やがて自分を客観視できる次元(自分じゃない存在を自己流で定義づけ、自分からそぎ落とす次元)に到達する
最初期は機械的だった学習が、複雑化していく過程のどこかで自分を客観視できる次元に到達するが、到達のタイミングがアクセス意識発生の前か後かは不明、
というご見解ですね。
確かに、自我の定義によってはそうかもしれません。
ああ・・・「個」という見方そのものが間違ってるんじゃね?
という見方もできるわけですね。
仮にそれが真実だとすれば、キリスト教的な神はいよいよ胡散臭さが決定的になりますね。神が一人ひとりを愛して魂を与えたなんてのはウソっぱちで、クリスタとタチアナには合計1.5個くらいの魂しか与えないケチ臭ペテン師差別野郎ということになり、ホーガン夫妻に提訴されることでしょう。
なるほどなあ、「個」という思い込みさえ取っ払えば、創造論vs進化論に関して僕が感じている創造論サイドのアドバンテージが弱まるかもしれません。
「意識(主観)」なんてのは崇高なものでもなんでもなく、
「個人」に対してではなく「複雑さ」に対して与えられるものであり、
物理的世界における多種多様なグラデーションの一つに過ぎないのだから。
そもそも人間って有機的な面で個体差あるし
『あなたは人間が持ちうる全ての感情をもれなく備えていますか?』って聞かれたとき
Yesって答えられる人いなくね?誰しも欠落してる部分あると思うよ
詠み人知らずさんが以前こういったことを仰っていましたが、これには僕も賛同しています。
感情の有無や強弱だけでなく、意識体験の強弱についても同様のことが言えると考えています。
他者の一挙手一投足に一喜一憂するようなクオリア豊富な人もいれば、パワハラレベルの圧をかけられないと他者の意向に気づきさえしないクオリア欠乏な人もいるかもしれません。
そういう意識体験の強弱も、人間の人格形成に寄与しているのかもしれませんね。
そしてクオリア欠乏な人は、平均的な人間より「個」である度合いが低かったりするのかもしれません。クオリア豊富な「人間」というよりは、「肉で出来た地蔵」に近いのかもしれない。
核心に迫るヒントをいただいたので、話題提供がてら、
僕がなぜこの問いに執着するのかを述べます。
僕はこの問いこそが、「人は何のために生きるのか?」というあるあるテーマの大前提になると考えています。
人という存在がもし、物理的現象でしかないのなら、我々がこうして思考することも物理的因果に依拠した必然でしかなく、
Q.「人は何のために生きるのか?」
A.「何のためでもないです。石ころは何かのために存在しているわけではありませんよね。」
という結論が自然と導き出されるかと思います。
それでも人は、ニヒリズムやペシミズムに陥らず、前向きに生きることが可能だと思いますが。
例えば、快楽主義がそうですね。
イキテるコトにイミなんかねェケド、オナニーキモ゛チイイからソレでいいッショォ!!👺
と言いながら利き手を愛し続け、一定の幸福度を維持しながら幾度ものクリスマスを越え天寿を全うすることも可能かもしれません。
お答えしづらいであろう陰気な質問で恐縮ですが・・・。
詠み人知らずさんは、快楽主義をもって生きることを肯定していますか?