期に大衆化が図られ、東京日日/報知/時事/東京朝日と並ぶ
「東京五大新聞」の一角を占めるようになりましたが、
関東大震災による被害によって業績は急激に傾いてしまいました。
1926年5月、甲州財閥の根津嘉一郎氏の出資を仰いで共同経営に移り、
副社長には根津氏が推薦された河西豊太郎氏が就任されましたが、
やがて根津氏と徳富氏は対立し、1929年1月5日に徳富氏は退社されて
「東京日日新聞」に移籍されました。その後、伊東ハンニ氏の手に移るも
業績は好転せず、伊東氏の後継に就任された伊達源一郎氏が1931年10月に
「大夕刊」と称して夕刊紙に転換したものの失敗に終わりました。
1933年5月1日、根津氏は経営を名古屋の新愛知新聞社
(現在の中日新聞社)に譲渡され、新愛知での傘下を契機に
編集方針を国防/軍事に重点を置く形に転換して、
1941年度には黒字決算を達成して再建に成功しております。
1942年、戦時体制下により「都新聞」と合併する事となり、同年10月1日に
「東京新聞」が誕生したと同時に新愛知新聞社は東京から撤退を余儀なくされ、
東京新聞の主導権は都新聞側が握る事となりました。
しかし、戦後の激しい販売競争の中で東京新聞は経営不振に陥り、
1961年に社団法人から株式会社に組織変更するもその甲斐なく、
1963年に再び新愛知新聞社の後身の中部日本新聞社(現在の中日新聞社)
が支援する事となり、その4年後には発行や営業などの
殆どの事業が中部日本新聞社が引き継がれる事となりました。
けものフレンズにとって天候は重要な要素となっております。
特にアニメ一期におけるサンドスターは気候そのものに影響を与えており、
それがみんみ様達の旅路にも少なからぬ影響を及ぼしております。
それは、ロッジアリツカにてラッキービースト様が
みんみ様達に天候を予告されていた事からも窺えます。
今では当たり前となっている様々な情報でありますが、
それを初めて導入する際には様々な苦労があったはずであります。
私達が日々の中で恩恵を受けているものに対して、
先人の方々の偉業に思いを馳せてみるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は盲導犬「チャンピイ」の命日であります。
・チャンピイは日本で育成された盲導犬の第1号となった
ジャーマン・シェパードで、チャンピィとも表記される事もあります。
1955年に行われたパーティーにて、アメリカ合衆国大使館付の
海軍武官であったW・C・ノーベル大佐が外交官の河相達夫氏から
失明されていたご子息の河相洌氏の話を聞かれ、
ノーベル大佐は「社会復帰のための盲導犬として育てて欲しい」として
生後6ヶ月の雄のチャンピイを日本に贈呈されました。
その後、河相氏は盲導犬の訓練について視力障害者センターの教官であった
松井新二郎氏に相談されたところ、日本シェパード犬協会会長であった
相馬安雄氏に聞く事を薦められた後に紹介されて来たのが、
塩屋愛犬学校を設立され、警察犬や家庭犬の訓練をされていた
塩屋賢一氏であります。塩屋氏によって訓練を受けたチャンピイは
1957年より河相洌氏の盲導犬として活躍を続けましたが、
河相洌氏が上京の際に預けられた浜松の知り合いの獣医のもとで
突如として亡くなってしまいました。12歳とはいえ元気であったため、
河相氏にとっては全く予想外の事でありました。
後にチャンピイに関するテレビ番組が放送される事となり、
2002年にNHK総合テレビの「プロジェクトX 挑戦者たち」が、
2008年には「ありがとう!チャンピイ〜日本初の盲導犬誕生物語〜」
のタイトルでテレビドラマが放映されました。
けものフレンズにジャーマン・シェパードのフレンズはいらっしゃいませんが、
イヌのフレンズで献身的な印象が強い方といえばアニメ二期にて活躍された
イエイヌ様かもしれません。こちらに関しては以前の書き込みの通りであります。
日本においても盲導犬は重要な存在となっておりますが、
その先駆けであるチャンピイは現在に繋がる偉大な存在であります。
日本における盲導犬の更なる地位向上を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1929年に新潟市にて鉄筋コンクリート製の橋梁、
3世代目の萬代橋が竣工した日であります。
・萬代橋(ばんだいばし/よろづよばし)は、
新潟県新潟市中央区の信濃川に架かる国道7号線の道路橋梁で、
国道8号/国道17号/国道113号/国道350号とも重複しております。
また、新潟市の信濃川に架橋された初めての橋でもあります。
橋梁名は1886年の架橋当初は「よろづよばし」
(現代仮名遣いでは「よろずよばし」)と訓読しておりましたが、
後に音読の「ばんだいばし」へ転訛して正式の橋梁名もそれに倣い、
そのまま現在に至るまで定着しております。
・初代は1886年に竣工された木造の橋梁で、橋梁部は現在の位置よりも
約30m上流側に架けられ、橋長・約782m/幅員・約7.3mを有しておりました。
当時の市内を流れる信濃川は川幅が広かったため、橋長は現在の2.5倍以上と、
現在の礎町通一ノ町付近から流作場五差路付近にまで及ぶ長大な橋梁で、
日本国内の橋梁としても当時最長でありました。
1908年3月8日、新潟市古町通八番町の芸妓屋を火元とする火災が発生し、
火は北西の強風に煽られて延焼した後に萬代橋に引火する事態となりました。
更には火の粉が付いた避難者の荷物からも引火して、
橋梁の西詰側から半分以上の約472mが焼け落ちてしまいました。
・2世代目は1909年12月に同じく木造の橋梁として竣工されました。
初代の基礎杭をそのまま使用した事が工期短縮に繋がったとされております。
長さは初代と同じく約782mでありましたが、交通量の増加に合わせて
幅員が約60cm広くなり、約7.9mとなっております。
これに先立つ1896年の大水害をきっかけに実現される運びとなり、
工事は内務省直轄の国家事業として1909年に着手され、
1922年8月に大河津分水が完成して通水が開始されると、
分水から下流の信濃川の水量が著しく減少し、新潟市内を流れる川幅は
約770mから凡そ3分の1となる約270mにまで縮小されました。
その後、新潟市では1913年6月8日に新潟駅と白山駅との間で
市内初のバス事業が開始され、1922年7月12日には新潟駅と白山神社との間で、
初の本格的な路線バスの営業が開始されました。当時の車体の赤い塗装から、
市民の間では「赤バス」の通称で親しまれるようになりました。
大正期から自動車の通行量が次第に増え、既に老朽化が進んでいた2代目橋梁は
赤バスなどの自動車が通行する度に橋の敷板がバタバタと音を立てて
跳ね上がる事から「バッタン橋」とも揶揄される事もありました。
また、損傷も増加した事から度々修繕を余儀なくされる状態でありました。
こうした中、1925年に内務省の都市計画新潟地方委員会によって策定された
「新潟都市計画」には、萬代橋を架け替えて車道の中央部に
路面電車を通す計画が盛り込まれ、信濃川の幅員縮小を機に橋長を短縮し、
路面電車の軌道敷設と自動車交通の双方に対応できる
永久橋梁への架け替えが行われる事となりました。
・現在の萬代橋の1927年7月16日に起工式が執り行われ、
架橋工事が着工されました。橋梁はRC(鉄筋コンクリート)アーチ橋を採用、
橋脚の基礎部には当時の日本ではまだ例の少なかった
空気潜函工法(ニューマチックケーソン工法)が用いられ、
塩害からの保護や経年劣化の軽減の役割を持つ「化粧張り」が施される等、
当時の日本の架橋技術を集めたものとなりました。
着工から2年の歳月を経た1929年8月23日に3代目の現橋が開通し、
開通当時は橋長309m/幅員22でありました。
2002年11月23日、土木学会は萬代橋を「土木学会選奨土木遺産」に認定し、
2003年、国土交通省は萬代橋の改修工事を検討する旨を発表しました。
萬代橋の欄干は高さ約850mmと低く、国の現行基準である
1100mmを満たしていなかったため、歩行者・自転車など
歩道部の利用者の安全性を考慮した歩道部の補修と併せて、
欄干高さも基準値に改良する事を図ったものでありました。
しかし、「市民が慣れ親しんだ萬代橋の景観が損なわれる」
と危惧する意見が市民から数多く寄せられ、20以上の市民団体の連名による
「萬代橋の景観保全についての要望書」が提出された事を受け、
萬代橋の改修を巡って市民側と行政側の議論の場を設けられました。
この改修計画の是非について討論が行われた結果、
「基準値を満足しなくとも、市民の自己責任によって橋を利用する」
という前提で「現状の高さを維持すべきである」との結論が出されました。
この議論を機に、萬代橋を重要文化財に指定する事を目指す機運が高まり、
現橋の架橋75周年を迎えた2004年4月16日、
文化審議会は橋梁デザイン史上における価値の高さと、
技術的達成度を示す遺構として貴重である旨を評価して、
重要文化財に指定する答申を行い、同年7月6日付で正式に指定されました。
ジャパリパークは様々な地形を有する土地であり、
パークとして利用するために様々な橋が架けられております。
中には広い川幅に対応するための橋も幾つか存在しており、
アニメ一期に登場した「あんいんばし」あたりが有名でありましょう。
橋は人や物だけでなく文化等を繋ぐ役割を持っております。
萬代橋も、長年にわたり不和が続いていた新潟市と沼垂町を繋いだ事により、
両地域の交流を深めて生活圏を徐々に一体化していった経緯を持っております。
この世の中、バーチャルな繋がりが一般的となりつつありますが、
この現実においては離れた場所との交流に橋が必要となる場合もあります。
改めて、橋の歴史に思いを馳せてみるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は歯ブラシの日であります。
「は(8)ぶ(2)らし(4)」の語呂合わせに因んで、
株式会社オーラルケアによって制定されました。
歯ブラシでの歯磨きをもっと普及させて、
口腔ケアへの関心を高めてもらう事を目的としております。
・株式会社オーラルケアは歯ブラシをはじめとする
予防歯科のための口腔ケア商品の開発や販売などを行う企業であります。
主な事業は以下の通りとなっております。
予防歯科関連製品・施設在宅用口腔ケア製品の開発/輸入/販売
術野拡大商品・矯正器具の輸入/製造/販売
年間100本以上の予防歯科関連セミナーや講演会の企画/開催
カスタマーサービス事業
1980年11月に株式会社テイピイジャパンとして設立。
1993年7月に業界初の袋入り殺菌歯ブラシ「タフト24」を発売。
1995年1月に業界初の袋入り殺菌ワンタフトブラシ「プラウト」を発売。
1996年11月に術野拡大事業を開始。
1997年5月に株式会社ロッテと提携し、歯科専用「キシリトール」を発売。
1999年3月に社名を株式会社オーラルケアに変更し、
同年11月に流通からの要望に応えて「オーシー物流株式会社
(現:株式会社オーシーメディック)」を設立。
2000年2月に病院向け口腔ケア事業を開始。
同年7月にDHネットワーク無料マガジン「タフトくらぶ」を創刊し、
プロダクション機能を持った独自会社「株式会社オーシープランニング」を設立。
2004年3月に株式会社サンギと提携し、歯科専用「アパガードリナメル」を発売。
2005年4月にハウスウェルネスフーズ株式会社
(旧:武田食品工業株式会社)と提携し、歯科への免疫賦活事業を開始。
2011年5月にオーラルケア コミュニケーションセンターを設立。
2016年4月に株式会社ロッテと提携し、歯科専用「オーラテクト」を発売。
2019年10月に株式会社サンギと提携し、「薬用プラクリア」を発売。
ジャパリパークにお住まいのフレンズの方々が
ジャパリまんを主食としておられる事はよく知られるところでありますが、
生き物が食事をする事に際して口腔ケアが欠かせない事は、
様々な動物においても私達の食生活でも全く同じ事であります。
フレンズの方々が口腔ケアについてどのような認識や
取り組みをされているのかは判然としておりませんが、
手を自由に使う事ができるフレンズの皆様でありますので、
職員の方々からレクチャーを受けられている可能性が考えられます。
健康の基本はバランスの良い食事と適切な口腔ケアであり、
人生をより充実したものとするために常日頃から心がけたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1922年に信濃川の大河津分水が完成し、通水が開始された日であります。
・大河津分水(おおこうづぶんすい、または大河津分水路)は、
新潟県を流れる信濃川の分水路であります。
越後平野中央部で信濃川から分岐しており、
燕市(分水地区)と長岡市(寺泊地域)の境界付近を流れて日本海に至ります。
新潟市の「関屋分水」と共に信濃川の二つの分水路のうちの一つであります。
全長は9.1kmで、川幅は分流点付近では約720mあるのに対して、
河口付近では約180mと狭まっており、河口へ向かうほど幅が広くなる
一般的な河川とは逆となっております。これは、河口付近2kmあたりが
山地となっているため掘削土砂量を減らす必要があった事、
及び川幅を狭め河床を急勾配にする事によって水流を速めて、
洪水時により多くの水を流すように設計したためであります。
・本川と分水の分派点には双方に堰が設けられております。
本川側には「大河津洗堰」、分水側には「大河津可動堰」があり、
通常時は本川側の洗堰を開き、下流域の用水として毎秒270㎥まで流し、
それ以上は可動堰から分水路に放流します。分流点より本川下流側が
洪水の時には洗堰を閉じ、全水量を分水路から日本海に直接放流します。
一方渇水時には可動堰を閉じ、全水量を洗堰から本川へ放流します。
・越後平野は河川により運ばれた土砂が堆積してできた沖積平野であるため、
川の水面よりも低い土地がかなりの面積を占め、ひとたび洪水が発生すると
水がすぐに溢れ、行き場のない水が容易に引かないという状態でありました。
享保年間には既に幕府に請願が出されていたものの、
莫大な費用及び周辺集落の反対により起工には至りませんでした。
明治維新後の1869年に白根の庄屋である田沢与左衛門氏らが
分水工事を越後府に請願した事でようやく分水工事を行う事が決定し、
1870年には第1期大河津分水路工事が開始されました。
しかし、技術的な問題や地元の負担、及び新潟港を維持できなくなる事を
危惧した新潟町民等による反対運動や、これらの不満を糾合した一揆の発生、
また外国人技術者の意見もあり、1875年に工事は中止となりました。
・中止された分水路工事の替わりとして1876年に内務省による
「信濃川河身改修事業」が着手されました。これは堤防の築堤と
河川敷整備を中心としたものでありましたが、古典型ツツガムシ病の
蔓延によって多くの工事従事者が病に倒れる事態が発生してしまいました。
それでも事業が進められたものの洪水被害に対する抜本的な解消には至らず、
1881年には田沢与一郎氏や田沢実入氏らが信濃川治水会社を設立され、
分水工事再開のための運動を広め、1882年11月から翌年3月にかけて
有栖川宮左大臣や岩倉具視右大臣に面会され、分水工事再開を請願されました。
・1896年7月22日、西蒲原郡横田村(現・燕市横田)地内に於いて
「横田切れ」と呼ばれる信濃川の破堤による空前の大水害が発生し、
流域に甚大な被害が及んだ事で堤防整備の有効性に疑念が噴出しましたが、
こうした中で原田貞介氏が大河津分水工事改良案を提出され、これを元に
1909年に原田案をベースとした第2期大河津分水路工事が着手されました。
第2期分水工事は当時東洋一の大工事と言われ、
外国製及び国内製の最新掘削機が投入されました。
採掘した土砂は2880万㎥、工事に携わった方々は延べ1000万人にも及びました。
こうして発案から約200年の歳月を経て、1922年8月25日に分水路は通水され、
1924年には竣工式が執り行われました。
この大河津分水の完成は、先日書き込みをさせていただいた
現在の萬代橋の完成へと繋がっております。
けものフレンズにおいて河川と橋梁の関係で思い浮かぶものといえば、
アニメ一期の第二話「じゃんぐるちほー」かもしれません。
じゃんぐるちほーはサンドスターの影響によって熱帯地域の気候となっており、
ひとたび雨が降ればスコールのように激しいものとなる場合が考えられます。
それにより河川の水量が大幅に増え、ジャガー様の仰るとおり
「川の形が変わる」ほどの状態となる事も珍しくありません。
「あんいんばし」の崩壊が水量の増加によるものなのか、
それともセルリアンの襲来の影響によるものなのかは判然としておりませんが、
もしも洪水の恐れがあるならば、何らかの対策が必要となるかもしれません。
人類による治水事業は古くから行われており、異常気象と呼べる状態の
現代においては更に重要性を増してくる事は間違いありません。
それは生活をより便利に豊かにするためのものでありますが、
それにおいて大切にすべきものは「自然との共生」であります。
豊かさを求めるあまり、自然を蔑ろにしてしまっては本末転倒であります。
「自然との共生」のために必要なのものの一つが、
私達の日々の取り組みの積み重ねなのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は2002年に南アフリカのヨハネスブルクにて、
「持続可能な開発に関する世界首脳会議」が開幕した日であります。
・「持続可能な開発に関する世界首脳会議」は、2002年8月26日から9月4日まで
南アフリカ共和国のヨハネスブルグで国際連合により開催された、
地球環境問題に関する国際会議であります。
このうち、首脳による会議は9月2日から9月4日までであります。
「ヨハネスブルグ・サミット」「地球サミット」(「地球サミット2002」
「第2回地球サミット」「ヨハネスブルグ地球サミット」など)、
「環境開発サミット」、「持続可能な開発に関する世界サミット」、
「リオ+10」など様々な呼称が存在します。
・1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロにおいて
「環境と開発に関する国際連合会議」が開かれ、
持続可能な開発を旨とする「アジェンダ21」が採択され、
その会議から約10年後に開催された「持続可能な開発に関する世界首脳会議」は、
地球環境問題に対する10年間の取り組みを評価する意味も有しております。
即ち、「アジェンダ21」の実施状況を点検して、
今後の取り組みを強化する事が会議の大きな目的となっております。
・「持続可能な開発に関する世界首脳会議」には、1992年の会議と同様に
ほぼ全ての国際連合の加盟国や多くのNGO(非政府組織)が参加し、
「持続可能な開発に関するヨハネスブルグ宣言」などが採択されました。
その他にも、各国や多様な関係主体によって、数多くの文書が作成されました。
一方で、この会議を巡っては先進国と開発途上国との格差、
いわゆる「南北問題」がより一層浮き彫りとなった事を受けて、
問題に対する真剣な取り組みが感じられないという批判もあり、
国際社会における地球環境問題の扱いにおいて
深刻な課題が生まれてきている事を指摘する声もあります。
様々な地域に生息する動物のフレンズの方々がお住まいのジャパリパークは、
サンドスターによる影響など特殊な部分こそあるものの、
他の動物園や植物園/自然公園などと同じように
地球環境に充分に配慮した運営がなされているものと想像できます。
それは動物達およびフレンズの方々への気配りは、
自然環境への気配りと同義と考えられるべきものだからであります。
今、国連が掲げる「持続可能な開発目標」(SDGs)が世界的に注目されておりますが、
その取り組みは今に始まった事でも、前述の会議から始まった事でもなく、
その動きが注目されるはるか前から少しずつ行われてきたものであります。
世の中における大きな動きとなるにはそれなりのきっかけが必要でありますが、
取り組みそのものはそれぞれの方々ができる範囲でいつでも始められます。
そして最も大切な事は、それを継続する事、積み重ねる事なのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1883年にオランダ領東インド(現在のインドネシア)の
クラカタウ島にて大噴火が発生した日であります。
・クラカタウは、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、
スンダ海峡にある火山島の総称であります。ランプン州に属しており、
全体がウジュン・クロン国立公園の一部となっております。
名称に関しては「クラカタウ(Krakatau)」と
「クラカトア(Krakatoa)」の2種類の呼び名がありますが、
インドネシアでの名称はクラカタウが一般的であります。
・およそ6万年前まで、この海域には「古クラカタウ」ともいうべき
直径15km弱の火山島がありましたが大噴火によって消滅し、
その後、ラカタ島/セルトゥン島/ラング島(現在のラカタ・クチル島)
に分かれる形となり、それがクラカタウの総称となりました。
・535年に発生した大規模な噴火はインドネシアの文明に
歴史的な断絶を引き起こすほどのものでありました。
5世紀からジャワ島西部に栄えたカラタンと呼ばれた
高度の文明が姿を消しただけでなく、世界各地に異常気象をもたらしました。
その痕跡は樹木の年輪や極地の火山灰の堆積のような物的なものから
歴史文書に至るまで広範囲に亘っております。
・1883年の大噴火は5月10日の微々たる揺れから始まりました。
5月20日にはラカタ島で水蒸気爆発を伴う噴火が発生し、
8月11日には同島の3つの火山の噴火が発生し、
8月27日の現地時間9時58分に大噴火が発生しました。
これはラカタ島の土地の3分の2を消滅させる凄まじい噴火で、
噴火で発生した大規模な火砕流は海上40kmを越え、
噴火により発生した津波が周辺の島を洗い流し、
36417人もの犠牲者を出す結果となってしまいました。
これは地質学史上、第5番目の爆発規模と考えられております。
噴煙の高さは成層圏に達する38000m(48800mの説も有り)まで上り、
その影響で北半球全体の平均気温が0.5℃から0.8℃降下した記録があります。
爆発音は4776km先のインド洋のロドリゲス島まで届き、
人間が遠く離れた場所で発生した音を直接聞いた最長距離となりました。
噴火によって発生した衝撃波は15日かけて地球を7周し、
5863km離れた東京で1.45hPaの気圧上昇が記録されております。
津波は、日本では鹿児島市の甲突川にも押し寄せ、
17000km離れたフランスのビスケー湾の験潮儀にも記録されております。
また、その後数年にわたって異様な色の夕焼けが観測されており、
イギリスの画家William Ashcroft氏が記録に残されております。
・1927年1月26日にラカタ島北部の海中で噴火が始まり、
火山島アナク・クラカタウが誕生した後は、1928年2月3日正午から24時間で
11791回と桁外れの爆発回数によって新たな島の誕生や浸食が繰り返され、
2018年の12月下旬にも大規模噴火で山体崩壊が発生するなど、
アナク・クラカタウは現在も噴火活動を続けております。
既に知られている通り、ジャパリパークは海底火山の噴火によって
出現した島をそのまま動物園とした非常に大規模な施設であります。
広さそのものがどれ程のものかは判然としておりませんが、
バスでの移動が必須となる程の広さの島が出現する規模となると、
かつてない規模の大噴火であった可能性が考えられます。
ここのところ、様々に変わり続ける気象が注目されておりますが、
地球の内部も絶えず活動を続けております。
私達は地球という巨大な生き物のサイクルの中で生きております。
この日を機に、改めて地球内部について考えるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1998年に短距離交通システム・スカイレールサービスの
広島短距離交通瀬野線が開業した日であります。
・広島短距離交通瀬野線は、広島県広島市安芸区瀬野町に建設された住宅団地
「スカイレールタウンみどり坂」への交通手段として開通した路線であります。
新交通システム「スカイレール」を採用しているのが最大の特徴で、
それを扱うスカイレールサービス株式会社によって運営されております。
「スカイレールみどり坂線」の愛称がある他、
一般的に「スカイレールサービス」、「スカイレール」とも呼ばれております。
・スカイレールとは、神戸製鋼所や三菱重工業などが共同開発した
懸垂式モノレールとロープウェイを組み合わせたような交通システムで、
懸垂式のモノレール車両を駅間においてはワイヤロープで、駅構内においては
リニアモーターで駆動して運転しており、平均速度は約15km/hであります。
建設費も従来のモノレールや新交通システムと比べて3分の1程度と安く、
運営も低コストで工期も短いという長所を有しております。
27%(=270‰・約15度)の急勾配を登坂する能力があるため、
山陽本線瀬野駅北側の丘陵地に開発された住宅団地への
交通機関として採用されております。総工費は約62億円でありました。
従来のロープウェイやゴンドラリフトは風に弱いため、
都市内公共交通には不向きでありましたが、
スカイレールは車体の支持や案内を桁構造と車輪で行うため風にも強く、
従来の急勾配線区向けの交通システムの弱点を克服しております。
みどり口駅~みどり中央駅間におけるほぼ全線が道路沿いに造られており、
懸垂式モノレールとして軌道法による特許を受けております。
実際の運用における最急勾配は263‰となっており、
これはケーブルカー以外の鉄軌道では日本一の急勾配となっております。
けものフレンズにおいてスカイレールに近いものといえば、
アニメ一期の第三話で登場した足こぎ式のリフトかもしれません。
みんみ様達がこうざんを登られる際にロープウェイは機能しておらず、
みんみ様は自力で登られ、かばん様はトキ様の助けを借りられました。
その後、ジャパリカフェのサイン作りの最中に
ラッキービースト様によって足こぎ式のリフトがロープウェイに設置され、
カフェからの帰りにおいてみんみ様達がリフトを利用されております。
世の中には様々な交通手段が存在しておりますが、一般的な方法だけでなく
「この場所にはこの方法が最適、またはこの方法しか使えない」
といったものも様々な場所で重宝されております。
従来からの不足を補うため、または不満を解消するために、
人類は様々な方法を発明して快適な生活を手にしてきておりますが、
これからの時代は「環境への配慮」「自然との共生」が欠かせません。
自然に優しい快適な生活の実現は、まだまだ道半ばなのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は自転車の発明家とされるピエール・ラルマン氏の命日であります。
ピエール・ラルマン氏は自転車を発明された人物とされております。
1843年10月25日、フランス北東部のナンシーに程近い
ポンタ=ムッソンにお生まれになり、1862年にナンシーの乳母車製造業者に
勤められていた際に、自転車の前身とされる乗り物ダンディー・ホース
(ドライジーネ)を運転されている人を見かけられました。
ダンディー・ホースはペダルを回す現代の自転車と違い、
運転者が自身の足で地面を蹴って車体を動かす必要がありました。
1863年、パリに移られたラルマン氏はオリビエ兄弟と出逢われたと思われ、
1864年にダンディー・ホースにロータリー式のクランク機構と
ペダルで構成されたトランスミッションを前輪のハブに装着され、
現代に繋がる自転車と呼べる乗り物「ベロシペード」を設計されました。
一方、オリビエ兄弟はラルマンの発明に商機を感じ取られ、
フランスの発明家/実業家のピエール・ミショー氏と提携され、
2輪のベロシペードを大量生産されました。
このベロシペードがラルマン氏による1864年の設計に基づくものか、
ピエール・ミショー氏のご子息のエルネスト・ミショー氏による
別の設計によるものかは定かではありません。
ラルマン氏がほんの短い間、ピエール氏に雇われていた可能性があります。
1865年にラルマン氏はフランスを離れられ、アメリカのコネチカット州
アンソニアに移住され、そこでご自身の自転車をさらに改良/公開されました。
ラルマン氏はコネチカット州ニューヘイブンのジェームズ・キャロル氏に
資金提供者となってもらい、1866年4月にペダル式自転車に関する
アメリカで最初かつ唯一の特許を申請され、同年11月20日に認可されました。
ラルマン氏の図面にはロンドンのデニス・ジョンソン氏が製作された
曲線形フレームのダンディー・ホースと形がよく似た機械が描かれており、
相違点はペダルとクランクが付加されている事と、
フレーム上部に細長い鉄板をばねとして載せ、
その上にサドルを取り付けて乗り心地の改善を図っている事だけでありました。
しかし、この自転車がアメリカの製造業者の興味を引きつける事のないまま、
ラルマンは1868年にパリに戻られました。この時、フランスでは
ミショー型自転車が初のブームを巻き起こし、それがやがて欧州に広まり、
アメリカにも渡る事となりました。ラルマン氏も1880年以前のある段階で
再びアメリカに渡られ、ブルックリンに居を構えられながら
アルバート・ポープ氏のもとで働いておられました。
1880年には特許権侵害に関する訴訟の場において、自身の特許の権利を
売却されていたポープ氏側の証人として法廷にも出廷されました。
1891年8月29日、ラルマン氏はボストンにて47年の生涯を閉じられました。
・1993年10月11日~16日にボストンにて開催された
第4回国際サイクリング歴史カンファレンスにおいて、
著述家/歴史家のデイビッド・ハーリヒー氏は、
ラルマン氏がダンディー・ホースにペダルを付けた人物として
認められてしかるべきだとする証拠類を提示されました。
その後、ボストンにあるサウスウェスト・コリドア公園の中を
フォレスト・ヒルからバック・ベイへと蛇行する約5.6kmの自転車道の
一区間には「ピエール・ラルマン・バイク・パス」の名前が付けられました。
この自転車道は1891年にラルマン氏が亡くなられた家の近くを通っております。
1998年には、コネチカット州ニューヘイブンで開催された
市の国際芸術&アイデアフェスティバルの一環として、
チャペル・ストリート990にあるニューヘイブン・グリーン公園に
ラルマン氏の碑が設置されております。2005年、ラルマン氏は
現代自転車の父として「アメリカ自転車殿堂」入りを果たされております。
けものフレンズにおいて自転車で思い浮かぶものといえば、
これまでの書き込みの通り「ばすてき」に登場したベダルカーであります。
このベダルカーの構造は現代の自転車と同じでありますが
左右に2台が連結されており、基本的に2名での運転を前提としております。
また、園内の近距離周遊用と思われるので速度は重視されておりません。
自転車は手軽な移動手段にして環境にも配慮した乗り物でもあります。
この日を機に、先人達の知恵と努力に思いを馳せるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1909年にチャールズ・ウォルコット氏が
バージェス頁岩(けつがん)の化石を発見された日であります。
チャールズ・ドゥーリトル・ウォルコット氏はアメリカの古生物学者で、
無脊椎動物の研究やカンブリア紀の化石群の発見でも知られております。
1850年3月31日にニューヨーク州北部のオナイダにお生まれになり、
大学で博物学に関心を持たれて化石の他昆虫採集なども行われましたが、
19歳の時に大学を中退され、金物屋の事務員を2年間経験されました。
21歳の時に仕事でインディアナポリスに出かけられた際に、
そこでの炭田にて働いておられる地質学者に出逢われた事が
生涯を地質学に向けられるきっかけとなり、これを契機に地元の
オルドビス紀の石灰岩の調査と化石の採集/研究を始められました。
一方この頃、スイス出身の生物学者/地質学者のルイ・アガシー氏が
ハーバード大学の比較動物学博物館を創設されるために
スイスから招かれており、ウォルコット氏はアガシー氏の元で
化石の研究を行われる事を申し入れられましたが、
その直前にアガシー氏が亡くなられてしまい、実現には至りませんでした。
しかし、その後もウォルコット氏は独学で研究を続けられました。
1876年にニューヨークの地質学者のジェームズ・ホール氏の助手となられ、
アメリカ科学振興協会(AAAS)の会員にもなられました。
1879年にアメリカ地質調査所に入所され、1894年に所長に昇進されました。
そこでの業務において、特に米国内にあるカンブリア層の調査を行われ、
多くの調査旅行をこなされ、収集された化石を岩石の年代と連携されました。
その成果は、地質学に貢献する重要な業績となっております。
1896年に全米科学アカデミーの会長に選ばれ、
1902年にはカーネギー鉄鋼会社の創設者であり
慈善家としても有名なアンドリュー・カーネギー氏を説得され、
ワシントンにカーネギー研究所を創設された後に理事長に就任されました。
1907年にスミソニアン協会の会長に就任され、
アメリカ地質調査所の所長も引き続き務められました。
1909年8月30日にバージェス頁岩にカンブリア紀の化石を発見され、
その翌年に2人のご子息と共にその地域にて、
化石が発見された頁岩のある地点より上の尾根の地層を調査され、
化石を含む地層帯を事実上発見されました。その後、1919年から1924年の間に
何度もその地に足を運ばれ、65000点以上もの化石を収集されました。
後にこの場所は「ウォルコット石切場」と名付けられております。
1927年2月9日、ウォルコット氏は76年の生涯を閉じられました。
その後、ウォルコット氏の資料/写真/記録は1960年代後半の世代の
古生物学者の方々が興味を寄せられるまでスミソニアン協会に保管され、
やがて、ウォルコット氏の解釈の多くが訂正される事となりました。
1989年にアメリカの古生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールド氏が
著書「ワンダフルライフ」の中でウォルコット氏について記述されており、
これがウォルコット氏が一般に知られるきっかけとなっております。
その後、バージェス山の一つの頂上にウォルコット氏の名前が付けられ、
また、前カンブリア紀とカンブリア紀の
古生物学分野での優れた業績に対して表彰する
「チャールズ・ドゥーリトル・ウォルコット賞」が設けられております。
・バージェス頁岩とは、約5億500万年前の古生代カンブリア紀中期に
生息していた海棲動物の化石を有するカナダの化石地層の通称であります。
それまで発見された事のなかった海棲動物の化石が
軟体組織まで鮮明に保存された状態で大量に出土した事で有名であり、
そこから発見されたアノマロカリス/オパビニア/ハルキゲニア/
マーレラなどの動物群は「バージェス動物群」もしくは
「バージェス頁岩動物群」と称され、現在も発掘や研究が続けられております。
極めて古い時代の動物化石が集中して発見される数少ない場所として
当初から注目を集めておりましたが、発見された当時は節足動物と思われた
かなり奇妙な化石小動物が既存の分類体系に適合しないため、
それをどのように説明するかで広汎な議論を呼びました。
1989年、アメリカの古生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールド氏の著書
「ワンダフルライフ」によって広く一般にも知られる事となりました。
発見者名に因んで呼ばれる「ウォルコット採石場」は、
バージェス頁岩(スティーブン層)化石の模式地となっております。
関連するものとして、バージェス動物群とほぼ同じ生物層の化石は
中国・雲南省の澄江(チェンジャン)の地層からも発見され、
これは「澄江生物群」(澄江動物群)と呼ばれております。
また、オーストラリアではバージェス動物群や澄江生物群が属する
カンブリア紀よりも更に時代が古い隠生代新原生代後期のエディアカラ紀に
属していると見られる地層から、「エディアカラ生物群」が発見されております。
バージェス頁岩累層は国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界自然遺産、
「カナディアン・ロッキー山脈自然公園群」の登録区域に含まれております。
1980年にバージェス頁岩累層が単独で登録されておりましたが、
1984年にこの累層を含む「カナディアン・ロッキー山脈自然公園群」が
新たに登録されたと同時に単独物件としての記載は削除されております。
けものフレンズに登場されるフレンズの方々の元となる動物は、
複雑な行程を辿った進化の行き着いた結果の一つであります。
その多くは海洋における微生物などから長い時間をかけて進化を続けており、
バージェス動物群などの大部分は現生の動物群や
その初期系統に属する基盤的な種として理解されている見解もあります。
生物は環境に対応して進化を果たした種類があれば、環境に対応できなかった、
或いはその他の要因で絶滅してしまった種類もあります。
私自身、古代生物も私達と全く関わりのない生物では決してないと考えており、
手前味噌な話ではありますが、こちらにも書き込みをさせていただいております。
こういった生物の話題に触れるたび、生物の可能性の大きさに驚いております。
この先、生物がどのような進化を続けるのか、興味が尽きないところであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1897年にトーマス・エジソン氏が
「キネトスコープ」の特許を取得された日であります。
トーマス・エジソン氏に関しては、以前にこのトピックにて
書き込みをさせていただいております。
・キネトスコープは初期の映画鑑賞装置で、名称はギリシャ語の
「kineto (運動)」と「scopos(見る)」を組み合わせたものであります。
木箱内をのぞき込む形で映像を見る仕組みとなっている装置で、
その構造上、一度に一人しか見る事ができないものでありました。
キネトスコープは映写機に分類されておりませんが、
その後の映画の基本となる技術を備えて幾つか備えております。
・キネトスコープは高さ4フィート(約1.2m)の木箱でできており、
その上部に接眼レンズが付いた「覗き穴」を備えております。
箱の内部には長さが約50フィート(約15m)のフィルムが蛇腹状に畳まれ、
両端に配置された小さな滑車にかけられております。フィルム幅は約35mmで、
その両端に1フレーム毎に4個ずつパーフォレーションが開けられております。
コインを入れると内蔵されている蓄電池で動くモーターによって作動します。
フィルムは箱内上部のスプロケットがパーフォレーションに噛み合う事で、
レンズの下を一定速度で連続的に送られる方式となっております。
送られるフィルムの下には光源のランプがあり、フィルムとランプの間には
狭いスリットの入った回転シャッターが付いております。
各フレームがレンズの下を通過すると、フィルムの下から照らされる
ランプの光を回転シャッターが瞬間的に遮り、その明滅する一連のフレームを
「視覚の持続性」によって「動く映像」として見る事ができるものであります。
しかし、今日までの映写機と同じ間欠的な駆動方式ではないため、
映像が安定的に見れないという欠点がありました。
フィルムの駆動速度は毎秒40フレーム(40fps)で、
1つの作品の上映時間は約20秒程度でありましたが、
フィルムはループ状になっており、同じ映像を何度も続けて見る事ができます。
・1888年2月25日、連続写真の技法を開拓された写真家の
エドワード・マイブリッジ氏がニュージャージー州オレンジ近郊にて、
連続写真を元にした絵が描かれたガラス円盤を高速回転させて
スクリーンに投影する事で、静止画を一つの動きに見せる装置
「ズープラキシスコープ」を用いた講演を行われ、その2日後に
エジソン氏の研究所にてエジソン氏と会談された事が、
キネトスコープ開発のきっかけとされております。
開発は蓄音機「フォノグラフ」の技術的原理を応用したシリンダー式から始まり、
後にロールフィルムが一定間隔でレンズを通過するストリップ式に移行し、
フィルムを横送り式から縦送り式にするなどの改良が加えられました。
1892年6月にコインを入れて動く仕組みによる試作機が作られ、
1893年2月に商品化に向けた耐久性のテストが行われました。
なお、このフィルムは実質的に35mmのフォーマットであり、
パーフォレーションは両端に4個ずつ付けられておりました。
この規格は後に映画フィルムの国際標準に採用されており、
現代までその基本構造は殆ど変化しておりません。
1891年8月24日、エジソン氏は映像記録装置「キネトグラフ」と
映像再生装置「キネトスコープ」に関する3件の特許を申請され、
1件目の特許がようやく交付されたのが1897年8月31日でありました。
1892年12月、エジソン氏は研究所内に映画スタジオ「ブラック・マリア」を
建設され、その後の数年間にわたって映画撮影の中心となりました。
キネトスコープ最初の公式実演は1893年5月9日に行われた、
ブルックリン芸術科学協会の物理学部門の月例集会にて行われ、
400名以上の参加者が次々とキネトスコープによる映像を拝見されました。
1894年4月14日、ニューヨークのブロードウェイ1115番地に
「キネトスコープ・パーラー」の1号店が開店して大盛況となり、
同年5月17日にはシカゴに2号店が開店するなどキネトスコープとフィルムは
次々と販売され、エジソン社は大きな利益を得る事となりました。
その後、キネトスコープはヨーロッパでも次々と稼働しましたが、
キネトスコープは国際特許を申請していなかったため、
模造品によって商業用映画が作られる事態となりました。
1895年の初めにはキネトスコープとフィルムの売上げが落ち込み、
新作映画は独創性を欠いた内容で次第に飽きられてしまい、
キネトスコープとフォノグラフを組み合わせた「キネトフォン」の試みも
失敗に終わり、エジソン社の映画事業は厳しくなり始めました。
その後、エジソン氏はアメリカの発明家トーマス・アーマット氏と
チャールズ・フランシス・ジェンキンス氏が開発された映写機
「ファントスコープ」の特許権を購入されました。
「ヴァイタスコープ」に改名して導入されたこの映写機は
最初こそ人気を呼びましたが、すぐに国内外の競合相手による安価で良質な
映写機が市場にあふれた事もあり、同年秋までに商業的に失敗に終わりました。
その後、エジソン氏は「映写式キネトスコープ(プロジェクトスコープ)」や
「家庭用映写式キネトスコープ」を開発されましたが、
独自のフォーマットのために上映作品が限られた事や、
技術的な欠陥/製造費の高騰などもあり、1915年に開発された
「スーパーキネトスコープ」が最後の映画装置となりました。
けものフレンズにおいて映像の記録や再生で思い浮かぶのは、
アニメ一期のラッキービースト様かもしれません。
映像に関する装置は小型かつ軽量なものとなっており、
記録や再生が自律的に行われるなど非常に先進的でありますが、
アニメ一期においては幾つか不具合が見られたエピソードもありました。
今や、映像の記録や再生は非常に手軽なものとなり、
何時でも何処でもどなたでも行える時代となっております。
映像に限らず、技術の世界は日進月歩であります。
この先、どのような未来が待っているのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日から九月に入ります。
一年の3分の2が過ぎました。早いものであります。
本日はキウイの日であります。
「キウ(9)イ(1)」の語呂合わせに因んで、
ゼスプリインターナショナルジャパン株式会社によって制定されました。
夏の暑さで疲れが溜まっている体や、弱った肌を癒す等の効果を持ち、
「元気フルーツ」と呼ばれるキウイフルーツを食べて
多くの人に健康になってもらいたいとの思いが込められております。
・キウイはマタタビ科マタタビ属の雌雄異株の落葉蔓性植物であり、
マタタビ属のActinidia deliciosaの果実部分を指して
特に「キウイフルーツ」と呼ばれております。
産地は温帯から亜熱帯で、熱帯果実ではありません。
商業での歴史は浅く、1906年にニュージーランドが
新しい果樹のキウイフルーツとして、中国原産のActinidia deliciosaや
Actinidia chinensisの品種改良に成功、1934年頃から商業栽培を開始し、
世界各国で食べられるようになった果物であります。
「キウイフルーツ」という名称は、ニュージーランドからアメリカへと
輸出されるようになった際に、ニュージーランドのシンボルである
鳥の「キーウィ(kiwi)」に因んで1959年に命名されたものであります。
なお、果実と鳥の見た目の類似性から命名された訳ではありません。
また、カタカナでは「キーウィーフルーツ」「キーウィフルーツ」
「キウィフルーツ」などと表記される場合もあります。
日本へは1965年頃にアメリカ合衆国から果菜
(ベジタブルフルーツ)の一種として輸入されて出回るようになりました。
また、日本でも栽培や独自品種の開発が行われており、花期は5月頃であります。
耐寒性があり冬期の最低気温−10℃程度の地域でも栽培が可能であります。
果実の食品科学的な特徴としては、ビタミンC(アスコルビン酸)の含有量が多く、
果実としては珍しくクロロフィルを含む事などが挙げられます。
栄養成分の含有量は、キウイフルーツの品種によって大きく異なっております。
主な栽培品種は・緑色の果肉の「グリーンキウイ」(ヘイワード種)、
・黄色の果肉の「ゴールドキウイ」(ホート16A種)、
・ヘイワード種と異なる「グリーンキウイ」(ニューエメラルド種)
・黄色や緑色の果肉で、中心部が白く種子部分が赤い
「レインボーレッドキウイ」、となっております。
・ゼスプリ・インターナショナル・リミテッドは、
ニュージーランドのタウランガに本拠を置き、
キウイフルーツの生産や販売を行っているメーカーであります。
企業名に使われているゼスプリ(ZESPRI)は、
zest(情熱)とspirit(精神)を合わせた造語であります。
1977年に組織委員会「ニュージーランド・キウイフルーツ・
マーケティング・ライセンシング」を設立。
1988年にニュージーランド・キウイフルーツ・
マーケティング・ボード(NZKMB)に名称を変更。
1992年にNZKMBの日本事務所を設立。
1997年にNZKMBの販売子会社としてゼスプリ・インターナショナルを設立し、
ゼスプリ(ZESPRI)ブランドを設立。
1999年にヘイワード種のグリーンキウイフルーツを
「ゼスプリ・グリーンキウイ」として商標登録。
2006年にNZKMBの日本事務所を日本法人化し、
ゼスプリ・インターナショナル・ジャパン株式会社に商号を変更。
けものフレンズにはキウイフルーツのモチーフとなった
キーウィのフレンズがいらっしゃいます。
ブラウンキーウィ様は旧アプリ版から登場されているフレンズで、
茶色のケープを羽織った服装や、前髪のピンク色の部分が
嘴の形状となっているのが外見上の特徴となっております。
性格は人懐っこく好奇心旺盛。歌を歌われるのが大好きで、
よく高らかに声を上げられているようであります。
これらは鳥のキーウィの生態や行動例がモチーフとなっております。
まだまだ暑いこの時期、疲れが溜まり気持ちも弱ってしまいがちであります。
キウイフルーツなどで栄養をしっかりと摂取して、
残暑を乗りきりたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1600年(慶長5年7月25日)に、会津討伐に向かわれる途中の
徳川家康氏が下野国小山にて石田三成氏の挙兵を知られ、
諸将を集められて軍議を開かれた「小山評定」が行われた日であります。
・安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、
美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として
行われた「関ヶ原の戦い」は、安土桃山時代から江戸時代へと移り変わる
きっかけとなった合戦として有名であります。
豊臣秀吉氏が亡くなられた後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発し、
その政治抗争が全国の諸大名に波及していく最中において
徳川氏は徐々に権力を強められていきました。そのような政治的状況下で、
慶長5年春頃より徳川氏と豊臣政権の五大老の一人・上杉景勝氏との関係が
悪化していき、6月(当時)上旬に上杉氏に上洛を要求されました。
一方、既に徳川氏は上杉氏との交渉結果が出ていない5月の段階で、
上杉氏がおられる会津への「会津征伐」を決定しておりました。
6月18日に伏見を出発されて7月1日には江戸に到着しており、
7月7日には東北の諸大名に会津攻めに関する指示を出されたと共に、
7月21日に会津に向けて出陣される事を伝えられました。
この間、後に西軍と呼ばれる陣営が結束を強めていき、
伏見城に対する西軍の攻撃「伏見城の戦い」も発生しております。
7月21日の時点で毛利輝元氏と石田氏の決起の報告が
上方から徳川氏の許に続々と入っており、7月25日に下野国小山において、
徳川氏と会津征伐に従軍されていた諸大名によって軍議が開かれました。
これが「小山評定」とされております。その場では福島正則氏が
徳川氏への加勢を表明され、山内一豊氏が徳川軍への居城明け渡しを
申し出られた事などによって諸大名は徳川氏のもとに団結され、
会津征伐の中断と上洛が決定されたと言われております。この「小山評定」は、
関ヶ原の戦いにおけるターニングポイントの一つと扱われております。
けものフレンズにおいて会議で思い浮かぶ場面といえば、
アニメ一期の第十一話における大型セルリアンへの対応における、
みんみ様達とハンターの方々との話し合いかもしれません。
そこではセルリアンの誘導の方法や使用する道具など具体的な内容が話し合われ、
これが大型セルリアンの退治に繋がる事となりました。
世の中の大きな出来事にはそこに至るまでに様々な経緯があり、
中にはターニングポイントとなる出来事も様々にあり、
そこには様々な人々の関わりがある事も覚えておくべきであります。
たまには、そういった事に目を向けられるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は草の日であります。
「く(9)さ(3)」の語呂合わせに因んで、
株式会社オーレックによって制定されました。
草の適切な管理により、草の力を活かして自然の力を引き出すとの観点から、
草の役割の重要性を多くの方々に知ってもらうのを目的としております。
・株式会社オーレックは福岡県八女郡広川町に本社を置き、
農業機械の製造販売などを手がけるメーカーであります。
様々な用途に応じた農業機械はもちろん、天然素材の石鹸や青汁、
種なしスイカ花粉の製造や販売も手掛けております。
また、独自に展開している「OREC green lab」では、
人と農業・自然との繋がりを身近に感じられる場を目指しており、
農や食をテーマにしたドリンク/図書/イベントを楽しむ事ができます。
1948年10月に「大橋農機製作所」として創業し、
動力脱穀機や小型製縄機の製造/販売を開始。
1949年7月にバーチカルポンプや泥土揚機の製造/販売を開始。
1957年7月に法人化し、「大橋農機株式会社」を設立、
1977年4月に鹿児島県姶良郡隼人町に鹿児島営業所を開設。
1980年7月に埼玉県熊谷市に関東営業所を開設。
1985年9月に岡山県岡山市冨田に岡山営業所を開設。
1987年9月に名古屋営業所を開設。
1988年7月に「株式会社オーレック」へ社名を変更。
1989年10月に広川工場が完成して、操業を開始。
1991年7月に宮城県仙台市に仙台営業所を開設。
1998年10月に創業50周年。1999年1月にLRQAよりISO9001の認証を取得。
2000年9月にテクノセンター(研究開発棟)が完成。
2002年1月にISO14001に認証を取得。
2005年4月に鹿児島営業所を新築移転。
2006年2月に長野県千曲市に長野サービスセンターを開設。
2010年4月にアメリカに現地法人「OREC AMERICA INC.」を設立。
2011年4月に埼玉県久喜市に関東物流センターを開設。
2016年5月に長野県長野市「OREC green lab 長野」を開設。
同年12月に北海道札幌市に北海道出張所を開設。
2017年12月に青森県弘前市に「OREC green lab 弘前」を開設。
2018年5月に第2テクノセンター(研究開発棟)を増設。
2019年10月に「OREC green lab 福岡」を開設。
また、ホームページにて様々な情報が発信されている他、
YouTube/twitter/facebookでも情報を発信しております。
けものフレンズ及びジャパリパークにおいて、
草というものは欠かせない存在であります。
ジャパリパークの土地の多くは緑豊かな大地であり、
フレンズの中にも草食動物であった方々が多くおられます。
そして何より動物園という場所そのものが、
草原等を含めた自然豊かな場所であるべき事は至極当然なのであります。
私達は地球の大地の一角を借りて暮らしているに過ぎず、
地球に住まわせてもらっている立場である事を肝に銘じておきたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は心を注ぐ急須の日であります。
「きゅう(9)す(4)」の語呂合わせに因んで、
株式会社カネ七(しち)畠山製茶の畠山友晴氏によって制定されました。
急須のある生活を進める事で人々の心にも愛情という潤いを注ぎ、
家族のなごみの時間を増やしてもらおうという思いから制定され、
「お茶の入れ方セミナー」などを通じて急須でお茶を飲む文化の普及と、
人と人との温かいコミュニケーションの拡大を目指しております。
・株式会社カネ七畠山製茶は、京都府京都市伏見区に本社を構える
宇治茶の製造卸直販店であります。1751年に創業された当初は、
紀州徳川家に奉公されていた畠中弥治右衛門氏が営まれていた医者家業で、
その孫にあたる畠中深流氏の代に町奉行の前田志摩宗氏の薦めで、
苗字をそれまでの「畠中」から「畠山」に改められました。
茶業としての成り立ちは7代目の畠山七之進氏の代からであります。
その後、商いは順調に進み、17代目の畠山七郎兵衛氏が
畠山翠蒼園として工場を設立されて製造卸業を始められ、
18代目の畠山富造氏の代で株式会社となっております。
19代目の畠山啓一氏の代からは輸出業を手掛けられ、
20代目の畠山友晴氏の代から世界中に向けて
本格/本物の有機抹茶の輸出拡大に取り組んでおります。
長い歴史を持つカネ七ブランドの有機抹茶は、
契約している茶農家にて農薬や化学肥料を使わずに丹精込めて作り上げられ、
その中でも高級有機JAS抹茶は世界でも認められる京都産の抹茶であります。
商品はその有機抹茶を中心に様々なものが取り揃えられており、
卸業の他に小売やOEM製造など幅広いニーズに対応しております。
けものフレンズにおいてお茶といえば、もちろんジャパリカフェであります。
これまでの書き込みにて既に取り上げさせていただいておりますが、
アルパカ・スリ様の淹れられる紅茶は安らぎのひとときをもたらし、
みんみ様達の安らぎの表情が全てを物語っております。
何かと忙しく、時には世知辛い現代社会。
例えほんの少しでも安らぐ事のできる時間が必要であり、
その中の一つが心を落ち着かせる一杯であります。
私も久々にカフェに立ち寄らせてもらおうかと考えております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は国際チャリティー・デーであります。
マザー・テレサ氏の命日である9月5日に因んで、
国際連合の議会にて制定された国際デーの一つであります。
マザー・テレサ氏が行われた数々の慈善活動は
「慈愛の精神」「思いやりの心」「寛容な振る舞い」など、
チャリティーの語を形容するに相応しい事から制定されております。
例年、この日はボランティア活動や慈善活動の重要性について
再認識すると共に、マザー・テレサ氏を偲び、
貧しく弱い立場にある方々のために行動を起こすべく、
様々な呼びかけやイベントが世界中で展開されております。
なお、マザー・テレサ氏については一昨年のこちらのトピックにて、
氏の誕生日である8月26日に書き込みをさせていただいております。
・チャリティーとは、慈愛/慈善/博愛または
同胞愛の精神に基づいて行われる公益的な行為や活動の事であります。
その語源は「親切」を意味する古代ギリシャ語「χάρις」(カリス)、
及びそのラテン語形「charitas」(カリタス)に由来しております。
世界各地にてチャリティーの活動やそれを行っている組織が見られますが、
それらの多くは宗教的な背景を持っております。
チャリティーはしばしば身体障害者や高齢者などに対する社会福祉/
貧困地域の飢餓救済/紛争地域の難民救済、災害や事故などの犠牲者や
遺族に対する支援活動などといった形態をとっておりますが、
実際に行われるのはそれらの活動に留まらず、
社会に対する貢献全般がチャリティーと定義されております。
また、チャリティーを行う際の費用は
多くの場合において寄付や寄進によって賄われます。
・文明が発達すると富の集中が発生して社会内部に格差が生じ、
それを緩和するために「宗教」が生まれ、また、「富の再分配」が行われました。
そして多くの文明でこの両方が密接な関係を構築していき、
富の再分配が宗教的な意味合いを持つようになりました。
中世ヨーロッパ期には民間による組織が結成されて
教会と並んでチャリティー活動を展開されましたが、近代ヨーロッパ期には
市民社会の成長と共にチャリティーと宗教的背景との分離が進んでいきました。
産業革命期以後は産業界の成功者の方々によるチャリティー活動が盛んになり、
この時期になりとチャリティーは宗教的な色彩が薄まっていきました。
これらの団体が組織的かつ計画的なチャリティー活動を実施してきた一方で、
政府による公的な社会福祉支援が次第に充実していき、
チャリティーの組織化が民公両面で進む事となりました。
20世紀に入ると公的な社会福祉が高度に整備されたため、
民間によるチャリティーは主流ではなくなりました。
しかし、公的社会福祉ではカバーできない分野を担う役割は大きく、
特にイギリスやアメリカでは社会の中で大きな役割を果たし続けております。
日本において本格的なチャリティー活動は奈良時代からと考えられており、
平安時代前期には上流貴族が諸国において
貧民救済政策をとる事例が比較的多く見られました。
鎌倉時代中期から後期においては叡尊氏や忍性氏、
室町時代中期においては願阿弥氏など、社会福祉事業に尽力される
仏教僧が中世日本には多数おられた事は特筆すべきものであります。
明治時代になると西洋からチャリティー精神が紹介され、
第二次大戦前までは皇室と財閥による活動が中心となり、
戦後は政府による福祉国家政策が推進されていきました。
その後、現在も行われるチャリティー活動が続々と誕生する事となります。
けものフレンズにおいてチャリティーで思い浮かぶものといえば、
旧アプリ版やアニメ版、そして「けものフレンズ3」において、
パークで様々な活動をされているフレンズの方々かもしれません。
それぞれの方々の多くは自主的に参加されており、
パークやフレンズの方々に貢献すべく活動をされております。
チャリティーは、ともすればその単語が独り歩きしてしまいがちですが、
要はお困りの方に対する気持ちを行動に表したものであります。
もちろん強制ではなく、活動の程度も限られますでしょうが、
その気持ちと行動が社会を明るくさせる光となるのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
次のコメントでついに3000みんみー!
今ここに、3000みんみを達成する事ができました。ありがとうございます!
みんみ様への礼讚がより確かなものであるという証左であります。
4000、5000、そして更にその先へと歴史が紡がれていく事を願っております。
これからも穏やかでありますように………みんみー。
本日は1978年にアメリカ・コロラド州の
メサ・ヴェルデが世界文化遺産に指定された日であります。
メサ・ヴェルデ国立公園は、アメリカ・コロラド州南西部に位置する
プエブロインディアンのアナサジ族の残した断崖をくりぬいた作られた
一連の集落遺跡群を含む現在国立公園であります。
「メサ・ヴェルデ」はスペイン語で「緑の台地」を意味しております。
この地域は1906年7月29日に国立公園として制定され、1966年10月15日に
「National Register of Historic Places」の一覧に記載されております。
1978年9月6日にUNESCO世界文化遺産に登録され、
1987年5月29日に「メサ・ヴェルデ管理地区」として
アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されております。
「クリフ・パレス」といわれる「岩窟住居」による集落が
メサ・ヴェルデ国立公園内最大の遺跡であります。
部屋数は200室ほどあり、最上部の高さは地上4階建て相当と、
さながら高級マンションのようでもあります。「クリフ・パレス」や
「ロング・ハウス」など主要な遺跡コンプレックスへの立入りは
公園レンジャーの引率による有料のツアーのみで許されております。
シーズン中は多くの観光客で混雑するので、
朝一番にビジター・センターで申し込む必要があります。
・1世紀頃から、この地にアナサジ族という農耕民族が住まわれ始めたと推測され、
そのアナサジ族は8世紀頃まで「バスケット・メーカー文化」と呼ばれる
独特な籠作りで知られる文化を築いておりましたが、
9世紀頃からキヴァという儀式を行う施設を伴う、
日干し煉瓦の壁によって区画された集落を築くようになりました。
これを「プエブロ文化」と呼び、 12世紀頃になると外敵の襲来に備えた
本格的な「岩窟住居」を作ってまわれ始めたと考えられております。
同時期の遺跡としては、ニュー・メキシコ州北西部の
半円形の壮大な「プエブロ・ボニート遺跡」を中心とする
「チャコ・キャニオンの遺跡群」が知られております。
その他にも、ユタ/コロラド/アリゾナ/ニュー・メキシコの
4州の州境が1点に集まるフォー・コーナーズ周辺には
コロラド州の「メサ・ヴェルデ」をはじめとして、
アリゾナ州の「キャニオン・デ・シェイ」、
ユタ州の「ホヴンウィープ」など数多くの遺跡群が見られます。
ユタ州側にある「ホヴンウィープ国定公園」の遺跡群は極浅い谷
あるいは涸れ沢の縁の平地に散在する形をとっております。
「メサ・ヴェルデ」の住居遺跡がメサ上に少ないのは保安のための他に
農耕に適したメサ(台地)上を農耕に優先したからという見解もあります。
アナサジ族のこのような日干し煉瓦による壮大な建物が建てられた時期は
「プエブロIII期」と呼ばれております。ところが14世紀になると、
「メサ・ヴェルデ」は突如放棄されたと推測され、現在も謎となっております。
なお、アナサジとは、アナサジ族が消滅もしくは移住した後に同地域に流入し、
現在も居住する先住民であるナバホ族の言葉で「古の敵」あるいは
「古の人々」を意味しておりますが、現在は「先プエブロ」を意味する英語の
"the Ancestral Puebloan"という表現を使う方向にあります。
ニューメキシコ州とコロラド州に住むプエブロ族は、
現在もこのような巨大集団住居からなる大集落を有しております。
けものフレンズにおいて住居で思い浮かぶものといえば、
アニメ二期の物語における目的の一つである、キュルル様の家探しであります。
パーク内の様々な場所を訪れるも遂に生家は見つかりませんでした。
しかし、キュルル様はパークにおける居場所を見つけられたようであります。
古代の住居はその文化を今に伝える重要な手がかりであります。
古の人々の生活が現代の私達の生活に繋がっている事を考えると、
私達も長い歴史の1ページの中に確かに存在している事を意識せざるを得ません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
コロナでなければ行ってみたいものですね
みんみー
3000おめでとうごさいまみんみー!