では、再び虚空絵のお話に戻りまして、日蓮大聖人が『呵責謗法滅罪抄』の中で虚空絵の事を次のように紹介なされております。(現代語訳で紹介します)
釈迦仏は妙法蓮華経の五字を四十余年の間、秘密にされたばかりでなく、法華経迹門十四品に至っても、なお妙法五字を抑えて説かれず、法華経本門寿量品にして初めて本因・本果の蓮華の二字を説き顕わされたのである。この妙法の五字を、釈迦仏は文殊・普賢・弥勒・薬王等の菩薩にも付嘱されなかった。地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して妙法を付嘱されたのである。
この儀式は普通の儀式ではなく、宝浄世界の多宝如来が大地から七宝の塔に乗って涌現されたのである。三千大千世界の他に四百万億那由佗の国土を浄め、高さ五百由旬の宝樹をことごとく一箭道に殖え並べて、その宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ、そこへ十方分身の諸仏がことごとく来て坐られたのである。また釈迦如来は、垢衣を脱いで宝塔を開き、多宝如来と並ばれたのである。この姿を譬えれば、青天に太陽と月とが並んだようなものであり、帝釈天と頂生王とが善法堂にいるようなものである。この世界の文殊等、他方の観音等の菩薩が虚空に雲集した姿は、さながら星が空に充満するようであった。
この時、この娑婆世界には華厳経の七処八会に集まった十方世界の台上の盧舎那仏の弟子たる法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土の塵点数の大菩薩が雲集した。更に、方等経の大宝坊に雲集した仏・菩薩、般若経に集まった千仏、須菩提・帝釈等、大日経の八葉九尊の四仏四菩薩、金剛頂経の三十七尊等、涅槃経の倶尸那城へ集まられた十方法界の仏・菩薩を文殊や弥勒等の菩薩はたがいに見知っていて語りあっていたので、これらの大菩薩はその出仕にものなれているように見えたのである。しかし、今この上行をはじめとする四菩薩が出現された後は、釈迦如来にとっては九代の本師で、三世の諸仏の母であられる文殊師利菩薩も、また一生補処といわれた弥勒菩薩等も、この四菩薩に値ったのちではものの数とも見えないほどであった。譬えば山奥のきこりが高貴な月卿等の貴族の中に交わり、また猿が師子の座に列なったようなものである。
釈迦仏はこの人びとを召して妙法蓮華経の五字を付嘱されたのである。その付嘱もただごとではなく、仏は十神力を現じられたのである。釈迦仏は広長舌を色界の頂に付けられたので、諸仏もまた同様にされた。四百万億那由佗の国土の空に諸仏の舌がまるで赤い虹を百千万億並べたように充満したので、実におびただしいことであった。このような不思議の十神力を仏は現じ、結要付嘱といって、法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、わが滅後に十方の衆生に与えよと慇懃に付嘱して、そののちまた一つの神力を現じて、文殊等の自界、他方の世界の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経および一代聖教を付嘱されたのである。
もとより影が身に随っているように仕えていた迦葉・舎利弗等にも、この五字を譲られなかった。これはさて置こう。文殊・弥勒等に対してはどうして付嘱を惜まれるのか。たとえ滅後に弘めるべき器量がなくとも嫌うべきではない、等々不審であるのを、仏はあるいは他方の菩薩はこの土に縁が少ないと嫌い、あるいはこの土の菩薩であるが、結縁の日が浅いと嫌い、あるいはわが弟子ではあるが初発心の弟子ではないと嫌われたので、四十余年ならびに法華経迹門十四品のうちには一人も初発心の弟子がなく、この四菩薩こそ五百塵点劫より以来、教主釈尊の弟子として初発心の時より、また他の仏に仕えずに迹門・本門の二門をふまなかった人びとであると説かれている。
天台は法華文句の九に「但下方より涌出した本化の菩薩の発誓をみる」等。またいわく「これ我が弟子である。我が法を弘めるべきである」と。妙楽は法華文句記に「子は父の法を弘める」と述べ、道暹は文句の輔正記に「法がこれ久遠実成の法であるから久遠実成の人に付嘱する」と述べている。この妙法蓮華経の五字を仏はこの四菩薩に譲られたのである。ところが仏の滅後、正法千年、像法千年、末法に入って二百二十余年の間に、月氏、漢土、日本さらに一閻浮提の内に、いまだ一度も妙法を弘める四菩薩が出現されないのはどういう事なのであろうか。正しくもお譲りになられなかった文殊師利菩薩は、仏の滅後四百五十年までこの娑婆世界におられて大乗経を弘められ、そののちも香山、清涼山から度度来て、大僧等となって法を弘められた。薬王菩薩は天台大師となり、観世音菩薩は南岳大師となり、弥勒菩薩は傅大士となった。迦葉・阿難等は仏の滅後二十年、四十年法を弘められた。