このトピックでは主に哲学的な話を行います。
暴言は禁止。ルール守れない人ポアします。
モラルとマナーを守って好き勝手語りましょう。
2f67887fd5
KANAME
通報 ...
投稿するにはメンバーである必要があります。
徹夜で哲学、テツヤは黒子より金八先生
かなめっちの持論、テーマに期待
最近ちょっと触れる機会があって、頭の中でまだわりと鮮明な状態で残っているので雑にシェアしておきます。
哲学的かどうかは知らん・・・っていうか哲学って何?(哲学的)
デュルケームの社会学と割れ窓理論
デュルケームというのはフランスの社会学者です。参考(Wikipedia)
この人は「社会学的方法の規準」というタイトルの著書を遺していて、その中ではかなり幅広く色んな事が述べられてる。時代が古いだけあって今となっては当然だと思われてるような内容(自殺には種類がありますなど)も結構あるけど、特筆すべきは「社会的事実という概念」を定着させたことだろうか。
そして今回はデュルケームの思想の中から犯罪についての部分をピックアップしてざっくり紹介します。
文献が手元にあるわけじゃないので、内容は俺の記憶を文章化したものです。
デュルケームが言うには、犯罪を根絶することは1つの例外的ケースを除いて不可能であるらしい。
そして「犯罪が起こっている状態こそが健全だ、健全な社会には犯罪が必要不可欠だ」とも言っている。
ちなみに例外というのは法の消滅。銃刀法がなければ銃刀法違反者は発生し得ないんだから、まぁそりゃそうだわな。
法が存在しているから犯罪が存在する、犯罪が起こっている社会こそ健全な社会であるというのが彼の考えだ。
じゃあ、もし仮に悪人を全て逮捕したら?犯罪件数はゼロにり根絶が達成されるんじゃないの?
って話なんだけど、どうもそうはならないらしい。
例えば詐欺の件数をゼロにするために全ての詐欺師を逮捕したとしても、新たな詐欺師はどこからともなく出現するんだよ。
人間のどのような心理が働いた結果として犯罪者が発生するのかはさておき、とにかく「既存の法の下で詐欺を行う人間が発生した」という社会的事実を鑑みるならば、同じ法のもとで新たに詐欺師が発生するのは必然的なんだ。
では詐欺の件数を減らすためにはどうすればいいのか?
その答えは「罪の対象を拡大する」だ。
具体的に言うなら、ただ詐欺を取り締まり続けるだけではなくて摘発の対象をもっと広げなければならないらしい。
例えば「嘘をついてはいけない」みたいな、詐欺罪の枠の外・・・その隣に位置するような行為を新たに罪として認定する必要があるということ。
殺人事件を減らすために銃刀法を施行するような感じだ。
そうするとどうなるか?
詐欺の件数は減るだろう。でも今度は「嘘つき罪」を犯す人間が出てきてしまう。なので犯罪件数は減らないし、場合によっては増えてしまったりもする。
同じような理屈で、根っからの善人ばかりが集まった社会があったとしてもやっぱり犯罪は起こってしまうらしい。
その善人社会においては求められる社会規範が超高水準になってしまうため、人前で屁をこいたら犯罪とか、ネクタイが曲がっていたら犯罪とか、善人社会はそういう方向に伸びていくことになるんだとさ。
(俺たちが生きている今の世界も、外の世界から見れば十分に異常だったりするのかもしれない)
割れ窓理論
参考(wikipedia)
割れ窓理論というのはアメリカの犯罪学者ケリングによって考案された理論で、こちらも犯罪に関する内容だ。
sikasi
マジかよ途中で送信しちゃった💢💢💢
一気に気力失ったから続きはもういいや・・・ごめんよ
デュルケームだけでも十分味すると思うので興味あったらうまい具合に話題広げてくれると報われます
すごい星新一的なストーリーを感じる
こう考えると社会が犯罪者と呼ばれる人々を作りたがってるようにも思えるなぁ
>> 4
こんなこともあろうかと投稿の時間のところを押せばなんと修正できちゃうぞ。修正マークと修正時間はついちゃうけどね?よかったら使って。
>> 3
YouTubeに夢中でこのトピックの存在を忘れてました。
すみません。
いや嘘です。
記憶の片隅にはずっとありました。
すみません。
まずひとつ、疑問に思ったのは
法がなければ犯罪は存在しないというものです。
これ自体に異論はないのですが…
法がなくても「罪の意識」ってのはあるんじゃないかなって思います。
たとえば、いち個体が別の個体を殺るなど
仮に無法地帯であったとしても
相手が抵抗する以上はそこに摩擦が生じるはずです。
あるいは、近親相姦。
なぜか血の繋がりのある人物とセックスしない。
もちろん性癖が偏ってる人はいるかもしれませんが
基本的にみなさんヤりませんよね…。
これ、「やっちゃいけない」という社会的なルールの存在以外に何か根源的な禁忌の存在を感じずにはいられないんですよね。
次に、犯罪をなくす方法について。
詐欺にしろ人殺しにしろ、そこに共通して言えることがあるとすれば、「価値観の違い」というものが根底にあると思います。
つまり、欲求と規律、どちらを優先するかという話です。
たとえば
のような善人社会があったとしましょう。
そもそも、なぜそれらが犯罪だと思うのか。
悪とは何か。
その構成要件は何に基づいているのか。
そういったことについて掘り下げ、「理解する」ということが仮に全人類にできたとしたら…
「あなたはそう思う。でも私は逆でこう思う。それはこのような理由があるからである」
と認識の相違について解説することができるようになり、無矛盾性を与えられますよね。
つまり、別々の価値観が「衝突しようがない」という意味で犯罪が起きにくい社会を目指せるかもしれない…ということです。
これによって「宗教観の違い」についても、解決できる可能性があります。
さまざまな考え方があることを理解すれば、ある意味では受け入れることは可能なのではないかと。
禁煙者と喫煙者が店内で住み分けされているように。
深読みしてたらすみません。
自分たちが隠居した後の喧嘩界ディスってます?w
誤解がないように言っておくと、そういうブラックジョークは全然このトピックでしていただいて構いません。
余裕で許容範囲内です。
で、例のWikiによると…
心理学者のフィリップ・ジンバルドは実験結果から以下のようなことを言ってますね。
なるほどなるほど。
こりゃあまさしく…
コンプラのようではありませんか。
ここができてから、他の場所のように落書きの埋め立て地にならないのは、やっぱりなんだなんだ民度が高いからですね。
そんなに大量の書き込みなど最初からまったく求めておらず、どちらかと言えばクオリティを重視していきたい自分としては今くらいがちょうどいいです。
話が逸れました。
この話で逆に気になるのは、自己規制意識を高く設定できる人のほうですね。
たとえば、チュウゴシさんは、喧嘩サイト以外のパブリックなネット上で喧嘩の話題を出すことはまずしないでしょう。
それはあなたがこういった場所とそれ以外を明確に分けているからだと思います。
一方で、私はあえてそういう話題を出してしまう(ありとあらゆる価値観をクロスオーバーさせる)特殊性癖の持ち主ですが、意図的ではなく、脳からオートで言語が出力されてしまう人というのが一定数いますね。
なぜ自分はそうならなかったのか、考えたことあります?
また、喧嘩においてもそれは顕著にあらわれています。変な話ですが、お互い対立の関係にありながらそこについて共通認識があり暗黙の了解としている。
これは喧嘩に限らずですね。普段の対人関係においても、そういった信頼に値する価値観への相互理解というものがあると思います。
あいつに任せておけば、いちいち煩わしい説明を行わなくても、きちっと仕事をこなしてくれる。自分がよく気付くポイントや重視している点について確認漏れはしないだろう、と。
長くなりましたがこんなもんでどうでしょう…。
>> 7
仕事と遊びに夢中でこのサイトの存在を忘れてました
すみません
いや嘘です
記憶の片隅にはずっとありました
すみません
◆罪の意識について
遺伝子的に相互補完関係が強い相手が放つフェロモンは特に魅力的に感じる・・・みたいな話はよく聞くけど、逆パターンの親近相姦についてはどうなんだろうな
自然界においては、イヌネコ然り、他にも代表例としてハムスターなんかは平気で近親繁殖しまくるし、かくいう俺自身も「その相手が近親関係だと知らされていない」って状況下なら全然イケちゃう気がする
俺は異性の兄弟姉妹がいないので想像の話になっちゃうけど、そういうの本能的に察知できる自信ある?
俺は無い・・・カワイければ尚良しまであるw
殺しとかに関しても、人類史をさかのぼれば人間をモノとして扱う奴隷制度なんてものが当然のように存在してたわけだ
根源的な罪の意識や拒否感・忌避感といったものも土台としてあるにはあるのかもしれないけど、後天的に刷り込まれる社会的価値観によって容易く上書きされるものだと俺は思う
◆割れ窓理論
当初は尾崎豊ネタでも添えようかなとか思ってたけど、ブラックジョークみたいな意図は一切ないw
>> 3は粗相しちゃったけど、本来あとに続く内容としてはデュルケームの社会学と比較するつもりだった
割れている窓があると治安が悪くなるという割れ窓理論、内容としては「通り魔が出てしまう前に窓を直せ」みたいなもんで、通り魔を減らすためには割れた窓を放置することを法で禁止(法を厳重化)すべきだというデュルケームの考えと一致している部分もあるんだけど
デュルケームが社会的事実を軸にして現象と向き合っているのに対して、割れ窓理論の趣旨はどちらかというと自己規制意識などの心理学的な領域に腰を据えているという違いがあるんだ
窓が割られていたりゴミがポイ捨てされているのが視界に入っていると、引ったくりや車の窃盗などより重度の犯罪を試みる人が現れやすくなる・・・といったように、割れ窓理論では犯罪の重大性として『小→大』の流れを見ているのに対して、デュルケームは法の整備(秩序の水準)が進めば進むほどネクタイの曲がりなどが取り締まられるようになる『大→小』の流れを見ている
社会的事実を軸にするか心理的要因を軸にするかによって、似ているようで似てない異なる毛並みが出来上がってるわけなんだ
ネクタイの例は俺のオリジナルでデュルケームが直接そう言ってたわけじゃないんだけど
結局のところ彼の考えとしては、ネクタイが曲がっている人を見かけた善人社会の人々は「何てことだ、我々の社会の秩序が脅かされている!」と危機感や憤りを感じることになるんじゃないかなと思う
それこそ俺たちが飲酒運転しているドライバーを見るような目でね
衝突を避けることが出来ればあるいは相手を受け入れることもできるかもしれないけど、その『許容』ってのはデュルケームが言うところの「犯罪抑止の放棄」であって、割れ窓理論が言うところの「割れた窓の容認」に当てはまっちゃうのが厄介なところで、その辺のジレンマはやっぱり背負わざるを得ないのかもな・・・
途中で送信したまま投げっぱなしの話題拾ってくれてありがとうw