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みんみ教徒の集い / 2995

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流浪のみんみ教徒 2021/09/02 (木) 07:03:03 修正 457e0@95b7c

本日は1600年(慶長5年7月25日)に、会津討伐に向かわれる途中の
徳川家康氏が下野国小山にて石田三成氏の挙兵を知られ、
諸将を集められて軍議を開かれた「小山評定」が行われた日であります。
・安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、
 美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として
 行われた「関ヶ原の戦い」は、安土桃山時代から江戸時代へと移り変わる
 きっかけとなった合戦として有名であります。
 豊臣秀吉氏が亡くなられた後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発し、
 その政治抗争が全国の諸大名に波及していく最中において
 徳川氏は徐々に権力を強められていきました。そのような政治的状況下で、
 慶長5年春頃より徳川氏と豊臣政権の五大老の一人・上杉景勝氏との関係が
 悪化していき、6月(当時)上旬に上杉氏に上洛を要求されました。
 一方、既に徳川氏は上杉氏との交渉結果が出ていない5月の段階で、
 上杉氏がおられる会津への「会津征伐」を決定しておりました。
 6月18日に伏見を出発されて7月1日には江戸に到着しており、
 7月7日には東北の諸大名に会津攻めに関する指示を出されたと共に、
 7月21日に会津に向けて出陣される事を伝えられました。
 この間、後に西軍と呼ばれる陣営が結束を強めていき、
 伏見城に対する西軍の攻撃「伏見城の戦い」も発生しております。
 7月21日の時点で毛利輝元氏と石田氏の決起の報告が
 上方から徳川氏の許に続々と入っており、7月25日に下野国小山において、
 徳川氏と会津征伐に従軍されていた諸大名によって軍議が開かれました。
 これが「小山評定」とされております。その場では福島正則氏が
 徳川氏への加勢を表明され、山内一豊氏が徳川軍への居城明け渡しを
 申し出られた事などによって諸大名は徳川氏のもとに団結され、
 会津征伐の中断と上洛が決定されたと言われております。この「小山評定」は、
 関ヶ原の戦いにおけるターニングポイントの一つと扱われております。
けものフレンズにおいて会議で思い浮かぶ場面といえば、
アニメ一期の第十一話における大型セルリアンへの対応における、
みんみ様達とハンターの方々との話し合いかもしれません。
そこではセルリアンの誘導の方法や使用する道具など具体的な内容が話し合われ、
これが大型セルリアンの退治に繋がる事となりました。
世の中の大きな出来事にはそこに至るまでに様々な経緯があり、
中にはターニングポイントとなる出来事も様々にあり、
そこには様々な人々の関わりがある事も覚えておくべきであります。
たまには、そういった事に目を向けられるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。

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