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哲学的雑談 / 10

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KANAME 2019/06/30 (日) 07:54:28 修正

>> 9

まあお互いまったりやっていきましょう。
チュウゴシくんはLETの掲示板にも遊びに来てくれてたと思うけど
そこでいつだか俺が話していた内容をひとつ。

やっぱり「罪の意識」について言及するなら
「アダムとイヴ」の神話が思い浮かんでしまう…。


創世記

旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという。
 
この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎を置いた。
 
その後、アダムは930歳で死んだとされるが、エバの死については記述がない。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。
 
17世紀のイギリス人作家ジョン・ミルトンは、この物語をモチーフにして『失楽園』を書いている。

禁断の果実

禁断の果実(きんだんのかじつ、Forbidden fruit)とは、それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象になるもののことをいう。
 
メタファーとしての「禁断の果実」という語句は、旧約聖書の『創世記』をもとにしている。創世記では、禁断の果実とは、善悪の知識の木の果実を指す。アダムとイヴはエデンの園にある果樹のうち、この樹の実だけは食べることを禁じられるが、イヴはヘビにそそのかされてこの実を食べ、アダムにも分け与える(イブが先と書くのは旧約聖書においてであり、イスラム教のクルアーンにおいてはどちらが先に口にしたかは書かれていない)。この果実を口にした結果、アダムとイブの無垢は失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになる。これを知った神は、アダムとイブを楽園から追放した。彼らは死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなる。

原罪

原罪(げんざい、英語: original sin, ラテン語: peccatum originale)は、キリスト教内の西方教会において最も一般的な理解では、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。
 
ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「いわゆる原罪」の概念を採る説もあるが、多数派はそのような見解を否定する。
 
現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある。しかし、西方教会内でも教派ごとに様々な見解がある。
 
また正教会では、原罪についての理解が西方教会とは異なるのに止まらず、そもそも原罪という語彙自体が避けられる場合もある。正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること(教義化)を避けて今日に至っている。

引用文献


人から聞いた話で恐縮だけど、一説によると(Wikipediaには記載されてないけど)
ここで言う「禁断の果実」ってのが「言語」のメタファーとして解釈されていて
人間は「言語」の構造によって身に起こるさまざまな現象を仕分けることで「概念」として捉えるという…
そういう考え方があるそうだ。

で、宗派や学派によって解釈の仕方はいろいろあるんだけど
この物語について共通して言えることは
とりあえず最初の人間であるアダムとイヴの行為が
「原罪」のようなものにあたると考えられているってことだ。

しかし

  • 「原罪」という表現が適切かどうか
  • この罪が全人類に及ぶかどうか

については、ずーっと前から物議を醸しているみたい。
俺個人の解釈としては、どっちかっていうと
後者の「この罪が全人類に及んでいる」なので
この考え方を前提に話を掘り下げていきたい。
※「全人類」について「言語の機能が正常に動いている者」と定義するね。


文脈が多岐にわたるので一度整理し直すけど…
要するに

神様「この気になる木の実は食っちゃダメだからもし食ったら楽園追放な!」

って忠告してたのに蛇にそそのかされて食べちゃったと。
そんで「失楽園」したと。

では「楽園」とはなんだったのか。
それはまさしく本能によって淡々と生きる自然界(動物の世界)のことだったのではないかと。

つまり…

言語を持たない種族に概念化はできないので喜怒哀楽もクソもないという意味のパラダイス

…を失った、と考えることができる。
そして人間は否応なしに言語に依存し、何かしらの「意味」を追い求めながらも
言及不可能という自己矛盾を孕んでしまう結果となっている。

この状態をドストエフスキー風に言うと「罪と罰」なのかもしれないし
ニーチェに言わせれば「神は死んだ」のかもしれないし
ウィトゲンシュタイン曰く「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」のかもしれないし
般若心境を唱えるなら「色即是空 空即是色」になるのかもしれないし
エヴァンゲリオンで言うと「人類補完計画」でL.C.Lへ還元(液状化)されるのかもしれない。

いずれにしても、人間の行動原理は象徴秩序に支配されているのではという話。
>> 7で言った「根源的な禁忌」とは、言い換えれば「規律」を優先したい「欲望」によるものではないのかと。

ご飯を食べる前に「いただきます」と言わないと何か釈然としない気持ちになるのと同じように
「家族と認識している人とセックスしたくない」のもまた
俺たちが産まれる前から人間社会に根付いている固定観念を無意識に選択してしまっているからでは。
このへんはラカンとかフロイトの領域(精神分析)になると思うけどめんどくさいので端折ります。
(気が向いたら書くかも…)

自然界においては、イヌネコ然り、他にも代表例としてハムスターなんかは平気で近親繁殖しまくる

だからこそ、野生のライオンが、死にぞこないの獲物相手に我慢するということはありえないと思うんだよね。
人為的に調教された忠犬ハチ公でもない限り。
遺伝的にプログラミングされた行動パターンにどこまでも忠実なのが一般的な動物だと思ってるけど、そこを超えてくるのが人間っていうイレギュラーな生命体だとして、人間には人間の、種族単位で一括りにできない固有の行動パターンがあるんじゃないか?ってこと。
それに起因しているのが「罪の意識(言語会得)」によるものなんじゃないのかなぁと。
ゆえに無駄な争いや犯罪が絶えず、なかなか平和が訪れない。のかもしれない。

かくいう俺自身も「その相手が近親関係だと知らされていない」って状況下なら全然イケちゃう気がする
俺は異性の兄弟姉妹がいないので想像の話になっちゃうけど、そういうの本能的に察知できる自信ある?
俺は無い・・・カワイければ尚良しまであるw

でもその相手が兄弟姉妹に瓜二つだったらどうだろう。
その既視感に嫌悪感抱くと思うけどな。
少なくとも俺はそう。

またこの既視感や固定観念ってのは
人以外の対象にもさまざまな形で無意識に意識しちゃってると思うよ。
それこそ掲示板の無作為な書き込み、文字列に対して嫌悪感を抱くとか。


ネクタイの例は俺のオリジナルでデュルケームが直接そう言ってたわけじゃないんだけど
結局のところ彼の考えとしては、ネクタイが曲がっている人を見かけた善人社会の人々は「何てことだ、我々の社会の秩序が脅かされている!」と危機感や憤りを感じることになるんじゃないかなと思う

この話で俺が言いたいことは
価値観を相対化すれば考え方の違いに「理解が示せる」「納得がいく」という意味で
たとえ危機感や憤りを感じたとしても形而上の問題なら解決するのでは、という…。


ブライト 「アムロ、貴様なぜ自分の任務を果たそうとしないんだ?」

アムロ 「ブライトさんはなんで戦ってるんです?」

ブライト 「…今はそんな哲学など語っている暇はない。立てよ、おい!」
 
(中略)
 
アムロ 「あっ… な、殴ったね」
 
(中略)
 
アムロ 「…二度もぶった。親父にもぶたれたことないのに!」


殴られたら物理的に痛いし…
生きるか死ぬかのDo or Dieという有事では、ブライトさんの言うとおり哲学はクソの役にも立たない。
しかし一人ひとりが平時のうちに意識を変えれば、万が一にでも全人類が意識を変えたら…

そういう可能性を『ペイ・フォワード 可能の王国』にちょっと感じたけどな。
観たことなければおすすめするよ。
まさしく「割れ窓理論」の反作用みたいな映画だ。

衝突を避けることが出来ればあるいは相手を受け入れることもできるかもしれないけど、その『許容』ってのはデュルケームが言うところの「犯罪抑止の放棄」であって、割れ窓理論が言うところの「割れた窓の容認」に当てはまっちゃうのが厄介なところで、その辺のジレンマはやっぱり背負わざるを得ないのかもな・・・

これを考えるにあたっては、昔NHKで放送してたハーバード白熱教室の高級な「喜び」 低級な「喜び」がいい線いってると思う。
ジョン・スチュアート・ミルの功利主義が元ネタだけど、わかりやすくまとめてくれてるブログの記事もあるので、それぞれのリンク先から暇なときにでも覗いてみて。

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  • 11
    詠み人知らず 2019/07/15 (月) 02:22:59 修正 >> 10

    LETの記憶がないので「またその説明させるの?」とか「前回と言ってること違うぞ!」とかあるかもしれないけど、今回の話を聞いて俺の頭に浮かんだ関連ありげなピースを(パズル形式は無視して)雑に並べてみる

    • 人間は言語を習得することで様々な事象の概念化に成功した
    • 罪や禁忌などの感情もそのとき生まれた
    • 人間である以上は、その罪の意識と向き合って生きていかなければならない

    つまり、もし仮にある日とつぜん地球上の全人類が言語を忘却したら、争いや暴行や殺人などの件数が増えたとしても無秩序というわけではなくなる
    あるいは、言語を忘却するのではなく、逆に活用しまくって概念化をトコトン突き詰めていくことによっても無秩序化を抑止することはできる

    ・・・ってことかな?
    確かに一理あると思う

    マルチリンガルの人は、話せる言語の種類と同じ数の人格を持つ多重人格者だということが社会言語学的に判明してたりもするしな
    例えば「侘び寂び」なんてのは日本特有の概念で、英語にはそれに該当する言葉が存在していない
    英語で書き表すならsimple and emotionalとかになるんだろうけど「感情的な質素さ」と言われてワビサビのイメージを想起することは、けっこう無理がある
    英語話者が「真の侘び寂び(Wabisabiではない)」を概念レベルで理解するためには日本語を習得するしかないのかもしれないし、われわれ日本人がangerとfuryとrageの違いに戸惑うのに似ているかもしれない

    というわけで

    ちなみにペイフォワードなら5億回は観た。いい映画だよね・・・
    ジム・キャリー主演の『イエスマン』もかなりペイフォワードチックな内容で、すこぶる心が洗われるよ


    また、西洋の神話になぞればアダムとイヴに紐づくのかもしれないけど
    仏教的に言えば「禅と悟り」を原罪からの脱却と捉えることが出来そうだ
    ※仏教的には原罪なんてないけれどね

    座禅して
    ひたすら集中して
    心の中を無にして
    悟りをひらく

    これってつまり「意識をアニマル(アダム&イヴ)レベルにしましょう」ってことなのかもしれない


    と、ここまでは宗教に敬意を払って弁神論っぽい姿勢を見せておきながらも、宗教的な寓話について俺はかなり懐疑的な考えを持っていたりもする
    語弊を恐れず言ってしまうならば『時代遅れ』感が拭いきれなくなってきている

    宗教の起源ってのは、未知の出来事を理解するために生み出されたものだと近代では言われるようになってきている
    火山の噴火だとか洪水だとか落雷だとか流行り病だとか、そういう理解できない出来事について
    西洋風に言えば『神の意志、神が与えた試練』ってな感じで
    東洋風に言えば『ばちが当たった』といったところだろう

    「なぜ空は青いの?」
    「なぜ地球は丸いの?」
    「どうしてぼくは生まれてきたの?」
    「なんでホタルすぐ死んでしまうん?」
    少し知恵を持ち始めたこともは、好奇心を爆発させて「なぜ?どうして?」と色んな事を知ろうとするわけだけど
    当時の人たちは今の俺たちからすると子供のようなもので、そういう人たちに向けた『子供向けの説明』こそが宗教的寓話の役割なんだ
    未知を排除することが主目標で、可能な限り解明された事実を述べはするものの、未解明の部分についてはその場しのぎの納得で誤魔化している
    人々が不安になってしまわないようにね

    あなたが生まれたのは神の意志である
    あなたが病気を患ったのも神の意志である
    病気が治ったのも神の意志である
    医者が頑張ったからだって?その医者と巡り会えたのは神の意志だよ
    病気を治せず死んでしまったとしても、それも神の意志だ

    うん・・・

    アメリカで小さな子供たちを対象にとある実験が行われた
    Q.この湖は波ひとつ立たない静かな湖です、どうしてだと思う?
     1.動物たちが安全に水浴びできるように波が立たない
     2.その湖は河と繋がっていないので波が立たない

    こういう質問をしたところ、回答に(1)を選ぶ子供が圧倒的に多かった(ナショジオか何かで紹介されてた気がする)
    物事には何かしらの理由がある、何かしらの意図が介入していてそうなっている、と無意識のうちに判断する子供が大半だということらしい
    また、子供に限らず大人であっても目的論じみた説明のほうがしっくり腑に落ちることも珍しくはないだろう

    ということは『未知』の水準を高めればいいのか?
    不完全性定理に基づけば、未知の事象が尽きることはない
    数学や科学や物理学など自己完結的な論理体系では公理が必要となるため、領域外の全てを説明づけることはできない
    『神の意志』を介入させる余地そのものは残るかもしれない


    『臨界点』という言葉がある
    臨界温度を超えた水は気化するとか、そういう物理学的な意味も勿論あるんだけど
    「ある対象が存続するために必要な条件」にも、臨界点があるんだ

    フィーリング重視で伝わりやすそうな例を挙げるならこれとかを見ると分かりやすいかもしれない
    左右にスライドする台の上に置かれた複数のメトロノームが、やがて完全に同期する現象だ

    今回は言語や宗教について話したけれど、言語や宗教にも臨界点というものがあるはずで
    アイルランド語なんかは消滅危機言語に指定されていたりもするし、いちど発生したのちに消えてしまった宗教や消える寸前の宗教なんてのも大量にあることだろう
    いま世界は空前の無宗教ブーム(?)に差し掛かろうとしている
    独自のタイミングで独自のリズムを刻んでいたメトロノームがやがて独自性を失い同期するのと同じように
    今のところメジャー扱いされているキリスト教とかも、そのうちアイルランド語みたいなポジションになって、やがては消えていくのかもしれないね


    とりとめがなさすぎる感じで色んなこと雑に並べちゃったけど
    部分的に拾ったり繋げたりあるいはスルーしたり、自由に利用してくれると助かります