『法華経』の本門で「五百億塵点劫」が明かされ、お釈迦さまは実は久遠において既に成仏の覚りを得ていた事が明かされます。その「五百億塵点劫」についての研究論文の中に、
三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について― 野坂 教翁
https://gakurin.ac.jp/wp-content/pdf/17/「三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について―」.pdf
という「野崎論文」があります。
論文の中で「久遠本仏」と「大日如来」との勝劣が述べられております。
久遠本仏と大日如来との勝劣に関し、法身仏・無始無終である大日如来に対して久遠本仏は三身の無始無終であって諸経に説かない、と述べられている。即ち久遠本仏は三身即一であり、更に法華経の説く五百塵点は無始無終と考えられていたことも看取できる。
『法華真言勝劣事』
問て云く大日経の疏に云く大日如来は無始無終なりと。遥に五百塵点に勝れたり。如何。答ふ…諸大乗経に之を説く。独り大日経のみに非ず。問て云く若爾らば五百塵点は際限有れば有始有終也。無始無終は際限無し。然れば則法華経は諸経に破せ被るるか如何。答て云く…今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終也。三身の無始無終に非ず。法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破したる五百塵点也
また『開目抄』では、応身報身の顕本は法華経でのみ説くと述べており、報身を正意としていることは明らかである。
『開目抄』
其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず久遠本仏が三身即一・報身正意である理由を述べると、一点目として上冥下契が挙げられる。報身仏による自行があって初めて、法身である真理に到達することが可能であり、応身となって示現することで初めて衆生を教化することができる。もし報身仏が三身の主体でなければ、換言すればもし法身が三身の主体であれば、真理は真理のままであって応身が示現することも無い。報身を実体として三身を具足するからこそ三世に亘る衆生教化が可能である。二点目として自行の成道がある。寿量品の文「我実に成仏してより已来た久遠なること斯の如し」より、仏は久遠本時に成道した、と説かれている。この文から報身仏が主体であり法身に境智冥合したと考えるべきである。もし法身が主体であればそもそもこの成道自体が不要であるので本地の開顕、寿量品自体が方便と見做されることとなる。よって法身正意ではなく報身正意といえるのである
一方、久遠本仏における三身の寿命については『一代五時鷄図』にて全て無始無終と明記している。後述する図を見れば明らかであるが、始成正覚の仏の三身において応身・報身は有始であるが、久遠本仏の三身において三身ともに無始無終となる。
応身―有始有終
始成の三身 報身―有始無終
法身―無始無終 (真言の大日等)
応身―無始無終
久成の三身 報身―無始無終
法身―無始無終