きっと彼らとは違う星の下に生まれ、一生わかりあうことはできないのだろうと。
僕はそこまでは思ってないですよw
バカにした表現をし過ぎたせいで誤解されてしまったみたいですね。
自分と彼らは、「発達段階」が異なるに過ぎないと考えています。
彼らの多くも、何かしらのきっかけがあれば自分の感情をメタ認知できるようになるでしょう。
>> 5でもぼやきましたが、僕は人と人との間に大した差など無いと確信しています。
前回、分かりやすさを重視して3つのパターンに区分してみましたが、実際には程度問題であり、明確な類型化はできないと思ってます。
そして、彼らが自分の感情に自覚があるか、ないか。
これも程度問題だと思います。
「自分は相手に何らかの感情を抱いている」・・・A
という超絶粗い解像度で自覚しているのか、
「自分は相手のことを不快に感じている」・・・B
というやや粗い解像度で自覚しているのか、
「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」・・・C
という鮮明な解像度で自覚しているのか。
前回は、ネットに悪口を書き込む人間の多くはパターン①だろうと申し上げましたが、より厳密に言うとBの解像度でしか自覚できていない、と解釈しています。
即ち、Cの解像度での自覚がない、と。
以下、僕の仮説です。
Bに該当する人間は、自分が抱いている感情が「不快」であるという自覚はあるものの、その感情のさらに本質については自覚できていない。
その感情の本質が、例えば「envy(羨望)」であると自覚できていれば、その原因は自分と相手の何らかの差異であり、ネットに悪口を書くという手段は合理的な解決法ではない、という違和感が生じる。
したがって、悪口を書くことに抵抗を感じる。
そして、そのように感情の本質、根本的な原因を自覚できている場合にのみ、原因療法が可能となる。
しかし、感情の本質を自覚できておらず、なんとなく「不快」であるというぼやけた自覚である場合、解決のために何が合理的な手段で何が合理的ではない手段なのか、という整理すらできない。
よって、「不快」という抽象的な問題を何とか解決しようと闇雲に手を尽くす。
根本的な原因が分からないのだから、対症療法に頼るほかない。
結果、「不快」という感情がダムによって適正化されることなく、ウンコとなり世界を巡る。
対症療法の一例として、ネットに悪口を書くという手段がある。
ただし、彼らもどのような「行動」が善いか・悪いか、というアウトプットに対する明確な自覚はあるため、TPOは弁える。
しかし、その「自覚」は「行動への自覚」であり、「感情への自覚」ではない。
結論、やはり彼らの多くは「感情への自覚」に欠けていて、
「自分は相手のことを恨んでいる、憎んでいる」
という高い解像度の自覚はできていないのではないか。
以上が、
でもそうではない人が意外と大勢いる。
これはどういうことでしょう。
バカなのかな。
に対する答えになると思います。
バカなんだと思いますよ。
自分の感情の本質を自覚するスキルを身につけられていない、という点で。
嫌いなものを目にしたとき、頭の中に生じた不快感にどう対処したらいいか分からないんでしょうね。
だから、とりあえず周囲の人間に愚痴ったり、ウンコもらしてみたりする。
前澤友作さんのお年玉企画に対して抱いた感情が「envy(羨望)」であるなら、彼のアカウントをブロックするなりミュートするなり、あるいは彼を超えるという目標を持って努力する方が合理的です。
その「不快」の正体が「envy(羨望)」であることに気づけるかどうか、感情の構造をメタ認知によって読み解けるかどうかが、原因療法or対症療法の分水嶺なんじゃないかな~と思います。
他の部分もちゃんと読んでいます。
興味深い内容なので、また別のタイミングで拾うかもしれません。