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哲学的雑談 / 32

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KANAME 2020/05/10 (日) 18:30:17 修正

金八先生が「人という字は人と人が支え合っている」という名言を残しているけれど、この言葉の成り立ちとしては骨文字で「一人の人間を真横から見た形」だそうで、別に支え合っているわけではないそうだ。
それはさておき、「人」という字を使って、もうひとつ違った解釈ができるのではないかと昔から思ってるんだけど、「人」って逆さまにすると「Y」みたいな感じになると思うんだよね。
要するに支え合っているのではなく、さけていると言いますか。
個人的に「さけるチーズ論」って呼んでるんだけど。
「人」は「l」(一義的な世界)に「間」が生じるから「人間」って言うのかなぁなんて勝手に妄想を膨らませている。

この「間」とか「さけている状態」ってのが、言い換えるなら原初の「母」との鏡像的一体性が切断され、すでに失われたものとしての「母」=「もの」(das Ding)を欲望の対象(objet de désir)に据えるってことなのかなと。
つまり「Y」から「l」への回帰現象が人間の本質的(?)な行動原理ではなかろうかと。
ただその対象って文字通り「すでに失われた対象」(自我がなかった頃の状態を認識できない)だから別の何か(自己実現の対象)にそれが置き換わっているというのが実際のところだと思う。
つまり「Y」の片割れは存在しない。
そんなこと知る由もなく片割れに向かって同一化を図ろうとするのが人間が最初に植え付けられた強迫観念でそういう意味では全員精神病になるプロセスをスルーできないというか、避けては通れない道なんだと思う。

ただそれに気付こうが気付かまいが、結局「私の欲望」は「大他者の欲望」で、私の欲望が象徴的秩序によって構造化されていることはやはり否定できない。
たとえば、アフリカの奥地でそこの住人たちには馴染みのある生活必需品であるが日本人にとっては見たことも聞いたこともないものがあったとすれば、俺たちはそれを望むことができない。
せいぜいできるのは既知の欲望の対象のチャンネルを変えることくらい。
変えたほうのドラマにおいても、シナリオの中で演技させられているだけということは変わりはない。

となると、「生きていることに意味なんてない」ってのがひとつの真理になるわけだけど、「自分という意味が剥奪されても、絶望を感じることがない」存在ってまさにニーチェのいう「超人」そのもので、現代人はどちらかと言えば真逆で、東浩紀が言うような「動物化」(animalisation)が進行しているというか、「意味」という刺激に反応して「欲求」を満足させようとする側面が強いのかなって感じ。
TikTokとかが流行るのもそういうことじゃねーかな。知らんけど。

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