『法華経』迹門ではここまでが説かれております。
しかしこの迹門の法門にはある重大な欠陥が含まれております。
それは、法華経を読誦して発芽する仏種が自身の阿頼耶識に備わっているか否かという問題です。
解りやすく言えば、過去に実際に仏の説法を聴聞した記録(記憶)が自身の阿頼耶識に刻まれているか否かという事です。阿頼耶識には全人類の壮大な記録が蓄えられております。その中から末那識の「俺が俺が」の自我意識が自身の記憶を拾い上げ、その業が七識を転識させていきます。良い業であればよい方向に転識し悪しき業であれば悪しき方に七識は転識します。
この阿頼耶識には全ての人類の行いが業として蓄えられておりますのでその阿頼耶識の蔵の中には「仏と仏弟子達」の修行の因も、その報いとして得られる果徳も、仏種として備わっております。しかしそれを拾い上げる「縁」が末那識の「俺が俺が」の自我意識なのですから、過去に仏と縁が無い「俺が俺が」の自我を「縁」としても仏種による七転識は残念ながら起こりません。
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