法介の『ゆゆしき世界』

虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦ / 19

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法介 2023/10/12 (木) 09:59:08

お釈迦さまが五百塵点劫の久遠より呼び寄せた四菩薩(地涌の菩薩)について大聖人は『開目抄』の中でも次のように表現なされております。

「其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・大日経等の金剛薩タ等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば獼猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず」

[現代語訳]
釈尊にとっては、第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。

大地が裂け、その中から涌き出てきた上行菩薩はじめ無量千万億の地涌の菩薩は、「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」と『従地涌出品第十五』には記されています。体が皆金色で、三十二相を具え、無量の光明を放っていたそうです。これは仏と等しい悟りを得た菩薩の最高位である「等覚の菩薩を意味しています。

法華経本門において五百塵点劫より呼び出だされた「等覚の菩薩」は、菩薩でありながら仏である、「九界即仏界」の十界互具の姿でした。

「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」

の『開目抄』の御文が示すところです。

その菩薩でありながら「仏」の「九界即仏界」の上行菩薩に対し、お釈迦さまは、

「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」

(我もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず)

と、仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の姿が示されています。仏界と九界とが、かけ離れている爾前迹門の「厭離断九の仏」ではなく、九界の中に仏界を具そくする十界互具の「菩薩」と、仏界の中に九界を具そくする十界互具の「」であるから、寿量品の仏「久遠実成の釈尊」も、久遠から呼び出された上行菩薩も、どちらも「本仏」と成り、本来ならば仏から仏へ成されるはずの結要付嘱の儀式が、仏から上行菩薩への付嘱として説かれています。

この虚空絵の「九界即仏界」「仏界即九界」の結要付嘱の儀式で真の十界互具が示されます。

そして、仏が究極の覚りを得た「本因」と「本果」がこの虚空絵の儀式で「本因本果の法門」として説き明かされていきます。

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