このトピックでは主に哲学的な話を行います。
暴言は禁止。ルール守れない人ポアします。
モラルとマナーを守って好き勝手語りましょう。
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KANAME
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>> 9
まあお互いまったりやっていきましょう。
チュウゴシくんはLETの掲示板にも遊びに来てくれてたと思うけど
そこでいつだか俺が話していた内容をひとつ。
やっぱり「罪の意識」について言及するなら
「アダムとイヴ」の神話が思い浮かんでしまう…。
引用文献
人から聞いた話で恐縮だけど、一説によると(Wikipediaには記載されてないけど)
ここで言う「禁断の果実」ってのが「言語」のメタファーとして解釈されていて
人間は「言語」の構造によって身に起こるさまざまな現象を仕分けることで「概念」として捉えるという…
そういう考え方があるそうだ。
で、宗派や学派によって解釈の仕方はいろいろあるんだけど
この物語について共通して言えることは
とりあえず最初の人間であるアダムとイヴの行為が
「原罪」のようなものにあたると考えられているってことだ。
しかし
については、ずーっと前から物議を醸しているみたい。
俺個人の解釈としては、どっちかっていうと
後者の「この罪が全人類に及んでいる」なので
この考え方を前提に話を掘り下げていきたい。
※「全人類」について「言語の機能が正常に動いている者」と定義するね。
文脈が多岐にわたるので一度整理し直すけど…
要するに
神様「この気になる木の実は食っちゃダメだからもし食ったら楽園追放な!」
って忠告してたのに蛇にそそのかされて食べちゃったと。
そんで「失楽園」したと。
では「楽園」とはなんだったのか。
それはまさしく本能によって淡々と生きる自然界(動物の世界)のことだったのではないかと。
つまり…
言語を持たない種族に概念化はできないので喜怒哀楽もクソもないという意味のパラダイス
…を失った、と考えることができる。
そして人間は否応なしに言語に依存し、何かしらの「意味」を追い求めながらも
言及不可能という自己矛盾を孕んでしまう結果となっている。
この状態をドストエフスキー風に言うと「罪と罰」なのかもしれないし
ニーチェに言わせれば「神は死んだ」のかもしれないし
ウィトゲンシュタイン曰く「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」のかもしれないし
般若心境を唱えるなら「色即是空 空即是色」になるのかもしれないし
エヴァンゲリオンで言うと「人類補完計画」でL.C.Lへ還元(液状化)されるのかもしれない。
いずれにしても、人間の行動原理は象徴秩序に支配されているのではという話。
>> 7で言った「根源的な禁忌」とは、言い換えれば「規律」を優先したい「欲望」によるものではないのかと。
ご飯を食べる前に「いただきます」と言わないと何か釈然としない気持ちになるのと同じように
「家族と認識している人とセックスしたくない」のもまた
俺たちが産まれる前から人間社会に根付いている固定観念を無意識に選択してしまっているからでは。
このへんはラカンとかフロイトの領域(精神分析)になると思うけどめんどくさいので端折ります。
(気が向いたら書くかも…)
だからこそ、野生のライオンが、死にぞこないの獲物相手に我慢するということはありえないと思うんだよね。
人為的に調教された忠犬ハチ公でもない限り。
遺伝的にプログラミングされた行動パターンにどこまでも忠実なのが一般的な動物だと思ってるけど、そこを超えてくるのが人間っていうイレギュラーな生命体だとして、人間には人間の、種族単位で一括りにできない固有の行動パターンがあるんじゃないか?ってこと。
それに起因しているのが「罪の意識(言語会得)」によるものなんじゃないのかなぁと。
ゆえに無駄な争いや犯罪が絶えず、なかなか平和が訪れない。のかもしれない。
でもその相手が兄弟姉妹に瓜二つだったらどうだろう。
その既視感に嫌悪感抱くと思うけどな。
少なくとも俺はそう。
またこの既視感や固定観念ってのは
人以外の対象にもさまざまな形で無意識に意識しちゃってると思うよ。
それこそ掲示板の無作為な書き込み、文字列に対して嫌悪感を抱くとか。
この話で俺が言いたいことは
価値観を相対化すれば考え方の違いに「理解が示せる」「納得がいく」という意味で
たとえ危機感や憤りを感じたとしても形而上の問題なら解決するのでは、という…。
ブライト 「アムロ、貴様なぜ自分の任務を果たそうとしないんだ?」
アムロ 「ブライトさんはなんで戦ってるんです?」
ブライト 「…今はそんな哲学など語っている暇はない。立てよ、おい!」
(中略)
アムロ 「あっ… な、殴ったね」
(中略)
アムロ 「…二度もぶった。親父にもぶたれたことないのに!」
殴られたら物理的に痛いし…
生きるか死ぬかのDo or Dieという有事では、ブライトさんの言うとおり哲学はクソの役にも立たない。
しかし一人ひとりが平時のうちに意識を変えれば、万が一にでも全人類が意識を変えたら…
そういう可能性を『ペイ・フォワード 可能の王国』にちょっと感じたけどな。
観たことなければおすすめするよ。
まさしく「割れ窓理論」の反作用みたいな映画だ。
これを考えるにあたっては、昔NHKで放送してたハーバード白熱教室の高級な「喜び」 低級な「喜び」がいい線いってると思う。
ジョン・スチュアート・ミルの功利主義が元ネタだけど、わかりやすくまとめてくれてるブログの記事もあるので、それぞれのリンク先から暇なときにでも覗いてみて。
LETの記憶がないので「またその説明させるの?」とか「前回と言ってること違うぞ!」とかあるかもしれないけど、今回の話を聞いて俺の頭に浮かんだ関連ありげなピースを(パズル形式は無視して)雑に並べてみる
つまり、もし仮にある日とつぜん地球上の全人類が言語を忘却したら、争いや暴行や殺人などの件数が増えたとしても無秩序というわけではなくなる
あるいは、言語を忘却するのではなく、逆に活用しまくって概念化をトコトン突き詰めていくことによっても無秩序化を抑止することはできる
・・・ってことかな?
確かに一理あると思う
マルチリンガルの人は、話せる言語の種類と同じ数の人格を持つ多重人格者だということが社会言語学的に判明してたりもするしな
例えば「侘び寂び」なんてのは日本特有の概念で、英語にはそれに該当する言葉が存在していない
英語で書き表すならsimple and emotionalとかになるんだろうけど「感情的な質素さ」と言われてワビサビのイメージを想起することは、けっこう無理がある
英語話者が「真の侘び寂び(Wabisabiではない)」を概念レベルで理解するためには日本語を習得するしかないのかもしれないし、われわれ日本人がangerとfuryとrageの違いに戸惑うのに似ているかもしれない
というわけで
『メッセージ』
地球外からハッピーターンみたいな舟でやってきた謎の存在(文明?)と意思疎通を図ろうとする話。
彼らは文字ではなくシンボルを使って意思表示を行う。言ってしまえば応用性が超絶に高い顔文字(^-^)みたいなもの。
彼らの言語を理解したとき、果たしてどのようなマルチリンガル的『人格』を手に入れるのだろうか?
予告動画
ちなみにペイフォワードなら5億回は観た。いい映画だよね・・・
ジム・キャリー主演の『イエスマン』もかなりペイフォワードチックな内容で、すこぶる心が洗われるよ
また、西洋の神話になぞればアダムとイヴに紐づくのかもしれないけど
仏教的に言えば「禅と悟り」を原罪からの脱却と捉えることが出来そうだ
※仏教的には原罪なんてないけれどね
座禅して
ひたすら集中して
心の中を無にして
悟りをひらく
これってつまり「意識をアニマル(アダム&イヴ)レベルにしましょう」ってことなのかもしれない
と、ここまでは宗教に敬意を払って弁神論っぽい姿勢を見せておきながらも、宗教的な寓話について俺はかなり懐疑的な考えを持っていたりもする
語弊を恐れず言ってしまうならば『時代遅れ』感が拭いきれなくなってきている
宗教の起源ってのは、未知の出来事を理解するために生み出されたものだと近代では言われるようになってきている
火山の噴火だとか洪水だとか落雷だとか流行り病だとか、そういう理解できない出来事について
西洋風に言えば『神の意志、神が与えた試練』ってな感じで
東洋風に言えば『ばちが当たった』といったところだろう
「なぜ空は青いの?」
「なぜ地球は丸いの?」
「どうしてぼくは生まれてきたの?」
「なんでホタルすぐ死んでしまうん?」
少し知恵を持ち始めたこともは、好奇心を爆発させて「なぜ?どうして?」と色んな事を知ろうとするわけだけど
当時の人たちは今の俺たちからすると子供のようなもので、そういう人たちに向けた『子供向けの説明』こそが宗教的寓話の役割なんだ
未知を排除することが主目標で、可能な限り解明された事実を述べはするものの、未解明の部分についてはその場しのぎの納得で誤魔化している
人々が不安になってしまわないようにね
あなたが生まれたのは神の意志である
あなたが病気を患ったのも神の意志である
病気が治ったのも神の意志である
医者が頑張ったからだって?その医者と巡り会えたのは神の意志だよ
病気を治せず死んでしまったとしても、それも神の意志だ
うん・・・
アメリカで小さな子供たちを対象にとある実験が行われた
Q.この湖は波ひとつ立たない静かな湖です、どうしてだと思う?
1.動物たちが安全に水浴びできるように波が立たない
2.その湖は河と繋がっていないので波が立たない
こういう質問をしたところ、回答に(1)を選ぶ子供が圧倒的に多かった(ナショジオか何かで紹介されてた気がする)
物事には何かしらの理由がある、何かしらの意図が介入していてそうなっている、と無意識のうちに判断する子供が大半だということらしい
また、子供に限らず大人であっても目的論じみた説明のほうがしっくり腑に落ちることも珍しくはないだろう
ということは『未知』の水準を高めればいいのか?
不完全性定理に基づけば、未知の事象が尽きることはない
数学や科学や物理学など自己完結的な論理体系では公理が必要となるため、領域外の全てを説明づけることはできない
『神の意志』を介入させる余地そのものは残るかもしれない
『臨界点』という言葉がある
臨界温度を超えた水は気化するとか、そういう物理学的な意味も勿論あるんだけど
「ある対象が存続するために必要な条件」にも、臨界点があるんだ
フィーリング重視で伝わりやすそうな例を挙げるならこれとかを見ると分かりやすいかもしれない
左右にスライドする台の上に置かれた複数のメトロノームが、やがて完全に同期する現象だ
今回は言語や宗教について話したけれど、言語や宗教にも臨界点というものがあるはずで
アイルランド語なんかは消滅危機言語に指定されていたりもするし、いちど発生したのちに消えてしまった宗教や消える寸前の宗教なんてのも大量にあることだろう
いま世界は空前の無宗教ブーム(?)に差し掛かろうとしている
独自のタイミングで独自のリズムを刻んでいたメトロノームがやがて独自性を失い同期するのと同じように
今のところメジャー扱いされているキリスト教とかも、そのうちアイルランド語みたいなポジションになって、やがては消えていくのかもしれないね
とりとめがなさすぎる感じで色んなこと雑に並べちゃったけど
部分的に拾ったり繋げたりあるいはスルーしたり、自由に利用してくれると助かります
大変興味深いお話をされていて参加したくなったので、横から失礼します。
月刊老年チュウゴシさんは宗教的な寓話に懐疑的な考えをお持ちとのことですが、僕も懐疑的に考えている、というよりも神は存在しないと考えています。
神が存在するか否か、という議論をするうえで重要となる争点の一つに、創造論vs進化論があります。
この争点は、生物は何らかの目的があってつくられた(目的論)vs物理法則に従って自然発生した(原因論)という対立として見ることもできます。
月刊老年チュウゴシさんが湖の例で示されていた二つの選択肢と同様の関係ですね。
少し具体的な話をしますが、ほぼ全ての生物に共通する、セントラルドグマと呼ばれるシステムがあります。
DNAからコピーをつくり、コピーを基にタンパク質をつくるシステムのことですね。
なぜこのシステムが多くの生物に共通しているのか?
進化論者は、多くの生物には共通の祖先が存在するから、祖先が持っていたシステムを引き継いでいるのだ、と説明します。
創造論者は、共通の創造主が存在するから、同一のシステム設計でつくられたのだ、と説明します。
なるほど、創造論者の解釈も筋が通っているように見えます。
セントラルドグマの例に限らず、様々な事例に関して創造論者は現代科学と反する解釈をしていますが、いずれの解釈も完全には否定できないものばかりです。
特に、始祖鳥が現生鳥類の直接の祖先であるか否か、という争点では創造論者が勝利し、現在では始祖鳥は鳥類の仲間という位置づけとなっており、「現生鳥類の直接の祖先ではない」との結論が出ています。
個人的には、「意識(主観)はなぜ存在するのか?」という問いに関して、創造論者サイドに圧倒的なアドバンテージがあると考えています。
進化論者が言うように、物理法則に従い、無機物がくっついたり離れたりして複雑化してできた結果が我々人類なら、意識(主観)は進化のどのタイミングで発生したのか?
僕が知る限りでは明確な答えは出ていません。というよりも、意識(主観)の存在を科学的に証明することが極めて難しいため、答えを出す見通しすら立っていないのが現状でしょう。
しかし、創造論者は、それは主が我々一人ひとりを愛し、魂を与えたからだ、といったような答えを持っています。
さて、お二人に「意識(主観)はなぜ存在するのか?」という問いについてご意見を伺いたく存じます。
KANAMEさんはキリスト教の教義に深い見識をお持ちのようですので、創造論サイドの考え方なども教えていただけると幸いです。もちろん、それ以外でもご意見がありましたらお聞かせください。
月刊老年チュウゴシさんは無神論者のようにお見受けしますが、この問いについてどのようにお考えでしょうか?
話の流れの一部だけを抽出してしまい恐縮ですが、お時間のあるときによろしくお願いします。
>> 12
はいはーい、初めまして
無神論者というか、宗教によって体系化された「お手本通りの神」を信じているわけではない・・・というだけであって、神(的な存在)そのものは「ある」と思ってますよ
と、いうか「神はいる(ある)」ということを絶対的な前提として強く強く仮定したうえで「だとしたら、自分にとっての神って一体どんなのだろう?」と考えれば誰しもが神を得られると思ってるし、そういう意味では無神論者ってのは神という単語にアレルギー起こしてるだけじゃないのかな、とさえ思ってたりします
というわけで、俺にとっての神とはどのようなものなのか・・・というのを言葉で定義づけるのはとても難しいけれど、少なくとも創造主でもなければ十字架に貼りつけられてもいない、白人でもないどころか人類ですらないかな
🔶信仰と科学について
目的論vs原因論という構図は、少し視点を変えれば信仰vs科学にもなるし、観念論vs唯物論になったりもします
例えば科学は、目に見える数値やデータ、根拠や証拠を重要視する客観的な学問で
それに対して宗教や信仰ってのは数値やデータとして可視化できず証拠のない内容であっても真実として扱う主観的なもの
一見するとこれ等は対極に位置する相容れないもののように思えるし、世間一般ではそのように捉えられている節も多々あったりするけれど、実際のところ、この両者間にはそれほど大きな垣根ってないのでは?と俺は思ってる
ロミオとジュリエットが愛し合ってた物的証拠はあるのだろうか?
あの話はフィクションだ~とかそういうのはさておき、2人が愛し合っていた証拠なんて無いし、科学的に証明することはできない
科学的に言えば「愛し合っていたかもしれないし、愛し合っていなかったかもしれない」という結論が真として扱われる
様々なエピソード(状況証拠)をもとにして「恐らくジュリエットは悲しみにより自死を選んだのだろう、そう仮定するならば、恐らく2人は愛し合っていたのだろう」という仮定的な結論くらいしか出せないだろう
では、三角形の内角の和が180度であることの物的証拠はあるのだろうか?
自然数に自然数を加算した解が自然数であることの物的証拠はあるのだろうか?
a=bであるときb=aであることの物的証拠はあるのだろうか?
そんなものは無い、三角形の内角の和を証明することはできないし、自然数+自然数の解が自然数になることも、a=bであるときb=aとなることも証明することはできない(できない...よな?)
科学的な学問は、その論理体系内における「公理」を無根拠に信仰しているだけなんだ
目に見える数値やデータを重要視する科学でさえ、ある種の信仰をもとにしなければ成り立たず「この仮定が真であるならば、こういう定理が立つ」という結論しか出せないんだ
それを踏まえると、もはや宗教的分析と科学的分析のあいだにそれほど大きな垣根なんかないのでは?と俺は思ってるし
「神はいる(ある)」を公理として信仰すれば神の存在を証明することもできちゃったりすると思ってます
🔶意識(主観)はなぜ存在するのか?
科学的に言うなら
みたいな感じでは?
で、創造論的に言うなら
この文言が末尾に追加されるだけなのでは?
これは一種の[隙間の神]ってやつではあるけれど、未知の出来事を説明するために(とにかく安寧を得るための納得至上主義として)宗教が活躍し発展してきた・・・という宗教が本来持っている歴史的背景を踏まえれば、隙間の神の考え方にそれほど反感や違和感を覚えることもないはず
それと、アドバンテージって表現を使ってるけど、科学は神を否定しようとしているわけではないよ
優秀な科学者であればあるほど「科学とは単なる観察結果でしかなくて、絶対的なものではない」という科学的わきまえは備えている
科学が発展するにつれて神の不在をほのめかす状況証拠が1つまた1つと積み重ねられているように感じるかもしれないけれど、むしろ、科学が発展してDNAのようにより細かくより深い分野に足を踏み入れることで、この世界に存在している謎はより一層の神秘性を帯びてきていると思わないだろうか?
ちなみに、つい去年の出来事だけど[ダーヴィンの進化論はかなりアヤシイ]みたいな発表がされてたりするよ
アメリカとスイスの大学が共同でDNA調査したところ、現存する生物種のDNAは20万年くらい前にスッ・・・と出現していて、中間種にあたる存在は確認できなかったらしい
進化論的に言えば、ジュラ紀出身(1億5千年前)の始祖鳥が小型化したり羽が発達したり多様な変化を遂げたのち、適者生存で生き残りやすい機能(より速く飛べる、など)を備えたDNAがより多く子孫を残した結果として今の地球にいるハトになったりカラスになったりした・・・って感じなんだろうけど
phys.orgが報じた内容では「カラスになりつつある始祖鳥」みたいな中間種は確認できなかったらしくて
もしかして、俺たちが野菜やチワワや錦鯉を品種改良しているのと同じ感じで、20万年前に俺たちを種族として創造したヤツラがいたりするのか?みたいな説まで飛び交うようになって、学会規模で「とりあえず一旦無視しようぜ・・・」って流れになっちゃうほど大混乱寸前だったらしい
文章にしたものだけが「法」だと思ってそう。。。。
詠み人知らずさん
ご無沙汰しております。
というか度を越えたご無沙汰ですみませんでした。w
詠み人知らずさんのような優秀な方の意見を聞ける機会は貴重なので、
今後もお相手いただけると幸いです。
🔶信仰と科学について
さて、本題ですが、
神に関する詠み人知らずさんの意見は概ね理解できました。
公理と同じように「神はいる(ある)」を前提とすれば、あらゆる科学の隙間を説明することができると。
科学が隙間を完全に埋めるにはまだまだ時間がかかりそう(多分永遠)ですし、詠み人知らずさんが仰るような広義の神は否定できないかもしれませんね。
ちなみに、僕がアドバンテージという表現を使ったのは、神vs科学という構図についてではなく、あくまで創造論vs進化論についてです。
この二つは一般的に二律背反と考えられていて、互いに否定しようとしています。
そして、創造論も進化論も、科学的根拠に基づいて主張がなされていて、科学が進化論サイドだけに味方をするということは今のところないと思います。
科学はときに創造論サイドに味方し、その結果、前レスでお伝えした始祖鳥の争点のように勝利することもあるのです。
🔶意識(主観)はなぜ存在するのか?
詠み人知らずさんは、「意識が発生する」と「意識を持つ」を使い分けておられるようですが、それぞれ以下のような解釈で合っていますでしょうか?
意識が発生する =神経が興奮する
意識を持つ =「神経が興奮した」ことを認識する
解釈が間違っていたら適宜修正願いたいのですが、
詠み人知らずさんは「意識」というものを、神経の興奮状態を監視する「脳の中央監視室」のように解釈しているのではないでしょうか。
xが閾値を超えなければ、神経が興奮するだけで、中央監視室には興奮状態が報告されない。
xが閾値を超えると、神経が興奮するだけでなく、中央監視室には興奮状態が報告される。
詠み人知らずさんがこのように考えているのであれば、
一連の現象が起きる生物体は、哲学的ゾンビでもよいのではないでしょうか?
と問いたいです。
「脳の中央監視室」=「意識(主観)」である必然性はないのでは?
脳のなかに実際にあるかどうか分かりませんが、神経の興奮状態を認識すると反応する脳の領域があった場合、
その領域=「脳の中央監視室」ということでも、一連の現象が説明できると思うのです。
意識(主観)は必要なのでしょうか?
現時点での詠み人知らずさんの説明だと、意識(主観)が存在しなければならない論理的必然性を示せていないのではないか、と思います。
以上、詠み人知らずさんの意見を勝手に妄想しながら話を進めましたが、
この行為の目的は、僕が疑問視しているポイントの輪郭を伝えることです。
なんとなぁ~く、僕の疑問を感じ取っていただき、ご返信いただければ幸いです。
・・・教えていただいた記事、拝見しました。
ヤバいっスねぇこれ。
昔、ID論者から似たような妄想を聞いて、なに白昼夢みてんだと思いましたが、
正夢になりうる事実が浮上するとは。
僕としては、この世界が、善行が必ずしも報われない世界である以上、
進化論みたいな無慈悲なモデルのほうが納得できるのですよねえ。。。
当該記事が、測定ミスとかそういう理由で間違いであることを願います。アーメン。
お久しぶりです
期待に沿えるかどうか分からないので、あんまり買い被らないでね・・・
中央監視室ってのがよく分からないけど
この表現に倣うのであれば、意識ってのは「報告されるという現象の名前」って感じかな
仮に哲学的ゾンビが存在するとしたら、中央監視室は機能してないことになるね
そして、個人的には哲学的ゾンビって(定義にもよるけど)実在しないだろうと考えています
というのも、自我(意識や感情など)って経験により構築されてると思うんだよ
高層ビルの屋上から地上を覗き込んだとき、虫や小動物なんかは恐らく恐怖なんて感じないだろうし
ハイハイできるようになったばかりの赤ちゃんなんかも平気な顔してると思う
ビルの屋上で足ガクガク震えさせたり冷や汗かいたり腰抜かしたりするのって
ある程度の知性と経験が備わって「ヤベェ危険だコワイ」と認識できるようになった生き物だけなのでは?
哲学的ゾンビってのが「有機的には人間だけど恐怖などの感情を持ってない存在」を指すのであれば
そいつをビルの屋上に立たせても足ガクガクさせないと思うんだよな
目の前にいる人物が哲学的ゾンビかどうか判別する難易度の高さばかり注目されてるけど
そもそも人間って有機的な面で個体差あるし
『あなたは人間が持ちうる全ての感情をもれなく備えていますか?』って聞かれたとき
Yesって答えられる人いなくね?誰しも欠落してる部分あると思うよ
例えば事故か何かで脳に損傷を負って恐怖心を失ってしまった人は足ガクガク震えないわけで
恐怖を感じてないのに足ガクガクさせるって、それもう人間には本来備わってない新機能だよ
詠み人知らずさん
師走の候、巷では風邪やインフルエンザが流行っているようですが、
詠み人知らずさんはお元気でお過ごしでしょうか?僕は風邪です。
風邪を引くと、普段仲の良い人だけでなく、色んな人が声をかけて下さりますよね。
「大丈夫ですか?」
「お大事になさってください。」
季節とは裏腹に、とても温かい言葉だと感じます。
しかし一方で、ひねくれ者の僕はこうも感じます。
彼らは本当に心配してるのか・・・?
マスクをつけた知人が視界に入ることをトリガーに、上記の定型文を機械のごとく吐き出すルーチンが脳内に常駐してるだけじゃないのか・・・?
本当は心配してないけど、心配してるようにふるまうことで人間関係の円滑化を図る。
こういうのは何とも合理的で、人間的ですね。
しかし、心配以前にそもそも感情が存在しないのに、心配しているかのようにふるまう・・・
そんな人間がいるとしたら、詠み人知らずさんの想定する哲学的ゾンビに該当するのでしょうね。
哲学的ゾンビの一般的な定義(僕の前レスもこの定義に準拠)は、
「物理的に私(意識をもった存在なら何でもいい)と同一でありながら、まるっきり意識体験を欠いている誰か、あるいは何ものか」(提唱者、D.チャルマーズさん曰く)
ですね。
つまり一般的には、感情がない人間ではなく、意識体験がない人間が哲学的ゾンビだということですね。
僕の前レスでいうところの「意識(主観)」がない人間とイコールだとご認識下さい。
詠み人知らずさんの足ガクガクの例で言うと・・・
人間は高層ビルの屋上から地上を覗き込んだとき、地上との距離などの視覚情報を得ますね。
視覚情報は視神経を通過して脳に伝達されます。
このとき、脳内では恐怖を司る神経伝達物質(ノルアドレナリン等)が分泌され、
物理的に「恐怖を感じている状態」が形成されます。
しかしこの際、恐怖の意識体験(クオリアと読み替えても可)が生じる必然性があるとは言えません。
我々には実際に、恐怖の意識体験が生じ、ゾクっ🙀とする感覚がありますが、
哲学的ゾンビにはその感覚がないのですね。
この点が、我々と哲学的ゾンビとの違いですね。
ただし、哲学的ゾンビも物理的には“恐怖を感じている”。
だから、彼らにも足ガクガクさせるに至る物理的条件が揃っているのです。
まあ・・・「感情」というものを意識体験ありきで定義するなら、哲学的ゾンビには感情がないと言えるのでしょうが。
以上、哲学的ゾンビの定義の確認でした。
・・・これまでの雑談のなかで、僕は「意識(主観)はなぜ存在するのか?」という疑問を呈してきましたが、
僕が疑問視しているポイントとはまさに、
この点です。
ビルの屋上から視覚情報を得ることで、神経系に電気信号が流れたり、情報伝達物質が分泌されたりします。
・・・で、それらの現象が起きたらなぜ意識体験が生じることになるのでしょう?
現代の科学者たちの一部はこの問いについて、「神経科学が進歩したらハッキリするっしょ!!😊」
との見方を示しているそうです。
詠み人知らずさんはどのような見解をお持ちなのか、お伺いしたいです。
(あるいは、今聞いてこう感じた、とかでも良いので)
「中央監視室」=「意識(主観)」である場合は、その通りだと思います。
しかし、「中央監視室」=「(神経の興奮状態を認識すると反応する)脳の領域」である場合は、その通りではないと思います。
後者の場合、体の各種感覚神経から集まった興奮状態に関する情報が、脳の特定の領域によって中央集権的に監視されます。このとき、一連のメカニズムのなかで登場する事物は、各種感覚神経・脳などであり、意識体験は介在する必要がありません。
後者の場合であれば、意識体験が介在せずとも、詠み人知らずさんが想定されている(と思われる)モデルは成立すると思うのです。
・・・ちなみに、以下を詠み人知らずさんのモデルとして扱っちゃってます。
(以下、参考程度です。)
前回、詳細まで紹介すると長くなるかなぁと思って省きましたが、
これ、部分的には実在するようです。
ブラインドサイトという障害があります。
一般的に視覚障害の原因として、眼球や視神経の機能不全などが考えられますが、
ブラインドサイトは「見えていることを認識するための脳の領域」の機能不全によって引き起こされる特殊な視覚障害です。
ブラインドサイトの人は視覚障害であるにも関わらず、ボールを投げられたときにうまく避けることがあるそうです。
なぜ避けたのか本人に聞くと、「分からない」と答えるのだとか・・・。
彼の脳は常に視覚情報をしっかりキャッチしているのですが、キャッチしていることを認識できないため、彼の視界には何も映っていないのです。
「打ち合わせをしても、最初は手話や読唇術を使ったふりをしていても
熱がこもってくると普通の会話になる。
最近では、自宅で私(妻)と会うときは最初から普通の会話です。」
(引用:週刊文春)
もしかすると、彼はブラインドサイトの聴覚版だったのかもしれません。
ブラインドサイトの障害者がボールを避けられたように、特定条件下では彼も耳が聞こえたのかも・・・。
だとしても3行目はあんまり擁護できませんが。
この障害の存在によって、「視神経の興奮状態を認識すると反応する脳の領域」が存在することが示唆されますね。
P.S.なんだか妙に気分が乗ったので長文を書いてしまいましたが、詠み人知らずさんはご気分に合わせた文章量でご返信いただければ幸いです。
体調を崩しやすい季節ですが、お体に気をつけてお過ごしください(本心から、願ってます!)。
これはこれはご親切にどうもありがとう。
心配してもらった直後に言いづらいんだけど、実は先月の下旬ごろ、約2年ぶりに風邪こじらせてしまって点滴チューチューしてた感じです。
子供の頃さんざん泥だらけになって野生児のように遊んでた貯金が辛うじてまだ残っているのか、普段の免疫力は人一倍って感じなんだけど、いちどダウンすると信じられないほど悪化しちゃうタイプなんだよな。
感情や合理的判断のこもった人間的な気遣いとして受け止めさせてもらいます😏
というわけで哲学的ゾンビに関してですが
「感情がない人間」と「意識体験がない人間」の差異がいまいち把握できてない感じです。
もし可能ならズバッと言っちゃってください。
責めるような批判的な文章になっちゃう・・・みたいな遠慮はしなくてOK。
浅学を暴かれる覚悟はできてます。
簡単に言ってしまうと『物理的に同一であるならば、同じ刺激に対し同じメカニズムで反応し、同じリアクションを出力するはずでは?』というのが俺の考えの根幹にありまして。
>> 13から引き続き、原因論&唯物論に寄った考え方です。
つまり、同じ分量の同じ素材を同じ工程で調理したら同じ味の料理ができあがるはずで
「食塩を使ってません、でも食べてみると同じ味がします」みたいな場合は、食塩の代わりとなるカリウムなり何なりが投入されているはずでは?ということです。
意識体験がない(クオリア未搭載)にもかかわらず一緒に泣いたり笑ったり怒ったりできる何者かがもし仮にいたとすると、そいつには『意識に替わる何らかの特殊な機能』が備わってるとしか思えないんだ。
ブラインドサイトになぞった言い方をするなら、ブラインドフィーリングって感じかな?
それがどんな機能で、どのようなメカニズムが代替的に機能することで『見分けがつかないほどの人間性を再現』できているのか・・・については、確かに「科学が進歩したらハッキリするっしょ!!😊」としか言えないけど
裏を返せば、科学が進歩さえすれば「意識体験の有無」の識別も可能になると思うし、そのとき判明するのは「物理的な非同一性」だと思う。
zawazawaアカウントを使ってる場合、レスアンカーを向けられたらヘッダー部分に未読件数の通知が表示されるので気付きやすくていい感じです。
もしよろしければ次回からはアンカー付けてもらえると助かります。オナシャス
えぇ!?ヤバ!!
風邪でそんな状態になることあるんですね・・・(心配より驚きの感情が先行)
ご無事で何よりです。たまの休日には泥遊びをして貯金残高を増やしてくださいね。
ビルの屋上から地上を覗き込んだとき、ゾクっ🙀とする感覚、ありますよね。
詠み人知らずさんはその感覚を「(恐怖の)感情」と呼んでいるのかもしれません。
では、
🔴
この丸、赤いですよね。詠み人知らずさんは今、「赤いという感じ」がしていますか?
その感じを「感情」と呼びますでしょうか?
一般的には感情とは呼ばないかと思います。
感情とは一般的に、外界刺激に対して起こる、快・不快 好き・嫌い 恐怖 怒りなどのレベルの気持ちを指すものであり、
赤色を見たときに生じるような「意識体験」はレベルが異なる概念かと。
「感情」という言葉は「意識体験」という言葉に比べて定義が非常に曖昧で、
その点が哲学的ゾンビを定義するうえで誤解を招きかねないと思います。
例えば、
この一文。
哲学的ゾンビには確かに恐怖の「意識体験」はありませんが、物理的には「恐怖を感じている状態」が形成されます。
したがって、物理的現象の連鎖によって足ガクガクという物理的現象につながる可能性が考えられます。
哲学的ゾンビには恐怖の「感情」がない、と曖昧に解釈してしまうと、
恐怖の「意識体験」もないだろうし~😑
物理的に「恐怖を感じている状態」も形成されないんだろうな~😟
だから足ガクガクさせることもないんだろうな~😖
といった具合に誤解を招くことが想像できます。
以下のように整理できるかもしれません。
「(詠み人知らずさんの考える)感情がない」
=「心的世界の感情(意識体験)がない」+「物理的世界の感情(神経伝達物質等)がない」
哲学的ゾンビは、上の式でいうところの「心的世界の感情(意識体験)がない」人間です。
クオリアを食塩で例えているのですね。実に面白い・・・(CV:福山雅治)
詠み人知らずさんが唯物論者的であることがよく感じられます。
上記の例と人間の話、決定的に異なる点があるかもしれません。
それは、上記の例は「物理的世界だけで完結している」という点です。(味だって心的世界の意識体験だ!💢みたいなギャグは勘弁してくださいw)
物理的世界と心的世界(意識体験)、二つの世界があると考えることができます。
哲学的ゾンビの思考実験で、人間から取り除かれるのは「心的世界」のみです。
つまり、料理から食塩を取り除いた場合と異なり、物理的世界からは何も取り除かれないのです。
すべての因果が物理的世界だけで完結しているなら、心的世界なんて無くていんじゃね?
というのがこの思考実験の肝なのですよ。
詠み人知らずさんは、意識体験は物理的世界の一部で、物理的世界に何らかの影響を与えている、
と考えておられるようですね。
確認したいのですが、意識体験は物理的現象だと思いますか?
また、どのような物理的現象によって意識体験が生じるのか、という点は今後の科学に任せるっちゃ!!😡というスタンスでしょうか?
レスアンカーの件、教えていただきありがとうございます!
>> 19
点滴っていうと「入院にリーチ状態」みたいな深刻なイメージあるかもしれないけど、風邪やら何やらの症状を即座に回復したい時わりと便利なんだよ。
毒の状態異常にかかったとき毒消し草を使うんじゃなくて宿屋に泊まっちゃう感じのいわゆる贅沢療法なので、あんまり心配しなくて大丈夫だよ。
ちなみに二日酔いも秒で治ったりするぜ(生涯で一度だけ、二日酔い解除するために点滴もらったことがある・・・)
何となく話の輪郭はうっすら見えてきた気がするんだけど
やっぱり考えれば考えるほど唯物論的なイメージが頭の中で立ち塞がってきてしまう。
心的世界の感情、🔴を見たときの赤いという感覚・・・
それらも物理的世界で完結できるような気がしてしまう。
特に具体的な根拠もないし、心的現象の発生源の究明についてはまさに「今後の科学に任せるっちゃ!!」って感じだけど、>> 13で言っていた
この考え方にどうしても行きついてしまう。
物理的な法則に反した心的現象は果たして起こり得るのか?ってのがものすごく疑問で、仮にそれが起こり得ないのであれば、心的現象も物理法則が働いた結果として出力される物理的リアクションの一種に過ぎないと考えられるし、極端に言えば遠い未来に人工知能がものすごく発達したとしたら彼らも心的世界を会得し得ると思う。
「情報」と「概念」の違いだったりするのかな?
siriやpepperなんかは高度な電卓にすぎない、もっと極端に言えば道端の石と同じだ。
ヤツら機畜は🔴を見たとき「700nmの波長」という情報の入力を受け取り「赤い丸です」と出力するだけで、そこには情報しかなく概念は存在しない。蹴られたら転がる石と同じ。
じゃあ概念はどうすれば習得できるのか?というと『700nmの波長が入力されたとき「赤い」と分析してる自分自身』を自分自身で認識する機能が糸口になると俺は思ってる。
人間の赤ん坊って生まれて間もない頃は自我がないらしいんだよ。
へその緒を切られて、母親から物理的に独立して、それでも赤ん坊は母親と同一の存在のつもりでいるらしい。
自我の有無についてはミラーテスト(鏡に映る像が自分だと理解できるかを観察する)って手法で判断してる。
で、成長の過程で「どこからどこまでが自分」で「どれが母親」なのか、そして「自分でも母親でもない残りの奴ら」など・・・を段階的に習得していく。俺たち人間でさえ、そこでようやく自我が芽生え始めるって話だ。自我を習得する機能は先天性だとしても、習得そのものは後天的に行われるんだよ。
そのために必要となるのが『「現象そのもの」を認識するために必要な物理的条件(量や規模など)をxとしたとき、xが閾値を超えている状態』ってな感じに考えております。
人工知能もいつの日か自我やクオリアを持つ日が来ると思う。
というか、俺たちは「意識」という現象を過剰に神聖視しすぎているのではないだろうか?
例えば、CV:福山雅治にあやからせてもらうわけですが
福山雅治になりたくないですか?
あの理想的な顔と容姿で、福山雅治として人生を謳歌したかった・・・って思ったりしませんか?
しますよね?分かります。
で、もし神様が魔法の杖を振って俺と福山雅治の意識が入れ替わったとしても、俺は入れ替わった事にさえ気付けないわけじゃないですか。
なんせ記憶をつかさどる脳みそごと入れ替わっちゃう訳なので、「俺の意識」が「福山雅治と物理的に同一の身体」を手に入れたとしたら、それはもうシンプルに福山雅治でしかないと思うんですよ。恐らくは入れ替わる直前までしていた行動をそのまま引き継いで、何もなかったかのように行動することでしょう。
君の名は?とか言ってる場合じゃないと思うんですよ。
そうなってくるともう、テレビに映ってる雅治って実質俺じゃないですか。
厳密にいえば「福山雅治になりたいという願いを見事に達成した俺」がテレビに映ってるのと同じじゃないですか。
違いがあるとすれば、テレビを見てる俺とテレビの中にいる俺とのあいだに自我の境界線があることくらいだ。
次から俺のことましゃって呼んでもいいよ。
・・・っていうくらい唯物論は俺の中で堅固な地位を築き上げてます。
余談散りばめまくって風呂敷も広げまくってしまったけど
関心ない部分はポイしちゃってOKです
>>ましゃ
意識が物理的世界で完結してるはずなら入れ替わったらなんか違い出てきそうじゃね
>> 20
マジっすか!これは良いライフハックを聞いてしまった。
これで飲酒をセーブする必要なくなったぜ!ありがとうございます!!
ましゃ(詠み人知らずさん)の文章前半に「~しまう」という表現が見受けられることから、ましゃは僕が提示した二元論的世界観(物理的世界と心的世界はありまぁす!)に対する共感を試みるも今一つ共感しきれない、という心境なのでしょう。
しかし、それはマーシーが完成度の高い唯物論的世界観のなかで生きているからなのだろうと思います。
対して僕はマサシと違い、唯物論的世界観を持ちながらも、この世界に「主観」が存在することにどうしても納得がいかないのです。
この世界のあらゆる物理的現象は、僕たちの主観を通じて観測できるように思います。
等加速度運動であれば、視覚を通じて。ドップラー効果であれば、聴覚を通じて。
では、他者の「主観」は?
電子顕微鏡でしか観察できないノロウイルスも、今年撮影されたブラックホールも、
かつては主観を通じて観測できなかったものが、科学の進歩とともに主観を通じて観測できるようになってきていますね。
では、他者の「主観」は主観を通じて観測できるようになるのでしょうか・・・。
なーんか、そこだけ異次元的で、物理的世界の例外みたいな気がしちゃうのですよねえ。。。
でも、田代さんはそんな気は別にしないのですね・・・。
赤ん坊のくだり、めちゃめちゃ参考になりました。
が、疑問が二つ。
今さっき調べて知った概念なのですが、僕らが「意識」と呼んでいる概念は以下の二つに細分化できるそうです。(詳細はこちら)
・現象的意識 ・・・クオリアのことであり、その意識内容が報告できるかどうかには直接関係がない。
多分、詠み人知らずさんの言う「意識が発生する」に相当。
・アクセス意識・・・他者に報告できる意識内容。多分、詠み人知らずさんの言う「意識を持つ」に相当。
例えばですね、ハシカンとカフェでデートするとします。
詠み人知らずさんは1000年に1人のご尊顔に釘付けで、ハシカンの見目麗しさの理由について夢中で分析するわけです。デート後、詠み人知らずさんが僕に報告できるのは、詠み人知らずさんが必死で注視していたハシカンの唇に関する情報だけです。
詠み人知らずさんの「アクセス意識」にのぼっていたのはハシカンの艶やかな唇のみで、ハシカンの背後に実は僕が座っていて、どれほどニヤけ顔で詠み人知らずさんを観察していたか、なんて毛ほども詠み人知らずさんの記憶に残っていないわけです。
しかし、「現象的意識」にはしっかりと僕の30°に吊り上がった口角が映し出されていたのです。
・・・この二つの区別、詠み人知らずさんの区別と違ったら、適宜詠み人知らずさんの区別のほうに置き換えて読み進めてくださいね。とりあえず、説明するうえで使い勝手の良い単語が欲しかっただけなので。
アクセス意識が生じるために必要なのは、内的な(観測者の)判断であって、外的な物理的条件(量や規模など)ではないのでは?
例えば、新聞紙を読んでいるとき。
集中力が切れて別のことを考えボーっとしているとき、新聞紙の文字はアクセス意識にのぼっていませんよね。
現象的意識にはのぼっているにも関わらず。
ここで、「ハッ!やべっ、集中して読まな!」と判断したとき、文字はアクセス意識にのぼりますよね。
このとき、外的な物理的条件は変化していますか?
「自我の習得」と「アクセス意識の発生」の間に相関関係がある(同時に習得していく)、ということなら納得できるのですが、
詠み人知らずさんの
を読むに、「アクセス意識の発生」⇒「自我の習得」、前者ができたから後者ができるという因果関係があると考えておられるように解釈できるのですが、どのように因果関係があるのか、可能なら言語化していただけると嬉しいです!
無論です。
テレビドラマ「ガリレオ」で共演していた柴咲コウさんには、エンディングテーマ「KISSして」で「恋するクチビル」って歌ってるときに僕の唇を想像しながら歌ってほしいですからね。
そして願わくば、彼がそうしていたように彼女の上唇・下唇を交互に僕の唾液で湿らせたいものです。
(余談ながら、個人的には必ずしも福山雅治さんになりたいとは思いません。これは意地を張っているわけではなく、幸福観の話です。ただ、この場で話すと会話の流れが過度にカオスになってしまうので別の機会に提示しようかなと思います。ちなみに、意地を張っているわけではありません。)
・・・なるほど、ましゃの唯物論的視点からの「意識」に関する解釈は理解できました。
だとすれば、ましゃはあのましゃであり、さらに言うと僕もましゃであると。
そして、今こうして僕たちましゃ同士が直接コミュニケーションをとっていること、これは映画「君の名は。」のラストシーンで階段の上から瀧くんが三葉に直接声をかける感動的邂逅そのものであるというわけですか。
何て絵にならない邂逅なんだ・・・
そうだなぁ・・・共感できなくもないんだけど・・・やっぱり唯物論的な解釈のほうがしっくりくる感じです。
>> 13で持ち出した『隙間の神』にもうっすら関係してくるんだけど、いわゆるオッカムの剃刀ってやつで
ご存知かもしれませんが念のため意訳しておくと「同じ結論を示す理屈が複数ある場合、最も簡単な理屈がより正しい」みたいな思考法のことです。
【俺たちには主観があり、自我があり、意識体験がある】という結論を示す複数の仮説のうち
この2つを比較すると、マッサシの剃刀的には前者のほうがより正しい感じがするとましゃは考えています。
まぁ、何だかんだ言ってそこには「しっくりくる/こない」程度の差しかないわけで
もしかすると、単に無意識のうちに未知に対する安寧を求めて剃刀にすがってるだけかもしれませんが😅
この問題に対しても同様に唯物論的な解釈をぶつけてみるのであれば
自分と他者の関係は「ネットワークに接続されていない2台のパソコン」のようなものかもしれません。
他者のパソコンのスペックは、そのパソコンを細かく分解すれば判明します。
でも、分解するだけではHDD内にどんなエロ画像が保存されているのかは分かりません。
自分のパソコンの画面にマーシー秘蔵のエロ画像を映すには、何らかの手段でネットワークを構築する必要がありますよね。
パソコンを接続する場合、手っ取り早いのは有線接続です。
自分の脳みそと他人の脳みそを神経で繋いじゃえばいいわけです。
こんな不思議な話があります。
要点を抽出すると
これって、脳みその物理的な分断にともなって現象的意識も分裂してしまったと見なせないかな?
たぶん左耳(左脳)にしか聞こえないように「これ食べたい?」って尋ねたら、左目でハンバーガーを目視しているにもかかわらず「え?どれ?何の話?」ってリアクション取ると思うんだよ。
一種のキングギドラ状態だ。
また、キングギドラと言えば結合双生児・・・つまりブンカー兄弟やベトちゃんドクちゃんですが
彼らは任意で身体の主導権をやり取りできるらしい。
そしてクリスタ&タチアナのホーガン姉妹のペアは脳の一部分ごと絡み合ってる頭部結合という非常にレアなケースなのですが、それぞれ別の人格を持ったうえで思考や感情を共有し、クリスタがタンスに足をぶつけたらタチアナも痛がって、タチアナの目に映ったものはクリスタも認識できる。おまけに言葉を交わさずにジョークを言いあったりもするらしい。
視界どうなってるんだろうね・・・
双子ちゃんのじゃんけん永遠あいこや2人独自の双子語なんてのも不思議だね
>> 23
なるほど・・・
この世界の99%の事象を物理法則で説明できるのに、1%だけ説明できないっていうのは剃り残しのごとき不快感があると。確かに。
それは全身脱毛したくなる気持ちも分かります。
おお・・・!
実は、前レスを書いているとき、途中まで僕も全く同じアイデアを書いていました。
僕はニューロンのBluetooth機能と書いてましたが。
なぜ投稿前に当該内容を削除したかというと、
「それって一つの主観を拡張してるだけじゃね??」と思ったからです。
例えば、猛獣が闊歩する危険なサバンナに超絶有能な詠み人知らずさんと超絶無能な僕が背中合わせで立っているとします。
超絶有能な詠み人知らずさんにとっては、
「やべぇ、こいつ(野良)マジ使えねぇ・・・猛獣が来ても即時報告してくれるか心配だわ・・・😨」
と気が気じゃないわけです。
そこで、お互いの脳内にあるニューロンのBluetooth機能をONにすると、詠み人知らずさんの主観にはたちまち僕の目から見える光景が映し出されます。
ヒトの視野角は水平方向で200°程度だと言われていますが、Bluetooth機能によってなんと360°見えるようになるわけですね。
詠み人知らずさんは「よっしゃ、これでどこからライオン来ようがゲットなんやぜ!!👹」とマサイ族よろしくピョンピョコ飛び跳ね、マサシ族としての矜持(様々な)をアフリカの大自然に見せつけるのです。覚醒剤所持を疑いますね。
このとき、詠み人知らずさんと僕の主観は共有されるわけですが、
詠み人知らずさんの立場から言えば、視野角が200°→360°には広がったものの、
「僕の視界が広がったかどうか」は分かり得ないわけです。
結局、僕に「主観があること」は詠み人知らずさんの主観では観測できませんよね。
ホーガン姉妹の例にも同様のことが言えます。
自分の顔の隣にくっついている顔の目から見える光景が、自分の主観に映し出されていることから、
「クリスタ(あるいはタチアナ)も同じ主観を持ってんねやろな~👯♀️」という予想は彼女らにできるものの、
同じ主観であるという保証はないわけです。
🔴←クリスタにはこう見えているものが、
🔵←実は、タチアナにはこう見えているかもしれません。
その可能性を否定できませんよね。
なぜなら、他者の「主観」を観測できないから。
ホーガン姉妹のように、それぞれが違う自分の身体を持っている、という非対称性があるならなおさら。
それにしても、一体どんな五感になってるのか気になりますね・・・。
クリスタがカレー食ってる傍らでタチアナがウンコ食ってた場合、
夢のウンコ味カレーおよびカレー味ウンコが同時に完成するというのでしょうか・・・。(ホーガン家の皆様、本当にすみません・・・w)
お手数おかけしますが、前レスの疑問②にだけはご回答いただきたいです。。。
自分事で恐縮ですが、自分が現在最も関心を持っている点なので・・・。
一応、再掲しておきます。
「自我の習得」と「アクセス意識の発生」の間に相関関係がある(同時に習得していく)、ということなら納得できるのですが、
詠み人知らずさんの
を読むに、「アクセス意識の発生」⇒「自我の習得」、前者ができたから後者ができるという因果関係があると考えておられるように解釈できるのですが、どのように因果関係があるのか、可能なら言語化していただけると嬉しいです!
僕は基本的に筆者優位の考え方なので、
読者が理解できなかった場合は筆者が悪い、と考えてます(勿論喧嘩の場合は別ですが)。
なので、質問の意図がわかんねーよ!という場合は遠慮なくお申し付けください。
広げまくった風呂敷のうえで居眠りしちゃって申し訳ない。
ひとまず優先事項(疑問②)から見ていきます。
因果関係というわけではないのですが、そのほうが剃り残しは少ないよねって感じです。
われわれ人間においてアクセス意識の発生と自我の習得がどのような順序で起きているのか、その実際のところについて素人の俺は「科学者ガンバレ~」としか言えませんが、人為的な手段で人工知能に自我を搭載させようとするならアクセス意識の構築が先立つのではないかな?とは思っています。
唯物論的な視座から創造論の受け入れを試みてる感じですかね。
>> 20では哲学的ゾンビのローエンドモデルとしてsiriやpepperの機畜に登場してもらったわけですが、「現象的意識しか持っていない存在」って端的に言ってしまえば電卓や路肩の石ころと同じだと考えています。
物理的な複雑さの程度に違いこそあれど、本質は同じだと思うのです。
付喪神とかそういう話はさておき、石ころがクオリアを持っているのかどうかはまちゃはるが哲学的ゾンビであるのかどうかを見極めるのと同じくらい難しいわけです。
というわけで、これもパソコンの話に置き換えるならHDDに保存されているデータを自分のCPUで読み取るのが現象的意識の発揮と呼べるわけですが、そのパソコンに自我を搭載するならば「いまHDD内のエロ画像を読み取っていることを認識する機能」つまり「エロ画像を読み取っているCPUは自分であると認識する機能」が必要になるのではないでしょうか。
マジでその通りですね・・・
いくら自我搭載型のパソコン同士をLAN接続したとしても、結局のところ共有HDDから引っ張ってきたデータを処理するCPUが自我の拠り所になるという意味では「もう片方のCPUに自我が搭載されてるか」は確かに分からないですね、マジその通りだと思います。
ただ、そうなってくると気になるのが脳分離の人に見られる症状です。
右脳と左脳を物理的に分断されてしまうと「右脳が見たものを左脳は見ていない」という状態になってしまうわけですが、では意識はどうなるのでしょうか。
右脳にとって、左脳は哲学的ゾンビかもしれない存在になるのでしょうか?
「物理的要因によりクオリアも分断された」と解釈するほうが、やはり個人的にはしっくりきます。
分断が可能なら統合も可能なんじゃないかな、と思ってます。
そもそも「意識」というものに明確な境界があるのかどうかも曖昧じゃないですか。
赤ん坊の例によると自我は後天的に習得するものですし、結合双生児の場合は別々の意識を持っているにもかかわらず何の支障もなく体の主導権を融通して行きたい方向に歩けると聞きます。
産まれる以前からそういう状態だったので、もはやそれが当たり前の感覚なんだとか。
われわれ人間が「ムカデが歩くときの足を動かす感覚」を意識できないのと同じように、足の本数や可視光の波長域、あるいは脳の数にあわせて、適した鋳型にハマる感じで後天的にアクセス意識および自我などが形成されているのではないでしょうか。
まさか>> 1の人が伏線になるとは思っていなかったのですが、ブラフマンとアートマンのような感じかもしれません。
テレビに映っている福山雅治とそれを見ている俺は、事実上は別の母親から生まれた個別の存在だけど、分断された右脳が俺になって左脳が雅治になったと考えても本質的には同じだと思うわけです。
>> 26
疑問②へのご回答ありがとうございます!!
ああ、なるほど、そういうことですか。
唯物論的感覚からすると、自我よりもアクセス意識のほうが物理的世界に親和性がある気がする、ってとこですかね。
確かに、僕も唯物論的感覚の持ち主、通称ユブラーであることから、なんとなくその感覚は分かります。
「現象的意識野郎なんざ電卓と一緒なんだ!石ころなんだよ!!😭」というけたたましい慟哭についても、ユブラーの僕にはしみじみと心から共感できます。安室ちゃん何で引退したんだ!😭
・・・ってぼんやり思ってましたけど、以下を読み、反芻した結果、アクセス意識が発生した赤ん坊のごとく新たな仮説に至りました。
これは「アクセス意識」のことですが、
これって、実は「自我」そのものなのではないでしょうか?
最初この文章を読んだとき、強烈な違和感のクオリアが僕のアクセス意識を駆け巡りましたが、その正体がつかめずにいました。
しばらく反芻した結果、この文章の「つまり」で同値変形されている前者と後者が同値ではなく、尚且つこの文章全体が「自我を搭載するなら自我が必要」みたいなあたり前田のクラッカー構文になっているかもしれないと思いました。
この「~しているのは自分であると認識する機能」とは即ち、
世界から「自分」を切り離して自分を認識する機能、
言い換えれば「自分と他者は異なる存在であると認識する機能」、
イコール、「自我」そのものなのでは?
と、ここまで偉そうに批判めいた文章を書いてきましたが、このときの思考プロセスのなかで「自我とはなんぞや?」と問い直した結果、
「アクセス意識の発生と自我の習得、やっぱり因果関係にあるんじゃね??」という新たな仮説に至ったのです。
生まれたばかりの赤ん坊が、ンギャンギャ言いながら母親と同一の存在のつもりでいるとき、赤ん坊は「ボーっとしている(現象的意識しか存在しない)状態」だと思うんですね。
そして次第にボーっとしている状態から「開けた(アクセス意識が存在する)状態」に遷移していきます。
このとき、赤ん坊は外界に干渉していきながら、
「おや?近くの肉を触ったときと遠くの肉を触ったときでクオリアが発生したりしなかったりしますね。
ほう、これが“自我”ですか…
たいしたものですね」
と、徐々に自我を習得していき、ゆくゆくは炭酸抜きコーラを愛飲するグラップラーに成長するんじゃないかな~と思うんですよ。(オイオイオイ)
「アクセス意識」と「自我」の関係はこんな風に整理できるかもしれないと思ってます。
福山雅治ファンに怒られますよ。
おお!的確なモデルですね!
僕も以下のような数学風モデル(というか例え)を考えてました。
画像にある放射の中心点は「主観」です。
なので、この画像には3人の主観が独立して存在する、ということになります。
この点は縦横の長さがともに「0」だと考えてください。
主観からは、画像(物理的世界)内におけるすべての現象を観測することができます。
ただし、縦横の長さが「0」であるため、他の主観だけは観測することができません。
他の主観を観測するために、他の主観と「融合」してみるのはどうでしょう?
前述のBluetooth同様、主観を拡張しただけって結果になりかねませんね。
おそらく、このモデルに関して詠み人知らずさん的視点から可能かつ簡単な反論は、
「は?キモ。つか息くさいし。
縦横の長さが0って何で断言できんの??勝手な前提つくってんじゃねぇぞガリデブ!!アァ~ン!?」
といったところでしょうかね。
画像全体をブラフマン、放射の中心点をアートマンと読み替えても良いかもしれません。
なるほど、主観そのものを観測することはできないものの、「自分以外の主観が存在するだろう」という確実性の高い見通しは可能だろうというわけですね。
ふむ、今のところ二元論好き好き人間、通称ニガーを弾圧するための一番の有効打になりそうですな・・・KっKっKっ・・・
我ら唯物論至上主義団体の繁栄のため、参考にさせていただきますぞ。
う~む・・・痛いところですよねそれは・・・。
前回、ホーガン姉妹の問題について、「Bluetoothと一緒だわさ!!」と僕はキメ顔でそう言いましたが、ちょっと勢いで言い過ぎたかなぁとも思ってます。
「意識が独立している」という前提であのようにキメ顔したわけですが、
実際のところ本当に独立しているのか、それこそ僕らの主観では分かり得ず、
もしかしたら「互いの主観を観測できる」という、僕らにとって超異次元的感覚である可能性を否定できませんからね・・・。
であるにも関わらず、やや断定的な物言いをしてしまったこと、このことは小林敬さんに「謙虚ライオン!!」と糾弾されかねない暴挙であったと認めざるをえません。
僕は二度とキメ顔なんてしない。いえーい。ピースピース
ついでに、疑問①について補足説明をしておきます。
アクセス意識が生じるために必要なのは、内的な(観測者の)判断であって、外的な物理的条件(量や規模など)ではないのでは?
例えば、新聞紙を読んでいるとき。
集中力が切れて別のことを考えボーっとしているとき、新聞紙の文字はアクセス意識にのぼっていませんよね。
現象的意識にはのぼっているにも関わらず。
ここで、「ハッ!やべっ、集中して読まな!」と判断したとき、文字はアクセス意識にのぼりますよね。
このとき、外的な物理的条件は変化していますか?
以前こんなことを言っちゃいましたが、すべてのパターンを「内的な判断」と表現するのは表現漏れがあるかな~と今になって思っています。
例えば、令和の二宮尊徳こと詠み人知らずさんが、歩きスマホでzawazawa喧嘩界ホームページを閲覧しながら道路をフラフラ歩き、僕への恋文を綴り始めたまさにその瞬間・・・!
パーーーーーーーーーーーッ!!!!🚚
ッどこ見てんだバカ野郎!!!!
zawazawa喧嘩界です!!
トラックの運ちゃんから無事タンコブをいただいた詠み人知らずさんは、
潤んだ視界を通じ、道路のど真ん中に立っている自分に気づくわけです。
この場合、外的な物理的条件(クラクションの音量)xが閾値を超えたため、
アクセス意識が生じたと解釈することができます。
では、やっぱり内的な判断ではなく外的な物理的条件ではないのか。
僕としては、「内的な判断」という言葉には二種類のケースを含めたつもりでいて、
ケース①
外的な物理的条件xが閾値を超えたことで、脊髄反射的にアクセス意識が生じる
ケース②
外的な物理的条件xは閾値を超えていないが、観測者の自己選択によりアクセス意識が生じる
ケース①については、神経回路による内的な反射、即ち「内的な(無意識による)判断」とは言えるかもしれないものの、「内的な判断」とだけ表現してしまうと「観測者が選んでそうしてる」、みたいに読み取るのが自然になってしまうのでちょいと微妙な表現でした・・・。
・・・すいません、自分凝り性なもんで、考えついたこと全部形にしたくなっちゃうんです・・・。
長ぇよバカ!と感じたらいつでも仰ってくださいね。うるせぇバカ!と思いながらも調節しますので。
本当に、詠み人知らずさんの興味あるとこだけ拾ってくだされば満足なので・・・。
分かります。俺もそういうクオリアを胸に抱きながらその部分を書いてました。
ただ、赤ん坊をはじめ霊長類やイルカ、像などに施されたミラーテスト(別名ルージュテスト)についてやんわり調べていたところ、「いや・・・でも直感的にそうだわ、たぶん正しいわ」みたいな感じの強烈な確信が稲妻のように迸り、そのまま書くに至った次第です。
生後間もないバブちゃんは自分を母親の一部分だと思ってるわけです。いや厳密にいえば「思ってすらない」どころか「肉で出来た地蔵のようにただ物質としてそこに有る」って状態なんでしょうけど。
で、野良さんが言うように、外界との接触を継続的に繰り返すことで「アクセス意識を得られる範囲(自己)の外輪」を指でなぞるように少しずつインプットしていくのだと思うわけです。
ムカデの赤ちゃん場合は、ここで50本の足に適応した鋳型が作られる感じでしょうか。
ほう、これが“自我”ですか…
ここに書かれているような「クオリアを知覚する機能」も、元々は備わってないんじゃないかな?と考えてます。
ユイブニストとして語弊を恐れず極論並べ奉らせていただくのであれば
結局のところ、赤ちゃんってある意味では母体の子宮の中にできたオデキ・・・物理的にメチャクチャ精巧で複雑な構造のオデキだと思うんですよね。
近くの肉と遠くの肉を触ったときの物理的な刺激の差異を元に、最初期は機械的なディープラーニングを行っているが、持ち前の高度な物理的機能によってより一層複雑な学習をこなせるようになっていき、やがて自分を客観視できる次元(自分じゃない存在を自己流で定義づけ、自分からそぎ落とす次元)に到達する・・・というのが俺のイメージに近いです。
そのために必要となる物理的な複雑さこそが その現象が「現象そのもの」を認識するために必要な物理的条件(量や規模など)をxとしたとき のxにあたります。
また、人工知能の自我についてもう少し言及するならば、自由意思の有無についても語られたりしています。
いわく、機械は他者によって入力されたタスクを目標に設定するが、人間は目標そのものを自発的に設定できる・・・だとか何とか。
でも、俺たち人間においても「真に純粋な自発的選択」なんて無くないですか?
バタフライエフェクトじゃないですけど、物理的な因果の連鎖って受精をまたいでると思うんですよ。
意識がどうのこうの~というよりもまず「物理的な"自分"はどこからどこまでなのか」ってのも謎めいてくるわけです。
子供のころ、タイム風呂敷をかぶったジャイアンが赤ちゃんになるのを見て「こいつのデカい図体って元々は肉や野菜だったはずでは?どこに消えたんだ?」と揚げ足をとるようなキショいガキが厚かましくも大人になってしまったのがこの俺という存在なわけですが、タイム風呂敷に包まれて無限の時間を過ごしたら、世界に初めて出現した原始の物質まで遡及することになると思うんです。
そう考えると、少なくとも「ほぼほぼ形而下の現象とみて間違いないであろう現象的意識」に関しては、ブラフマンとアートマンってまさに同値だと思うんですよね。
そしてアクセス意識や自我やクオリアに関する認識においても「どこからどこまでが自分なのか?」という目線で考えるのではなく、「ブラフマン的全体像のうち、物理的な複雑さが濃い部分と薄い部分があり、濃い部分はアートマンの濃度も濃くなる」みたいな認識もできるのではないでしょうか。
>> 28
最初期は機械的だった学習が、複雑化していく過程のどこかで自分を客観視できる次元に到達するが、到達のタイミングがアクセス意識発生の前か後かは不明、
というご見解ですね。
確かに、自我の定義によってはそうかもしれません。
ああ・・・「個」という見方そのものが間違ってるんじゃね?
という見方もできるわけですね。
仮にそれが真実だとすれば、キリスト教的な神はいよいよ胡散臭さが決定的になりますね。神が一人ひとりを愛して魂を与えたなんてのはウソっぱちで、クリスタとタチアナには合計1.5個くらいの魂しか与えないケチ臭ペテン師差別野郎ということになり、ホーガン夫妻に提訴されることでしょう。
なるほどなあ、「個」という思い込みさえ取っ払えば、創造論vs進化論に関して僕が感じている創造論サイドのアドバンテージが弱まるかもしれません。
「意識(主観)」なんてのは崇高なものでもなんでもなく、
「個人」に対してではなく「複雑さ」に対して与えられるものであり、
物理的世界における多種多様なグラデーションの一つに過ぎないのだから。
詠み人知らずさんが以前こういったことを仰っていましたが、これには僕も賛同しています。
感情の有無や強弱だけでなく、意識体験の強弱についても同様のことが言えると考えています。
他者の一挙手一投足に一喜一憂するようなクオリア豊富な人もいれば、パワハラレベルの圧をかけられないと他者の意向に気づきさえしないクオリア欠乏な人もいるかもしれません。
そういう意識体験の強弱も、人間の人格形成に寄与しているのかもしれませんね。
そしてクオリア欠乏な人は、平均的な人間より「個」である度合いが低かったりするのかもしれません。クオリア豊富な「人間」というよりは、「肉で出来た地蔵」に近いのかもしれない。
核心に迫るヒントをいただいたので、話題提供がてら、
僕がなぜこの問いに執着するのかを述べます。
僕はこの問いこそが、「人は何のために生きるのか?」というあるあるテーマの大前提になると考えています。
人という存在がもし、物理的現象でしかないのなら、我々がこうして思考することも物理的因果に依拠した必然でしかなく、
Q.「人は何のために生きるのか?」
A.「何のためでもないです。石ころは何かのために存在しているわけではありませんよね。」
という結論が自然と導き出されるかと思います。
それでも人は、ニヒリズムやペシミズムに陥らず、前向きに生きることが可能だと思いますが。
例えば、快楽主義がそうですね。
イキテるコトにイミなんかねェケド、オナニーキモ゛チイイからソレでいいッショォ!!👺
と言いながら利き手を愛し続け、一定の幸福度を維持しながら幾度ものクリスマスを越え天寿を全うすることも可能かもしれません。
お答えしづらいであろう陰気な質問で恐縮ですが・・・。
詠み人知らずさんは、快楽主義をもって生きることを肯定していますか?
みなさん、大変ご無沙汰しております。
KANAMEです。
このトピックにお邪魔するのが、なんと10ヶ月ぶり。
今思えば、「お前、今までどこで油売ってたんだよ。殺すぞ」と罵られないために暴言を禁止にしていたのだなぁとあらためて思い知らされました。
ありがとうございます(?)。
それではとりあえず>> 11に返していきましょう。
その日 人類は思い出した…
奴らに支配されていた恐怖を…
鳥籠の中に囚われていた…屈辱を…
はい。というわけでね、もしかしたら俺たちには「言語」以外の意思疎通手段、つまり超能力みたいなものが備わっていた可能性があるんだ。
ピラミッドもきっとその力を行使することによって、古の人類が作り上げたに違いない。
ところが、俺たちはその力の使い方をどういうわけか全員忘れてしまった。
これには深い事情があるはずなのだけれど、一応俺の仮説を書いておくと…
超能力によって巻き起こってしまった大規模な利権争いによる殺し合いが行われてしまったからなんだよ。
これは現代を生きる人類の想像を絶する。
どのような手段を用いて、争いを止めた(我々の記憶から力の存在を抹消した)のかは定かではないけれど、とにかくネット上でチラチラ散見されるレスバトル(笑)なんてのはかわいいもので、その時代は人類滅亡の一歩手前までいっていた、ということなんだ。
ある日とつぜん地球上の全人類が超能力(仮称)を忘却してからというもの、世界は平和になるかと思いきや、また別の形で争いを始めてしまったんだ。
それが科学の力であり、お金の力さ。
結局俺たち人類の本質は超能力(仮称)を奪われても何も変わらない、愚かな生き物ということなのかもしれない。
俺たちは言語を会得したのではない。
超能力(仮称)を失って不完全な存在に成り下がり、万能感の供給がなくなったことによって「不安」という感情が芽生えてしまっただけなんだ。
ビリビリと電気を走らせ、壊れたまま起動し続けるロボットと同じようなものだよ。
生まれながらに呪われている。
それがニンゲンと呼ばれる生命体だ。
だから俺たちは第一に不完全な存在であることを認めなければならない。
完全な存在(神)への信仰やお願い、幻想を抱くのをやめて、現実を直視しなければならない。
不完全な状態であることが完全な状態であることを認識し、何も不足がないことを悟らなければならない。
そのために宗教と呼ばれるものができあがったんだ。
生涯をかけて、自己言及的命題に向き合った哲学者や思想家の多くは、それらを一般人にもわかりやすく提供し、新たな法として定めようと考えた。
その結果が今だ。
ご覧の通り、ユダヤによってそれは阻止された。
彼らは真実よりも終わりのない目先の快楽に溺れることを選択したんだ。
そして布教した。
結果は大成功だったみたいだよ。
何せニンゲンってのは心が弱いからね。
嫌なことがあるとすぐに楽な方向に流れる。
その集団心理に訴えかけて洗脳するのは容易かったはずだよ。
おかげでユダヤ人の企業は大儲けさ。
彼らは自分の欲求を満たすことに知能や言葉という道具を使っている。
つまり「不安」を逆手に取った、ということだよ。
賢いよね。
ところで、確かヒトラーがユダヤ人を根絶しようとしたよね。
この話前にもどこかでしたような気がするけれど、彼はきっとドイツを守りたかっただけだ。
ユダヤ人の脅威にいち早く気付き排除しようとした。
その際に彼はユダヤ人から「言葉を奪った」らしいよ。
どういうことかわかる?
言葉を失うっていうのはね、出自の文化を失うということだよ。
たとえば、今君たちが使っている日本語。
これが消えたら、君たちは日本人で居続けられると思う?
アイデンティティの話だよ。
民族浄化とはこうやって行われるという一例を、ヒトラーは示してくれたように思う。
ところがユダヤは根絶やしにできなかった。
彼らは言葉を失った文化を再建築したんだ。
恐ろしいでしょう?
再起不能とまで言われたのに、今や世界のトップに深く腰掛けているのはユダヤ人ばかりじゃないか。
ここまでくると、ニンゲンには二種類存在しているのかもしれない、と勘繰ってしまうよね。
ユダヤかそれ以外か。
話が脱線しちゃった。
えーっと、人類が言葉を失ったら?だっけ。
有る状態から失っても、失っていた状態がスタンダードだった状態に戻るわけじゃないんだ。
一度壊れたおもちゃを完全に修復することができないのと同じように、俺たちニンゲンも、生まれながらに欠陥品なわけだから、それをどうこうできないわけさ。
ぬわいえいるれいとほうてぃーぷならできるかもしれないね。
しかしそれは白馬の王子様を待つよりも根気がいる作業だし、とてもおすすめはできない。
俺がここで話している解決策ってのは、前にも言ったようにあくまで理論上の話でさ。
壊れたおもちゃでもみんなで認めてしまえば無駄な修理のために部品の取り合いをしなくても済むんじゃない?ってことよ。
でもニンゲンって部品を取りに行くまでの過程(物語)に一喜一憂するから、それがなくなっていっちゃうかもしれない(芸術が死ぬ)この提案の行く末はちょっぴり哀しい気もしている。
でも安心して。これが現実味を帯びてくるのは俺たちが死んでからずっと先の話だよ。
それから、侘び寂びの件についてはこっちで話そうかなと思います。
『ペイフォワード』最高だよねぇ。
『イエスマン』は見たような見てないような。
『メッセージ』は、見たことあるけどうろ覚えで、なんかすごく細長い舟が印象的だったのはその通りなんだけど、中に入ると重力や向きの概念すら覆されてしまったというところが衝撃だったかな。
少なくとも俺たちニンゲンは、それを一度経験しているはずだよ。
なんせオギャーからいきなりぺらぺらとネイティブレベルの母国語を話し始める赤ちゃんなんていないからね。
なかなかユニークな発想だね。
俺が思うに、座禅ってのは意識的に思考停止させる訓練みたいなイメージだけど。
いや、言ってることは同じか。
ただアニマル化っていうと定言命法のほうがニュアンスとして近いと思う。
詳しいことはよく知らないけれど、カントと仏教には密接な関係があるのかな?と思ったり。
それから、オートマチックに言語迷宮に迷い込むのがニンゲンの罪だからさ。
出口のない通路を勝手に歩く足を止めましょうってことだと思うよ。
ぴえんとか嘆いてる若者こそ、こういう思想に早い段階で触れていればメンヘラとか存在しなかったかもしれないね。
でもそうすると少女漫画とかポエムとかの価値を損なっちゃうかも。
未知が生まれて、それが未知のままであるということが既知であるとき、その答えを埋め合わせようとする行為に嫌気が差したとも言える。
そこに価値を与えることでしかニンゲンは救われなかったというのがことの顛末じゃない?
メトロノームの同期動画見たけど、これを社会に置き換えるなら『攻殻機動隊』で言うところのスタンド・アローン・コンプレックスだね。
>> 12
まず、俺は創造論者ではないよw
よく読んでもらえらばわかると思うけど、教典そのものがさまざまな事象をわかりやすく伝えるための物語としての役割を持っているのだろうな、という立場。
俺はキリスト教ではなく、仏教の天台宗だ。
それで、「意識(主観)はなぜ存在するのか?」という話だったね。
正直、詠み人知らずと野良の両者で話が展開しすぎているので、そこも含めて返信を書きたいと思います。
まず、目に入ったのは科学信仰の話。
残念ながら創造論vs進化論の話にはあまり興味が持てなかったので(その中身はいろいろ書いてくれてるみたいだし)、俺はあくまで哲学的な視点から意見させてもらうけど、科学的なものを信仰する人間の価値観はどこからやってくるのか、それは果たして正しいと言えるのか、ということをテーマにしたい。
たとえば、俺の知人のキリスト教徒は、経済が悪化して国力が下がり、生活水準が落ちても「別にそれはそれでいいじゃないですか。みんなで農業とかすれば(笑)」という立場だ。
スマホがなくなろうが、自動車がなくなろうが、「それが何か問題なんですか?」みたいな。
確かに科学の力は素晴らしい。
俺たちの生活は豊かになった。
ノーベル賞をあげたくなる気持ちもわかる。
こうしてインフラが整ったことで、赤の他人とインターネットを通じて交流を持つことができる。
だとしても、「科学的ではないもの」との比較で、どちらが素晴らしいのか甲乙つけられるものなのか?
あるいは、「科学的ではないもの」同士であったとしてもだよ。
俺たちが無意識に下しているものの価値の判断、値踏みは、等しく感覚的に与えられているものにすぎないのではないか、と思ったりするわけで。
つまり、科学者が科学を信仰することに科学的な根拠はあるのか?というのが、昔から気になっていることのひとつなんだよ。
今までこの類の質問にしっくりくる回答を与えてくれた人がいないので、よかったら誰かチャレンジしてね。
意識とか主観とか、いろんな呼び方をされるものの正体を突き止めよう、みたいな話について。
俺は人間と哲学的ゾンビに違いは感じないよ。
いずれも物理的化学的電気的反応な連続が表出したものにすぎないと思ってる。
>> 16で言われている
というのも、複雑化した反応による当然のリアクションだとしか思ってない。
学習機能のあるAIがそのプログラム通りに動くのと、人間が恋をするの、同じじゃない?
強いて言うなら、プログラミングの量くらいでしょうよ。
>> 17の
これ。
なぜ意識体験が生じることが前提にあるのかがわからない。
ただ俺たちは捉えたものを「こういう感じ」としてアウトプットする言語的機能を持ってるだけでしょう。
小学生の頃、ザリガニとウシガエルを捕まえて同じバケツに入れてたら、ザリガニがウシガエルの足を挟んでしまったことがあった。
そのとき、ウシガエルはなんとも形容しにくい鳴き声をあげたよ。
この鳴き声は、「痛み」を与えられたことによる副産物だと思うが、それを表現するバリエーションが人間とウシガエルとでは差があるってだけの話なのでは。
人間ほど脳が発達してないウシガエルが痛みに対するリアクションとして鳴き声をあげるのは、そうプログラミングされているからにすぎない。
しかし人間の場合は経験でそれぞれ独自の学習プログラムを組み込むから結果としては人間の行動には一貫性がないように見えるが、実はみな各々のプログラムにしたがって反応しているとするならバラバラの結果でも筋が通る。という寸法なわけさ。
ブラインドサイトってのには驚いたけど、それも同じロジックで説明付けれる気がするよ。
そう考えると「中央監視室」なんてものの存在がすでに眉唾なんだよね。俺からすると。
>> 18
動物に例えると誤差はあれどほとんどが同じリアクションをとる。
ロボットの場合も同じ。
では人間は?と考えたときに、物理的に同一ではあるが、同じ刺激に対し別のメカニズム(経験を含んだ行動原理)で反応するから、別のリアクションを出力することは何もおかしくないと言えちゃうよね。
ざっと飛んで>> 28(一応すべてに目を通してます)
まさしく俺もそう思う。
自由意志なんてないのでは?
動物より行動原理が複雑化しただけ(行動の発生装置が「本能」から「欲求」に変換されただけ)であって、実際のところやってることに大差ない気がするよ。
>> 29
彼は答えたがらなそう(察し)なので、俺が代わりに答えるとしようか。
答えは、イエスだ。
しかしここで言う「快楽」とは、利き手との戯れ(目先の快楽)に偏ることなく、ニヒリズムやペシミズムに陥ってしまう心的ジレンマを解消すること(永遠の享楽)も意味する。
120点ください。
金八先生が「人という字は人と人が支え合っている」という名言を残しているけれど、この言葉の成り立ちとしては骨文字で「一人の人間を真横から見た形」だそうで、別に支え合っているわけではないそうだ。
それはさておき、「人」という字を使って、もうひとつ違った解釈ができるのではないかと昔から思ってるんだけど、「人」って逆さまにすると「Y」みたいな感じになると思うんだよね。
要するに支え合っているのではなく、さけていると言いますか。
個人的に「さけるチーズ論」って呼んでるんだけど。
「人」は「l」(一義的な世界)に「間」が生じるから「人間」って言うのかなぁなんて勝手に妄想を膨らませている。
この「間」とか「さけている状態」ってのが、言い換えるなら原初の「母」との鏡像的一体性が切断され、すでに失われたものとしての「母」=「もの」(das Ding)を欲望の対象(objet de désir)に据えるってことなのかなと。
つまり「Y」から「l」への回帰現象が人間の本質的(?)な行動原理ではなかろうかと。
ただその対象って文字通り「すでに失われた対象」(自我がなかった頃の状態を認識できない)だから別の何か(自己実現の対象)にそれが置き換わっているというのが実際のところだと思う。
つまり「Y」の片割れは存在しない。
そんなこと知る由もなく片割れに向かって同一化を図ろうとするのが人間が最初に植え付けられた強迫観念でそういう意味では全員精神病になるプロセスをスルーできないというか、避けては通れない道なんだと思う。
ただそれに気付こうが気付かまいが、結局「私の欲望」は「大他者の欲望」で、私の欲望が象徴的秩序によって構造化されていることはやはり否定できない。
たとえば、アフリカの奥地でそこの住人たちには馴染みのある生活必需品であるが日本人にとっては見たことも聞いたこともないものがあったとすれば、俺たちはそれを望むことができない。
せいぜいできるのは既知の欲望の対象のチャンネルを変えることくらい。
変えたほうのドラマにおいても、シナリオの中で演技させられているだけということは変わりはない。
となると、「生きていることに意味なんてない」ってのがひとつの真理になるわけだけど、「自分という意味が剥奪されても、絶望を感じることがない」存在ってまさにニーチェのいう「超人」そのもので、現代人はどちらかと言えば真逆で、東浩紀が言うような「動物化」(animalisation)が進行しているというか、「意味」という刺激に反応して「欲求」を満足させようとする側面が強いのかなって感じ。
TikTokとかが流行るのもそういうことじゃねーかな。知らんけど。
フリードリヒ2世の赤ちゃん隔離実験とかありますよ。
>科学者が科学を信仰することに科学的な根拠はあるのか?
科学は必ず一定の仮定より出発するが,哲学はその仮定の成立根拠を問う
科学が正しいものだと信仰する段階に至るまでの過程において、フィルターがない
つまり、無意識に教え込まれている。
ここだけ聞けばわからないかもしれんから詳しく論述すると
第一に
人は小さい頃から道理について学んできた。
何が倫理的に良いか、そして倫理的に悪いものは行ってはいけない
それっていわゆる、人からの教え込みによるもので、そこに「その教え込みが正しいかを見極めてから排斥するかどうかを決めるフィルター的役割」が存在しない。
科学もそれと同じように、
科学を開発した人たちも、過去にはそういう様なフィルター無しの状態での教え込みによって思考が形成され、そうやって常識たるものを作ってきた。
それは、信仰についても同じことが言えるでしょう。
なにを信仰したら悪いか良いか
それはフィルターなしの状態で押し込まれているから、科学的根拠はないと言える
だがなこの考えは余りにも常識に縛られすぎている。
脳にも魂が宿っており、思考を生き物だと仮定するやり方を使えば、科学を信仰することに科学的根拠があると言える。
そもそも思考というのは、赤ちゃんの頃から存在しており、
赤ちゃんのみんなはどう行動すれば、正しいのだろうかという直感で動いてる。
しかし、直感というのは思考ピラミッドが元でピラミッドの先端の段階に存在しているのが直感。
直感は、無意識が軸だと言えることもここでは忘れてはならない。
ということは、科学が正しいという信仰に至るまで、人からの教え込みというものがあるが、その教え込みとはまさに思考がその情報を鵜呑みにしていいかを判断している。
そこで、思考が思考をする という表現は伝わりにくいが、
思考が「その教え込みを鵜呑みにしていいか」を処理しているということは、それが仮定になって信仰するという行為に移るため、
>科学者が科学を信仰することに科学的な根拠はあるのか?
あるということになります。
てか>> 34って誰に向けた発言なの?
>> 34
いや必ずしもそうではないよ。
科学がある仮定を科学的方法で検証するのに対して、哲学はそれを記述によって行う。
たとえばプラトン哲学で言えば、「もの」には「イデア」と呼ばれる概念(魂のようなもの)が宿っており、その住処である霊界が存在していることを仮定していて、その断片による再現性を与えられることこそ「学習」なのだ、と説かれている。
そもそも、「一定の仮定より出発する」って、最初の哲学者と呼ばれてるタレスの時代からすでに行われてるよ。
「万物の根源は水である」って言葉は有名だと思うけど、これはとどのつまり「世界は神がつくった」という説の否定(仮定)だからね。
そのために「水」を物質として扱い始めたのが自然哲学の始まりだから。
そして、その「物質」に「魂」のようなもの(イデア)があるんやで😄
と、したり顔で観念論を押し付けてきたプラトンに対し…
タレスの自然哲学をアップデート(つまり現代で言うところの「物理学」)しようとしたプラトンの弟子であるアリストテレスが
「なにいってんだこいつ」
と心の中で言い放ったと噂されている絵が
コレでしょうよ。
だから俺は尋ねたいわけだ。
物理信仰の現実主義者がそれを選択することに科学的な理由があんのか?と。
「脳にも魂が宿っている」
「思考を生き物だと仮定する」
「赤ちゃんのみんなはどう行動すれば、正しいのだろうかという直感で動いてる」
先行研究も提示せずに科学的根拠があるってどういうことですか。
俺に「なにいってんだこいつ」って言わせないでくれ。
お前がやってるのは単なる形而上学、というか程度の低い妄想の類だよ。
別にここは哲学トピックだからあれこれ思索を深めるのはいいんだけど、「思考がピラミッド」とか「直感は無意識が軸」とか意味不明だから他人にもわかるように説明してみ。
野良や詠み人知らずがやってるみたいに自分の考えていることをちゃんと言語化する努力をしましょう。
「人からの教え込み」とやらから逸脱するイレギュラーについても既出というか>> 31で回収済みだし(なんなら俺があえて明確に書かなくてもここの参加者の大半は想定済みの意見だと思うけど…)もっとしっかりしてくれ。マジ頼むわ。
>> 33
う~ん実に興味深い。
残酷だけどなぜ死んじゃったのか気になるね。
そもそも一部の人たちから愛情とかふれあい不足が原因と考えられていることがいまいち腑に落ちない。
世界を分節するための機能が備わっていると仮定して、そこに言語の表出がなされなかったことが死因なのか?
「発話障害」とはまた違うしね。彼らは少なくとも言語による理解(読み書き)はできているはずだから。
>> 32で言うところの強迫観念がないと生きようとする欲求を喪失して物理的な影響を及ぼすってことなのかな。
結果から見ればそういうふうにしか俺は考察できんな。
理解できない未知の物事に不安や恐怖を覚えるのが直感に由来する反応なら、ピラミッドの先端って扱いは何となくわかる。
こう考えれば辻褄が合うよね!ってな具合に、状況証拠だけを頼りにして未知の物事を「理解可能な鋳型にねじ込む」のがいわゆる科学的アプローチなので、その結果として導出される科学的結論が科学以外の分野においても同じく真理であるのかどうかは科学的にさほど重要じゃないのかもしれないな。
自己言及のパラドックスは文字通り自己に言及した場合にのみ生じるものなので、何とも皮肉な話だけど「科学的結論の正しさはあくまで科学のみによって担保される」という感じで科学の外側からの目線で言及することで科学的な整合性を保つことはできると思う。
つまり「科学を信じれば科学的には辻褄が合う、なので信じます」ってのは科学を信じる科学的根拠として機能してるかと。
>> 29
トピック見落としてて質問ごと放置しちゃってたので、今更ながら答えておきます。
もう見てないかもしれないけど、野良さんごめんよ。
幅が広いテーマだと思うので、現時点では「否定はしない」としか答えられそうにないです。
快楽主義と一言でいっても、その中には自分の快楽を何よりも重視する考え方もあれば、最大多数の最大幸福を掲げる功利主義なんかも含まれてると思うんだけど
「そのどちらかに偏ってる生き方」はあまり肯定する気になれないかな。
このままだとトロッコが5人を轢き殺してしまう、進路を切り替えたら5人を救えるが別の1人を轢いてしまう
・・・みたいな道徳問題よく見かけるじゃないですか。
基本的にはレールを切り替えて5人を救うべきだと思います。あるいは、その5人全員が余命いくばくかの病人で別の1人が若い子供だったりしたら、子供を救うという選択は肯定します。
この辺はまさに最大多数の最大幸福に賛成です。
ただし
これを生き延びたら幸福な人生を歩めるであろう5人と「家族や友人などの自分にとって大切な人」のどちらか片方しか救えない、みたいなシチュエーションだったら、最大多数の最大幸福なんて無視して利己主義な判断を下しても仕方がないとも思います。
「人は何のために生きるのか?」という問いに答えるなら
利己主義と功利主義のはざま、あるいはニヒリズムと快楽主義のはざまでゆれ動くために生きているんじゃないかな
そういうのが人間性じゃないのかな、ってのが俺の考えです。
ふむむ。
“哲学的雑談”と見て若干好奇心が湧いた為自分もこのトピックに伸し掛かろうと思ったのだが…
最後のレス(詠み人)が浮上し約3年程の月日が経過している・・・また、殆どがこのサイトの上層部で当たる人物であったり、中々の実力者と見られる人物により構成されたスレである為、多少抵抗が在り本能的に伸し掛かる事を拒んでいるな・・・。
てかこれ、今まで話題の流れに沿り会話が続いてきたのにも関わらず、いきなり遮断して別の話題持ち出していいのかしら・・・まぁ、何年も経ってるし、いっか。
全体的なRoundTableの浮上率と俺の今から提唱する哲学的話題の需要性を演繹して考えてみると、中々更に伸し掛かってくれる優人が居るとは思いませんが、軽く話題を振ろうと思います。宜し熊の糞。
【題】“世界五分前創造説”
“世界五分前創造説世界(〈別名〉:五分前仮説)は、バートランド・ラッセルに依って提唱された懐疑的且つ哲学的な思考実験の一つである、簡単に解説をすると。
??《世界は五分前に創造されたのかもしれない》というもの。
まぁ一見は「は?w 何言ってんの?俺1時間前に放送されていたプリキュ〇をみてたが?」等と、五分以上過去の記憶、根拠があるからして世界五分前創造説は論理的な破綻と言える様にも見える。
・・・だがよ、実はこれがそう言えないんだよ。
ぶっちゃけ投槍で言ってしまえば
“パルスという生き方”とかいう宛もローランドが付けそうなスレ名でパルスと重力おにぎりがバチバチで殺り合ってたから、そっちを見た方が世界五分前創造説の意味やら理解をし易いってのはあると思う。あ、因みにだが勿論“世界五分前創造説”な「5分」である深い意味は無い。
純粋に「仮説の一つ」で5分ぐらいにしようか程度で設定された時間帯なだけらしい。
まぁ取り敢えず「何故、世界五分前創造説の真偽を断定出来ないのか」について丸数字を用いて区切っていこう。
❶創造者が不可知的存在に辺ると仮定されているから。
んまぁ例えで言うと如上で野良さんやら詠み人さんやらが熱弁されている“神”の存在。
こちらも(いや、こちら“が”が正当な指しであろうか。)人間が観測できる範疇内を大いに超越してる存在の一つ、これを所謂“不可知論”という。つまり、我々人類が何故“世界五分前創造説”を論破する事が出来ないかと言えば〈創造者が、不可知的な存在である為「どの様な/どれ程の“力”を持っているか」が観測不可能である為〉である。長々と解説文をカキコしてるだけでは理解し難いであろうから、軽く世界五分前創造説についての例話をAとBにして貰おうか。
【A「世界五分前創造説って知ってるか?『世界は五分前に出来ていて、実際は5分以上前を俺らは生きていないのでは』という仮説なんだけど、お前はどう思う?」
B「うーん。5分前以降を我々が生きていないと言っても、実際俺は5分以上前に昼食を食べたからな。
飯の写真を撮ったから、端末内から撮影時刻を確認すれば“五分前創造説”は破綻するくね?」
A「神は5分以上前にお前が飯を食ったと感じる/また、その端末で5分以上前の時刻に設定ってのを神がプログラムしたのでありその記憶は虚偽記憶なのでは?」】
こんな感じだ。“もしかしたら”神はその様にプログラムする力を所持しているのかもしれない。
今から個人的に想定できたこのトピックの読者が“過去の存在の証拠”と(一見)思う(反駁にもなり得る。)であろう現代的な道具をいくつか挙げよう。
「カメラ」や「メモ帳/日記」、「履歴」等がある。
だが、これらは全て「神(不可知的存在)が『読者がこれらを“過去”と感じる様にしよう。』とプログラムした。」と反駁されれば論証出来なくなってしまう、事実上ラッセルも今如上で挙げた“反駁”と類似する仮説否定者に提唱した。
ラッセル「世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである。」
— ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)
引用:Wiki と。
ただ、所持してるか否かを確信を付けることが出来ない、だからこそ論破出来ない。というもの。
類似した同じ様なものので水槽の脳や、仮想現実(シュミレーション世界)等がある。
これらも構造自体は全て同じで、創造者/主が不可知的存在に当たると仮定できる為、意見が分かれるだけで論破/確定させる事が出来ないのである。
❷次元の関係に依り人間の観測出来る範疇に上限があるから。
まぁ正味❶と関連付けれるし、❶でも多少触れた理由だね。というか、❶の中の❷みたいな感じでもある。
我々は今現在数ある次元の中の“三次元”という場所に居ます。
更に内容を吟味すると、「三次元内以外の場に移行する事は不可能な為、世界五分前創造説の真偽の断定/及び反駁をする事が出来ない。」のである、超絶簡潔にマトメると、我々人類は次元という(必ず出られない)檻の中に居座っている為である。例えで、創造者が不可知的存在の“神”であると仮定しよう。
ここから具体的に解説する為多少読解が困難になる可能性もあるが、悪しからず。
先ず三次元では、“空間認識、及び時間の経過”程度しか把握出来ないからである。今回の取り上げた哲学の仮説では“時間”を取り上げている為三次元に於ける“時間”の概観について解説すると、“三次元の時間”では、その時一瞬の連続しか感じる事が出来ないから。つまり、三次元では、過去に起きた事柄は“記憶”という形で保存する事しか出来ず、その起きた“事柄”を再度確認する事が不可能であるから。
これがもしも我々が“四次元の時間”も肉体的に感じる事が可能であるならば、四次元は時空軸を行き来する事が可能である為、“世界五分前創造説”の真偽を論証できる。
(転用:相対性理論の諸関係)
“仮”にいつか、我等が一、二、三次元を行き来でき、未来をも行き来できる存在となった暁には、世界五分前創造説の真偽について断定をし、ラッセルに「世界五分前創造説は間違ってる!」と抗議しに行く事は可能になるかもしれないね。
❸“絶対と断定する”方法が見出されていない(とされている)から。
・・・いや、これ実は9割型俺が様々な資料を演繹法と因果関係で観た非妥当性的な推論だから・・・正味かなり正当性が欠落していれば、誤謬/詭弁である可能性がむちゃくちゃ高いから、仮に“誤謬点”があれば(優しく)指摘してほしいんだけどさ。
でも・・・!折角・・・!頑張ってクラミジアサイズの脳みそを極小ピンセットで絞りに絞って考え抜いた推論だからさ・・・!一応執筆しようと思う・・・!
今さ、懐疑主義的哲学(?)の中で、“物事を断定できるか否か”って議論が進められているんだよね。んで結論(調べた情報)から申し上げると、今の所“完全なる断定する方法”がまだ発見されてない訳なんですよ。
まぁ昔ならば数学者ラプラスさんが“ラプラスの悪魔”(ラプラスの悪魔では、物体の位置と運動量が分かれば、物理法則に基づいて計算すれば未来を完全予測出来る。)を提唱して“物事を断定する事”が可能とされてたんだよ、1927年まではね。だけど、
・・・が、1927年以降に理論物理学者のハイゼンベルクが、量子力学の一環“不確定性原理”([不確定性原理(∆x∆p ≧ 4π/h)とは]量子の位置と運動量を同時に把握する事は出来ない。)という物理法則が発見された為、不確定性原理論との論戦が行われ、正否はラプラスが否定される結果となった。
が、更にここで世界の大理論物理学者“アルベルト・アインシュタイン”が量子力学の“不確定性原理”を否定する物理法則的なのを発見したんだけど、その詳細内容が記載された資料が他の資料の山に埋まって見つけられなかったらしい。(諸説あり)
んで結局今現在ではバイゼンベルクさんが信仰されていて、“完全に断定する方法”ってのが見つかってない、この様に何度も何度も論戦が広げられたって訳。
老害校長の如し長々と語って「何が言いたいんだ!」って所だけど、つまりはその方法が見つかっていないから「世界五分前創造説」が完全に否定も肯定も出来てないのだろうな・・・って思ったって訳、これが-❸-
少なくとも、今“有神論者”と“無神論者”がバチバチに殴り合っている現代、また、次元/時空間についてが全く判明してない今現代では世界五分前創造者の真偽を発覚させる事は無理だろうし、科学的に論証可能となる未来はかなり乖離しているだろう。
後少し余談だけど、“不可知論”やら“次元の限界”やら“時空軸の把握不足”ってのが解消された場合、《世界五分前創造説》に限らずかなりの哲学の答えってのは出てくるかと思われる。
喧嘩師やらzawazawa最強と謳われている詠み人さんの文章(の下位下位下位互換)っぽいフィーリングで羅列してったけど、何か、グチャグチャになったなとか思ってます…。
後書いたり資料見てて思ったけど、仮に判明した際の世間的な見解では「クソ範囲のデカい長きに渡った超ド屁理屈」みたいな感じで流れるのかな。
一応メンタル的な麺で保険かけとくと、揶揄で侮辱するってよりは、論理的な否定であったり、“世界五分前創造説”に対する見解ってのを教えて戴けたら幸いであります。
あと、後に別に畢竟(かなめ)の最初の要項内容に反する意図では無いので、そこだけはご理解の程ほど。
あ、後に「逃亡だ!」とか袋叩きにされる可能性を想定して前述しておくと、忘れたり気分であったり、面倒だからやらリアルが忙しくて浮上が出来ない可能性があるのでそこん何処よろっす。
“保険”やら“ビビってる”など様々なご意見が浮かぶでありましょうが、何と思って戴いても構わないんでおけです^^
以上、アベル報道局からでした。
トピックルールに違反した人物を確認したため、投稿ごとポアしました。