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哲学的雑談

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このトピックでは主に哲学的な話を行います。
暴言は禁止。ルール守れない人ポアします。
モラルとマナーを守って好き勝手語りましょう。

KANAME
作成: 2019/05/31 (金) 00:23:12
通報 ...
1
Brahman079 2019/05/31 (金) 00:24:07

徹夜で哲学、テツヤは黒子より金八先生

2
Brahman079 2019/05/31 (金) 00:29:40 >> 1

かなめっちの持論、テーマに期待

3
詠み人知らず 2019/06/05 (水) 23:00:06

最近ちょっと触れる機会があって、頭の中でまだわりと鮮明な状態で残っているので雑にシェアしておきます。
哲学的かどうかは知らん・・・っていうか哲学って何?(哲学的)

デュルケームの社会学と割れ窓理論

デュルケームというのはフランスの社会学者です。参考(Wikipedia)

この人は「社会学的方法の規準」というタイトルの著書を遺していて、その中ではかなり幅広く色んな事が述べられてる。時代が古いだけあって今となっては当然だと思われてるような内容(自殺には種類がありますなど)も結構あるけど、特筆すべきは「社会的事実という概念」を定着させたことだろうか。

そして今回はデュルケームの思想の中から犯罪についての部分をピックアップしてざっくり紹介します。
文献が手元にあるわけじゃないので、内容は俺の記憶を文章化したものです。


デュルケームが言うには、犯罪を根絶することは1つの例外的ケースを除いて不可能であるらしい。
そして「犯罪が起こっている状態こそが健全だ、健全な社会には犯罪が必要不可欠だ」とも言っている。
ちなみに例外というのは法の消滅。銃刀法がなければ銃刀法違反者は発生し得ないんだから、まぁそりゃそうだわな。
法が存在しているから犯罪が存在する、犯罪が起こっている社会こそ健全な社会であるというのが彼の考えだ。

じゃあ、もし仮に悪人を全て逮捕したら?犯罪件数はゼロにり根絶が達成されるんじゃないの?
って話なんだけど、どうもそうはならないらしい。

例えば詐欺の件数をゼロにするために全ての詐欺師を逮捕したとしても、新たな詐欺師はどこからともなく出現するんだよ。
人間のどのような心理が働いた結果として犯罪者が発生するのかはさておき、とにかく「既存の法の下で詐欺を行う人間が発生した」という社会的事実を鑑みるならば、同じ法のもとで新たに詐欺師が発生するのは必然的なんだ。

では詐欺の件数を減らすためにはどうすればいいのか?
その答えは「罪の対象を拡大する」だ。
具体的に言うなら、ただ詐欺を取り締まり続けるだけではなくて摘発の対象をもっと広げなければならないらしい。
例えば「嘘をついてはいけない」みたいな、詐欺罪の枠の外・・・その隣に位置するような行為を新たに罪として認定する必要があるということ。
殺人事件を減らすために銃刀法を施行するような感じだ。

そうするとどうなるか?
詐欺の件数は減るだろう。でも今度は「嘘つき罪」を犯す人間が出てきてしまう。なので犯罪件数は減らないし、場合によっては増えてしまったりもする。

同じような理屈で、根っからの善人ばかりが集まった社会があったとしてもやっぱり犯罪は起こってしまうらしい。
その善人社会においては求められる社会規範が超高水準になってしまうため、人前で屁をこいたら犯罪とか、ネクタイが曲がっていたら犯罪とか、善人社会はそういう方向に伸びていくことになるんだとさ。
(俺たちが生きている今の世界も、外の世界から見れば十分に異常だったりするのかもしれない)

割れ窓理論

参考(wikipedia)

割れ窓理論というのはアメリカの犯罪学者ケリングによって考案された理論で、こちらも犯罪に関する内容だ。
sikasi

4
詠み人知らず 2019/06/05 (水) 23:03:01 >> 3

マジかよ途中で送信しちゃった💢💢💢
一気に気力失ったから続きはもういいや・・・ごめんよ

デュルケームだけでも十分味すると思うので興味あったらうまい具合に話題広げてくれると報われます

5
くろまめ 2019/06/05 (水) 23:07:43

すごい星新一的なストーリーを感じる

こう考えると社会が犯罪者と呼ばれる人々を作りたがってるようにも思えるなぁ

6
KANAME 2019/06/05 (水) 23:07:49 修正

>> 4

こんなこともあろうかと投稿の時間のところを押せばなんと修正できちゃうぞ。修正マークと修正時間はついちゃうけどね?よかったら使って。

7
KANAME 2019/06/15 (土) 06:08:17 修正

>> 3

YouTubeに夢中でこのトピックの存在を忘れてました。
すみません。

いや嘘です。
記憶の片隅にはずっとありました。
すみません。

デュルケームの社会学

まずひとつ、疑問に思ったのは
法がなければ犯罪は存在しないというものです。
これ自体に異論はないのですが…
法がなくても「罪の意識」ってのはあるんじゃないかなって思います。

たとえば、いち個体が別の個体を殺るなど
仮に無法地帯であったとしても
相手が抵抗する以上はそこに摩擦が生じるはずです。

あるいは、近親相姦。
なぜか血の繋がりのある人物とセックスしない。
もちろん性癖が偏ってる人はいるかもしれませんが
基本的にみなさんヤりませんよね…。

これ、「やっちゃいけない」という社会的なルールの存在以外に何か根源的な禁忌の存在を感じずにはいられないんですよね。

次に、犯罪をなくす方法について。
詐欺にしろ人殺しにしろ、そこに共通して言えることがあるとすれば、「価値観の違い」というものが根底にあると思います。
つまり、欲求と規律、どちらを優先するかという話です。

たとえば

  • 嘘つきは犯罪
  • ネクタイが曲がっていたら犯罪

のような善人社会があったとしましょう。
そもそも、なぜそれらが犯罪だと思うのか。
悪とは何か。
その構成要件は何に基づいているのか。

そういったことについて掘り下げ、「理解する」ということが仮に全人類にできたとしたら…

「あなたはそう思う。でも私は逆でこう思う。それはこのような理由があるからである」

と認識の相違について解説することができるようになり、無矛盾性を与えられますよね。
つまり、別々の価値観が「衝突しようがない」という意味で犯罪が起きにくい社会を目指せるかもしれない…ということです。

これによって「宗教観の違い」についても、解決できる可能性があります。
さまざまな考え方があることを理解すれば、ある意味では受け入れることは可能なのではないかと。
禁煙者と喫煙者が店内で住み分けされているように。

割れ窓理論

深読みしてたらすみません。
自分たちが隠居した後の喧嘩界ディスってます?w
誤解がないように言っておくと、そういうブラックジョークは全然このトピックでしていただいて構いません。
余裕で許容範囲内です。

で、例のWikiによると…
心理学者のフィリップ・ジンバルドは実験結果から以下のようなことを言ってますね。

「人は匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。」

なるほどなるほど。
こりゃあまさしく…
コンプラのようではありませんか。

ここができてから、他の場所のように落書きの埋め立て地にならないのは、やっぱりなんだなんだ民度が高いからですね。
そんなに大量の書き込みなど最初からまったく求めておらず、どちらかと言えばクオリティを重視していきたい自分としては今くらいがちょうどいいです。

話が逸れました。
この話で逆に気になるのは、自己規制意識を高く設定できる人のほうですね。
たとえば、チュウゴシさんは、喧嘩サイト以外のパブリックなネット上で喧嘩の話題を出すことはまずしないでしょう。
それはあなたがこういった場所とそれ以外を明確に分けているからだと思います。
一方で、私はあえてそういう話題を出してしまう(ありとあらゆる価値観をクロスオーバーさせる)特殊性癖の持ち主ですが、意図的ではなく、脳からオートで言語が出力されてしまう人というのが一定数いますね。
なぜ自分はそうならなかったのか、考えたことあります?

また、喧嘩においてもそれは顕著にあらわれています。変な話ですが、お互い対立の関係にありながらそこについて共通認識があり暗黙の了解としている。
これは喧嘩に限らずですね。普段の対人関係においても、そういった信頼に値する価値観への相互理解というものがあると思います。
あいつに任せておけば、いちいち煩わしい説明を行わなくても、きちっと仕事をこなしてくれる。自分がよく気付くポイントや重視している点について確認漏れはしないだろう、と。

長くなりましたがこんなもんでどうでしょう…。

9
詠み人知らず 2019/06/23 (日) 18:08:28 >> 7

>> 7
仕事と遊びに夢中でこのサイトの存在を忘れてました
すみません

いや嘘です
記憶の片隅にはずっとありました
すみません


◆罪の意識について

遺伝子的に相互補完関係が強い相手が放つフェロモンは特に魅力的に感じる・・・みたいな話はよく聞くけど、逆パターンの親近相姦についてはどうなんだろうな
自然界においては、イヌネコ然り、他にも代表例としてハムスターなんかは平気で近親繁殖しまくるし、かくいう俺自身も「その相手が近親関係だと知らされていない」って状況下なら全然イケちゃう気がする
俺は異性の兄弟姉妹がいないので想像の話になっちゃうけど、そういうの本能的に察知できる自信ある?
俺は無い・・・カワイければ尚良しまであるw

殺しとかに関しても、人類史をさかのぼれば人間をモノとして扱う奴隷制度なんてものが当然のように存在してたわけだ
根源的な罪の意識や拒否感・忌避感といったものも土台としてあるにはあるのかもしれないけど、後天的に刷り込まれる社会的価値観によって容易く上書きされるものだと俺は思う


◆割れ窓理論

当初は尾崎豊ネタでも添えようかなとか思ってたけど、ブラックジョークみたいな意図は一切ないw
>> 3は粗相しちゃったけど、本来あとに続く内容としてはデュルケームの社会学と比較するつもりだった

割れている窓があると治安が悪くなるという割れ窓理論、内容としては「通り魔が出てしまう前に窓を直せ」みたいなもんで、通り魔を減らすためには割れた窓を放置することを法で禁止(法を厳重化)すべきだというデュルケームの考えと一致している部分もあるんだけど
デュルケームが社会的事実を軸にして現象と向き合っているのに対して、割れ窓理論の趣旨はどちらかというと自己規制意識などの心理学的な領域に腰を据えているという違いがあるんだ

窓が割られていたりゴミがポイ捨てされているのが視界に入っていると、引ったくりや車の窃盗などより重度の犯罪を試みる人が現れやすくなる・・・といったように、割れ窓理論では犯罪の重大性として『小→大』の流れを見ているのに対して、デュルケームは法の整備(秩序の水準)が進めば進むほどネクタイの曲がりなどが取り締まられるようになる『大→小』の流れを見ている
社会的事実を軸にするか心理的要因を軸にするかによって、似ているようで似てない異なる毛並みが出来上がってるわけなんだ

別々の価値観が「衝突しようがない」という意味で犯罪が起きにくい社会を目指せるかもしれない

ネクタイの例は俺のオリジナルでデュルケームが直接そう言ってたわけじゃないんだけど
結局のところ彼の考えとしては、ネクタイが曲がっている人を見かけた善人社会の人々は「何てことだ、我々の社会の秩序が脅かされている!」と危機感や憤りを感じることになるんじゃないかなと思う
それこそ俺たちが飲酒運転しているドライバーを見るような目でね

衝突を避けることが出来ればあるいは相手を受け入れることもできるかもしれないけど、その『許容』ってのはデュルケームが言うところの「犯罪抑止の放棄」であって、割れ窓理論が言うところの「割れた窓の容認」に当てはまっちゃうのが厄介なところで、その辺のジレンマはやっぱり背負わざるを得ないのかもな・・・

長くなりましたがこんなもんでどうでしょう

途中で送信したまま投げっぱなしの話題拾ってくれてありがとうw

10
KANAME 2019/06/30 (日) 07:54:28 修正

>> 9

まあお互いまったりやっていきましょう。
チュウゴシくんはLETの掲示板にも遊びに来てくれてたと思うけど
そこでいつだか俺が話していた内容をひとつ。

やっぱり「罪の意識」について言及するなら
「アダムとイヴ」の神話が思い浮かんでしまう…。


創世記

旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという。
 
この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎を置いた。
 
その後、アダムは930歳で死んだとされるが、エバの死については記述がない。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。
 
17世紀のイギリス人作家ジョン・ミルトンは、この物語をモチーフにして『失楽園』を書いている。

禁断の果実

禁断の果実(きんだんのかじつ、Forbidden fruit)とは、それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象になるもののことをいう。
 
メタファーとしての「禁断の果実」という語句は、旧約聖書の『創世記』をもとにしている。創世記では、禁断の果実とは、善悪の知識の木の果実を指す。アダムとイヴはエデンの園にある果樹のうち、この樹の実だけは食べることを禁じられるが、イヴはヘビにそそのかされてこの実を食べ、アダムにも分け与える(イブが先と書くのは旧約聖書においてであり、イスラム教のクルアーンにおいてはどちらが先に口にしたかは書かれていない)。この果実を口にした結果、アダムとイブの無垢は失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになる。これを知った神は、アダムとイブを楽園から追放した。彼らは死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなる。

原罪

原罪(げんざい、英語: original sin, ラテン語: peccatum originale)は、キリスト教内の西方教会において最も一般的な理解では、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。
 
ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「いわゆる原罪」の概念を採る説もあるが、多数派はそのような見解を否定する。
 
現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある。しかし、西方教会内でも教派ごとに様々な見解がある。
 
また正教会では、原罪についての理解が西方教会とは異なるのに止まらず、そもそも原罪という語彙自体が避けられる場合もある。正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること(教義化)を避けて今日に至っている。

引用文献


人から聞いた話で恐縮だけど、一説によると(Wikipediaには記載されてないけど)
ここで言う「禁断の果実」ってのが「言語」のメタファーとして解釈されていて
人間は「言語」の構造によって身に起こるさまざまな現象を仕分けることで「概念」として捉えるという…
そういう考え方があるそうだ。

で、宗派や学派によって解釈の仕方はいろいろあるんだけど
この物語について共通して言えることは
とりあえず最初の人間であるアダムとイヴの行為が
「原罪」のようなものにあたると考えられているってことだ。

しかし

  • 「原罪」という表現が適切かどうか
  • この罪が全人類に及ぶかどうか

については、ずーっと前から物議を醸しているみたい。
俺個人の解釈としては、どっちかっていうと
後者の「この罪が全人類に及んでいる」なので
この考え方を前提に話を掘り下げていきたい。
※「全人類」について「言語の機能が正常に動いている者」と定義するね。


文脈が多岐にわたるので一度整理し直すけど…
要するに

神様「この気になる木の実は食っちゃダメだからもし食ったら楽園追放な!」

って忠告してたのに蛇にそそのかされて食べちゃったと。
そんで「失楽園」したと。

では「楽園」とはなんだったのか。
それはまさしく本能によって淡々と生きる自然界(動物の世界)のことだったのではないかと。

つまり…

言語を持たない種族に概念化はできないので喜怒哀楽もクソもないという意味のパラダイス

…を失った、と考えることができる。
そして人間は否応なしに言語に依存し、何かしらの「意味」を追い求めながらも
言及不可能という自己矛盾を孕んでしまう結果となっている。

この状態をドストエフスキー風に言うと「罪と罰」なのかもしれないし
ニーチェに言わせれば「神は死んだ」のかもしれないし
ウィトゲンシュタイン曰く「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」のかもしれないし
般若心境を唱えるなら「色即是空 空即是色」になるのかもしれないし
エヴァンゲリオンで言うと「人類補完計画」でL.C.Lへ還元(液状化)されるのかもしれない。

いずれにしても、人間の行動原理は象徴秩序に支配されているのではという話。
>> 7で言った「根源的な禁忌」とは、言い換えれば「規律」を優先したい「欲望」によるものではないのかと。

ご飯を食べる前に「いただきます」と言わないと何か釈然としない気持ちになるのと同じように
「家族と認識している人とセックスしたくない」のもまた
俺たちが産まれる前から人間社会に根付いている固定観念を無意識に選択してしまっているからでは。
このへんはラカンとかフロイトの領域(精神分析)になると思うけどめんどくさいので端折ります。
(気が向いたら書くかも…)

自然界においては、イヌネコ然り、他にも代表例としてハムスターなんかは平気で近親繁殖しまくる

だからこそ、野生のライオンが、死にぞこないの獲物相手に我慢するということはありえないと思うんだよね。
人為的に調教された忠犬ハチ公でもない限り。
遺伝的にプログラミングされた行動パターンにどこまでも忠実なのが一般的な動物だと思ってるけど、そこを超えてくるのが人間っていうイレギュラーな生命体だとして、人間には人間の、種族単位で一括りにできない固有の行動パターンがあるんじゃないか?ってこと。
それに起因しているのが「罪の意識(言語会得)」によるものなんじゃないのかなぁと。
ゆえに無駄な争いや犯罪が絶えず、なかなか平和が訪れない。のかもしれない。

かくいう俺自身も「その相手が近親関係だと知らされていない」って状況下なら全然イケちゃう気がする
俺は異性の兄弟姉妹がいないので想像の話になっちゃうけど、そういうの本能的に察知できる自信ある?
俺は無い・・・カワイければ尚良しまであるw

でもその相手が兄弟姉妹に瓜二つだったらどうだろう。
その既視感に嫌悪感抱くと思うけどな。
少なくとも俺はそう。

またこの既視感や固定観念ってのは
人以外の対象にもさまざまな形で無意識に意識しちゃってると思うよ。
それこそ掲示板の無作為な書き込み、文字列に対して嫌悪感を抱くとか。


ネクタイの例は俺のオリジナルでデュルケームが直接そう言ってたわけじゃないんだけど
結局のところ彼の考えとしては、ネクタイが曲がっている人を見かけた善人社会の人々は「何てことだ、我々の社会の秩序が脅かされている!」と危機感や憤りを感じることになるんじゃないかなと思う

この話で俺が言いたいことは
価値観を相対化すれば考え方の違いに「理解が示せる」「納得がいく」という意味で
たとえ危機感や憤りを感じたとしても形而上の問題なら解決するのでは、という…。


ブライト 「アムロ、貴様なぜ自分の任務を果たそうとしないんだ?」

アムロ 「ブライトさんはなんで戦ってるんです?」

ブライト 「…今はそんな哲学など語っている暇はない。立てよ、おい!」
 
(中略)
 
アムロ 「あっ… な、殴ったね」
 
(中略)
 
アムロ 「…二度もぶった。親父にもぶたれたことないのに!」


殴られたら物理的に痛いし…
生きるか死ぬかのDo or Dieという有事では、ブライトさんの言うとおり哲学はクソの役にも立たない。
しかし一人ひとりが平時のうちに意識を変えれば、万が一にでも全人類が意識を変えたら…

そういう可能性を『ペイ・フォワード 可能の王国』にちょっと感じたけどな。
観たことなければおすすめするよ。
まさしく「割れ窓理論」の反作用みたいな映画だ。

衝突を避けることが出来ればあるいは相手を受け入れることもできるかもしれないけど、その『許容』ってのはデュルケームが言うところの「犯罪抑止の放棄」であって、割れ窓理論が言うところの「割れた窓の容認」に当てはまっちゃうのが厄介なところで、その辺のジレンマはやっぱり背負わざるを得ないのかもな・・・

これを考えるにあたっては、昔NHKで放送してたハーバード白熱教室の高級な「喜び」 低級な「喜び」がいい線いってると思う。
ジョン・スチュアート・ミルの功利主義が元ネタだけど、わかりやすくまとめてくれてるブログの記事もあるので、それぞれのリンク先から暇なときにでも覗いてみて。

11
詠み人知らず 2019/07/15 (月) 02:22:59 修正 >> 10

LETの記憶がないので「またその説明させるの?」とか「前回と言ってること違うぞ!」とかあるかもしれないけど、今回の話を聞いて俺の頭に浮かんだ関連ありげなピースを(パズル形式は無視して)雑に並べてみる

  • 人間は言語を習得することで様々な事象の概念化に成功した
  • 罪や禁忌などの感情もそのとき生まれた
  • 人間である以上は、その罪の意識と向き合って生きていかなければならない

つまり、もし仮にある日とつぜん地球上の全人類が言語を忘却したら、争いや暴行や殺人などの件数が増えたとしても無秩序というわけではなくなる
あるいは、言語を忘却するのではなく、逆に活用しまくって概念化をトコトン突き詰めていくことによっても無秩序化を抑止することはできる

・・・ってことかな?
確かに一理あると思う

マルチリンガルの人は、話せる言語の種類と同じ数の人格を持つ多重人格者だということが社会言語学的に判明してたりもするしな
例えば「侘び寂び」なんてのは日本特有の概念で、英語にはそれに該当する言葉が存在していない
英語で書き表すならsimple and emotionalとかになるんだろうけど「感情的な質素さ」と言われてワビサビのイメージを想起することは、けっこう無理がある
英語話者が「真の侘び寂び(Wabisabiではない)」を概念レベルで理解するためには日本語を習得するしかないのかもしれないし、われわれ日本人がangerとfuryとrageの違いに戸惑うのに似ているかもしれない

というわけで

ちなみにペイフォワードなら5億回は観た。いい映画だよね・・・
ジム・キャリー主演の『イエスマン』もかなりペイフォワードチックな内容で、すこぶる心が洗われるよ


また、西洋の神話になぞればアダムとイヴに紐づくのかもしれないけど
仏教的に言えば「禅と悟り」を原罪からの脱却と捉えることが出来そうだ
※仏教的には原罪なんてないけれどね

座禅して
ひたすら集中して
心の中を無にして
悟りをひらく

これってつまり「意識をアニマル(アダム&イヴ)レベルにしましょう」ってことなのかもしれない


と、ここまでは宗教に敬意を払って弁神論っぽい姿勢を見せておきながらも、宗教的な寓話について俺はかなり懐疑的な考えを持っていたりもする
語弊を恐れず言ってしまうならば『時代遅れ』感が拭いきれなくなってきている

宗教の起源ってのは、未知の出来事を理解するために生み出されたものだと近代では言われるようになってきている
火山の噴火だとか洪水だとか落雷だとか流行り病だとか、そういう理解できない出来事について
西洋風に言えば『神の意志、神が与えた試練』ってな感じで
東洋風に言えば『ばちが当たった』といったところだろう

「なぜ空は青いの?」
「なぜ地球は丸いの?」
「どうしてぼくは生まれてきたの?」
「なんでホタルすぐ死んでしまうん?」
少し知恵を持ち始めたこともは、好奇心を爆発させて「なぜ?どうして?」と色んな事を知ろうとするわけだけど
当時の人たちは今の俺たちからすると子供のようなもので、そういう人たちに向けた『子供向けの説明』こそが宗教的寓話の役割なんだ
未知を排除することが主目標で、可能な限り解明された事実を述べはするものの、未解明の部分についてはその場しのぎの納得で誤魔化している
人々が不安になってしまわないようにね

あなたが生まれたのは神の意志である
あなたが病気を患ったのも神の意志である
病気が治ったのも神の意志である
医者が頑張ったからだって?その医者と巡り会えたのは神の意志だよ
病気を治せず死んでしまったとしても、それも神の意志だ

うん・・・

アメリカで小さな子供たちを対象にとある実験が行われた
Q.この湖は波ひとつ立たない静かな湖です、どうしてだと思う?
 1.動物たちが安全に水浴びできるように波が立たない
 2.その湖は河と繋がっていないので波が立たない

こういう質問をしたところ、回答に(1)を選ぶ子供が圧倒的に多かった(ナショジオか何かで紹介されてた気がする)
物事には何かしらの理由がある、何かしらの意図が介入していてそうなっている、と無意識のうちに判断する子供が大半だということらしい
また、子供に限らず大人であっても目的論じみた説明のほうがしっくり腑に落ちることも珍しくはないだろう

ということは『未知』の水準を高めればいいのか?
不完全性定理に基づけば、未知の事象が尽きることはない
数学や科学や物理学など自己完結的な論理体系では公理が必要となるため、領域外の全てを説明づけることはできない
『神の意志』を介入させる余地そのものは残るかもしれない


『臨界点』という言葉がある
臨界温度を超えた水は気化するとか、そういう物理学的な意味も勿論あるんだけど
「ある対象が存続するために必要な条件」にも、臨界点があるんだ

フィーリング重視で伝わりやすそうな例を挙げるならこれとかを見ると分かりやすいかもしれない
左右にスライドする台の上に置かれた複数のメトロノームが、やがて完全に同期する現象だ

今回は言語や宗教について話したけれど、言語や宗教にも臨界点というものがあるはずで
アイルランド語なんかは消滅危機言語に指定されていたりもするし、いちど発生したのちに消えてしまった宗教や消える寸前の宗教なんてのも大量にあることだろう
いま世界は空前の無宗教ブーム(?)に差し掛かろうとしている
独自のタイミングで独自のリズムを刻んでいたメトロノームがやがて独自性を失い同期するのと同じように
今のところメジャー扱いされているキリスト教とかも、そのうちアイルランド語みたいなポジションになって、やがては消えていくのかもしれないね


とりとめがなさすぎる感じで色んなこと雑に並べちゃったけど
部分的に拾ったり繋げたりあるいはスルーしたり、自由に利用してくれると助かります

12
野良 2019/07/28 (日) 03:02:18 037c3@be086

大変興味深いお話をされていて参加したくなったので、横から失礼します。

月刊老年チュウゴシさんは宗教的な寓話に懐疑的な考えをお持ちとのことですが、僕も懐疑的に考えている、というよりも神は存在しないと考えています。

神が存在するか否か、という議論をするうえで重要となる争点の一つに、創造論vs進化論があります。
この争点は、生物は何らかの目的があってつくられた(目的論)vs物理法則に従って自然発生した(原因論)という対立として見ることもできます。
月刊老年チュウゴシさんが湖の例で示されていた二つの選択肢と同様の関係ですね。

少し具体的な話をしますが、ほぼ全ての生物に共通する、セントラルドグマと呼ばれるシステムがあります。
DNAからコピーをつくり、コピーを基にタンパク質をつくるシステムのことですね。
なぜこのシステムが多くの生物に共通しているのか?
進化論者は、多くの生物には共通の祖先が存在するから、祖先が持っていたシステムを引き継いでいるのだ、と説明します。
創造論者は、共通の創造主が存在するから、同一のシステム設計でつくられたのだ、と説明します。

なるほど、創造論者の解釈も筋が通っているように見えます。

セントラルドグマの例に限らず、様々な事例に関して創造論者は現代科学と反する解釈をしていますが、いずれの解釈も完全には否定できないものばかりです。
特に、始祖鳥が現生鳥類の直接の祖先であるか否か、という争点では創造論者が勝利し、現在では始祖鳥は鳥類の仲間という位置づけとなっており、「現生鳥類の直接の祖先ではない」との結論が出ています。

個人的には、「意識(主観)はなぜ存在するのか?」という問いに関して、創造論者サイドに圧倒的なアドバンテージがあると考えています。
進化論者が言うように、物理法則に従い、無機物がくっついたり離れたりして複雑化してできた結果が我々人類なら、意識(主観)は進化のどのタイミングで発生したのか?
僕が知る限りでは明確な答えは出ていません。というよりも、意識(主観)の存在を科学的に証明することが極めて難しいため、答えを出す見通しすら立っていないのが現状でしょう。
しかし、創造論者は、それは主が我々一人ひとりを愛し、魂を与えたからだ、といったような答えを持っています。

さて、お二人に「意識(主観)はなぜ存在するのか?」という問いについてご意見を伺いたく存じます。
KANAMEさんはキリスト教の教義に深い見識をお持ちのようですので、創造論サイドの考え方なども教えていただけると幸いです。もちろん、それ以外でもご意見がありましたらお聞かせください。
月刊老年チュウゴシさんは無神論者のようにお見受けしますが、この問いについてどのようにお考えでしょうか?

話の流れの一部だけを抽出してしまい恐縮ですが、お時間のあるときによろしくお願いします。

13
詠み人知らず 2019/08/01 (木) 17:21:35

>> 12
はいはーい、初めまして

無神論者というか、宗教によって体系化された「お手本通りの神」を信じているわけではない・・・というだけであって、神(的な存在)そのものは「ある」と思ってますよ

と、いうか「神はいる(ある)」ということを絶対的な前提として強く強く仮定したうえで「だとしたら、自分にとっての神って一体どんなのだろう?」と考えれば誰しもが神を得られると思ってるし、そういう意味では無神論者ってのは神という単語にアレルギー起こしてるだけじゃないのかな、とさえ思ってたりします

というわけで、俺にとっての神とはどのようなものなのか・・・というのを言葉で定義づけるのはとても難しいけれど、少なくとも創造主でもなければ十字架に貼りつけられてもいない、白人でもないどころか人類ですらないかな


🔶信仰と科学について

目的論vs原因論という構図は、少し視点を変えれば信仰vs科学にもなるし、観念論vs唯物論になったりもします

例えば科学は、目に見える数値やデータ、根拠や証拠を重要視する客観的な学問で
それに対して宗教や信仰ってのは数値やデータとして可視化できず証拠のない内容であっても真実として扱う主観的なもの
一見するとこれ等は対極に位置する相容れないもののように思えるし、世間一般ではそのように捉えられている節も多々あったりするけれど、実際のところ、この両者間にはそれほど大きな垣根ってないのでは?と俺は思ってる

ロミオとジュリエットが愛し合ってた物的証拠はあるのだろうか?
あの話はフィクションだ~とかそういうのはさておき、2人が愛し合っていた証拠なんて無いし、科学的に証明することはできない
科学的に言えば「愛し合っていたかもしれないし、愛し合っていなかったかもしれない」という結論が真として扱われる
様々なエピソード(状況証拠)をもとにして「恐らくジュリエットは悲しみにより自死を選んだのだろう、そう仮定するならば、恐らく2人は愛し合っていたのだろう」という仮定的な結論くらいしか出せないだろう

では、三角形の内角の和が180度であることの物的証拠はあるのだろうか?
自然数に自然数を加算した解が自然数であることの物的証拠はあるのだろうか?
a=bであるときb=aであることの物的証拠はあるのだろうか?
そんなものは無い、三角形の内角の和を証明することはできないし、自然数+自然数の解が自然数になることも、a=bであるときb=aとなることも証明することはできない(できない...よな?)
科学的な学問は、その論理体系内における「公理」を無根拠に信仰しているだけなんだ

目に見える数値やデータを重要視する科学でさえ、ある種の信仰をもとにしなければ成り立たず「この仮定が真であるならば、こういう定理が立つ」という結論しか出せないんだ
それを踏まえると、もはや宗教的分析と科学的分析のあいだにそれほど大きな垣根なんかないのでは?と俺は思ってるし
「神はいる(ある)」を公理として信仰すれば神の存在を証明することもできちゃったりすると思ってます


🔶意識(主観)はなぜ存在するのか?

進化論者が言うように、物理法則に従い、無機物がくっついたり離れたりして複雑化してできた結果が我々人類なら、意識(主観)は進化のどのタイミングで発生したのか?
創造論者は、それは主が我々一人ひとりを愛し、魂を与えたからだ、といったような答えを持っています。

科学的に言うなら

  • ある特定の物質が特定の物理運動を起こしたとき、特定の器官において生理的現象(意識)が発生する
  • その現象が「現象そのもの」を認識するために必要な物理的条件(量や規模など)をxとしたとき、xが閾値を超えるものは意識を持ち、閾値を下回るものは意識を持たないことになる

みたいな感じでは?

で、創造論的に言うなら

  • ・・・という法則が成り立つ世界を創造主が創造した

この文言が末尾に追加されるだけなのでは?

これは一種の[隙間の神]ってやつではあるけれど、未知の出来事を説明するために(とにかく安寧を得るための納得至上主義として)宗教が活躍し発展してきた・・・という宗教が本来持っている歴史的背景を踏まえれば、隙間の神の考え方にそれほど反感や違和感を覚えることもないはず

それと、アドバンテージって表現を使ってるけど、科学は神を否定しようとしているわけではないよ
優秀な科学者であればあるほど「科学とは単なる観察結果でしかなくて、絶対的なものではない」という科学的わきまえは備えている
科学が発展するにつれて神の不在をほのめかす状況証拠が1つまた1つと積み重ねられているように感じるかもしれないけれど、むしろ、科学が発展してDNAのようにより細かくより深い分野に足を踏み入れることで、この世界に存在している謎はより一層の神秘性を帯びてきていると思わないだろうか?


ちなみに、つい去年の出来事だけど[ダーヴィンの進化論はかなりアヤシイ]みたいな発表がされてたりするよ
アメリカとスイスの大学が共同でDNA調査したところ、現存する生物種のDNAは20万年くらい前にスッ・・・と出現していて、中間種にあたる存在は確認できなかったらしい

進化論的に言えば、ジュラ紀出身(1億5千年前)の始祖鳥が小型化したり羽が発達したり多様な変化を遂げたのち、適者生存で生き残りやすい機能(より速く飛べる、など)を備えたDNAがより多く子孫を残した結果として今の地球にいるハトになったりカラスになったりした・・・って感じなんだろうけど
phys.orgが報じた内容では「カラスになりつつある始祖鳥」みたいな中間種は確認できなかったらしくて
もしかして、俺たちが野菜やチワワや錦鯉を品種改良しているのと同じ感じで、20万年前に俺たちを種族として創造したヤツラがいたりするのか?みたいな説まで飛び交うようになって、学会規模で「とりあえず一旦無視しようぜ・・・」って流れになっちゃうほど大混乱寸前だったらしい

14
パルス 2019/08/01 (木) 21:25:00

文章にしたものだけが「法」だと思ってそう。。。。

15
野良 2019/10/18 (金) 01:24:27 037c3@be086

詠み人知らずさん

ご無沙汰しております。
というか度を越えたご無沙汰ですみませんでした。w

詠み人知らずさんのような優秀な方の意見を聞ける機会は貴重なので、
今後もお相手いただけると幸いです。

🔶信仰と科学について

さて、本題ですが、
神に関する詠み人知らずさんの意見は概ね理解できました。
公理と同じように「神はいる(ある)」を前提とすれば、あらゆる科学の隙間を説明することができると。
科学が隙間を完全に埋めるにはまだまだ時間がかかりそう(多分永遠)ですし、詠み人知らずさんが仰るような広義の神は否定できないかもしれませんね。

ちなみに、僕がアドバンテージという表現を使ったのは、神vs科学という構図についてではなく、あくまで創造論vs進化論についてです。
この二つは一般的に二律背反と考えられていて、互いに否定しようとしています。
そして、創造論も進化論も、科学的根拠に基づいて主張がなされていて、科学が進化論サイドだけに味方をするということは今のところないと思います。
科学はときに創造論サイドに味方し、その結果、前レスでお伝えした始祖鳥の争点のように勝利することもあるのです。

🔶意識(主観)はなぜ存在するのか?

詠み人知らずさんは、「意識が発生する」と「意識を持つ」を使い分けておられるようですが、それぞれ以下のような解釈で合っていますでしょうか?

 意識が発生する =神経が興奮する
 意識を持つ   =「神経が興奮した」ことを認識する

解釈が間違っていたら適宜修正願いたいのですが、
詠み人知らずさんは「意識」というものを、神経の興奮状態を監視する「脳の中央監視室」のように解釈しているのではないでしょうか。

 xが閾値を超えなければ、神経が興奮するだけで、中央監視室には興奮状態が報告されない。
 xが閾値を超えると、神経が興奮するだけでなく、中央監視室には興奮状態が報告される。

詠み人知らずさんがこのように考えているのであれば、
一連の現象が起きる生物体は、哲学的ゾンビでもよいのではないでしょうか?
と問いたいです。
「脳の中央監視室」=「意識(主観)」である必然性はないのでは?
脳のなかに実際にあるかどうか分かりませんが、神経の興奮状態を認識すると反応する脳の領域があった場合、
その領域=「脳の中央監視室」ということでも、一連の現象が説明できると思うのです。

意識(主観)は必要なのでしょうか?
現時点での詠み人知らずさんの説明だと、意識(主観)が存在しなければならない論理的必然性を示せていないのではないか、と思います。

以上、詠み人知らずさんの意見を勝手に妄想しながら話を進めましたが、
この行為の目的は、僕が疑問視しているポイントの輪郭を伝えることです。
なんとなぁ~く、僕の疑問を感じ取っていただき、ご返信いただければ幸いです。

・・・教えていただいた記事、拝見しました。
ヤバいっスねぇこれ。
昔、ID論者から似たような妄想を聞いて、なに白昼夢みてんだと思いましたが、
正夢になりうる事実が浮上するとは。

僕としては、この世界が、善行が必ずしも報われない世界である以上、
進化論みたいな無慈悲なモデルのほうが納得できるのですよねえ。。。
当該記事が、測定ミスとかそういう理由で間違いであることを願います。アーメン。

16
詠み人知らず 2019/10/19 (土) 00:32:06 >> 15

お久しぶりです
期待に沿えるかどうか分からないので、あんまり買い被らないでね・・・


中央監視室ってのがよく分からないけど

  • xが閾値を超えなければ、神経が興奮するだけで、中央監視室には興奮状態が報告されない。
    xが閾値を超えると、神経が興奮するだけでなく、中央監視室には興奮状態が報告される。
  • 神経の興奮状態を認識すると反応する脳の領域があった場合、
    その領域=「脳の中央監視室」ということでも、一連の現象が説明できると思うのです

この表現に倣うのであれば、意識ってのは「報告されるという現象の名前」って感じかな
仮に哲学的ゾンビが存在するとしたら、中央監視室は機能してないことになるね
そして、個人的には哲学的ゾンビって(定義にもよるけど)実在しないだろうと考えています

というのも、自我(意識や感情など)って経験により構築されてると思うんだよ
高層ビルの屋上から地上を覗き込んだとき、虫や小動物なんかは恐らく恐怖なんて感じないだろうし
ハイハイできるようになったばかりの赤ちゃんなんかも平気な顔してると思う
ビルの屋上で足ガクガク震えさせたり冷や汗かいたり腰抜かしたりするのって
ある程度の知性と経験が備わって「ヤベェ危険だコワイ」と認識できるようになった生き物だけなのでは?

哲学的ゾンビってのが「有機的には人間だけど恐怖などの感情を持ってない存在」を指すのであれば
そいつをビルの屋上に立たせても足ガクガクさせないと思うんだよな

目の前にいる人物が哲学的ゾンビかどうか判別する難易度の高さばかり注目されてるけど
そもそも人間って有機的な面で個体差あるし
『あなたは人間が持ちうる全ての感情をもれなく備えていますか?』って聞かれたとき
Yesって答えられる人いなくね?誰しも欠落してる部分あると思うよ
例えば事故か何かで脳に損傷を負って恐怖心を失ってしまった人は足ガクガク震えないわけで
恐怖を感じてないのに足ガクガクさせるって、それもう人間には本来備わってない新機能だよ

17
野良 2019/12/07 (土) 20:20:54 037c3@be086

詠み人知らずさん

師走の候、巷では風邪やインフルエンザが流行っているようですが、
詠み人知らずさんはお元気でお過ごしでしょうか?僕は風邪です。

風邪を引くと、普段仲の良い人だけでなく、色んな人が声をかけて下さりますよね。

「大丈夫ですか?」
「お大事になさってください。」

季節とは裏腹に、とても温かい言葉だと感じます。

しかし一方で、ひねくれ者の僕はこうも感じます。

彼らは本当に心配してるのか・・・?
マスクをつけた知人が視界に入ることをトリガーに、上記の定型文を機械のごとく吐き出すルーチンが脳内に常駐してるだけじゃないのか・・・?

本当は心配してないけど、心配してるようにふるまうことで人間関係の円滑化を図る。
こういうのは何とも合理的で、人間的ですね。

しかし、心配以前にそもそも感情が存在しないのに、心配しているかのようにふるまう・・・
そんな人間がいるとしたら、詠み人知らずさんの想定する哲学的ゾンビに該当するのでしょうね。

哲学的ゾンビの一般的な定義(僕の前レスもこの定義に準拠)は、
「物理的に私(意識をもった存在なら何でもいい)と同一でありながら、まるっきり意識体験を欠いている誰か、あるいは何ものか」(提唱者、D.チャルマーズさん曰く)
ですね。

つまり一般的には、感情がない人間ではなく、意識体験がない人間が哲学的ゾンビだということですね。
僕の前レスでいうところの「意識(主観)」がない人間とイコールだとご認識下さい。

詠み人知らずさんの足ガクガクの例で言うと・・・

人間は高層ビルの屋上から地上を覗き込んだとき、地上との距離などの視覚情報を得ますね。
視覚情報は視神経を通過して脳に伝達されます。
このとき、脳内では恐怖を司る神経伝達物質(ノルアドレナリン等)が分泌され、
物理的に「恐怖を感じている状態」が形成されます。

しかしこの際、恐怖の意識体験(クオリアと読み替えても可)が生じる必然性があるとは言えません。

我々には実際に、恐怖の意識体験が生じ、ゾクっ🙀とする感覚がありますが、
哲学的ゾンビにはその感覚がないのですね。
この点が、我々と哲学的ゾンビとの違いですね。

ただし、哲学的ゾンビも物理的には“恐怖を感じている”。
だから、彼らにも足ガクガクさせるに至る物理的条件が揃っているのです。

まあ・・・「感情」というものを意識体験ありきで定義するなら、哲学的ゾンビには感情がないと言えるのでしょうが。

以上、哲学的ゾンビの定義の確認でした。


・・・これまでの雑談のなかで、僕は「意識(主観)はなぜ存在するのか?」という疑問を呈してきましたが、
僕が疑問視しているポイントとはまさに、

しかしこの際、恐怖の意識体験(クオリアと読み替えても可)が生じる必然性があるとは言えません。

この点です。

ビルの屋上から視覚情報を得ることで、神経系に電気信号が流れたり、情報伝達物質が分泌されたりします。
・・・で、それらの現象が起きたらなぜ意識体験が生じることになるのでしょう?

現代の科学者たちの一部はこの問いについて、「神経科学が進歩したらハッキリするっしょ!!😊
との見方を示しているそうです。
詠み人知らずさんはどのような見解をお持ちなのか、お伺いしたいです。
(あるいは、今聞いてこう感じた、とかでも良いので)


仮に哲学的ゾンビが存在するとしたら、中央監視室は機能してないことになるね

「中央監視室」=「意識(主観)」である場合は、その通りだと思います。
しかし、「中央監視室」=「(神経の興奮状態を認識すると反応する)脳の領域」である場合は、その通りではないと思います。

後者の場合、体の各種感覚神経から集まった興奮状態に関する情報が、脳の特定の領域によって中央集権的に監視されます。このとき、一連のメカニズムのなかで登場する事物は、各種感覚神経・脳などであり、意識体験は介在する必要がありません。
後者の場合であれば、意識体験が介在せずとも、詠み人知らずさんが想定されている(と思われる)モデルは成立すると思うのです。

・・・ちなみに、以下を詠み人知らずさんのモデルとして扱っちゃってます。

xが閾値を超えなければ、神経が興奮するだけで、中央監視室には興奮状態が報告されない。
xが閾値を超えると、神経が興奮するだけでなく、中央監視室には興奮状態が報告される。


(以下、参考程度です。)

脳のなかに実際にあるかどうか分かりませんが、神経の興奮状態を認識すると反応する脳の領域があった場合、

前回、詳細まで紹介すると長くなるかなぁと思って省きましたが、
これ、部分的には実在するようです。

ブラインドサイトという障害があります。

一般的に視覚障害の原因として、眼球や視神経の機能不全などが考えられますが、
ブラインドサイトは「見えていることを認識するための脳の領域」の機能不全によって引き起こされる特殊な視覚障害です。

ブラインドサイトの人は視覚障害であるにも関わらず、ボールを投げられたときにうまく避けることがあるそうです。
なぜ避けたのか本人に聞くと、「分からない」と答えるのだとか・・・。
彼の脳は常に視覚情報をしっかりキャッチしているのですが、キャッチしていることを認識できないため、彼の視界には何も映っていないのです。

この障害の存在によって、「視神経の興奮状態を認識すると反応する脳の領域」が存在することが示唆されますね。


P.S.なんだか妙に気分が乗ったので長文を書いてしまいましたが、詠み人知らずさんはご気分に合わせた文章量でご返信いただければ幸いです。
体調を崩しやすい季節ですが、お体に気をつけてお過ごしください(本心から、願ってます!)。

18
詠み人知らず 2019/12/08 (日) 16:32:07 >> 17

これはこれはご親切にどうもありがとう。
心配してもらった直後に言いづらいんだけど、実は先月の下旬ごろ、約2年ぶりに風邪こじらせてしまって点滴チューチューしてた感じです。
子供の頃さんざん泥だらけになって野生児のように遊んでた貯金が辛うじてまだ残っているのか、普段の免疫力は人一倍って感じなんだけど、いちどダウンすると信じられないほど悪化しちゃうタイプなんだよな。
感情や合理的判断のこもった人間的な気遣いとして受け止めさせてもらいます😏

というわけで哲学的ゾンビに関してですが
「感情がない人間」と「意識体験がない人間」の差異がいまいち把握できてない感じです。
もし可能ならズバッと言っちゃってください。
責めるような批判的な文章になっちゃう・・・みたいな遠慮はしなくてOK。
浅学を暴かれる覚悟はできてます。

簡単に言ってしまうと『物理的に同一であるならば、同じ刺激に対し同じメカニズムで反応し、同じリアクションを出力するはずでは?』というのが俺の考えの根幹にありまして。
>> 13から引き続き、原因論&唯物論に寄った考え方です。

つまり、同じ分量の同じ素材を同じ工程で調理したら同じ味の料理ができあがるはずで
「食塩を使ってません、でも食べてみると同じ味がします」みたいな場合は、食塩の代わりとなるカリウムなり何なりが投入されているはずでは?ということです。

意識体験がない(クオリア未搭載)にもかかわらず一緒に泣いたり笑ったり怒ったりできる何者かがもし仮にいたとすると、そいつには『意識に替わる何らかの特殊な機能』が備わってるとしか思えないんだ。
ブラインドサイトになぞった言い方をするなら、ブラインドフィーリングって感じかな?

それがどんな機能で、どのようなメカニズムが代替的に機能することで『見分けがつかないほどの人間性を再現』できているのか・・・については、確かに「科学が進歩したらハッキリするっしょ!!😊」としか言えないけど
裏を返せば、科学が進歩さえすれば「意識体験の有無」の識別も可能になると思うし、そのとき判明するのは「物理的な非同一性」だと思う。


zawazawaアカウントを使ってる場合、レスアンカーを向けられたらヘッダー部分に未読件数の通知が表示されるので気付きやすくていい感じです。
もしよろしければ次回からはアンカー付けてもらえると助かります。オナシャス

19

心配してもらった直後に言いづらいんだけど、実は先月の下旬ごろ、約2年ぶりに風邪こじらせてしまって点滴チューチューしてた感じです。

えぇ!?ヤバ!!
風邪でそんな状態になることあるんですね・・・(心配より驚きの感情が先行)
ご無事で何よりです。たまの休日には泥遊びをして貯金残高を増やしてくださいね。

「感情がない人間」と「意識体験がない人間」の差異がいまいち把握できてない感じです。

ビルの屋上から地上を覗き込んだとき、ゾクっ🙀とする感覚、ありますよね。
詠み人知らずさんはその感覚を「(恐怖の)感情」と呼んでいるのかもしれません。

では、

🔴

この丸、赤いですよね。詠み人知らずさんは今、「赤いという感じ」がしていますか?
その感じを「感情」と呼びますでしょうか?

一般的には感情とは呼ばないかと思います。
感情とは一般的に、外界刺激に対して起こる、快・不快 好き・嫌い 恐怖 怒りなどのレベルの気持ちを指すものであり、
赤色を見たときに生じるような「意識体験」はレベルが異なる概念かと。

「感情」という言葉は「意識体験」という言葉に比べて定義が非常に曖昧で、
その点が哲学的ゾンビを定義するうえで誤解を招きかねないと思います。

例えば、

恐怖を感じてないのに足ガクガクさせるって、それもう人間には本来備わってない新機能だよ

この一文。
哲学的ゾンビには確かに恐怖の「意識体験」はありませんが、物理的には「恐怖を感じている状態」が形成されます。
したがって、物理的現象の連鎖によって足ガクガクという物理的現象につながる可能性が考えられます。

哲学的ゾンビには恐怖の「感情」がない、と曖昧に解釈してしまうと、
 恐怖の「意識体験」もないだろうし~😑
 物理的に「恐怖を感じている状態」も形成されないんだろうな~😟
 だから足ガクガクさせることもないんだろうな~😖
といった具合に誤解を招くことが想像できます。

以下のように整理できるかもしれません。

 「(詠み人知らずさんの考える)感情がない」
  =「心的世界の感情(意識体験)がない」+「物理的世界の感情(神経伝達物質等)がない」

哲学的ゾンビは、上の式でいうところの「心的世界の感情(意識体験)がない」人間です。


「食塩を使ってません、でも食べてみると同じ味がします」みたいな場合は、食塩の代わりとなるカリウムなり何なりが投入されているはずでは?ということです。

クオリアを食塩で例えているのですね。実に面白い・・・(CV:福山雅治)
詠み人知らずさんが唯物論者的であることがよく感じられます。

上記の例と人間の話、決定的に異なる点があるかもしれません。
それは、上記の例は「物理的世界だけで完結している」という点です。(味だって心的世界の意識体験だ!💢みたいなギャグは勘弁してくださいw)

物理的世界と心的世界(意識体験)、二つの世界があると考えることができます。
哲学的ゾンビの思考実験で、人間から取り除かれるのは「心的世界」のみです。
つまり、料理から食塩を取り除いた場合と異なり、物理的世界からは何も取り除かれないのです。

すべての因果が物理的世界だけで完結しているなら、心的世界なんて無くていんじゃね?

というのがこの思考実験の肝なのですよ。


詠み人知らずさんは、意識体験は物理的世界の一部で、物理的世界に何らかの影響を与えている、
と考えておられるようですね。

確認したいのですが、意識体験は物理的現象だと思いますか?
また、どのような物理的現象によって意識体験が生じるのか、という点は今後の科学に任せるっちゃ!!😡というスタンスでしょうか?


レスアンカーの件、教えていただきありがとうございます!

20
詠み人知らず 2019/12/10 (火) 00:12:25 修正

>> 19

点滴っていうと「入院にリーチ状態」みたいな深刻なイメージあるかもしれないけど、風邪やら何やらの症状を即座に回復したい時わりと便利なんだよ。
毒の状態異常にかかったとき毒消し草を使うんじゃなくて宿屋に泊まっちゃう感じのいわゆる贅沢療法なので、あんまり心配しなくて大丈夫だよ。
ちなみに二日酔いも秒で治ったりするぜ(生涯で一度だけ、二日酔い解除するために点滴もらったことがある・・・)


哲学的ゾンビは、上の式でいうところの「心的世界の感情(意識体験)がない」人間です。

何となく話の輪郭はうっすら見えてきた気がするんだけど
やっぱり考えれば考えるほど唯物論的なイメージが頭の中で立ち塞がってきてしまう。

心的世界の感情、🔴を見たときの赤いという感覚・・・
それらも物理的世界で完結できるような気がしてしまう。

特に具体的な根拠もないし、心的現象の発生源の究明についてはまさに「今後の科学に任せるっちゃ!!」って感じだけど、>> 13で言っていた

  • ある特定の物質が特定の物理運動を起こしたとき、特定の器官において生理的現象(意識)が発生する
  • その現象が「現象そのもの」を認識するために必要な物理的条件(量や規模など)をxとしたとき、xが閾値を超えるものは意識を持ち、閾値を下回るものは意識を持たないことになる

この考え方にどうしても行きついてしまう。
物理的な法則に反した心的現象は果たして起こり得るのか?ってのがものすごく疑問で、仮にそれが起こり得ないのであれば、心的現象も物理法則が働いた結果として出力される物理的リアクションの一種に過ぎないと考えられるし、極端に言えば遠い未来に人工知能がものすごく発達したとしたら彼らも心的世界を会得し得ると思う。

「情報」と「概念」の違いだったりするのかな?
siriやpepperなんかは高度な電卓にすぎない、もっと極端に言えば道端の石と同じだ。
ヤツら機畜は🔴を見たとき「700nmの波長」という情報の入力を受け取り「赤い丸です」と出力するだけで、そこには情報しかなく概念は存在しない。蹴られたら転がる石と同じ。
じゃあ概念はどうすれば習得できるのか?というと『700nmの波長が入力されたとき「赤い」と分析してる自分自身』を自分自身で認識する機能が糸口になると俺は思ってる。

人間の赤ん坊って生まれて間もない頃は自我がないらしいんだよ。
へその緒を切られて、母親から物理的に独立して、それでも赤ん坊は母親と同一の存在のつもりでいるらしい。
自我の有無についてはミラーテスト(鏡に映る像が自分だと理解できるかを観察する)って手法で判断してる。

で、成長の過程で「どこからどこまでが自分」で「どれが母親」なのか、そして「自分でも母親でもない残りの奴ら」など・・・を段階的に習得していく。俺たち人間でさえ、そこでようやく自我が芽生え始めるって話だ。自我を習得する機能は先天性だとしても、習得そのものは後天的に行われるんだよ。
そのために必要となるのが『「現象そのもの」を認識するために必要な物理的条件(量や規模など)をxとしたとき、xが閾値を超えている状態』ってな感じに考えております。
人工知能もいつの日か自我やクオリアを持つ日が来ると思う。


というか、俺たちは「意識」という現象を過剰に神聖視しすぎているのではないだろうか?

例えば、CV:福山雅治にあやからせてもらうわけですが
福山雅治になりたくないですか?
あの理想的な顔と容姿で、福山雅治として人生を謳歌したかった・・・って思ったりしませんか?
しますよね?分かります。

で、もし神様が魔法の杖を振って俺と福山雅治の意識が入れ替わったとしても、俺は入れ替わった事にさえ気付けないわけじゃないですか。
なんせ記憶をつかさどる脳みそごと入れ替わっちゃう訳なので、「俺の意識」が「福山雅治と物理的に同一の身体」を手に入れたとしたら、それはもうシンプルに福山雅治でしかないと思うんですよ。恐らくは入れ替わる直前までしていた行動をそのまま引き継いで、何もなかったかのように行動することでしょう。
君の名は?とか言ってる場合じゃないと思うんですよ。

そうなってくるともう、テレビに映ってる雅治って実質俺じゃないですか。
厳密にいえば「福山雅治になりたいという願いを見事に達成した俺」がテレビに映ってるのと同じじゃないですか。
違いがあるとすれば、テレビを見てる俺とテレビの中にいる俺とのあいだに自我の境界線があることくらいだ。
次から俺のことましゃって呼んでもいいよ。


・・・っていうくらい唯物論は俺の中で堅固な地位を築き上げてます。

余談散りばめまくって風呂敷も広げまくってしまったけど
関心ない部分はポイしちゃってOKです

21
名前なし 2019/12/11 (水) 00:35:14 ab276@f031d

>>ましゃ
意識が物理的世界で完結してるはずなら入れ替わったらなんか違い出てきそうじゃね

22
野良 2019/12/11 (水) 01:58:34 037c3@be086

>> 20

ちなみに二日酔いも秒で治ったりするぜ(生涯で一度だけ、二日酔い解除するために点滴もらったことがある・・・)

マジっすか!これは良いライフハックを聞いてしまった。
これで飲酒をセーブする必要なくなったぜ!ありがとうございます!!


ましゃ(詠み人知らずさん)の文章前半に「~しまう」という表現が見受けられることから、ましゃは僕が提示した二元論的世界観(物理的世界と心的世界はありまぁす!)に対する共感を試みるも今一つ共感しきれない、という心境なのでしょう。
しかし、それはマーシーが完成度の高い唯物論的世界観のなかで生きているからなのだろうと思います。

対して僕はマサシと違い、唯物論的世界観を持ちながらも、この世界に「主観」が存在することにどうしても納得がいかないのです。

この世界のあらゆる物理的現象は、僕たちの主観を通じて観測できるように思います。
等加速度運動であれば、視覚を通じて。ドップラー効果であれば、聴覚を通じて。

では、他者の「主観」は?

電子顕微鏡でしか観察できないノロウイルスも、今年撮影されたブラックホールも、
かつては主観を通じて観測できなかったものが、科学の進歩とともに主観を通じて観測できるようになってきていますね。

では、他者の「主観」は主観を通じて観測できるようになるのでしょうか・・・。

なーんか、そこだけ異次元的で、物理的世界の例外みたいな気がしちゃうのですよねえ。。。

でも、田代さんはそんな気は別にしないのですね・・・。


赤ん坊のくだり、めちゃめちゃ参考になりました。
が、疑問が二つ。

今さっき調べて知った概念なのですが、僕らが「意識」と呼んでいる概念は以下の二つに細分化できるそうです。(詳細はこちら)

 ・現象的意識 ・・・クオリアのことであり、その意識内容が報告できるかどうかには直接関係がない。
           多分、詠み人知らずさんの言う「意識が発生する」に相当。
 ・アクセス意識・・・他者に報告できる意識内容。多分、詠み人知らずさんの言う「意識を持つ」に相当。

例えばですね、ハシカンとカフェでデートするとします。
詠み人知らずさんは1000年に1人のご尊顔に釘付けで、ハシカンの見目麗しさの理由について夢中で分析するわけです。デート後、詠み人知らずさんが僕に報告できるのは、詠み人知らずさんが必死で注視していたハシカンの唇に関する情報だけです。

詠み人知らずさんの「アクセス意識」にのぼっていたのはハシカンの艶やかな唇のみで、ハシカンの背後に実は僕が座っていて、どれほどニヤけ顔で詠み人知らずさんを観察していたか、なんて毛ほども詠み人知らずさんの記憶に残っていないわけです。
しかし、「現象的意識」にはしっかりと僕の30°に吊り上がった口角が映し出されていたのです。

・・・この二つの区別、詠み人知らずさんの区別と違ったら、適宜詠み人知らずさんの区別のほうに置き換えて読み進めてくださいね。とりあえず、説明するうえで使い勝手の良い単語が欲しかっただけなので。


しますよね?分かります。

無論です。
テレビドラマ「ガリレオ」で共演していた柴咲コウさんには、エンディングテーマ「KISSして」で「恋するクチビル」って歌ってるときに僕の唇を想像しながら歌ってほしいですからね。
そして願わくば、彼がそうしていたように彼女の上唇・下唇を交互に僕の唾液で湿らせたいものです。

(余談ながら、個人的には必ずしも福山雅治さんになりたいとは思いません。これは意地を張っているわけではなく、幸福観の話です。ただ、この場で話すと会話の流れが過度にカオスになってしまうので別の機会に提示しようかなと思います。ちなみに、意地を張っているわけではありません。)

・・・なるほど、ましゃの唯物論的視点からの「意識」に関する解釈は理解できました。

だとすれば、ましゃはあのましゃであり、さらに言うと僕もましゃであると。
そして、今こうして僕たちましゃ同士が直接コミュニケーションをとっていること、これは映画「君の名は。」のラストシーンで階段の上から瀧くんが三葉に直接声をかける感動的邂逅そのものであるというわけですか。
何て絵にならない邂逅なんだ・・・

23
詠み人知らず 2019/12/11 (水) 06:15:33 >> 22

そうだなぁ・・・共感できなくもないんだけど・・・やっぱり唯物論的な解釈のほうがしっくりくる感じです。

>> 13で持ち出した『隙間の神』にもうっすら関係してくるんだけど、いわゆるオッカムの剃刀ってやつで
ご存知かもしれませんが念のため意訳しておくと「同じ結論を示す理屈が複数ある場合、最も簡単な理屈がより正しい」みたいな思考法のことです。

【俺たちには主観があり、自我があり、意識体験がある】という結論を示す複数の仮説のうち

  • 身体を構成する物質の物理的な反応により、結果的にそれらの現象が生じている(原因論)
  • 創造主的な何者かが非物質的なシステムを仕込んだ(目的論)

この2つを比較すると、マッサシの剃刀的には前者のほうがより正しい感じがするとましゃは考えています。
まぁ、何だかんだ言ってそこには「しっくりくる/こない」程度の差しかないわけで
もしかすると、単に無意識のうちに未知に対する安寧を求めて剃刀にすがってるだけかもしれませんが😅


他者の「主観」は主観を通じて観測できるようになるのでしょうか

この問題に対しても同様に唯物論的な解釈をぶつけてみるのであれば
自分と他者の関係は「ネットワークに接続されていない2台のパソコン」のようなものかもしれません。

他者のパソコンのスペックは、そのパソコンを細かく分解すれば判明します。
でも、分解するだけではHDD内にどんなエロ画像が保存されているのかは分かりません。
自分のパソコンの画面にマーシー秘蔵のエロ画像を映すには、何らかの手段でネットワークを構築する必要がありますよね。

パソコンを接続する場合、手っ取り早いのは有線接続です。
自分の脳みそと他人の脳みそを神経で繋いじゃえばいいわけです。

こんな不思議な話があります。
要点を抽出すると

  • 右目がとらえた映像は左脳に届き、左目がとらえた映像は右脳に届く。そして言語や会話を管理しているのは左脳である。
  • 右脳と左脳が分断されてしまった人の左目(右脳)だけに🍔を見せても、その人は自分がいま何を見ているのか答えることができない。なぜなら、脳が分断されているため言語を管理する右脳に🍔の映像が届かないからだ。
  • そして「それを右手で食べていいよ」と言ってあげたら何の支障もなくきれいに平らげるのだが、「左手で食べて」と言った場合、左手はむなしく宙を切る。なぜなら左手は左脳が管理しているが、左脳は🍔を目視できていないからだ。

これって、脳みその物理的な分断にともなって現象的意識も分裂してしまったと見なせないかな?
たぶん左耳(左脳)にしか聞こえないように「これ食べたい?」って尋ねたら、左目でハンバーガーを目視しているにもかかわらず「え?どれ?何の話?」ってリアクション取ると思うんだよ。
一種のキングギドラ状態だ。

また、キングギドラと言えば結合双生児・・・つまりブンカー兄弟やベトちゃんドクちゃんですが
彼らは任意で身体の主導権をやり取りできるらしい。
そしてクリスタ&タチアナのホーガン姉妹のペアは脳の一部分ごと絡み合ってる頭部結合という非常にレアなケースなのですが、それぞれ別の人格を持ったうえで思考や感情を共有し、クリスタがタンスに足をぶつけたらタチアナも痛がって、タチアナの目に映ったものはクリスタも認識できる。おまけに言葉を交わさずにジョークを言いあったりもするらしい。
視界どうなってるんだろうね・・・

24
重力おにぎり 2019/12/11 (水) 14:19:36 f22ab@ec9d4

双子ちゃんのじゃんけん永遠あいこや2人独自の双子語なんてのも不思議だね

25
野良 2019/12/11 (水) 16:27:18 037c3@be086

>> 23
なるほど・・・
この世界の99%の事象を物理法則で説明できるのに、1%だけ説明できないっていうのは剃り残しのごとき不快感があると。確かに。
それは全身脱毛したくなる気持ちも分かります。


パソコンを接続する場合、手っ取り早いのは有線接続です。
自分の脳みそと他人の脳みそを神経で繋いじゃえばいいわけです。

おお・・・!
実は、前レスを書いているとき、途中まで僕も全く同じアイデアを書いていました。
僕はニューロンのBluetooth機能と書いてましたが。
なぜ投稿前に当該内容を削除したかというと、
それって一つの主観を拡張してるだけじゃね??」と思ったからです。

例えば、猛獣が闊歩する危険なサバンナに超絶有能な詠み人知らずさんと超絶無能な僕が背中合わせで立っているとします。
超絶有能な詠み人知らずさんにとっては、
「やべぇ、こいつ(野良)マジ使えねぇ・・・猛獣が来ても即時報告してくれるか心配だわ・・・😨
と気が気じゃないわけです。
そこで、お互いの脳内にあるニューロンのBluetooth機能をONにすると、詠み人知らずさんの主観にはたちまち僕の目から見える光景が映し出されます。
ヒトの視野角は水平方向で200°程度だと言われていますが、Bluetooth機能によってなんと360°見えるようになるわけですね。
詠み人知らずさんは「よっしゃ、これでどこからライオン来ようがゲットなんやぜ!!👹」とマサイ族よろしくピョンピョコ飛び跳ね、マサシ族としての矜持(様々な)をアフリカの大自然に見せつけるのです。覚醒剤所持を疑いますね。

このとき、詠み人知らずさんと僕の主観は共有されるわけですが、
詠み人知らずさんの立場から言えば、視野角が200°→360°には広がったものの、
「僕の視界が広がったかどうか」は分かり得ないわけです。

結局、僕に「主観があること」は詠み人知らずさんの主観では観測できませんよね。


ホーガン姉妹の例にも同様のことが言えます。

自分の顔の隣にくっついている顔の目から見える光景が、自分の主観に映し出されていることから、
「クリスタ(あるいはタチアナ)も同じ主観を持ってんねやろな~👯‍♀️」という予想は彼女らにできるものの、
同じ主観であるという保証はないわけです。

🔴←クリスタにはこう見えているものが、
🔵←実は、タチアナにはこう見えているかもしれません。

その可能性を否定できませんよね。
なぜなら、他者の「主観」を観測できないから。
ホーガン姉妹のように、それぞれが違う自分の身体を持っている、という非対称性があるならなおさら。

それにしても、一体どんな五感になってるのか気になりますね・・・。
クリスタがカレー食ってる傍らでタチアナがウンコ食ってた場合、
夢のウンコ味カレーおよびカレー味ウンコが同時に完成するというのでしょうか・・・。(ホーガン家の皆様、本当にすみません・・・w)


お手数おかけしますが、前レスの疑問②にだけはご回答いただきたいです。。。
自分事で恐縮ですが、自分が現在最も関心を持っている点なので・・・。

一応、再掲しておきます。

僕は基本的に筆者優位の考え方なので、
読者が理解できなかった場合は筆者が悪い、と考えてます(勿論喧嘩の場合は別ですが)。
なので、質問の意図がわかんねーよ!という場合は遠慮なくお申し付けください。

26
詠み人知らず 2019/12/12 (木) 02:08:54 >> 25

広げまくった風呂敷のうえで居眠りしちゃって申し訳ない。
ひとまず優先事項(疑問②)から見ていきます。

「アクセス意識の発生」⇒「自我の習得」、前者ができたから後者ができるという因果関係があると考えておられるように解釈できるのですが、どのように因果関係があるのか

因果関係というわけではないのですが、そのほうが剃り残しは少ないよねって感じです。
われわれ人間においてアクセス意識の発生と自我の習得がどのような順序で起きているのか、その実際のところについて素人の俺は「科学者ガンバレ~」としか言えませんが、人為的な手段で人工知能に自我を搭載させようとするならアクセス意識の構築が先立つのではないかな?とは思っています。
唯物論的な視座から創造論の受け入れを試みてる感じですかね。

>> 20では哲学的ゾンビのローエンドモデルとしてsiriやpepperの機畜に登場してもらったわけですが、「現象的意識しか持っていない存在」って端的に言ってしまえば電卓や路肩の石ころと同じだと考えています。

  • 1のキーを押下されたら液晶部分に1と表示する電卓
  • 蹴飛ばされたら運動エネルギーを失うまで転がる石ころ
  • 雅治とハシカンのデートを背後で羨ましがっている野良さんの表情を、網膜や視神経を通じて受け取る俺の脳

物理的な複雑さの程度に違いこそあれど、本質は同じだと思うのです。
付喪神とかそういう話はさておき、石ころがクオリアを持っているのかどうかはまちゃはるが哲学的ゾンビであるのかどうかを見極めるのと同じくらい難しいわけです。

というわけで、これもパソコンの話に置き換えるならHDDに保存されているデータを自分のCPUで読み取るのが現象的意識の発揮と呼べるわけですが、そのパソコンに自我を搭載するならば「いまHDD内のエロ画像を読み取っていることを認識する機能」つまり「エロ画像を読み取っているCPUは自分であると認識する機能」が必要になるのではないでしょうか。


このとき、詠み人知らずさんと僕の主観は共有されるわけですが、
詠み人知らずさんの立場から言えば、視野角が200°→360°には広がったものの、
「僕の視界が広がったかどうか」は分かり得ないわけです。

マジでその通りですね・・・
いくら自我搭載型のパソコン同士をLAN接続したとしても、結局のところ共有HDDから引っ張ってきたデータを処理するCPUが自我の拠り所になるという意味では「もう片方のCPUに自我が搭載されてるか」は確かに分からないですね、マジその通りだと思います。

ただ、そうなってくると気になるのが脳分離の人に見られる症状です。
右脳と左脳を物理的に分断されてしまうと「右脳が見たものを左脳は見ていない」という状態になってしまうわけですが、では意識はどうなるのでしょうか。
右脳にとって、左脳は哲学的ゾンビかもしれない存在になるのでしょうか?
「物理的要因によりクオリアも分断された」と解釈するほうが、やはり個人的にはしっくりきます。
分断が可能なら統合も可能なんじゃないかな、と思ってます。

そもそも「意識」というものに明確な境界があるのかどうかも曖昧じゃないですか。
赤ん坊の例によると自我は後天的に習得するものですし、結合双生児の場合は別々の意識を持っているにもかかわらず何の支障もなく体の主導権を融通して行きたい方向に歩けると聞きます。
産まれる以前からそういう状態だったので、もはやそれが当たり前の感覚なんだとか。
われわれ人間が「ムカデが歩くときの足を動かす感覚」を意識できないのと同じように、足の本数や可視光の波長域、あるいは脳の数にあわせて、適した鋳型にハマる感じで後天的にアクセス意識および自我などが形成されているのではないでしょうか。

まさか>> 1の人が伏線になるとは思っていなかったのですが、ブラフマンとアートマンのような感じかもしれません。
テレビに映っている福山雅治とそれを見ている俺は、事実上は別の母親から生まれた個別の存在だけど、分断された右脳が俺になって左脳が雅治になったと考えても本質的には同じだと思うわけです。

27
野良 2019/12/13 (金) 22:45:13 037c3@be086

>> 26
疑問②へのご回答ありがとうございます!!

人為的な手段で人工知能に自我を搭載させようとするならアクセス意識の構築が先立つのではないかな?とは思っています。

ああ、なるほど、そういうことですか。
唯物論的感覚からすると、自我よりもアクセス意識のほうが物理的世界に親和性がある気がする、ってとこですかね。
確かに、僕も唯物論的感覚の持ち主、通称ユブラーであることから、なんとなくその感覚は分かります。

「現象的意識野郎なんざ電卓と一緒なんだ!石ころなんだよ!!😭」というけたたましい慟哭についても、ユブラーの僕にはしみじみと心から共感できます。安室ちゃん何で引退したんだ!😭

・・・ってぼんやり思ってましたけど、以下を読み、反芻した結果、アクセス意識が発生した赤ん坊のごとく新たな仮説に至りました。

「いまHDD内のエロ画像を読み取っていることを認識する機能」

これは「アクセス意識」のことですが、

「エロ画像を読み取っているCPUは自分であると認識する機能」

これって、実は「自我」そのものなのではないでしょうか?

最初この文章を読んだとき、強烈な違和感のクオリアが僕のアクセス意識を駆け巡りましたが、その正体がつかめずにいました。
しばらく反芻した結果、この文章の「つまり」で同値変形されている前者と後者が同値ではなく、尚且つこの文章全体が「自我を搭載するなら自我が必要」みたいなあたり前田のクラッカー構文になっているかもしれないと思いました。

この「~しているのは自分であると認識する機能」とは即ち、
世界から「自分」を切り離して自分を認識する機能、
言い換えれば「自分と他者は異なる存在であると認識する機能」、
イコール、「自我」そのものなのでは?

と、ここまで偉そうに批判めいた文章を書いてきましたが、このときの思考プロセスのなかで「自我とはなんぞや?」と問い直した結果、
「アクセス意識の発生と自我の習得、やっぱり因果関係にあるんじゃね??」という新たな仮説に至ったのです。

生まれたばかりの赤ん坊が、ンギャンギャ言いながら母親と同一の存在のつもりでいるとき、赤ん坊は「ボーっとしている(現象的意識しか存在しない)状態」だと思うんですね。
そして次第にボーっとしている状態から「開けた(アクセス意識が存在する)状態」に遷移していきます。
このとき、赤ん坊は外界に干渉していきながら、
「おや?近くの肉を触ったときと遠くの肉を触ったときでクオリアが発生したりしなかったりしますね。
ほう、これが“自我”ですか…
たいしたものですね」
と、徐々に自我を習得していき、ゆくゆくは炭酸抜きコーラを愛飲するグラップラーに成長するんじゃないかな~と思うんですよ。(オイオイオイ)

アクセス意識ありアクセス意識なし
自我あり実現可能実現不可能
自我なし実現可能実現可能

「アクセス意識」と「自我」の関係はこんな風に整理できるかもしれないと思ってます。

まちゃはるが哲学的ゾンビであるのかどうかを見極めるのと同じくらい難しいわけです。

福山雅治ファンに怒られますよ。


いくら自我搭載型のパソコン同士をLAN接続したとしても、結局のところ共有HDDから引っ張ってきたデータを処理するCPUが自我の拠り所になるという意味では「もう片方のCPUに自我が搭載されてるか」は確かに分からないですね

おお!的確なモデルですね!
僕も以下のような数学風モデル(というか例え)を考えてました。


右脳にとって、左脳は哲学的ゾンビかもしれない存在になるのでしょうか?
「物理的要因によりクオリアも分断された」と解釈するほうが、やはり個人的にはしっくりきます。

なるほど、主観そのものを観測することはできないものの、「自分以外の主観が存在するだろう」という確実性の高い見通しは可能だろうというわけですね。
ふむ、今のところ二元論好き好き人間、通称ニガーを弾圧するための一番の有効打になりそうですな・・・KっKっKっ・・・
我ら唯物論至上主義団体の繁栄のため、参考にさせていただきますぞ。


そもそも「意識」というものに明確な境界があるのかどうかも曖昧じゃないですか。

う~む・・・痛いところですよねそれは・・・。
前回、ホーガン姉妹の問題について、「Bluetoothと一緒だわさ!!」と僕はキメ顔でそう言いましたが、ちょっと勢いで言い過ぎたかなぁとも思ってます。

「意識が独立している」という前提であのようにキメ顔したわけですが、
実際のところ本当に独立しているのか、それこそ僕らの主観では分かり得ず、
もしかしたら「互いの主観を観測できる」という、僕らにとって超異次元的感覚である可能性を否定できませんからね・・・。

であるにも関わらず、やや断定的な物言いをしてしまったこと、このことは小林敬さんに「謙虚ライオン!!」と糾弾されかねない暴挙であったと認めざるをえません。

僕は二度とキメ顔なんてしない。いえーい。ピースピース


ついでに、疑問①について補足説明をしておきます。


・・・すいません、自分凝り性なもんで、考えついたこと全部形にしたくなっちゃうんです・・・。

長ぇよバカ!と感じたらいつでも仰ってくださいね。うるせぇバカ!と思いながらも調節しますので。
本当に、詠み人知らずさんの興味あるとこだけ拾ってくだされば満足なので・・・。

28
詠み人知らず 2019/12/14 (土) 07:02:46 修正 >> 27

この文章の「つまり」で同値変形されている前者と後者が同値ではなく、尚且つこの文章全体が「自我を搭載するなら自我が必要」みたいなあたり前田のクラッカー構文になっているかもしれないと思いました。

分かります。俺もそういうクオリアを胸に抱きながらその部分を書いてました。
ただ、赤ん坊をはじめ霊長類やイルカ、像などに施されたミラーテスト(別名ルージュテスト)についてやんわり調べていたところ、「いや・・・でも直感的にそうだわ、たぶん正しいわ」みたいな感じの強烈な確信が稲妻のように迸り、そのまま書くに至った次第です。

生後間もないバブちゃんは自分を母親の一部分だと思ってるわけです。いや厳密にいえば「思ってすらない」どころか「肉で出来た地蔵のようにただ物質としてそこに有る」って状態なんでしょうけど。
で、野良さんが言うように、外界との接触を継続的に繰り返すことで「アクセス意識を得られる範囲(自己)の外輪」を指でなぞるように少しずつインプットしていくのだと思うわけです。
ムカデの赤ちゃん場合は、ここで50本の足に適応した鋳型が作られる感じでしょうか。

  • 近くの肉を触ったときと遠くの肉を触ったときでクオリアが発生したりしなかったりしますね。
    ほう、これが“自我”ですか…

ここに書かれているような「クオリアを知覚する機能」も、元々は備わってないんじゃないかな?と考えてます。
ユイブニストとして語弊を恐れず極論並べ奉らせていただくのであれば
結局のところ、赤ちゃんってある意味では母体の子宮の中にできたオデキ・・・物理的にメチャクチャ精巧で複雑な構造のオデキだと思うんですよね。

近くの肉と遠くの肉を触ったときの物理的な刺激の差異を元に、最初期は機械的なディープラーニングを行っているが、持ち前の高度な物理的機能によってより一層複雑な学習をこなせるようになっていき、やがて自分を客観視できる次元(自分じゃない存在を自己流で定義づけ、自分からそぎ落とす次元)に到達する・・・というのが俺のイメージに近いです。
そのために必要となる物理的な複雑さこそが その現象が「現象そのもの」を認識するために必要な物理的条件(量や規模など)をxとしたとき のxにあたります。

また、人工知能の自我についてもう少し言及するならば、自由意思の有無についても語られたりしています。
いわく、機械は他者によって入力されたタスクを目標に設定するが、人間は目標そのものを自発的に設定できる・・・だとか何とか。
でも、俺たち人間においても「真に純粋な自発的選択」なんて無くないですか?

バタフライエフェクトじゃないですけど、物理的な因果の連鎖って受精をまたいでると思うんですよ。
意識がどうのこうの~というよりもまず「物理的な"自分"はどこからどこまでなのか」ってのも謎めいてくるわけです。
子供のころ、タイム風呂敷をかぶったジャイアンが赤ちゃんになるのを見て「こいつのデカい図体って元々は肉や野菜だったはずでは?どこに消えたんだ?」と揚げ足をとるようなキショいガキが厚かましくも大人になってしまったのがこの俺という存在なわけですが、タイム風呂敷に包まれて無限の時間を過ごしたら、世界に初めて出現した原始の物質まで遡及することになると思うんです。

そう考えると、少なくとも「ほぼほぼ形而下の現象とみて間違いないであろう現象的意識」に関しては、ブラフマンとアートマンってまさに同値だと思うんですよね。
そしてアクセス意識や自我やクオリアに関する認識においても「どこからどこまでが自分なのか?」という目線で考えるのではなく、「ブラフマン的全体像のうち、物理的な複雑さが濃い部分と薄い部分があり、濃い部分はアートマンの濃度も濃くなる」みたいな認識もできるのではないでしょうか。