F22015
2024/10/08 (火) 19:02:10
f1233@bfe59
レジュメ内にあった情状鑑定の事例において、弁護側は鑑定の結果、責任能力ありと判断されたとしてもその責任能力、言い換えればその罪を“どの程度理解出来ているか”に着目すべきという考えが前提にある。それに対し、検察側は責任能力ありと鑑定で出ているのだから罪を理解できる人間である、その上で反省の色が見えない、と罪の理解の“程度”までは前提に置いてないのだな、と感じた。犯した罪が悪い事だと認識しているかは別として(それは責任能力鑑定の範囲)、それが“どの程度である”か測る尺度が仕組みとして組み込まれていないのは深刻な問題であると改めて思った。
例えばコールバーグの道徳性発達理論の、罪と報酬の段階で物事を理解しているのか、普遍的倫理原理の段階で物事を理解しているのかでは、罪に対する意識は大きく異なるだろう。
責任能力あり=反省できるという考え方ではなく、悪い事だと認識はしているけれど、それがどの程度可能であるのか、を考えるためにはシステム論的発想は極めて重要な要素であると感じた。
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測る尺度を設定しろということになると、かえって不自由になると思います。その不自由さを量刑の範囲を広く取ることで軽減し、あとは法曹三者の議論によって決めという形で「測る尺度」としているのだと思います。なんでも客観的に決めない方が私はいいと思っていますが、曖昧さが我慢できない人もいるでしょうね。
コールバーグの学説がみんな納得いくものであれば参照されるかもしれませんが、どうもあれは西洋文化(キリスト教)の影響が強いので日本では難しいかもしれないですね。性差の問題も指摘されているし。
システム論的発想は原因と結果をどう考えるかの発想ですが、あなたは別のことに適用可能性を感じているのですか。
6点差し上げます。