本日は1924年に「國民新聞」が日本で初めて
天気図を新聞に掲載した日であります。
・「國民新聞」は徳富蘇峰氏によって1890年2月1日に國民新聞社から
創刊された日刊新聞で、現在の「東京新聞」の前身の一つであります。
徳富氏が雑誌「國民之友」にて成功を収められた後に創刊された日刊新聞で、
最初は「平民主義」を提唱し、その立場から政治問題を論じる内容でありました。
やがて、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を取るようになり、
明治後期から大正初期にかけては藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、
「御用新聞」とも呼ばれるほどの政府系新聞の代表的存在となりました。
日露戦争終結時には世論に対して講和賛成を唱えたため、
1905年9月5日には講和反対派の暴徒による焼き討ちに遭い、
憲政擁護運動でも第3次桂内閣を代弁する立場を取ったため、
1913年2月11日には護憲派の民衆による襲撃にも遭っております。
この間、1907年9月に日本新聞史上初めて地方版を創設し、
1924年8月21日には、同じく史上初の天気図の掲載でも知られております。
大正中期に大衆化が図られ、東京日日/報知/時事/東京朝日と並ぶ
「東京五大新聞」の一角を占めるようになりましたが、
関東大震災による被害によって業績は急激に傾いてしまいました。
1926年5月、甲州財閥の根津嘉一郎氏の出資を仰いで共同経営に移り、
副社長には根津氏が推薦された河西豊太郎氏が就任されましたが、
やがて根津氏と徳富氏は対立し、1929年1月5日に徳富氏は退社されて
「東京日日新聞」に移籍されました。その後、伊東ハンニ氏の手に移るも
業績は好転せず、伊東氏の後継に就任された伊達源一郎氏が1931年10月に
「大夕刊」と称して夕刊紙に転換したものの失敗に終わりました。
1933年5月1日、根津氏は経営を名古屋の新愛知新聞社
(現在の中日新聞社)に譲渡され、新愛知での傘下を契機に
編集方針を国防/軍事に重点を置く形に転換して、
1941年度には黒字決算を達成して再建に成功しております。
1942年、戦時体制下により「都新聞」と合併する事となり、同年10月1日に
「東京新聞」が誕生したと同時に新愛知新聞社は東京から撤退を余儀なくされ、
東京新聞の主導権は都新聞側が握る事となりました。
しかし、戦後の激しい販売競争の中で東京新聞は経営不振に陥り、
1961年に社団法人から株式会社に組織変更するもその甲斐なく、
1963年に再び新愛知新聞社の後身の中部日本新聞社(現在の中日新聞社)
が支援する事となり、その4年後には発行や営業などの
殆どの事業が中部日本新聞社が引き継がれる事となりました。
けものフレンズにとって天候は重要な要素となっております。
特にアニメ一期におけるサンドスターは気候そのものに影響を与えており、
それがみんみ様達の旅路にも少なからぬ影響を及ぼしております。
それは、ロッジアリツカにてラッキービースト様が
みんみ様達に天候を予告されていた事からも窺えます。
今では当たり前となっている様々な情報でありますが、
それを初めて導入する際には様々な苦労があったはずであります。
私達が日々の中で恩恵を受けているものに対して、
先人の方々の偉業に思いを馳せてみるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。