僕にも、そう思っていた時期がありました。
きっと彼らとは違う星の下に生まれ、一生わかりあうことはできないのだろうと。
そう思いつつも、少なからずそういう人種とも交流していく過程で、ひとつのことに気付きました。
それは…
彼らは意外と、きちんと自分の立場を弁えて、発信する時と場合を選んでいるということです。
なんとも行儀がよいと言える。
それは自覚がありまくるからこそ、ではないでしょうか。
感情をそのまま吐き出してしまうダムのない人のことを、僕は昔から心の中で「オート下痢野郎」と呼んでいますが、それが「公衆の面前で晒すべきではない汚物である」という自覚は備わっていると思います。
だから人を選び、場を選び、時を選ぶ。
たとえば、有名人にクソリプを送る人々は、きっと「自分がまともに相手にされない有象無象に区分されるから大丈夫だ」という自認がある。
ところがいざ晒し上げられ、数の暴力を受けると簡単に死んでしまうのです。
まさしく自覚のなせる技でしょう。
大勢の人に指摘されて気付くわけではない。
最初からわかっているが言われないのをいいことに下心を垂れ流してしまっただけ。
僕は長いことTwitterをやっておりますが、そこで関わっている人種は千差万別です。
喧嘩界という世界に身を置き、過去には言いたい放題つぶやいていたこともありました。
その点、僕のことを良く思わない方々がいるかもしれない。
しかし毛色の違う人間関係に基づくコミュニティに取り囲まれた僕の環境下では
これまでたったの一度もその領域に足を踏み入れてきた人物はいません。
たったの一度もです。
下痢をぶちまけることができない絶対領域。
これを矛として使うと、特定の人物は嫌悪感のあまり離れますし、安易に関わってこようとは思わないでしょう。
僕の精神分析的な批判は心理的に後ろめたいことがあるクソ野郎にしか刺さらないようにできているので、必然的にクソ野郎ではない人しか周りにいなくなります。
なんだこいつ?自分のことを言っているのか?と勘繰ったり、激昂してしまう人は僕に苦手意識を持ちますからね。
しかし反発できない。
クソ野郎とは無縁の人々が防壁になっているんです。
空気の違いというやつです。
分別がつかない人は、同様に他人からの分別をつけてもらうことができず、舐められるので、リプ欄がアンチコメントで荒れたり、炎上したりすることもあるかもしれないですね。
これが公の場で叩かれる人の特徴です。
ヘイトで集めた人気は偏っている場合が多く、またそういうものを好むユーザーも幼稚で低質なものが多いイメージですが、利口な人は悪口ではなくもっと他の表現で賛同や承認を得るでしょうね。
かといって批判そのものが悪いことだとは思いませんし、的確な考えがあるなら、もっとはっきり自分の意見を表明してもいいとすら思います。
よく音楽を政治に結びつけるのをやめろ、とか言われがちですが、日本人の性質として、より無難で耳障りのいい言葉を並べる技術はどんどん進化していますが、体裁を取り繕うことに敏感すぎて肝心の中身がない、というケースも散見されます。
好きなものだけに囲われて生きていたい。
なので嫌いなものに多くの時間を割いている暇はない。
それがまともな考え方だと思います。
でもそうではない人が意外と大勢いる。
これはどういうことでしょう。
バカなのかな。