■■■■■■■■■脱線注意■■■■■■■■■■
感情の解像度を高めるための分析ターンをスキップしてすぐさまアクションターンに移行するのって、いわゆるステレオタイプと呼ばれるやつなんだろーけど、生き物としてはけっこう重要かつ合理的な機能でもあるらしい。
特に即応性が求められるシチュエーションではそれが顕著化する。 コロラド大学の心理神経科学および社会心理学の准教授を務めるJosh Correll(ジョシュア・コレル)が主体となり、以下のような実験を行っています。参考までにどうぞ。
対象 ・特殊な射撃訓練の経験があるアメリカの警察官 様々な人種から270名 ・学生を含む様々な人種の一般人 245名
実験内容 被験者は、スクリーンに向かって空砲が装填された実銃を構える。撃つ感触は実弾と同じ。 スクリーンには様々な場所や時間帯の無人の風景がランダムに次々と映し出されるが、とつぜん以下の4つが紛れ込む。 ①スマホを持った白人 ②スマホを持ったアフリカ系アメリカ人 ③拳銃を持った白人 ④拳銃を持ったアフリカ系アメリカ人
武装した人物が映し出されたら可能な限り早く引き金を引いてください。映し出された人物が非武装だったら、銃を撃たないでください。
実験結果 人物が映ってから引き金を引くまでの所要時間は警察官のほうが早く、誤射率も少なかった(警官あるある) 一般人はより多くの黒人を誤射し、警察官は少しだけ多くの黒人を誤射した。(黒人あるある、銃で撃たれがち) 「世界が危険な場所かどうか」に関する事前アンケートで、世界は危険な場所だという認識が強かった人のほうが判断時間が短く、誤射率も高かった。 詳しくは"shooter task"で調べよう。
ジョシュアは、75年にニューヨークで起こったディアロ事件などの黒人に対する誤射事件をキッカケにして人種偏見に関する研究の道に進んだと語っています。
続いて、ニューヨーク大学で心理学および神経科学の准教授を務めているJon Freeman(ジョン・フリーマン)は各種バイアスについて、第一印象はどのように形成されるのかという視点から分析している。
・・・まぁ英語なのでワケワカランかもしれんけど ざっくり言うと、誰かの顔を「一瞬だけ」見たとき、脳みそのうち2か所がそれぞれ別々に情報を処理するそうだ。
脳内オフィスで働いてるAチームは、事務員の視神経ちゃんから封筒を受け取る。中には顔写真が入っていた。 Aチームの面々はその写真を見ながら、人種は?性別は?だいたい何歳くらい?口角が上がってる?笑ってる?嬉しそう? みたいに情報を集めて「30代後半の黒人男性が少しだけ微笑んでる、幸せそう」って感じの報告書を上司に提出する。
それに対して、Bチームには「過去の様々な資料が収納されている棚」がある。 Bチームの面々は写真を受け取ると 「これは黒人だな」 "黒人"と書かれた引き出しに手を入れて、中の資料を無作為にグワシッと掴んでそのまま提出。
その後の脳内オフィス会議では「不敵な笑みを浮かべ、悪いことを企んでそうな30代の黒人男性」って結論が下されがち(脳内オフィスあるある)
ステレオタイプ(偏見やバイアス、色眼鏡などとも呼ばれる現象)は、判断を鈍らせる負の作用として認識されがち(心理学の素人あるある)だけど、撃たなければ自分が撃たれるかもしれないといったような、判断の正確性より早急性が重視される場面で発揮される合理的機能という一面も併せ持っている。
人種に限らず、国籍や宗教、果ては応援しているスポーツチームが違うというだけで対立が起こったりもするけど 逆に言えば、人種も国籍も宗教も違うけど同じスポーツチームを応援してるという共通点でブラザーになることもある。 実験紹介ばかりするのもあれなので割愛するけど、同種の仲間しか助けない白いネズミを黒いネズミと少しだけ同居させたら、その個体以外の全ての黒いネズミを助けるようになったって実験もある。
ジョシュアの実験からは「人間が生まれつき偏見を持ってる生き物(大海を知らないメジナ?)なのかどうかはともかく、後天的な訓練でバイアスを克服することが可能」ってことが分かるし、ジョンの実験を踏まえるなら、Bチームの書類棚を仕訳けすることがバイアスの緩和に繋がるといえるだろう。
というわけで、途方もない脱線から強引な原点回帰をしていくんだけど ネットに悪口を書くという行為ひとつとっても、その根底にはきっと「生きるために必要なステレオタイプ的機能」およびそれに伴う偏見ってのは必ず潜んでいると思う
感情をそのまま吐き出してしまうダムのない人のことを、僕は昔から心の中で「オート下痢野郎」と呼んでいますが、それが「公衆の面前で晒すべきではない汚物である」という自覚は備わっていると思います。 だから人を選び、場を選び、時を選ぶ。
これ自体は正論だと思うんだけど、読んでいて少し違和感があった。正論だけどもうチョイ掘れそうだ。 というのも、TPOをわきまえている「つもり」の人を、今まで数多く見てきたからだ。嫌でも目に付くからね。
例えば、KANAMEが黒い砂漠のメンツ募集してたけど、MMOなんて究極に分かりやすいモデルだね。 全体チャットで下ネタが飛び交ってたりする。 下ネタ野郎はTPOをわきまえていないのではなくて、黒い砂漠の全体チャットは下ネタが許容されるという性質のTPO(PとO)が形成されて、根付いちゃってるんだよ。
「様々な人がいる場所で、大きな声で下ネタトークできますか?」って聞いたら、ほぼ全員がNOって答えるだろう。 俺を含めてゲーマーなんて内弁慶のチキンハートばかりだからな(バイアス) 砂漠プレイヤーの男女比とか知らんけど、電車の車内やファミレスの店内なんかで、全員に聞こえる声(全体チャット)で下ネタ話したりしますか?って話なわけ。NOなんだよ。 でも、MMOの全体チャットだとドフラミンゴがアクメするコピペとか連呼しちゃうやつが大量発生しがち(MMOあるある) それ見てて、クソガキおるな~とは思うけど「そういう場所だしな」って感じで違和感は特に沸いてこないんだよな。
「既に形成されているTPOに沿って行動する」ってのは、そのTPOを維持・継続させる一因でもあるわけで 時と所と場合をわきまえてる・・・というとあたかも完全な受け身であるかのように思いがちだけど 実際にはそのTPOの性質に対して賛成票を投じている、燃料補給係を担当してるというアクティブな見方もできると思うんだよな。
特定のMMOのチャット、そのゲームのギルド内、仲のいいパーティメンバーとのチャット、とか範囲が狭くなればなるほどコアでマニアックでカルトな言動ってのも許容されやすくなる。TPOのうちPとOのブレ幅が少なくなって傾向も固まってくるからな。共学より男子校のほうが服も脱ぎやすかろう。 女子高に通ってるJKが授業中にあぐらかいて屁ぶっ放してるのとか信じたくなかったりもするけど、俺たちが意識してるTPOってのも一つ外側の枠から見れば単なるローカルルールに過ぎないし、そのTPOという大義に身を任せてステレオタイプな判断を下しながら偏見とバイアスまみれの生活を送るのも、ある意味仕方のないことだと思う。 ステレオタイプを全廃したら、ありとあらゆる物事がケースバイケースの要審査になっちゃうからな。
>> 15
きっと彼らとは違う星の下に生まれ、一生わかりあうことはできないのだろうと。
僕はそこまでは思ってないですよw
バカにした表現をし過ぎたせいで誤解されてしまったみたいですね。 自分と彼らは、「発達段階」が異なるに過ぎないと考えています。 彼らの多くも、何かしらのきっかけがあれば自分の感情をメタ認知できるようになるでしょう。 >> 5でもぼやきましたが、僕は人と人との間に大した差など無いと確信しています。
前回、分かりやすさを重視して3つのパターンに区分してみましたが、実際には程度問題であり、明確な類型化はできないと思ってます。
そして、彼らが自分の感情に自覚があるか、ないか。
これも程度問題だと思います。
「自分は相手に何らかの感情を抱いている」・・・A という超絶粗い解像度で自覚しているのか、 「自分は相手のことを不快に感じている」・・・B というやや粗い解像度で自覚しているのか、 「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」・・・C という鮮明な解像度で自覚しているのか。
前回は、ネットに悪口を書き込む人間の多くはパターン①だろうと申し上げましたが、より厳密に言うとBの解像度でしか自覚できていない、と解釈しています。 即ち、Cの解像度での自覚がない、と。
以下、僕の仮説です。
Bに該当する人間は、自分が抱いている感情が「不快」であるという自覚はあるものの、その感情のさらに本質については自覚できていない。
その感情の本質が、例えば「envy(羨望)」であると自覚できていれば、その原因は自分と相手の何らかの差異であり、ネットに悪口を書くという手段は合理的な解決法ではない、という違和感が生じる。 したがって、悪口を書くことに抵抗を感じる。 そして、そのように感情の本質、根本的な原因を自覚できている場合にのみ、原因療法が可能となる。
しかし、感情の本質を自覚できておらず、なんとなく「不快」であるというぼやけた自覚である場合、解決のために何が合理的な手段で何が合理的ではない手段なのか、という整理すらできない。 よって、「不快」という抽象的な問題を何とか解決しようと闇雲に手を尽くす。 根本的な原因が分からないのだから、対症療法に頼るほかない。 結果、「不快」という感情がダムによって適正化されることなく、ウンコとなり世界を巡る。
対症療法の一例として、ネットに悪口を書くという手段がある。 ただし、彼らもどのような「行動」が善いか・悪いか、というアウトプットに対する明確な自覚はあるため、TPOは弁える。 しかし、その「自覚」は「行動への自覚」であり、「感情への自覚」ではない。
結論、やはり彼らの多くは「感情への自覚」に欠けていて、 「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」 という高い解像度の自覚はできていないのではないか。
以上が、
でもそうではない人が意外と大勢いる。 これはどういうことでしょう。 バカなのかな。
に対する答えになると思います。
バカなんだと思いますよ。 自分の感情の本質を自覚するスキルを身につけられていない、という点で。
嫌いなものを目にしたとき、頭の中に生じた不快感にどう対処したらいいか分からないんでしょうね。 だから、とりあえず周囲の人間に愚痴ったり、ウンコもらしてみたりする。
前澤友作さんのお年玉企画に対して抱いた感情が「envy(羨望)」であるなら、彼のアカウントをブロックするなりミュートするなり、あるいは彼を超えるという目標を持って努力する方が合理的です。 その「不快」の正体が「envy(羨望)」であることに気づけるかどうか、感情の構造をメタ認知によって読み解けるかどうかが、原因療法or対症療法の分水嶺なんじゃないかな~と思います。
他の部分もちゃんと読んでいます。 興味深い内容なので、また別のタイミングで拾うかもしれません。
ネットを使うと短気になりがち
ページや動画の読み込みが遅いだけでイライラする。 普段の読み込みの早さがあたりまえだと思い込んでいるので感謝の念を抱きにくい。 あたりまえといえば、ネット以外にも、たとえば整備された道路や、毎日寝られるベッドや、交通安全に勤める警備員のおっちゃんや、オフィスを綺麗にしてくれる清掃員のおばちゃん、どこかの誰かのおかげで我々の生活は成り立っているのに、そこに対する感謝の念を抱きにくい。
>> 8からまるで進展がない。
覚えてない(ということにしておきたい)。 だけど覚えてる。 そしてどれくらいのことをされれば机と椅子を3階から落とすかもしれないということがわかっているが、かもしれない、ではなく、現に机と椅子を3階から落としているとされている。
ここまできて未だに濁されている部分は、やはり現に何をされてそのような行為に及んだのかという点。
人の数だけ宗教はあるが、宗教の数だけ格付けがある。
僕にも、そう思っていた時期がありました。 きっと彼らとは違う星の下に生まれ、一生わかりあうことはできないのだろうと。
そう思いつつも、少なからずそういう人種とも交流していく過程で、ひとつのことに気付きました。
それは… 彼らは意外と、きちんと自分の立場を弁えて、発信する時と場合を選んでいるということです。 なんとも行儀がよいと言える。 それは自覚がありまくるからこそ、ではないでしょうか。
たとえば、有名人にクソリプを送る人々は、きっと「自分がまともに相手にされない有象無象に区分されるから大丈夫だ」という自認がある。 ところがいざ晒し上げられ、数の暴力を受けると簡単に死んでしまうのです。 まさしく自覚のなせる技でしょう。 大勢の人に指摘されて気付くわけではない。 最初からわかっているが言われないのをいいことに下心を垂れ流してしまっただけ。
僕は長いことTwitterをやっておりますが、そこで関わっている人種は千差万別です。 喧嘩界という世界に身を置き、過去には言いたい放題つぶやいていたこともありました。 その点、僕のことを良く思わない方々がいるかもしれない。
しかし毛色の違う人間関係に基づくコミュニティに取り囲まれた僕の環境下では これまでたったの一度もその領域に足を踏み入れてきた人物はいません。
たったの一度もです。
下痢をぶちまけることができない絶対領域。 これを矛として使うと、特定の人物は嫌悪感のあまり離れますし、安易に関わってこようとは思わないでしょう。
僕の精神分析的な批判は心理的に後ろめたいことがあるクソ野郎にしか刺さらないようにできているので、必然的にクソ野郎ではない人しか周りにいなくなります。 なんだこいつ?自分のことを言っているのか?と勘繰ったり、激昂してしまう人は僕に苦手意識を持ちますからね。 しかし反発できない。 クソ野郎とは無縁の人々が防壁になっているんです。 空気の違いというやつです。
分別がつかない人は、同様に他人からの分別をつけてもらうことができず、舐められるので、リプ欄がアンチコメントで荒れたり、炎上したりすることもあるかもしれないですね。 これが公の場で叩かれる人の特徴です。
ヘイトで集めた人気は偏っている場合が多く、またそういうものを好むユーザーも幼稚で低質なものが多いイメージですが、利口な人は悪口ではなくもっと他の表現で賛同や承認を得るでしょうね。 かといって批判そのものが悪いことだとは思いませんし、的確な考えがあるなら、もっとはっきり自分の意見を表明してもいいとすら思います。
よく音楽を政治に結びつけるのをやめろ、とか言われがちですが、日本人の性質として、より無難で耳障りのいい言葉を並べる技術はどんどん進化していますが、体裁を取り繕うことに敏感すぎて肝心の中身がない、というケースも散見されます。
好きなものだけに囲われて生きていたい。 なので嫌いなものに多くの時間を割いている暇はない。 それがまともな考え方だと思います。
インフラ系の仕事、文句言われがち
人間は日常生活で頻繁に得られない利益には感謝の念を抱きますが、頻繁に得られる利益には抱かないようです。後者には特段何の感情も抱かず、その利益が得られなくなった時にのみ、怒りという感情を抱くのだとか。
電気・水道・ガス等を供給する仕事やサーバーの安定稼働を担う仕事などは、顧客の感情に触れられる機会が少なく、触れられるとすれば怒りの感情ばかりだったり。 たまに利益を与える仕事より、ずっと利益を与え続けている仕事のほうが感謝されてもいい気もしますが、人間的にはおこの対象でしかないのでしょう。
「失ってから大切なものに気づきがち」と似てるかもしれません。 インフラ系の仕事は気づかれたとき、あれ大切だったんだ!ムカつく!😡ってなるみたいですが。
>> 11 興味深いテーマですね。
読んでいて、一つ疑問に思った点があります。
それは、ネットに悪口を書き込んでいるような人間の多くは、 「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」 という自覚さえあまり無いんじゃないかな~という点です。
そのような自覚がある人間なら、「直接自分の言葉を表現すること」どころか、ネットに悪口を書き込むという判断をすることにも抵抗を感じると思うのです。 そういう人間は基本的には悪口を書かないのではないかな、と。
感情から行動に至るまでのプロセスは、単純化すると以下のような感じかな~と思ってます。
感情→ダム→行動
この「ダム」に相当するのは「感情のメタ認知」、即ち「感情を自覚すること」だと考えています。 行動のパターンは以下の3つに区分されます。
パターン① ダムが存在しない ・・・感情がそのまま行動に変わります。 パターン② ダムが存在し、感情がダムの許容量を超えていない ・・・理性によって感情の捌け口の方向・放水量をコントロールできます。 パターン③ ダムが存在し、感情がダムの許容量を超えている ・・・感情の一部が行動に漏れます。
あなたのことを恨んでいる、憎んでいるということがバレたなら、きっとまた嘲笑われてしまう。
ということを想像できる程度には自分の感情に自覚があり、尚且つ「感情に支配され」ていることから、KANAMEさんが想定されている主人公キミさんはパターン③に該当するだろうと考えてます。
しかし、キミさんよりあるある人間なのは、悪口をtweetする際に自分がどんな感情に突き動かされているか、なんて意識すらしていない糞尿垂れ流しbotであり、パターン①に該当するタイプだと思ってます。 大した根拠はありません。僕がそう感じるだけです。なんなら僕はTwitterアカウントさえ持ってません。
その点、キミさんはオムツをはいたうえでオーバーフローした糞尿だけを人様にお見せしている分、世のあるある人間たちよりもちょっぴり大人びてるように感じます。
人の数だけ宗教がある
中一の頃に枕草子を習った。
ぬるくゆるびもていけば、ひおけのひも、しろきはいがちになりて、わろし。
この一節は未だに俺の記憶に根深く残っている。
中一の頃のあだ名はわろしだった。
多分、些細なことだったんだろう。 詳しいことはあまり覚えてない。
顔を見て笑われたのか、変なあだ名を付けられたのか、そんな感じだろう。
ちなみに当時のあだ名はヤミラミで、ポケモンを知らない俺からしたら机を落とすほどではなかった。 サツマイモと言われたら落としてたかもな。
なぜか恨まれがち
どうしても認められない奴がいる。 否が応でも蹴落としたい。 手段は選ばない。 粗を探して、バカにできる要素をかき集めて、どうにか陥れたい。 あいつの評判を下げたい。
そんな魂の叫びがネットの隅でこだまする。 過去に何があったのかはわからない。 ただ、わかっていることは、彼が妬み嫉みの感情に支配された暇人であるということだけ。
本当は自分でもうすうす気付いている。 そんな自分が一番惨めで不幸せな人間であるということに。 匿名の仮面の裏に隠された彼の素顔は、あまりに醜く、そして不服そうな表情に満ちていた。 直接自分の言葉を表現することに抵抗があった。 それはなぜか。 それも自分が一番よく理解していた。
相手にそれを知られてはならなかった。 あなたのことを恨んでいる、憎んでいるということがバレたなら、きっとまた嘲笑われてしまう。 毎夜毎晩、そのことを想像しては頭を抱え、そして人知れず怯えていた。 その現実をかき消すように、また一つひとつ悪口を打ち込むのだ。
『嫌いな者のために生きるキミへ』
俺がいなくなった途端喧嘩界廃れがち
「俺を馬鹿にした」ってところが絶妙に隠されてるな。 そこはあまり語りたくないのか。 何をしたかよりも何をされて机と椅子を3階の窓から落とすという大人を巻き込む事件に至ったのかというほうがずっと重要じゃないか。
小6の時に、俺を馬鹿にした罰としてそいつの机と椅子を3階の窓から落としたら、担任の先生が俺ばっかり責めてきた。 親まで呼ばれててびっくりした。理解に苦しんだ。
生徒同士以上に大人からいじめられてたのかもしれんな
で、お前って実際イヂメられてたんか?
どんな悲惨なイヂメうけた?
◆◆◆ 👂👀👂 ★拡大5963(拡大5963)★ |反転5963 ⊃━━━⊂🍵 ¦ /\ / \ 👟 👟
群れがち
オマエ は ニンゲン じゃ ナイナイ
失ってから大切なものに気づきがち
使われなくなり忘れ去られていった彼らのハンドルネームたちは、 かき捨てられた恥そのものなのかもしれませんね。
人間は時間とともに様々な経験を積み、様々な恥をかくことと思います。 それはリアルでもインターネットでも変わることなく。 旅の恥はかき捨てと言いますが、匿名性の高いインターネットの世界では常にかき捨てが可能です。 そして常に、かき捨てたいという欲望に駆られることでしょう。 そんな世界では、積もり積もった膨大な恥に打ち勝つほどの、強靭な精神に生み出されたハンドルネームだけが淘汰されず生き残るのだと思います。 数十億年という時の試練に打ち勝った不滅の遺伝子のように。
しかし、同じ星で絶滅してしまった幾多のハンドルネームたちを想うと、 どうしてカッコつけずにいられなかったのか。 どうしてダサくてはいけなかったのか。 戦没者を追悼する遺族のように、やり場のない寂しさに胸が締め付けられるようです。
彼らの精神もまた強くなり、たとえ姿を変えても、 この星でまた会える時をいつまでも待っています。
喧嘩界古参あるある
別ハン使いこなしがち そういうのも全然ありだけど、別にそのままの名前でもよくね、理想とは違う転職をしちゃったとしても、そういう失敗含めていろんなものを背負ってロールプレイングしようぜって思います。
恥をかかないことにリソース割きがち
カッコつけないダサいコミュニケーションのほうが楽しいと僕は思うんですけどね。 どうせ自分も相手も大した差はないのですから。 人間はどうも、恥をかくのが嫌で仕方ないようです。
素人ほど肩書きで判断する
なんてひねくれていないで、勉強なり人望を得るなりすればどうでしょう…?
勉強をして、イジメを根絶する方法を模索すればいいじゃないですか 人望を得て、イジメを根絶する法案でも可決していこうじゃないですか
今、ここで何を言ってもイジメはなくなりません イジメ批判論で論破したとしても、イジメで自殺したニュースは世間を賑わせるでしょう
でも、あなたが総理大臣にでもなればどうでしょうか? もしかしたら、イジメを根絶することができるかもしれない
わたしは先ほど、人の認識を変えようとする力は、いじめる側によってしか生み出せないと言いました なら、その力をイジメをなくすことに使えばいいのです
ところで、
同じ海のメジナ 大海を知らず
というのは、恥ずかしながらわたしの造語です リンク先の文章を、拙いながらたとえたものです
いじめられる側がいじめる側に回るというのは、同じ穴の狢にほかなりません メジナと一緒です
でも、人は、メジナとはちがって、同じ穴の狢という言葉を理解できます つまりこれは、それ自体を変えることもできるということです
小さいカゴの中でいじけてないで、外にでましょう 大海を知らないともったいないですよ
生物とは遺伝子の選択や自然淘汰によって少しずつ、一歩一歩、しかし確実に進化し続けてきた。 いじめを無くす、ということは劣等遺伝子の存続にもつながりかねない。みんなで1列に並んで手をつなぐのは、保育園で十分なのだ。そこから先はおのが道。険しき道を歩んでいくのだ。
自殺とはいわば自然淘汰。残る必要のない遺伝子だっただけのこと。
(・ ∀ ・)
いじめをなくして人類が退化するくらいなら、いじめ続けて進化していった方がマシ。そういうことなんです。
総括すると、いじめで退学になったり裁判になったりすることがそもそもおかしいわけだ。あるべきものを無くそうとするなんて愚かだし、そもそも無くなりようがないんだから、いじめの根絶なんて絶対にしてはいけないし、むしろ助長して日本いや世界のあるべき姿を維持せねばならない…。 いじめを日々進化させ、世界をよりよくしよう。いじめを文化化し、笑顔と自殺の両立をはかる…!
うーん、さすがっっ!!!いじめという楽しみがなくなったらお前らの人生どうなるんだって話だもんな…。楽しみを取り上げるなんて、そんなのいじめだもんね!
わたしは、イジメというのはしかたのないことだと考えます なぜなら、そういう人もいるからです
十人十色という言葉をご存知でしょう 考えや好み、性質などが人それぞれ異なることを意味します
たとえば、テレビなどでダイエットがしたいと言いながら、食べている人を見かけませんか? あなたがどうかは知りませんが、ある人はそれをばかだと評価するでしょう だって、食べなければ痩せるんですから
今日、いまだ犯罪が絶えません 人を殺してはいけないなんてことは、千年も前から言われていることなのに、まだ殺人事件が起こっています
イジメも同じです
ダメだとわかっていても、やってしまう人はいる
…しかたのないことなのです
よって、問題は、イジメそのものやいじめる側ではなく、いじめられる側の考え方だとわたしは感じます
いじめる側というのは、力を持っています それは、人数だったり、暴力だったり様々です そしてその力というのは、見方を変えれば世界をも動かすのです 革命というのも、いわば、イジメのようなものです
つまり、世の中を牛耳っているのは、基本的にはいじめる側の人間です 悲しいかな、人の認識を変えようとする力もまた、いじめる側によってしか生み出せないのです…
…ですが、安心してください 革命というのは、虐げられていた人達が力を持った結果です つまり、がんばれば、いじめられる側もいじめる側に回ることができるのです
最後に、この言葉を贈ります
妄言多謝
喧嘩界の古参あるある Twitterでニッチなトピックばかりに食いついてどうでもいい感想言いがち
俺は幼少期、いじめたことも、いじめられたこともある。 その経験から言わせてもらうと、いじめってのはやはり気に入らない人物に対して行われるもの。 外見や素行など、他人とは違うという部分が運悪くピックアップされて複数人でそれが共有されてしまうと、どうしてもその点についていじりたくなる。 そして、いつしかそれがいじめとなる。 逆に、いじめから抜け出す方法は、その環境から逃げ出すか、大人に庇ってもらうしかない。 いじめという強烈な集団意識は、ちょっとやそっとの対抗では反発できない。
ところが、大人の世界でもいじめは存在する。 俗に言うパワハラやモラハラ、セクハラその他。
「キミ、高学歴なのにそんなこともわからないのかネ?」 「◯◯くんって常識ないよね。わかる?ジョウシキ」 「要領悪いし他の人に任せるからもういい」 「同期で入ったアイツはこれだけできてるのに、どうしてお前はできないんだ?帰って仕事の勉強してるか?」 「自分はこんなとこで終わる人間じゃないって顔してるが、能書きばかり垂れ流して行動しないのがお前の悪いとこだぞ。だから後輩に舐められるんだ。悔しくないのか?」
などなどいろんな圧力をかけてくるかもしれないが、言い方はともかくとして糧にすることはできるんじゃないかな?
ここで子供の話に戻そう。 俺は小学生のとき、競泳でそこそこ早かったので特待生コースにいたが、そこは選りすぐりのエリートが集う環境で、当時の俺は一番タイムが遅かった。 つまり能力的に劣っている、というのが理由でいじめられ始めた。 誰にも認められた気がしなかった。 他の子の素っ気無い態度、練習中に足を引っ張られるイタズラ、遅いのを理由に笑われたりもした。
今思うと、まったく大したことではない。 それでも俺は練習に行くのが嫌になったし、最初は負けじと頑張ってたけど、最後は耐えかねて辞めたよ。 とても辛かったし、涙も流した。
が、子供たちがいくら悪意に満ちて当時の俺をいじめていたとしても、彼らは何も間違ってなかった。 そう、俺は能力的に劣っていたからだ。 競泳においては泳ぐのが早ければいい。 それ以外は必要ない。 泳ぐのが遅い、そんな奴は競泳をやるべきではない。 もちろん並の小学生よりはずっと早かったよ、それでもそいつらには勝てなかった。事実だ。 劣っている、負けている奴に発言権はない。
幼くして俺はそれを学んだ。 とてもいい経験だ。
他人をいじめようと粗探しから放たれた鋭利な言葉、それは場合によっては正確な批判ポイント、つまり自分に不足している部分を教えてくれる貴重な意見となる。 よっていじめかどうかはさほど関係なく、そこから何を学ぶか、プラスにできるかということが重要じゃないかな?と思います。
ちなみに学校でいじめていた子とは途中で和解した。 そのせいで俺もハブられたりしたこともあったがまったく気にしなかった。
俺はいじめ反対など言うつもりは毛頭ない。 どんどんいじめられて、どんどんいじめればいいと思ってるよ。
いかにもいじめられそうな陰キャが、逆にネットで他人をいじめるのと同じ。誰にだって裏表はアルカイダ
おーいいじゃんいいじゃんやってんねぇ
同じくらい頑張ってるAさんとBさんがいたとして
【比較1】
みたいな状況だと、Aさんのほうがイケてると思っちゃうし、その反動でBさんがダサく見えてしまうってのは・・・まぁ理解できなくもない。 Aさんは底が知れないというか、まだまだ伸びしろを隠し持ってるように思えるからな。
それでは、ここに新たな設定を付け足していってみよう。
【比較2】
この新たな比較では「頑張ってる感の有無」に加えて「成果の程度」という軸が新たに加えられたわけですが この場合も「Bさんのほうがダサい」と感じるだろうか?
さらに新たな設定を付け足してみよう。
【比較3】
今回は、比較する人物を追加することで「頑張ってる感の有無」と「成果の程度」の組み合わせパターンを網羅してみた。 Aさん~Fさんをダサい順に並べると、どうなるだろうか?
霧雨の意見を否定する目的で都合のいい設定を追加した、というわけではない点に留意してもらいたい。 場合分けの粒度を上げることによって「ダサいと感じてる対象は何なのか」をより正確に把握できるのではないだろうか。
【比較2】に対する印象によって いくら成果を上げていようとも努力感が見られればダサく思えてしまうのか?が判明するし 【比較3】に対する印象からは 努力感が見られなければ成果が低くてもダサく感じないのか?が判明するはずだ。
バブル崩壊後の、いわゆるさとり世代・・・およびそれに起因するニヒリズム的な価値感は、多かれ少なかれ現代人の誰しもが抱いている感覚だとは思う。 ただニヒリズムにしても程度の問題で、例えば「FさんよりBさんのほうがダサい」と感じてしまうようであれば、余りにも浮世離れしすぎというか、何かトラウマでも抱えてんのかな?と思います。
あの~・・・俺の書き込みちゃんと読んでます? 離職率についても触れたはずだぞ? 「大学卒業まで等の期限付きでアルバイトする」なんて普通の判断だし アルバイトを雇用するコンビニ側にしても終身雇用なんて端から前提にしてねーよ
この2つ、どう違うんだ? コンビニのアルバイトを第一志望に就活する偏差値70overの学生なんて、果たしているのか? いや、仮にいたとしても、雇う側はそんな想定で求人出してねーよw もう一度言うけど「あれ持ってない、これ持ってない、それも持ってない・・・」みたいな持たざる者が最終的に消去法で選ぶ職場ってのは、その社会が資本主義である限りは必然的に出てくるんだよ
正社員の面接に受かった、とか もっと良い条件(仕事内容や給料、家からの距離など)のアルバイトを見つけた、とか そういう様々な事情で次々と離職していくことを前提にして労働内容や給料が設定されてんだよ 何度も言ってるけど、『それでも求人が埋まりやすい』のが現状のコンビニアルバイトであって、誰でもできると言われる由縁でもあるわけ。
「無期限に継続できてこそ"できる"と言える」っていうお前の意見に従う場合 世の中は「誰にもできない仕事」で溢れかえってしまうわけだが?
さてはこいつ、頑張ってる人を見たことがないな。 ベタすぎるイメージの話ばかりでメディアに洗脳されておるわ。 現実味がないねん。 夢とかアイドルとか。 テレビの見すぎ。
やっとまともな発言が散見されるようになったな お前らの頑張りに拍手だ
頑張ることがダサいというのはほとんど印象の話 汗水垂らして、何してんの?
夢に向かって本気でぶつかるとか 自分で夢って言っちゃってるし
非常にサムいよね
泥臭いのは見てて恥ずかしい 実りのない努力は、特にね
どんな勝者も、並々ならぬ努力を見せられると途端にダサくなる
アイドルが練習風景見せますか?フツー
「頑張ってる」
仕事で例えると入社3年目で同期入社のAくんBくんがいたとしよう Aくんが目を瞑ってでもできる仕事をBくんは入社一年生組と共に今頑張って憶えようとしている
残念だけどBくんの頑張りに意味は無い「Bくん頑張ってるね!」なんて言われたらこれは明らかにネガティブな嫌味で言われていると思って間違いない
逆によく今まで辞表を出さなかったか聞きたくなるレベルだ
Bくんのように「頑張る」タイミングが分からない人間は実際にいる 頑張るを手放しで肯定してあげられるのは小学3年生までだ そこからは早い段階で如何に頑張るかを学ばせなければならない
さて、頑張るという行動自体がダサいのか、それとも頑張らなくてはいけないという状況そのものがダサいのか、またはその両方か。 基本的に、頑張る、という行動は何かしらの不足を補ったり、まだ達成されていない目的を達成するために行われるものだという認識がある(他のパターンを見落としている可能性があるかもしれない為、もしあればご指摘願おう)。 また、何かしらの不足がある状態や、まだ目的が達成されていない状態というのは、悪いものとして扱われることが多い。ただし、これまた例外(ジレンマにおける取捨選択によって許容せざるを得ない不足など)はあるが。 ここで改めて問う。頑張るという行動は本当にダサいのか。自身に不足が存在するのは、確かに悪しきことなのかもしれない。しかし、それを埋め合わせるという行動自体は素晴らしいものではないのだろうか。 確かに、理想として「不足がない状態で頑張らない」というのがあるだろう。それと比較すれば、頑張る、といった行為はあるべきではないものなのかもしれない。悪しきものなのかもしれない。 しかし、当然の事だが、現実において、初めから完璧な人間など存在しない。生まれながらにしてダサいのだ、人は。そのどうしようもない逆境、それを乗り越えようとするその意志、それをダサいと呼んで果たしていいのか。否、断じて違う。不足へのダサいという価値観は持ち合わせても良いと思う、しかし、その不足を埋め合わせようとするその心、それは紛れもない誉れなのだ。 よって、俺は頑張るという行動をダサいとは思わない。
「交通誘導員ヨレヨレ日記」っていう本を見て交通誘導員が誰でもできると思ってる奴がいたら病院に行くことをオススメする
by山田涼介
できるというものは継続できることを意味する。
3ヶ月だから我慢できる、1年なら我慢できる、大学卒業までだったら続けられる。
そんなものはその仕事ができるとは言えない。
できるけどもっとやりたいからこちらに就職する、のではなく、こんな仕事はしたくないと言っているのならそれはできないに等しい。
■■■■■■■■■脱線注意■■■■■■■■■■
感情の解像度を高めるための分析ターンをスキップしてすぐさまアクションターンに移行するのって、いわゆるステレオタイプと呼ばれるやつなんだろーけど、生き物としてはけっこう重要かつ合理的な機能でもあるらしい。
特に即応性が求められるシチュエーションではそれが顕著化する。
コロラド大学の心理神経科学および社会心理学の准教授を務めるJosh Correll(ジョシュア・コレル)が主体となり、以下のような実験を行っています。参考までにどうぞ。
対象
・特殊な射撃訓練の経験があるアメリカの警察官 様々な人種から270名
・学生を含む様々な人種の一般人 245名
実験内容
被験者は、スクリーンに向かって空砲が装填された実銃を構える。撃つ感触は実弾と同じ。
スクリーンには様々な場所や時間帯の無人の風景がランダムに次々と映し出されるが、とつぜん以下の4つが紛れ込む。
①スマホを持った白人
②スマホを持ったアフリカ系アメリカ人
③拳銃を持った白人
④拳銃を持ったアフリカ系アメリカ人
武装した人物が映し出されたら可能な限り早く引き金を引いてください。映し出された人物が非武装だったら、銃を撃たないでください。
実験結果
人物が映ってから引き金を引くまでの所要時間は警察官のほうが早く、誤射率も少なかった(警官あるある)
一般人はより多くの黒人を誤射し、警察官は少しだけ多くの黒人を誤射した。(黒人あるある、銃で撃たれがち)
「世界が危険な場所かどうか」に関する事前アンケートで、世界は危険な場所だという認識が強かった人のほうが判断時間が短く、誤射率も高かった。
詳しくは"shooter task"で調べよう。
ジョシュアは、75年にニューヨークで起こったディアロ事件などの黒人に対する誤射事件をキッカケにして人種偏見に関する研究の道に進んだと語っています。
続いて、ニューヨーク大学で心理学および神経科学の准教授を務めているJon Freeman(ジョン・フリーマン)は各種バイアスについて、第一印象はどのように形成されるのかという視点から分析している。
・・・まぁ英語なのでワケワカランかもしれんけど
ざっくり言うと、誰かの顔を「一瞬だけ」見たとき、脳みそのうち2か所がそれぞれ別々に情報を処理するそうだ。
脳内オフィスで働いてるAチームは、事務員の視神経ちゃんから封筒を受け取る。中には顔写真が入っていた。
Aチームの面々はその写真を見ながら、人種は?性別は?だいたい何歳くらい?口角が上がってる?笑ってる?嬉しそう?
みたいに情報を集めて「30代後半の黒人男性が少しだけ微笑んでる、幸せそう」って感じの報告書を上司に提出する。
それに対して、Bチームには「過去の様々な資料が収納されている棚」がある。
Bチームの面々は写真を受け取ると
「これは黒人だな」
"黒人"と書かれた引き出しに手を入れて、中の資料を無作為にグワシッと掴んでそのまま提出。
その後の脳内オフィス会議では「不敵な笑みを浮かべ、悪いことを企んでそうな30代の黒人男性」って結論が下されがち(脳内オフィスあるある)
ステレオタイプ(偏見やバイアス、色眼鏡などとも呼ばれる現象)は、判断を鈍らせる負の作用として認識されがち(心理学の素人あるある)だけど、撃たなければ自分が撃たれるかもしれないといったような、判断の正確性より早急性が重視される場面で発揮される合理的機能という一面も併せ持っている。
人種に限らず、国籍や宗教、果ては応援しているスポーツチームが違うというだけで対立が起こったりもするけど
逆に言えば、人種も国籍も宗教も違うけど同じスポーツチームを応援してるという共通点でブラザーになることもある。
実験紹介ばかりするのもあれなので割愛するけど、同種の仲間しか助けない白いネズミを黒いネズミと少しだけ同居させたら、その個体以外の全ての黒いネズミを助けるようになったって実験もある。
ジョシュアの実験からは「人間が生まれつき偏見を持ってる生き物(大海を知らないメジナ?)なのかどうかはともかく、後天的な訓練でバイアスを克服することが可能」ってことが分かるし、ジョンの実験を踏まえるなら、Bチームの書類棚を仕訳けすることがバイアスの緩和に繋がるといえるだろう。
というわけで、途方もない脱線から強引な原点回帰をしていくんだけど
ネットに悪口を書くという行為ひとつとっても、その根底にはきっと「生きるために必要なステレオタイプ的機能」およびそれに伴う偏見ってのは必ず潜んでいると思う
これ自体は正論だと思うんだけど、読んでいて少し違和感があった。正論だけどもうチョイ掘れそうだ。
というのも、TPOをわきまえている「つもり」の人を、今まで数多く見てきたからだ。嫌でも目に付くからね。
例えば、KANAMEが黒い砂漠のメンツ募集してたけど、MMOなんて究極に分かりやすいモデルだね。
全体チャットで下ネタが飛び交ってたりする。
下ネタ野郎はTPOをわきまえていないのではなくて、黒い砂漠の全体チャットは下ネタが許容されるという性質のTPO(PとO)が形成されて、根付いちゃってるんだよ。
「様々な人がいる場所で、大きな声で下ネタトークできますか?」って聞いたら、ほぼ全員がNOって答えるだろう。
俺を含めてゲーマーなんて内弁慶のチキンハートばかりだからな(バイアス)
砂漠プレイヤーの男女比とか知らんけど、電車の車内やファミレスの店内なんかで、全員に聞こえる声(全体チャット)で下ネタ話したりしますか?って話なわけ。NOなんだよ。
でも、MMOの全体チャットだとドフラミンゴがアクメするコピペとか連呼しちゃうやつが大量発生しがち(MMOあるある)
それ見てて、クソガキおるな~とは思うけど「そういう場所だしな」って感じで違和感は特に沸いてこないんだよな。
「既に形成されているTPOに沿って行動する」ってのは、そのTPOを維持・継続させる一因でもあるわけで
時と所と場合をわきまえてる・・・というとあたかも完全な受け身であるかのように思いがちだけど
実際にはそのTPOの性質に対して賛成票を投じている、燃料補給係を担当してるというアクティブな見方もできると思うんだよな。
特定のMMOのチャット、そのゲームのギルド内、仲のいいパーティメンバーとのチャット、とか範囲が狭くなればなるほどコアでマニアックでカルトな言動ってのも許容されやすくなる。TPOのうちPとOのブレ幅が少なくなって傾向も固まってくるからな。共学より男子校のほうが服も脱ぎやすかろう。
女子高に通ってるJKが授業中にあぐらかいて屁ぶっ放してるのとか信じたくなかったりもするけど、俺たちが意識してるTPOってのも一つ外側の枠から見れば単なるローカルルールに過ぎないし、そのTPOという大義に身を任せてステレオタイプな判断を下しながら偏見とバイアスまみれの生活を送るのも、ある意味仕方のないことだと思う。
ステレオタイプを全廃したら、ありとあらゆる物事がケースバイケースの要審査になっちゃうからな。
>> 15
僕はそこまでは思ってないですよw
バカにした表現をし過ぎたせいで誤解されてしまったみたいですね。
自分と彼らは、「発達段階」が異なるに過ぎないと考えています。
彼らの多くも、何かしらのきっかけがあれば自分の感情をメタ認知できるようになるでしょう。
>> 5でもぼやきましたが、僕は人と人との間に大した差など無いと確信しています。
前回、分かりやすさを重視して3つのパターンに区分してみましたが、実際には程度問題であり、明確な類型化はできないと思ってます。
そして、彼らが自分の感情に自覚があるか、ないか。
これも程度問題だと思います。
「自分は相手に何らかの感情を抱いている」・・・A
という超絶粗い解像度で自覚しているのか、
「自分は相手のことを不快に感じている」・・・B
というやや粗い解像度で自覚しているのか、
「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」・・・C
という鮮明な解像度で自覚しているのか。
前回は、ネットに悪口を書き込む人間の多くはパターン①だろうと申し上げましたが、より厳密に言うとBの解像度でしか自覚できていない、と解釈しています。
即ち、Cの解像度での自覚がない、と。
以下、僕の仮説です。
Bに該当する人間は、自分が抱いている感情が「不快」であるという自覚はあるものの、その感情のさらに本質については自覚できていない。
その感情の本質が、例えば「envy(羨望)」であると自覚できていれば、その原因は自分と相手の何らかの差異であり、ネットに悪口を書くという手段は合理的な解決法ではない、という違和感が生じる。
したがって、悪口を書くことに抵抗を感じる。
そして、そのように感情の本質、根本的な原因を自覚できている場合にのみ、原因療法が可能となる。
しかし、感情の本質を自覚できておらず、なんとなく「不快」であるというぼやけた自覚である場合、解決のために何が合理的な手段で何が合理的ではない手段なのか、という整理すらできない。
よって、「不快」という抽象的な問題を何とか解決しようと闇雲に手を尽くす。
根本的な原因が分からないのだから、対症療法に頼るほかない。
結果、「不快」という感情がダムによって適正化されることなく、ウンコとなり世界を巡る。
対症療法の一例として、ネットに悪口を書くという手段がある。
ただし、彼らもどのような「行動」が善いか・悪いか、というアウトプットに対する明確な自覚はあるため、TPOは弁える。
しかし、その「自覚」は「行動への自覚」であり、「感情への自覚」ではない。
結論、やはり彼らの多くは「感情への自覚」に欠けていて、
「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」
という高い解像度の自覚はできていないのではないか。
以上が、
に対する答えになると思います。
バカなんだと思いますよ。
自分の感情の本質を自覚するスキルを身につけられていない、という点で。
嫌いなものを目にしたとき、頭の中に生じた不快感にどう対処したらいいか分からないんでしょうね。
だから、とりあえず周囲の人間に愚痴ったり、ウンコもらしてみたりする。
前澤友作さんのお年玉企画に対して抱いた感情が「envy(羨望)」であるなら、彼のアカウントをブロックするなりミュートするなり、あるいは彼を超えるという目標を持って努力する方が合理的です。
その「不快」の正体が「envy(羨望)」であることに気づけるかどうか、感情の構造をメタ認知によって読み解けるかどうかが、原因療法or対症療法の分水嶺なんじゃないかな~と思います。
他の部分もちゃんと読んでいます。
興味深い内容なので、また別のタイミングで拾うかもしれません。
ネットを使うと短気になりがち
ページや動画の読み込みが遅いだけでイライラする。
普段の読み込みの早さがあたりまえだと思い込んでいるので感謝の念を抱きにくい。
あたりまえといえば、ネット以外にも、たとえば整備された道路や、毎日寝られるベッドや、交通安全に勤める警備員のおっちゃんや、オフィスを綺麗にしてくれる清掃員のおばちゃん、どこかの誰かのおかげで我々の生活は成り立っているのに、そこに対する感謝の念を抱きにくい。
>> 8からまるで進展がない。
覚えてない(ということにしておきたい)。
だけど覚えてる。
そしてどれくらいのことをされれば机と椅子を3階から落とすかもしれないということがわかっているが、かもしれない、ではなく、現に机と椅子を3階から落としているとされている。
ここまできて未だに濁されている部分は、やはり現に何をされてそのような行為に及んだのかという点。
人の数だけ宗教はあるが、宗教の数だけ格付けがある。
僕にも、そう思っていた時期がありました。
きっと彼らとは違う星の下に生まれ、一生わかりあうことはできないのだろうと。
そう思いつつも、少なからずそういう人種とも交流していく過程で、ひとつのことに気付きました。
それは…
彼らは意外と、きちんと自分の立場を弁えて、発信する時と場合を選んでいるということです。
なんとも行儀がよいと言える。
それは自覚がありまくるからこそ、ではないでしょうか。
感情をそのまま吐き出してしまうダムのない人のことを、僕は昔から心の中で「オート下痢野郎」と呼んでいますが、それが「公衆の面前で晒すべきではない汚物である」という自覚は備わっていると思います。
だから人を選び、場を選び、時を選ぶ。
たとえば、有名人にクソリプを送る人々は、きっと「自分がまともに相手にされない有象無象に区分されるから大丈夫だ」という自認がある。
ところがいざ晒し上げられ、数の暴力を受けると簡単に死んでしまうのです。
まさしく自覚のなせる技でしょう。
大勢の人に指摘されて気付くわけではない。
最初からわかっているが言われないのをいいことに下心を垂れ流してしまっただけ。
僕は長いことTwitterをやっておりますが、そこで関わっている人種は千差万別です。
喧嘩界という世界に身を置き、過去には言いたい放題つぶやいていたこともありました。
その点、僕のことを良く思わない方々がいるかもしれない。
しかし毛色の違う人間関係に基づくコミュニティに取り囲まれた僕の環境下では
これまでたったの一度もその領域に足を踏み入れてきた人物はいません。
たったの一度もです。
下痢をぶちまけることができない絶対領域。
これを矛として使うと、特定の人物は嫌悪感のあまり離れますし、安易に関わってこようとは思わないでしょう。
僕の精神分析的な批判は心理的に後ろめたいことがあるクソ野郎にしか刺さらないようにできているので、必然的にクソ野郎ではない人しか周りにいなくなります。
なんだこいつ?自分のことを言っているのか?と勘繰ったり、激昂してしまう人は僕に苦手意識を持ちますからね。
しかし反発できない。
クソ野郎とは無縁の人々が防壁になっているんです。
空気の違いというやつです。
分別がつかない人は、同様に他人からの分別をつけてもらうことができず、舐められるので、リプ欄がアンチコメントで荒れたり、炎上したりすることもあるかもしれないですね。
これが公の場で叩かれる人の特徴です。
ヘイトで集めた人気は偏っている場合が多く、またそういうものを好むユーザーも幼稚で低質なものが多いイメージですが、利口な人は悪口ではなくもっと他の表現で賛同や承認を得るでしょうね。
かといって批判そのものが悪いことだとは思いませんし、的確な考えがあるなら、もっとはっきり自分の意見を表明してもいいとすら思います。
よく音楽を政治に結びつけるのをやめろ、とか言われがちですが、日本人の性質として、より無難で耳障りのいい言葉を並べる技術はどんどん進化していますが、体裁を取り繕うことに敏感すぎて肝心の中身がない、というケースも散見されます。
好きなものだけに囲われて生きていたい。
なので嫌いなものに多くの時間を割いている暇はない。
それがまともな考え方だと思います。
でもそうではない人が意外と大勢いる。
これはどういうことでしょう。
バカなのかな。
インフラ系の仕事、文句言われがち
人間は日常生活で頻繁に得られない利益には感謝の念を抱きますが、頻繁に得られる利益には抱かないようです。後者には特段何の感情も抱かず、その利益が得られなくなった時にのみ、怒りという感情を抱くのだとか。
電気・水道・ガス等を供給する仕事やサーバーの安定稼働を担う仕事などは、顧客の感情に触れられる機会が少なく、触れられるとすれば怒りの感情ばかりだったり。
たまに利益を与える仕事より、ずっと利益を与え続けている仕事のほうが感謝されてもいい気もしますが、人間的にはおこの対象でしかないのでしょう。
「失ってから大切なものに気づきがち」と似てるかもしれません。
インフラ系の仕事は気づかれたとき、あれ大切だったんだ!ムカつく!😡ってなるみたいですが。
>> 11
興味深いテーマですね。
読んでいて、一つ疑問に思った点があります。
それは、ネットに悪口を書き込んでいるような人間の多くは、
「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」
という自覚さえあまり無いんじゃないかな~という点です。
そのような自覚がある人間なら、「直接自分の言葉を表現すること」どころか、ネットに悪口を書き込むという判断をすることにも抵抗を感じると思うのです。
そういう人間は基本的には悪口を書かないのではないかな、と。
感情から行動に至るまでのプロセスは、単純化すると以下のような感じかな~と思ってます。
感情→ダム→行動
この「ダム」に相当するのは「感情のメタ認知」、即ち「感情を自覚すること」だと考えています。
行動のパターンは以下の3つに区分されます。
パターン① ダムが存在しない
・・・感情がそのまま行動に変わります。
パターン② ダムが存在し、感情がダムの許容量を超えていない
・・・理性によって感情の捌け口の方向・放水量をコントロールできます。
パターン③ ダムが存在し、感情がダムの許容量を超えている
・・・感情の一部が行動に漏れます。
ということを想像できる程度には自分の感情に自覚があり、尚且つ「感情に支配され」ていることから、KANAMEさんが想定されている主人公キミさんはパターン③に該当するだろうと考えてます。
しかし、キミさんよりあるある人間なのは、悪口をtweetする際に自分がどんな感情に突き動かされているか、なんて意識すらしていない糞尿垂れ流しbotであり、パターン①に該当するタイプだと思ってます。
大した根拠はありません。僕がそう感じるだけです。なんなら僕はTwitterアカウントさえ持ってません。
その点、キミさんはオムツをはいたうえでオーバーフローした糞尿だけを人様にお見せしている分、世のあるある人間たちよりもちょっぴり大人びてるように感じます。
人の数だけ宗教がある
中一の頃に枕草子を習った。
ぬるくゆるびもていけば、ひおけのひも、しろきはいがちになりて、わろし。
この一節は未だに俺の記憶に根深く残っている。
中一の頃のあだ名はわろしだった。
多分、些細なことだったんだろう。
詳しいことはあまり覚えてない。
顔を見て笑われたのか、変なあだ名を付けられたのか、そんな感じだろう。
ちなみに当時のあだ名はヤミラミで、ポケモンを知らない俺からしたら机を落とすほどではなかった。
サツマイモと言われたら落としてたかもな。
なぜか恨まれがち
どうしても認められない奴がいる。
否が応でも蹴落としたい。
手段は選ばない。
粗を探して、バカにできる要素をかき集めて、どうにか陥れたい。
あいつの評判を下げたい。
そんな魂の叫びがネットの隅でこだまする。
過去に何があったのかはわからない。
ただ、わかっていることは、彼が妬み嫉みの感情に支配された暇人であるということだけ。
本当は自分でもうすうす気付いている。
そんな自分が一番惨めで不幸せな人間であるということに。
匿名の仮面の裏に隠された彼の素顔は、あまりに醜く、そして不服そうな表情に満ちていた。
直接自分の言葉を表現することに抵抗があった。
それはなぜか。
それも自分が一番よく理解していた。
相手にそれを知られてはならなかった。
あなたのことを恨んでいる、憎んでいるということがバレたなら、きっとまた嘲笑われてしまう。
毎夜毎晩、そのことを想像しては頭を抱え、そして人知れず怯えていた。
その現実をかき消すように、また一つひとつ悪口を打ち込むのだ。
『嫌いな者のために生きるキミへ』
俺がいなくなった途端喧嘩界廃れがち
「俺を馬鹿にした」ってところが絶妙に隠されてるな。
そこはあまり語りたくないのか。
何をしたかよりも何をされて机と椅子を3階の窓から落とすという大人を巻き込む事件に至ったのかというほうがずっと重要じゃないか。
小6の時に、俺を馬鹿にした罰としてそいつの机と椅子を3階の窓から落としたら、担任の先生が俺ばっかり責めてきた。
親まで呼ばれててびっくりした。理解に苦しんだ。
生徒同士以上に大人からいじめられてたのかもしれんな
で、お前って実際イヂメられてたんか?
どんな悲惨なイヂメうけた?
◆◆◆拡大5963 ★
👂👀👂
★
|反転5963
⊃━━━⊂🍵
¦
/\
/ \
👟 👟
群れがち
オマエ は ニンゲン じゃ ナイナイ
失ってから大切なものに気づきがち
使われなくなり忘れ去られていった彼らのハンドルネームたちは、
かき捨てられた恥そのものなのかもしれませんね。
人間は時間とともに様々な経験を積み、様々な恥をかくことと思います。
それはリアルでもインターネットでも変わることなく。
旅の恥はかき捨てと言いますが、匿名性の高いインターネットの世界では常にかき捨てが可能です。
そして常に、かき捨てたいという欲望に駆られることでしょう。
そんな世界では、積もり積もった膨大な恥に打ち勝つほどの、強靭な精神に生み出されたハンドルネームだけが淘汰されず生き残るのだと思います。
数十億年という時の試練に打ち勝った不滅の遺伝子のように。
しかし、同じ星で絶滅してしまった幾多のハンドルネームたちを想うと、
どうしてカッコつけずにいられなかったのか。
どうしてダサくてはいけなかったのか。
戦没者を追悼する遺族のように、やり場のない寂しさに胸が締め付けられるようです。
彼らの精神もまた強くなり、たとえ姿を変えても、
この星でまた会える時をいつまでも待っています。
喧嘩界古参あるある
別ハン使いこなしがち
そういうのも全然ありだけど、別にそのままの名前でもよくね、理想とは違う転職をしちゃったとしても、そういう失敗含めていろんなものを背負ってロールプレイングしようぜって思います。
恥をかかないことにリソース割きがち
カッコつけないダサいコミュニケーションのほうが楽しいと僕は思うんですけどね。
どうせ自分も相手も大した差はないのですから。
人間はどうも、恥をかくのが嫌で仕方ないようです。
素人ほど肩書きで判断する
なんてひねくれていないで、勉強なり人望を得るなりすればどうでしょう…?
勉強をして、イジメを根絶する方法を模索すればいいじゃないですか
人望を得て、イジメを根絶する法案でも可決していこうじゃないですか
今、ここで何を言ってもイジメはなくなりません
イジメ批判論で論破したとしても、イジメで自殺したニュースは世間を賑わせるでしょう
でも、あなたが総理大臣にでもなればどうでしょうか?
もしかしたら、イジメを根絶することができるかもしれない
わたしは先ほど、人の認識を変えようとする力は、いじめる側によってしか生み出せないと言いました
なら、その力をイジメをなくすことに使えばいいのです
ところで、
というのは、恥ずかしながらわたしの造語です
リンク先の文章を、拙いながらたとえたものです
いじめられる側がいじめる側に回るというのは、同じ穴の狢にほかなりません
メジナと一緒です
でも、人は、メジナとはちがって、同じ穴の狢という言葉を理解できます
つまりこれは、それ自体を変えることもできるということです
小さいカゴの中でいじけてないで、外にでましょう
大海を知らないともったいないですよ
生物とは遺伝子の選択や自然淘汰によって少しずつ、一歩一歩、しかし確実に進化し続けてきた。
いじめを無くす、ということは劣等遺伝子の存続にもつながりかねない。みんなで1列に並んで手をつなぐのは、保育園で十分なのだ。そこから先はおのが道。険しき道を歩んでいくのだ。
自殺とはいわば自然淘汰。残る必要のない遺伝子だっただけのこと。
(・ ∀ ・)
いじめをなくして人類が退化するくらいなら、いじめ続けて進化していった方がマシ。そういうことなんです。
総括すると、いじめで退学になったり裁判になったりすることがそもそもおかしいわけだ。あるべきものを無くそうとするなんて愚かだし、そもそも無くなりようがないんだから、いじめの根絶なんて絶対にしてはいけないし、むしろ助長して日本いや世界のあるべき姿を維持せねばならない…。
いじめを日々進化させ、世界をよりよくしよう。いじめを文化化し、笑顔と自殺の両立をはかる…!
うーん、さすがっっ!!!いじめという楽しみがなくなったらお前らの人生どうなるんだって話だもんな…。楽しみを取り上げるなんて、そんなのいじめだもんね!
わたしは、イジメというのはしかたのないことだと考えます
なぜなら、そういう人もいるからです
十人十色という言葉をご存知でしょう
考えや好み、性質などが人それぞれ異なることを意味します
たとえば、テレビなどでダイエットがしたいと言いながら、食べている人を見かけませんか?
あなたがどうかは知りませんが、ある人はそれをばかだと評価するでしょう
だって、食べなければ痩せるんですから
今日、いまだ犯罪が絶えません
人を殺してはいけないなんてことは、千年も前から言われていることなのに、まだ殺人事件が起こっています
イジメも同じです
ダメだとわかっていても、やってしまう人はいる
…しかたのないことなのです
よって、問題は、イジメそのものやいじめる側ではなく、いじめられる側の考え方だとわたしは感じます
いじめる側というのは、力を持っています
それは、人数だったり、暴力だったり様々です
そしてその力というのは、見方を変えれば世界をも動かすのです
革命というのも、いわば、イジメのようなものです
つまり、世の中を牛耳っているのは、基本的にはいじめる側の人間です
悲しいかな、人の認識を変えようとする力もまた、いじめる側によってしか生み出せないのです…
…ですが、安心してください
革命というのは、虐げられていた人達が力を持った結果です
つまり、がんばれば、いじめられる側もいじめる側に回ることができるのです
最後に、この言葉を贈ります
同じ海のメジナ 大海を知らず
妄言多謝
喧嘩界の古参あるある
Twitterでニッチなトピックばかりに食いついてどうでもいい感想言いがち
俺は幼少期、いじめたことも、いじめられたこともある。
その経験から言わせてもらうと、いじめってのはやはり気に入らない人物に対して行われるもの。
外見や素行など、他人とは違うという部分が運悪くピックアップされて複数人でそれが共有されてしまうと、どうしてもその点についていじりたくなる。
そして、いつしかそれがいじめとなる。
逆に、いじめから抜け出す方法は、その環境から逃げ出すか、大人に庇ってもらうしかない。
いじめという強烈な集団意識は、ちょっとやそっとの対抗では反発できない。
ところが、大人の世界でもいじめは存在する。
俗に言うパワハラやモラハラ、セクハラその他。
「キミ、高学歴なのにそんなこともわからないのかネ?」
「◯◯くんって常識ないよね。わかる?ジョウシキ」
「要領悪いし他の人に任せるからもういい」
「同期で入ったアイツはこれだけできてるのに、どうしてお前はできないんだ?帰って仕事の勉強してるか?」
「自分はこんなとこで終わる人間じゃないって顔してるが、能書きばかり垂れ流して行動しないのがお前の悪いとこだぞ。だから後輩に舐められるんだ。悔しくないのか?」
などなどいろんな圧力をかけてくるかもしれないが、言い方はともかくとして糧にすることはできるんじゃないかな?
ここで子供の話に戻そう。
俺は小学生のとき、競泳でそこそこ早かったので特待生コースにいたが、そこは選りすぐりのエリートが集う環境で、当時の俺は一番タイムが遅かった。
つまり能力的に劣っている、というのが理由でいじめられ始めた。
誰にも認められた気がしなかった。
他の子の素っ気無い態度、練習中に足を引っ張られるイタズラ、遅いのを理由に笑われたりもした。
今思うと、まったく大したことではない。
それでも俺は練習に行くのが嫌になったし、最初は負けじと頑張ってたけど、最後は耐えかねて辞めたよ。
とても辛かったし、涙も流した。
が、子供たちがいくら悪意に満ちて当時の俺をいじめていたとしても、彼らは何も間違ってなかった。
そう、俺は能力的に劣っていたからだ。
競泳においては泳ぐのが早ければいい。
それ以外は必要ない。
泳ぐのが遅い、そんな奴は競泳をやるべきではない。
もちろん並の小学生よりはずっと早かったよ、それでもそいつらには勝てなかった。事実だ。
劣っている、負けている奴に発言権はない。
幼くして俺はそれを学んだ。
とてもいい経験だ。
他人をいじめようと粗探しから放たれた鋭利な言葉、それは場合によっては正確な批判ポイント、つまり自分に不足している部分を教えてくれる貴重な意見となる。
よっていじめかどうかはさほど関係なく、そこから何を学ぶか、プラスにできるかということが重要じゃないかな?と思います。
ちなみに学校でいじめていた子とは途中で和解した。
そのせいで俺もハブられたりしたこともあったがまったく気にしなかった。
俺はいじめ反対など言うつもりは毛頭ない。
どんどんいじめられて、どんどんいじめればいいと思ってるよ。
いかにもいじめられそうな陰キャが、逆にネットで他人をいじめるのと同じ。誰にだって裏表はアルカイダ
おーいいじゃんいいじゃんやってんねぇ
同じくらい頑張ってるAさんとBさんがいたとして
【比較1】
みたいな状況だと、Aさんのほうがイケてると思っちゃうし、その反動でBさんがダサく見えてしまうってのは・・・まぁ理解できなくもない。
Aさんは底が知れないというか、まだまだ伸びしろを隠し持ってるように思えるからな。
それでは、ここに新たな設定を付け足していってみよう。
【比較2】
この新たな比較では「頑張ってる感の有無」に加えて「成果の程度」という軸が新たに加えられたわけですが
この場合も「Bさんのほうがダサい」と感じるだろうか?
さらに新たな設定を付け足してみよう。
【比較3】
今回は、比較する人物を追加することで「頑張ってる感の有無」と「成果の程度」の組み合わせパターンを網羅してみた。
Aさん~Fさんをダサい順に並べると、どうなるだろうか?
霧雨の意見を否定する目的で都合のいい設定を追加した、というわけではない点に留意してもらいたい。
場合分けの粒度を上げることによって「ダサいと感じてる対象は何なのか」をより正確に把握できるのではないだろうか。
【比較2】に対する印象によって
いくら成果を上げていようとも努力感が見られればダサく思えてしまうのか?が判明するし
【比較3】に対する印象からは
努力感が見られなければ成果が低くてもダサく感じないのか?が判明するはずだ。
バブル崩壊後の、いわゆるさとり世代・・・およびそれに起因するニヒリズム的な価値感は、多かれ少なかれ現代人の誰しもが抱いている感覚だとは思う。
ただニヒリズムにしても程度の問題で、例えば「FさんよりBさんのほうがダサい」と感じてしまうようであれば、余りにも浮世離れしすぎというか、何かトラウマでも抱えてんのかな?と思います。
あの~・・・俺の書き込みちゃんと読んでます?
離職率についても触れたはずだぞ?
「大学卒業まで等の期限付きでアルバイトする」なんて普通の判断だし
アルバイトを雇用するコンビニ側にしても終身雇用なんて端から前提にしてねーよ
この2つ、どう違うんだ?
コンビニのアルバイトを第一志望に就活する偏差値70overの学生なんて、果たしているのか?
いや、仮にいたとしても、雇う側はそんな想定で求人出してねーよw
もう一度言うけど「あれ持ってない、これ持ってない、それも持ってない・・・」みたいな持たざる者が最終的に消去法で選ぶ職場ってのは、その社会が資本主義である限りは必然的に出てくるんだよ
正社員の面接に受かった、とか
もっと良い条件(仕事内容や給料、家からの距離など)のアルバイトを見つけた、とか
そういう様々な事情で次々と離職していくことを前提にして労働内容や給料が設定されてんだよ
何度も言ってるけど、『それでも求人が埋まりやすい』のが現状のコンビニアルバイトであって、誰でもできると言われる由縁でもあるわけ。
「無期限に継続できてこそ"できる"と言える」っていうお前の意見に従う場合
世の中は「誰にもできない仕事」で溢れかえってしまうわけだが?
さてはこいつ、頑張ってる人を見たことがないな。
ベタすぎるイメージの話ばかりでメディアに洗脳されておるわ。
現実味がないねん。
夢とかアイドルとか。
テレビの見すぎ。
やっとまともな発言が散見されるようになったな
お前らの頑張りに拍手だ
頑張ることがダサいというのはほとんど印象の話
汗水垂らして、何してんの?
夢に向かって本気でぶつかるとか
自分で夢って言っちゃってるし
非常にサムいよね
泥臭いのは見てて恥ずかしい
実りのない努力は、特にね
どんな勝者も、並々ならぬ努力を見せられると途端にダサくなる
アイドルが練習風景見せますか?フツー
「頑張ってる」
仕事で例えると入社3年目で同期入社のAくんBくんがいたとしよう
Aくんが目を瞑ってでもできる仕事をBくんは入社一年生組と共に今頑張って憶えようとしている
残念だけどBくんの頑張りに意味は無い「Bくん頑張ってるね!」なんて言われたらこれは明らかにネガティブな嫌味で言われていると思って間違いない
逆によく今まで辞表を出さなかったか聞きたくなるレベルだ
Bくんのように「頑張る」タイミングが分からない人間は実際にいる
頑張るを手放しで肯定してあげられるのは小学3年生までだ
そこからは早い段階で如何に頑張るかを学ばせなければならない
さて、頑張るという行動自体がダサいのか、それとも頑張らなくてはいけないという状況そのものがダサいのか、またはその両方か。
基本的に、頑張る、という行動は何かしらの不足を補ったり、まだ達成されていない目的を達成するために行われるものだという認識がある(他のパターンを見落としている可能性があるかもしれない為、もしあればご指摘願おう)。
また、何かしらの不足がある状態や、まだ目的が達成されていない状態というのは、悪いものとして扱われることが多い。ただし、これまた例外(ジレンマにおける取捨選択によって許容せざるを得ない不足など)はあるが。
ここで改めて問う。頑張るという行動は本当にダサいのか。自身に不足が存在するのは、確かに悪しきことなのかもしれない。しかし、それを埋め合わせるという行動自体は素晴らしいものではないのだろうか。
確かに、理想として「不足がない状態で頑張らない」というのがあるだろう。それと比較すれば、頑張る、といった行為はあるべきではないものなのかもしれない。悪しきものなのかもしれない。
しかし、当然の事だが、現実において、初めから完璧な人間など存在しない。生まれながらにしてダサいのだ、人は。そのどうしようもない逆境、それを乗り越えようとするその意志、それをダサいと呼んで果たしていいのか。否、断じて違う。不足へのダサいという価値観は持ち合わせても良いと思う、しかし、その不足を埋め合わせようとするその心、それは紛れもない誉れなのだ。
よって、俺は頑張るという行動をダサいとは思わない。
「交通誘導員ヨレヨレ日記」っていう本を見て交通誘導員が誰でもできると思ってる奴がいたら病院に行くことをオススメする
by山田涼介
できるというものは継続できることを意味する。
3ヶ月だから我慢できる、1年なら我慢できる、大学卒業までだったら続けられる。
そんなものはその仕事ができるとは言えない。
できるけどもっとやりたいからこちらに就職する、のではなく、こんな仕事はしたくないと言っているのならそれはできないに等しい。