「あいつは無実であることを証明できていないから無実を主張するには証明する必要がある!」
これは現代の論理の常識からすれば間違った話、詭弁であるんだが、なんか新しい視点からの意見ってあったりしない?
例えば、有無の判断の対象を我々が認識しているものと限定する場合、無は証明できるよね。
というのも、先程の例で言えば、人生のストーリーすべてが完全に記録されていて何も悪事を働いていなければ無実は証明できる訳だし、現実的な話をすれば生まれたばかりの赤ちゃんの、犯罪における無実の証明は可能。(輪廻転生的な考えは除き、社会におけるその赤ちゃん自身に関しての話とする)
無知なものですみません…
「存在」ってなんですか?
無の証明とか好きだわ
無の証明って究極のところ宇宙が始まる前は「無」だったってことやろ?
そうやって漠然と言われてるけどさ、じゃあ無から宇宙が始まったって何やろね?
これから大爆発起こして宇宙始まるぞ!って瞬間に宇宙が収まる「空間」が用意されたんか?
人間の存在だって謎だわ、なんでこんなタンパク質の塊りと血とかいう真っ赤な液体で動いたり考えたりセックスしたりしてんの?泣いたり怒ったりして
クローンとか作れるんだけど物質から人間造るのって無理だよね?
そう考えると人間って何も分かってねーんだよな
ちがうぞい。例を出すなら宇宙自体が存在するのかって話やで。
私たちが生きている世界は三次元と言われています(うろおぼえ)
点の0次元より一つ次元が多い線の1次元、それより一つ次元が多い面の2次元
0次元には線とかないし、1次元には面とか無い…というように三次元においても無は証明されませんか?
3次元て面プラス時間だっけ?
時間軸が1つと言い切ることもできない。
パラレルワールドも否定できないからだ。
>> 8
三次元は面プラス奥行
プラス時間で四次元
時間そのものは三次元にもあるからさっきの話に沿って考えると辻褄が合わない
テセラクト(超立方体)なんかがリアルに実在できるのが四次元だと思ってる。
面でも奥行きでも、ましてや時間でもない新たな空間の概念ね。
こういう図形的な話はブログ見る限りだと天音が詳しいんじゃないか?俺は完全なる専門外。
というわけで後は任せたぞ!俺のことが嫌いらしい天音よw
ないぞ
3次元において立方体が直進運動をしている場合、4次元においてその光景は細長い棒状の直方体になるぞ
どうしたいきなり…。
時間が三次元にはないということをいきなり言われてもよくわからないし、
俺には正八胞体のGIF画像を見て単なる立方体の直進運動には見えないんだが…(立方体の直進運動なんて言葉は調べても出てこなかったから、単に立方体が前に進んでいるだけの運動と捉えるしかない)
俺には、この世界ではありえない運動をしているように見えるぞ
現に正八胞体ってのは
・胞(立方体)8個
・面(正方形)24個
・辺(直線)32個
・点(頂点)16個
からなる四次元図形として定義されてるし、超立方体ってあくまで立方体じゃなくて多胞体なんじゃないのか。
>> 13で俺が言ってる立方体ってのは超立方体じゃなくて3次元的な普通の立方体だよ。
超立方体の話をしてるところに普通の立方体の例を出したからヤヤコシくなってるかもしれないけど、「単に立方体が前に進んでいるだけの運動」って解釈であってる。
点がx軸方向に移動する『軌跡』を線として捉えることが可能になる
線がy軸方向に移動する『軌跡』を面として捉えることが可能になる
面がz軸方向に移動する『軌跡』を立体として捉えることが可能になる
立体が4番目の軸の方向に移動する『軌跡』を捉えたものが4次元になる
ボールが1個あります。
5分間ずっとそこに置いてありました。
3次元的には「動いてないボール」だけど、4番目の座標軸として時間を採用した場合は4番目の方向に5分移動したことになるってわけだ。
「直進する立方体は4次元的には棒状の直方体になる」ってのは、そのイメージを伝えるための例だった。
人間が感知できる座標は縦/横/奥行きの3種類からなる3次元なので、その3つの軸がxyzにそれぞれあてがわれるケースが多いというだけであって
>> 9の人が言ってるこれも厳密にいえば誤解です。
縦/横/奥行きのそれぞれに特定の方向が指定されているわけではないので、「奥行と高さ」でも2次元的な線は構築できるし、それと同じで「奥行と時間」でも2次元的な線を構築できる。
「どの座標軸が何番目の次元なのか」ってのは特に決まってない。
人間が感知できる座標は縦/横/奥行きの3種類からなる3次元なのであり得ない運動に見えるというだけで、そういう意味も含めて『観測し得ない物は存在しない』と言っていたのでは・・・?
分かりやすく言うと、人間は2次元を観測できない。
紙にボールペンで図形を描いて「見ろ!これは2次元だろ?俺は観測できてるぞ!」と言う人や、漫画のキャラを見ながら「フヒヒ、二次元最高」とか言う人もいるけど、紙に書かれた図形も漫画やアニメのキャラも厳密にいえば3次元なんだ。紙には厚みがあるから座標軸は3本なんだよ。
座標軸が2本だけの「厚みがない2次元的な面」は、図形やアニメキャラを描くどころか視認することさえ出来ないわけで。
それと同じで、3次元空間にむりやり再現された超立方体を見て「1辺の長さがすべて同じなんてあり得ない」と思うのは当然のことだよ。3次元しか認識できない人間は2次元(厚みが0の紙)を想像するしかないのと同じ
で、超立方体の一片の長さや角度、そして4番目の座標軸も想像するしかない。
3次元で立方体が直進したら直方体に見えるって、その立方体が運動してる時間軸が可視化されたらって話?
半分くらいは俺でも知ってたし、話は理解したつもり。
ただ賛同できない部分がある。
何次元であれ、あくまで空間の幅が広がるだけであるのに、なぜ時間の介入する余地があるのか…という話だ。
空間と時間が別物である以上、時間を座標軸に採用するのはどうも統一感がない。
座標軸はあくまで空間であるべきなんじゃないか?
x軸もy軸もz軸も単位がメートルであるのに、w軸だけ単位が分なのか?中学でよく出題されるような水槽に水を入れる問題であれば縦軸と横軸で単位が違うことも頷けるが…
確かに、単位を統一しなきゃいけないのかと言われるとそこまでは分からないし、
その考え方が面白いとも思うが…
そもそも空間の話に時間を持ってきていいのか?という疑問が拭えない。
観測し得ない物は存在しない派だが、想像上では万物が存在でき得るとも思ってる。
いま俺たちが日常的に扱ってる時間(距離÷速度)というのは
1次元の線分や2次元の面などと同じで想像上の概念なのは分かるか?
分や秒という単位は、太陽が沈んでから元の位置に戻ってくるまでの周期やセシウム原子時計の運動を元にした「現象を割り算した結果の数値」に分とか秒とか名付けただけの人工の概念なので、単位の違いはあまり気にする必要はないよ。
メートルも同じく人工概念です。
というわけで、想像の話をします。
イメージしてくれ。もし俺たちが「2次元の世界の住人」だったとしよう。
俺たちは、奥行きと高さしか認識できない。
( ´_`).。oO(目の前に四角形があるなぁ)
しかし、この長方形は重さが少しずつ増えていき、そのあと少しずつ減っていく変化を繰り返しているとする。
そこで棒人間くんはこう考えるわけだ。
(?´_`).。oO(もしかして・・・世界には俺たちの知らない3つ目の座標軸が存在していて、この四角形はその方向に変形しているから重さが変わっているのでは?)
気力のない絵で申し訳ないが、2次元の世界の住人である棒人間くんはこの緑の破線部分(Z軸)を想像するわけだ。
そして2次元の思想家たる棒人間くんは、Z軸という想像上の座標軸に対して「時間」と名付け、最小値から増え始めた四角形の重さが元の重さに戻るまでの周期を「1年」と名付け、それを12で割り算したものを1ヶ月と呼び、さらに割り算を重ねて分や秒といった単位を作り出すに至るわけだ。
棒人間くんは2次元の世界の住人であるにもかかわらず
「高さ/奥行き/時間」の3つの軸で作られる3次元の世界を想像することに成功している。
この棒人間くんのエピソードを『3次元の世界に生きる俺たち』に当てはめてみるとイメージもつかみやすくなるなずだ。俺たちは3次元しか知覚できないので「4本目の軸が加えられた図」を描き起こすのは困難なわけだけど、棒人間くんが重さの変化から未知の座標軸を想像したのと同じように、俺たちも太陽の動きなどから時間という概念を想像し、それを4本目の座標軸として想像することは可能なはずだ。
あぁそうか!四次元から時間なんだ
時間ってゆうのも実にいいかげんだよな
時間ってゆうのはなんだ?「速度」「距離」を知るためにあるんか?
ああ、あとちょっとで死ぬなとかも「速度と距離」みたいなもんやんね
そうだとしたら時間の概念って宇宙でたらぶっ壊れるよね光の速度で何万年とかの距離なんて言うから
宇宙がデカ過ぎるのか人間が小さ過ぎるのか?
これ単に推定無罪ってやつなのでは?
無実を証明することが出来なかったら「無実かどうかは分からない」ってのが論理的結論だと思うんだが
うんだから無実の確固たる証明って、その人間の一生が記録されてなくちゃ現実的には不可能だよねって話をしているの。それこそ同一時間に同一人物が1人しか存在しないことすら証明できないし、発展的には、シミュレーション仮説の可能性まで考慮すればもう証明のしようがない。
その場合も『一生が記録されていることの証明(データに抜け落ちがないことの証明)』なんてのは到底不可能だろうし、無実をカンペキに証明することはできないだろうね。
俺がよく分からんのは、現代の論理からすれば詭弁になるって部分だよ。
無実を証明できなかった場合は、無実かどうか不明ってのが論理なのでは?
「無実かどうかは不明だ」と主張する場合は無実であることを証明する必要なんて確かにないけど
「無実だ(不明ではない)」と主張する場合は証明する必要が出てくると思うぞ。
想像を助けるために時間を利用するのはアリだ。
気狂いの画像で申し訳ないが…
三次元的空間で、時間を使って四次元を考えようとすると…並べるくらいしか思いつかないな。(上の数字は時間を表してます)
確かに、時間の概念を第四の軸に当てはめると分かりやすくなるものの、
それは分かりやすくなるというだけで、他の方法だと途端に難化するから、奥の手の「時間」を使っているということだろう。
そもそも、空間と時間が別物なのは自明だからな。俺が今更無闇に説明するまでもなく。
であるなら、「n次元(n>3)」の本質を見極めるためには時間というものを軸に当てはめるのは禁じ手とするしかない。
単位の話はこの際置いておくが、空間・空間・空間ときていきなり時間が割り込んでくることにはどうしても違和感を覚える。楽ではあるが。それで四次元までは上手くいっても、五次元以降は説明の付けようがないしな。
もはや俺の理解の範疇を超えているが、時間の概念に手を出さずとも七次元の動画というものができているらしい。無論、ワケ分からん。
↓
画像のクオリティについては敗北を認めるしかないわけだが
その自画像くんは「座標」の認識を少し誤解している。
0、1、2...と時間を加えることで直方体が特定の方向に連続しているわけだけど
つまりそれは
上図のように、Z軸を時間としていることになる。
この場合、軸は3本しか使われていないので第4の軸に時間を当てはめていることにはならない。
Z軸が時間であるなら、X軸とY軸はどうなるのか。
「縦/横/奥行」の要素をXとYに割り当てようとしても1つ余ることになるよな。
というわけで、とりあえず「横」を余らせてみよう。
つまり自画像くんが示している図はX軸が奥行きでY軸が高さ、Z軸は時間ということになる。
すると、この図と一致するはずだ。
横線をYにして縦線をXにしてるのマジでセンスないってことに今さら気付いたわけだが
それはさておき、つまるところ「高さと奥行きと時間」の軸で作られた3次元ということだ。
4次元以降を図示する(3次元に変換する)のが難しいってだけだよ。
同じ場所に5分のあいだ放置されていた立方体は
3次元的には静止している状態だけど、4次元的にはW軸方向に5分に相当するサイズを持っていることになるんだよ。正確な表現ではないけど。
そのことを示すために、もう1つ例を出そう。
スーパーマリオのような横スクロールゲームには「前後/上下」の2つの軸しかない。
なのでマリオが前方から進んでくるカメを避ける方法は「上を飛び越える」あるいは「下をくぐる」の2つしかない。マリオの世界には左右の軸がないので「横をすれ違う」という避け方はできない。
そのマリオに向かって横方向からボールを投げたとする。
その場合、マリオの視点では『何もないところから突然ボールが現れた』ように見えるわけだ。
もともと平面であるマリオの世界にはそもそも球体って概念もないんだが
マリオにとって視認可能なのは「Z座標が0のときだけ」なわけだ。
医療シーンで頭からつま先にかけてCTスキャンをかけたとき連続する断面図が映るだろ。そんな感じだ。
そのイメージを応用してくれ。
俺たちは3次元の世界しか捉えることはできない。
その俺たちに向かって4次元の方向からボールが投げられたら、俺たちは「w座標が0のときだけ」そのボールを視認することになる。
というわけで
これに関して言うなら
「未来から過去に向かって投げられたボール」があったとして、俺たちは時間の座標が俺たちと一致する瞬間だけそのボールを視認することが出来るというわけだ。
しかし、そのボールはw座標(過去←→未来)の方向に広がる全貌のうちの断面図にすぎないわけで、その全体図を想像するなら>> 13で言ったように4次元的な棒状になるのではないかな。
これは納得。
例えば5次元の空間があったとして、そこで4次元シミュレーションを実行する能力があるものが存在したとする。
では、こう考えたらどうだろうか。3つの標軸は固定して、1つの座標軸だけ常に一定の速度で動かすとすれば。シミュレーション上にクオリアを持つ主体が作成された、もしくは外部からクオリアを持つ主体のみが介入したとして、それらの主体に身体が与えられたとしよう。このとき、これらの主体は、一定の速度で動く座標軸を視覚できるのか、という話である。1つの座標軸が常に移動していれば、個々の主体において、勝手に流れているものというように認識される。これが我々にとっての時間軸ではないか、という考え方もできるのでは、と思う。
逆に…
次元とは空間についてのものだけである…と一概に決めるのが早計であると考えたい…
あらゆるものに次元を当てはめて考えられる。
たとえば…
・色は三次元(色相・明度・彩度)
・味覚は五次元(塩・甘・酸・苦・旨)
・空間は三次元(高さ・幅・奥行き)
・感情は大きく分けて四次元(喜・怒・哀・楽)
等々、度合いを持つあらゆるものは全て次元で表して考えると…
空間が三次元であることはこの世界において普遍的であるし、四次元以降を考えることは、第六の味覚を探すようなものだ………
そして、空間上の四次元を考える上で時間を採用するということは、味覚において辛味を採用するようなものではないだろうか。
辛味とは実際には痛覚であり、味覚ではないにも関わらず。
これはね、非常に難しい問題だよ…。
x座標(奥行き) 3~6
y座標(高さ) 0~1
z座標(幅) 4~6
w座標(時間) 3~5
これらを満たす直方体を描いたんだが、こうなるのか。
人間が観測できるのは、時間が3~5であるときだけ。ということになるな。
…ただ、未来から過去に向かってボールを投げるとした場合、そのボールが とある現在 とただ一点においてのみ交差する…ということになるから、人間が観測できるのは一瞬であるよね(そもそも観測すらできない、限りなく0に近い交点になるんだろうけど)
ややこしいことに、時間という存在を、我々が生きている現在という時間と、自在に行き来できる時間とで分けて認識しなければならないから少し厄介だな。
いっそのこと時間を
過去、現在、未来という分け方ではなく。
ある瞬間より前、ある瞬間、ある瞬間より後。
という三要素によって時間が成り立っているとみなした方が上手くいくのでは。
マリオの話だけど、TIMEが進んでいる間左右から壁が迫っていて、0になった瞬間マリオが押しつぶされる…って解釈すると恐ろしい話だよな。
w軸方向に移動する物体を特定した話は聞いたことがないので何とも言えないけど
その物体のw軸方向に対する幅と移動する速度次第じゃないか?
俺たちが(w=0)の3次元空間にいると仮定すると
俺たちが観測できるのは『4次元的な物体を(w=0)で分断したときの断面図のみ』ってことになる。
前回CTスキャンの例を少しだけ出したけど、「3次元構造物(人体)を2次元的に観測すると、その瞬間にスキャンしてる場所の2次元的な断面図になる」ってのと原理は同じ感じかと。
俺たちは3次元しか認識できない。
そして、上図で示されている、クセの強い部屋に住んでいる霧雨も同じく3次元の住人だ。
彼が点Pを見つめたとき視界に映る景色は「台形が2つと三角形が1つある平面」だ。
そう、3次元的存在であるはずの俺たちの視界は平面なんだ。
しかし、歩けば近づいたり遠ざかったりできることを俺たちは知っている。
なので平面でしかない視界が実際には3次元的なものだ(奥行きがある)と俺たちは認識することができている。
これを元にして、異なる次元について類推していこう。
まずは、2次元の世界に住んでいる霧雨がいたとする。
図で示したように、彼が見ている景色は恐らく1次元だろう。
彼の視界は幅のない線であるにもかかわらず、歩けば近づいたり遠ざかったりできることを彼は知っているので
線でしかない視界が実際には2次元的なものだ(奥行きがある)と彼は認識できているはずだ。
以上を踏まえると、4次元的存在の視界は3次元ではなかろうかと類推できるはずだ。
で、そこでややこしくなってくるのが『3次元的な断面図って何?』って話なんだけど
それが超立方体のような多胞体なのでは?と俺は解釈してる。
これ以上はもう俺の言語力が限界突破する(画力はとっくに限界を迎えてる)領域なので霧雨の想像力に頼りまくるしかないんだけど
4次元的存在である霧雨は、w,x,y,zの4軸方向に動ける。
そして、そんな彼の視界は恐らくx,y,z座標で表される3次元の景色であるはず。
さらに、彼が歩いたら視界にある3次元の光景も連動して超立方体のようにウネウネ動く。
俺のイメージはそんな感じ。
単純に感心するしかない。
なんとなく知ってるような話から知らなかった話まで分かりやすく説明くださりありがとうございます。
四次元について、俺からはこれ以上出せるカードがないので、いまだ唯一解消できていないこの疑問だけ解決させたいんだ。
空間の話に時間という異なる概念が割り込んで、あまつさえ一つの軸として居座りやがっていいものなのか?
物事を理解するための手段としてはアリだが、空間の話である以上は時間を軸として取り入れるのは正しくないんじゃないのか?
間違ってるかもしれんが自己解決できそう。いや、ビミョー。
一次元が直線、二次元が平面、三次元が空間…であるから、
四次元になった時点で空間ではない…ということか??
空間でない以上、w軸が時間であったところでなんの問題もないのか…??
腑には落ちないがそういうことなら理にかなってると言えなくもない。こじつけな気がしてならないが。
今まで「~ということになる」とかさんざん言い切ってきたけど、結局のところ俺もシロウトだからな。
イメージしやすさを優先して整合性とかは後回しにしてるし、くれぐれも俺が発信する文章を過度に信用しすぎないようにしてくれ。
ディスカバリーチャンネルを見る頻度が少しだけ多い、あくまでその程度です。
あ、ちなみに、晩飯食いながらよくこのシリーズを見てます。
4次元のそれを空間と呼ぶかどうかは権威ある学者に任せるとして、少なくとも性質は俺たちが見てる世界とぜんぜん違うだろうね。
>> 24でも使ったけど「類推」ってのは非常に便利でして。
2次元の住人も3次元の住人も、見えている景色に対して近づいたり遠ざかったりする・・・つまり「運動」を通してようやく自分のいる次元が何次元なのかを認識しているってわけだ。
部屋の隅にある点Pを見つめる霧雨の視界は、前回貼った図では「台形が2つ、三角形が1つ」だったけど、点Pから遠ざかればそのうち「台形が2つ、5角形が1つ」になるはずだ。
遠ざかった距離を示す緑の線の長さは実際には同じ距離であるはずなのに、「3次元を2次元に変換した図」では場所によって見かけ上の長さが異なることが確認できる。
超立方体における「この面が正方形なんて信じられねーんだが?」ってのも、同じ要領で起こってる現象じゃないだろうか?
しょうじき俺も意味分かってないんだけど、時間と空間を混ぜ合わせた「時空」って言葉はとりあえずあるよな。そんな感じの扱いでよくね?
ベクトルを持つものなら次元を構成する軸になり得ると思うよ。
「このままx軸上を真っすぐに進み続けたら、宇宙の外に出るんだろうか?その先はどうなってるんだろうか?空間に行き止まりはあるのか?」と3次元的な限界について考えることは可能だ。
それと同じで「時間の軸をこのまま進み続けていったら、いつか終点に辿り着くんだろうか?それとも無限に続くのだろうか?」と考えることも可能なはずだ。
拭いきれない微妙な違和感は残るかもしれないけど、一応は軸として機能しそうな気はする。
そういう意味では、温度のベクトルを色で表すサーモグラフィーなんかも4次元的だな。
気づいてしまったか…
2次元の真理は3次元に住む俺たちにしか書き表せないってことだな
2次元の住人は実際そこに「面」があるのにそれを「線」としか認識できない。線の向こう側が覗けないからな
4次元の住人は俺たち3次元の向こう側が覗けるってことか
どういう世界だろう
なんとなくだが合わせ鏡の中のような世界かな?
合わせた瞬間に奥行きの最深部まで移動できた気分になる
人が合わせ鏡を気持ち悪いと思うのはそこに次元の歪みが生じているのかも
時間の概念が崩されてるからな
あとは俺たちの次元は高次元から見るとパラパラ漫画のような無限座標の連射なのかもしれないな
高次元との交点はマンガの1枚
最後のページはなんだろうか
>> 37
そんな番組あるのか。スマホ持つようになってからテレビとか見向きもしなかった。自分の知識欲のなさには幾呆れる。
喧嘩界を見てると、専門でもないのに広い知識を持った人間ばかりで嫌になるね。(その中でも詠人は格が違うように見えるけど)
しかも、感心しているさなか「俺とて素人」とか言われる始末。
議論は俺が喋れば喋るほど損をするように作られてる。知らないことだらけだからだ。(知らないことを多く学べる点はむしろ得)
だから議論は諦めてたのに、ほんとトドメ刺してくれてありがとう。
あと、スマホでいい感じの描画アプリってある?
ibisPaintXってやつダウンロードして使ってたんだけどどうも使いにくい。
もし時間がw軸に置けるのであれば…
我々は紛れもなく四次元にいるし、認識だってできているよな。
現在は同じペースで進み続けている。
我々はw軸を同じペースでスライドしながら、三次元空間を自由に移動できている。そして視覚は二次元だ。
ただ、視覚が二次元なのって、三次元にいるからじゃなくて人間の目や脳の作りが問題なんじゃないかなって思う。
更に進化すれば、三次元に生きていながらも視覚で三次元を見れる可能性だってあるよな。
>> 36
えーと、あなたはとても頭が良いと聞いているので、普通に答えます。分からないことがあったり俺に説明不足があったりしたら聞いてね。
反論の前に「証明」というのが法律上の用語としても存在することについて確認しとく。あなたも「カンペキに証明する」って言っていることだし、「命題が真である・間違いないと明らかにすること」という意味で使っていいよね…?
反論は2つ。
1.主張というのが相手が納得することを前提にはしていないため、主張内容が客観的に正しいという事実がなくても、主張自体は成立すること。つまりいかなる場合にも主張すること自体に証明の必要性は生まれないこと。
2.演繹法の論証でさえも元をたどれば公理という帰納法の推論が存在する。つまり我々は仮定演繹法を受け入れている。このように、帰納法による推論の妥当性が見受けられれば、第三者にも推論を真であると仮定してもらえるわけだ。しかしこれは命題が正しいことを証明したわけではない。我々の行っている証明は、数学上のものでさえも「ユークリッド幾何学」等の仮定の上で成り立っていることを忘れてはならない。
俺は頭わりぃからムズカシーことはよく理解んねーんだけどよぉ
法律用語としての「無実の証明」については、原告や検察が出した証拠に対して無実を主張するとき、何らかの手段で反証する必要があるよな。
「原告側の出した証拠は不十分である(有罪かどうか不明である)」と主張する場合は具体的に無実を証明する必要性も無いけど、「アリバイがあるので無実である」を主張する場合は証明する必要があるはず。
それって現代の論理の常識からすれば詭弁なんですか?
推定無罪ってのは論理的な正誤を担保してるわけではないと思うんだが。
・・・というのが1つ目の意見。
そして『無であることのカンペキな証明』については、到底不可能だと思ってるよ。
三角形の内角の和が180度なんてのも、言ってしまえば単なる信仰・・・いわば公理を教典にしたユークリッド教みたいなもんだからな。
「数学的には正しい」とか「法的には正しい」とか教典を絞ることでカンペキの近似を得ることくらいしかできないだろうね。敬虔な数学者であればあるほど教典に懐疑的な目を向けるのは面白いところではある。
いや「法的用語としては使ってないことが読み取れるよな?」っていう話をしたんやぞ。前半のレスに関してはそれ以前の話をしてんのやで。
2つ目の意見に関してはおんなじことが言いたい、てか俺がここで言いたかったのそのことやで。
なんか「カンペキな証明」だと周りで見てるやつらが理解できなさそうな気がするから補足を。
「この命題は真であると仮定したら、証明できますよね」ってことよ。
一つ、多分分かってるとは思うんだけど、推定無罪というのは
有罪が証明されない限りは、被告人は無罪だと推定(みなされる)される
というものですね。>> 16を見る感じ、もしかしたら意味を誤解して会話がすれ違ってる可能性があると思ったため念のため。
テメー何で生きてやがるんだ・・・
戦場で起こったことについては誰にも何も言うんじゃねーぞ
名誉戦傷章の候補者に推薦しといてやるから・・・いいな?
恐らく誤解してないので大丈夫かと。
・・・ってことが書かれていたので
司法の場においては推定無罪の原則があるので証明する必要がないだけであって
推定無罪は無実であることを論理的に担保するわけじゃなくね?
って疑問を投げてる感じだ。
まだ誤解の気配が残ってたら、どんどん指摘してくれ。
ちなみに、戦場では先制攻撃を受けたものの、かろうじて一命はとりとめています。
>> 44
ふむ。誤解してなさそうでよかった。
そこについてはもう何も疑問に思うことはないです。
・パルスくんの言いたいことについて
これ、つまるところ言いっぱなしなら、いかなる時も証明を必要とせずにできるよね、という話かな?
「主張=相手に言い放つ」という話なら、何をそんな当たり前のことを言っているんだろうという感じだな。
おそらく、パルスくん自身が挙げている例示の
この文中に表記されている主張であったり、詠み人知らずが考えている主張というものは、単に相手に対して言い放つというニュアンスとは違うんじゃねぇの?
それこそ、その主張を聞いている相手方や第三者を納得させることが前提に組み込まれていての主張という言葉の使い方をしているだけだと思うけど。
「主張」という言葉の使い方が、どちらが正しいとか、表現を変えるべきだったのかとか、そういうことについては触れないでおくけど、単純に文意を読み取れなかった結果パルスくんは「詭弁」という結論に帰着したのだろうと思う。
俺はこれに2つの部分で「無の証明に関する詭弁」を組み込んでて、
ひとつは「無実であることを証明する必要がある!」というこの行為自体が無理な行為だということ、
もうひとつはkainが指摘してる「主張」云々の部分だ。
後者について、俺が「現代の論理の常識からすれば詭弁」と言ったことについて注目してほしい。
"思考作用による意味付けによって根元事象を分節して概念化することで存在を認識する"とする現代の論理の常識・パラダイムでは、「主張」も「証明」さえも、「相手に認めさせる」前提がないことになっていることを言いたい。
というのも、"哲学的ゾンビ"さえも否定できない以上、主張自体が「相手に対して単純に投げ掛けるもの」であって、「相手の脳内で概念化されていないならば」如何なる場合でも「相手の理解は前提にはできない」だろ?
簡単に言えば、「主張によって理解させることがない」と言っているのではなく、「理解していることすら証明できない。よって前提ではない」ってこと。
実際俺は文意を読み取れなかったわけではないし(そもそも例文自体俺が考えたのだが)、俺がこのトピックで問題提起したときに単純に「詭弁」とだけ言うのではなく「現代の論理の常識からすれば詭弁」としたのはそういう理由からだよ。
後者の「詭弁」の部分は、正直なところ喧嘩界で論理的に強い人間を見てなかったから(正確には論理的に強いと確信しているユーザーがいなかったから)保険程度に設置しておいた部分なんだけど、指摘されると思ってなかったから正直驚いたよ。
>> 45
えっと、読み取れれるか?と聞かれれば問題なく読み取れるけど、そんなことはどうでもよくて・・・
法的シーンにおける推定無罪の原則は、数学で言うところの公理や定理のようなものである。
法的シーンでは推定無罪の原則が公理的な働きを担うため、無実であることの説明責任(証明の必要性)が免除され得る。
しかし、推定無罪は無実であることを論理的に担保しているわけではない。
↓
「無実を主張するには証明する必要がある」という文言が現代論理の常識からすれば詭弁となってしまう理由は何?
・・・という行程を辿ってるつもりなんですケド😟
>> 41で説明したように、司法と現代論理ではそもそも教典が異なるんだよ。
法的な結論を出すことが目的なら無実を証明する必要はない。
無実の証明なんてせずとも、有罪である信憑性を十分に削ぐことさえできれば無罪を勝ち取れるからな。
しかし、だからといって論理的な結論を出す際にもその法則が当てはまるとは限らないわけだ。
無実を証明できていない人は「無実かどうか分からない」というのが論理的な結論であるはず。
例えば、防犯カメラの映像や目撃者の証言、指紋や採取された頭髪など数々の物的証拠を突きつけられたときに
「裁判長!スワンプマンという言葉をご存知でしょうか?」なんて司法の場では通用しないわけだが
論理的な視座からカンペキの近似(結論)を得ようとする場合においては、一理ある言及と見なされ得るわけだろ?
「無実かどうかは分からない」という論理的結論に対して「否、無実である!」と否定的立場をとるのであれば
論理的な手段で無実を証明する必要性が出てくると思うんだけど、これって詭弁なんですかね?
①「"◯◯するのに××が必要"なとき、"××がなかったら◯◯はできません"」ってことになるわけじゃん。(A⇒B のとき、¬B⇒¬A ※ド・モルガンの法則)
じゃあ逆に考えて、「"××がなくても◯◯ができるとき、◯◯するのに××は必要ないです"」ってことになるわけだ。(¬B⇒Aのとき、¬(A⇒B) )
これら2つの事実を踏まえて考えてみよう。
太郎くんは女子高生盗撮の罪に問われました。ここで、太郎くんは無実を主張したいです、と。
ところで、主張というのは「相手に認めさせようとして強く言い張ること」であって、内容が絶対的に正しい必要はないでしょう?
つまみ、「太郎くんが頑張って認めさせようとしたら、それだけで"主張"が成り立つ」 わけだ。
確かに演繹法を使って完全に証明できるなら、そっちの方が良いのかもしれないでもない。しかしそれは主張としての最善策の話に過ぎない。
太郎くんの言っていることが主張になるためには全く必要ないことだよね。
具体的には、無実を主張したいんなら無実であることの蓋然性を高めればいいだけだよね
※同じ色同士で話が対応しています。
上記のように、"必要ではないもの"を
"必要であるとしてしまっていること"が「詭弁」とされる理由だよ。
じゃあ・・・これは何だったんだよ・・・
アカシックレコードじみたものまで持ち出して主張としての最善策(証明できる/できない)に言及しはじめたのは、他ならぬきみ自身だぞ?
つまみ、俺はきみが設定したベースラインに立ったうえで
・・・これ等の主張を展開していたわけだ。
ここにきて「証明しなくても主張すること自体はできる」とか「それは主張としての最善策の話に過ぎない」みたいな異なるベースラインの話をされても「・・・だから?」としか返せんよ。
そうなんスけど、どうやって高めるんだ?って話なんスよ。
太郎くんは盗撮したのか、あるいはしていないのか。
無実なのか、あるいは無実ではないのか。
推定無罪などの法的な公理には頼らず現代論理の視座から答えを追及していくならば、遅かれ早かれ証明する必要性が出てくるんじゃないスか?
『人生のストーリーすべてが完全に記録されたデータの提示』って、蓋然性を高めるために行う証明の一例っスよね?
太郎くんが無実であることの証明ってのは「犯人である蓋然性が0の近似であることの証明」ってことスよね?
そういうベースラインでの会話だと思ってたけど、違ったんスか?
アカシックレコードは全然違う話。じみてはいるけどね。
なんで"最善策"に言及しだしたのがなんだ?
詠み人が必要あると言っているのは、実際は必要があるのではなく"最善策"に過ぎないだろという話だぞ?
それになんで%%{size:12pt}例え話以外の新しい視点が欲しいってトピックなのに、「きみが出した例え話というベースラインに従っているのだ!」**になるの??
上記より詠み人の指摘するようなベースラインは設定していない。
※ただし「無の証明の実現の蓋然性」というベースラインは設定している。
???俺は確かに「無の証明の実現の蓋然性」というベースラインは設定したぞ。
このとき詠み人が、「主張する上で証明する必要がある!」とかベースラインにズレるだけでなく、論理的に問題があることを言い出したから、「主張する必要が無いことの証明はできるぞ」って皮肉を込めて、論理的な破綻を指摘したんだよ。
根本的に話の進行に支障が出るようなレベルの破綻の仕方だったからな。それを「だから?」で済まされても困るんだわな。俺の指摘が合ってると思うのか間違ってると思うのか言ってくれんと、元々のベースラインでバグる。
例えば、野球をしましょうというベースラインで、ランナーの詠み人選手が守備の人(論理)をぶん殴りました(破綻させました)。これに対して、パルス選手は「野球の進行に問題が出るし、そもそも今ここでぶん殴ること自体間違っている」という指摘をしました。すると詠み人選手は、「だから?」と言いました。
何を勘違いしちゃってるのか知らないが、「証明」というのは「演繹」のことだぞ???
証明したら蓋然性は「高まってカンストする」のな。
ただ、主張自体は蓋然性高めるだけでも成り立つし、もっと突き詰めていけば蓋然性すら高めなくても成り立つわけだが。
ここで、詠み人の発言を見直してみよう。
というものだ。
でも、証明せずに主張は成り立つんだから、「必要」は別にないでしょう???
「○○がなけりゃ~~できない」ときに、「~~するには○○が必要」ってなるんだから。
そのことを>> 50で論理的に細かく説明しているんだよ。そのことについて、「だから?」で済まないことは分かっているだろう?
そもそもの話、詠み人自身が「必要が出てくる」と批判し出したんだ。
間違えていたんなら間違えていましたで何も悪くないと思うけどな。。。
こんな感じで『あらゆる主張は例えそれが公理と呼ばれるほど自明な内容であっても完璧ではない』みたいなベースラインで話してたヤツの口から
まさかまさか「無実を主張する場合、頑張って認めさせようとするだけでいい」なんて見解が飛び出すとは思ってもいなかったわけよ。
監視カメラの映像や目撃者の証言、押収したスマホのデータや採取されたDNAなどの物的証拠から「太郎くんが盗撮犯である蓋然性が100%の近似であることの証明」を突きつけられたとしても
あくまで論理的な観点から見るなら「全く同じDNAを持つ人間が複数いる可能性を完全には否定しきれないので、その証明はあくまで仮説に過ぎません」みたいな反論が通っちゃうよね~完璧な証明って不可能だよね~・・・っていうベースラインで話してるつもりだったんスけど?
もう一度聞くけど、上記の水準(論理的に突き詰めていく方針)において、無実であることの蓋然性をどうやって高めればいいわけ?
・・・というのが俺の意見なわけだが、理解してるか?
これは正にその通りなんだけど、俺が指摘してるのは「〇〇」の部分(条件)に関する掘り下げなわけで。
論理的考察を突き詰めていけば、『主張としての最善策(証明の完遂)』が必要となる領域に遅かれ早かれ到達するだろうが。
「三角形の内角の和は180度とされているが、それは仮説であり実は違うかもしれない」という不完全性定理に則った論理的結論に対して「否!三角形の内角の和は180度ではないことが明確だ!」と完 全 否 定する場合、どうやってその意見の蓋然性を高めればいいわけだ?
おい、答えてみろ?
社会通念上の正論だとかそういうステージを軽く超越し、シミュレーション仮説の可能性さえ考慮するほど厳密な論理的視座から無罪か否かを考察する、という水準において
「無実を主張する場合は頑張って認めさせようとするだけでいい」・・・ってオイオイ何だそれ
ベースラインをそこまで引き下げるのであれば、そりゃ証明する必要なんてねーよw
ベースラインの中身すり替えてるんですね。分かります。
もし詠み人くんが>> 55で明示した「パルスが示したとかいうベースライン」がさっきまでと変わらないんだとしたら、
>ここにきて「証明しなくても主張すること自体はできる」とか「それは主張としての最善策の話に過ぎない」みたいな異なるベースラインの話
という詠み人くんの発言、「異なるベースラインではなくなる」ので「詠み人くんの発言内容が間違っていたことになる」わけですしね。
そして、「飛び出すと思ってなかったもん!」についてですが俺は例まで出して説明しましたよね??
例えば、野球をしましょうというベースラインで、ランナーの詠み人選手が守備の人(論理)をぶん殴りました(破綻させました)。これに対して、パルス選手は「野球の進行に問題が出るし、そもそも今ここでぶん殴ること自体間違っている」という指摘をしました。すると詠み人選手は、「だから?」と言いました。
これですね。
詠み人くんの言いたいことってなんなんですかねw
もしかして:ぶん殴ったことを指摘されるとは思いもしなかった
流石にこれは草。
その通りですよ。我々の行う証明とは、あくまで「事象Aが正しいと仮定したときなら、証明が成り立つよね」って話です。
蓋然性はいくらでも高まりますよね。
帰納法で、たくさんの事例を取り上げれば良いだけですから。
詠み人くんの、この争点に対する最初の意見を見てみましょう。
>「無実だ(不明ではない)」と主張する場合は証明する必要が出てくると思うぞ。
とまあ、こういうものです。
さりげなく、"主張"から"否定的立場"に言葉変えちゃってるんですね。
かわいい。
まあどちらにせよ間違っていることに変わりはないのですが。
こりゃまぁ冷静さを欠いてしまっているようですね。
意見の蓋然性を100%にすることこそが完全否定です。
つまり、完全否定が成立する時点で蓋然性はカンストしています。
「相対的に高める」のではありません。
そもそも話の流れからして"完全否定は無理だ"ということは理解できていたのでは?
また、上記よりあなたはトートロジーもしています。
冷静になってくださいね。
そして詠み人くんは、上記以外にもう1つ勘違いしているようです。
帰納法は蓋然性を高める行為ですよ。
おそらくこのことが分かれば詠み人くんなら理解できるでしょう。
なぜ「無罪」の話になっているのですか?
自分が間違っていたことに気付いて、「刑事訴訟の話だ!」とすり替えるおつもりでしたか???
残念。
今回の話は「無実」についてです。
ベースラインというのは、言葉の通り、思考する基準のことですよね?
無の証明を現代の論理の常識から思考するというベースラインで、なぜ「細かい部分までの論理の追及」をするという、ベースライン上の行為に、「引き下げる」なんてまるでオーディエンスを騙すようなことを言っちゃうんですかね。
まあ、なんだかんだ言って認めるところに素直さとかわいさを感じました。
俺からは以上です。
帰納法で意見を構築するにせよ
その根底には公理の役目を果たす何らかの土台が必要になってくるだろうが。
この一言で大体の部分に反論できちゃうわけだが?
コピペですまないが・・・ちゃんと読み直してくれんか?
トピックの表題には
【人生のストーリーすべてが完全に記録されていて何も悪事を働いていなければ無実は証明できる】
こんなことが書かれている。
論理的に考えるならそのデータに人生のストーリー全てが本当に記録されているかどうかは分からないので、その記録により導き出せる結論も「無実である見込みが非常に高い」といった内容であるはずだが、ここでは蓋然性を100%の近似に近付けようとする行為を証明として扱ってるわけだ。
いわばこれも公理の信仰に該当する内容だろう。
それを踏まえたうえで。
無実かどうか分からないという状況において「無実だと主張する」ってのは
即ち「無実かどうか分からない」に対して否定的立場をとることになるわけだが
その場合、無実である蓋然性を100%の近似に近付けようとする必要性は生じてこないのか?って話だよ。
うんだから扱ってねーよって言ってんの。
詠み人くん認めてたじゃん。完璧な証明はできないこと。
完璧じゃないんなら成り立ってないことぐらい分かるでしょ。あのね、証明っていうのは演繹のことなんだ。
「無の証明」というのは「完全否定の状態の成立を演繹的に求めること」なんだよ。
何言ってんだか。算数と一緒だよ。仮定したらだよ。分かるかな。仮定したら。
これこそ詠み人くんが言ってたことと一緒だと思うんだけど、詠み人くんは詰めが甘いから僕はそこを突っついてるんだよ。
あのね?「もし仮定が正しければ、証明は成り立つ」というのは、証明が成り立つなんてわけじゃないんだよ。君は背理法の過程の結論さえも真であると思い込んでしまうのか?
具体的に見てみよっか。
「もし昨日晴れだったら、散歩しに行った。」
詠み人くんのさっきまでの主張(詰めが甘い主張)っていうのはね?
この黄色背景の文章を見たときに、「散歩しに行ったことを認めているじゃないか!」って言ってることと同じなのね。
ほらね?詰めが甘いでしょ?
「無の証明を条件が真であると確定した、蓋然性がカンストしたときに、その条件に基づく演繹による結論は真であると導くことが証明」だよ。
ここのトピックは、言い換えればそれが「現実的に行えるものか否か」だよ。
ところで
君は「証明する必要がある」と言っていたんだ。
実際は、詠み人くんが「仮定演繹法による結論をパルスが真であるとしている、そのパルスのベースラインに従ったのだ」とかいうとんでもない間違いをしているだけだった。
これを俗に論理破綻といい、そういった論理破綻を指摘し、論理的に間違いを明らかにすることを論破と言うのだが、僕は君を論破した、といいことでいいのかね。
σ(o´・Å・`o)???
何 言 っ て ん だ ?
とある人物が無実か否かを考察する際に
法律や常識など社会通念上の判断に頼るようなことはせず
シミュレーション仮説の可能性さえ考慮するほど厳密な論理的視座で推論する
この水準がベースにあったはずだ。
仮説演繹法、つまり『人生のストーリーすべてが完全に記録されていたならば(仮定)無実を証明できる』ってことだろ?
完璧に証明する(100%の蓋然性を示す)ことは不可能。
完璧に近似する内容の証明を行う(蓋然性を100%に近似させる)ことは可能。
っていう内容のベースラインだったハズだろーがよ。
脳みそ溶けてんのか?
それに加えて、無実を主張したいなら無実であることの蓋然性を高めればいいんだよな?
それってつまり『無実であることの蓋然性を100%に近似させようとする行為』じゃねーのかよ
仮説演繹法(とどのつまり推論)により無実である蓋然性を100%に近似させようとする行為について
他の誰でもないお前自身が『証明』と銘打ってたんだが?
あのな?
現代の論理の常識からするとな?
いくら演繹的な理論を繰り広げたところで太郎くんが無実かどうかは分からねーんだよ。
論理的に突き詰めて紐解いていけば、何事も最終的には公理や定理にぶち当たるからな。
三角形の内角の和は180度・・・という壁にぶち当たってしまったら、そこで論理はガイドの役目を終えるわけだ。
いわゆる、ゲーデルの不完全性定理ってやつよ。
防犯カメラの映像や目撃者の証言、指紋や採取されたDNA
・・・とかいう甘っちょろい証拠をいくら並べたところで
シミュレーション仮説やスワンプマンなんかの可能性が付け入る隙はいくらでもあるわけだ。
そういうベースラインの話だったよな?
「太郎くんは無実だ!」という主張は、すなわち無実かどうか分からないという論理的結論を否定する内容なわけで、その主張をおこなう場合は無実である蓋然性を100%に近似させようとする必要性が生じてくるだろう?って話だ。
詰めが甘いとか散歩に行くとか言ってる場合じゃねーぞ?
落ち着こうぜ。ゾンビやめよ?
1位がそんなじゃみっともない。
もう一度、詠み人くんのレス踏まえて噛み砕いてみるからね?
難しい言葉使わないで説明してみるから、冷静に読んでみよう。
。
。
まずこの詠み人くんのレス。
俺いつそんなこと言った?
ちゃんと読んでますか??
俺さ、「『無実であることの蓋然性を高める行為』は『主張』じゃねーよ」って言ってんじゃん。
逆になんで一緒だと思ってんのか聞きてーな。論理的に接続すらさせてないっつうのに。
>> 50を見てみようぜ??
俺は「無実の蓋然性を高めること」は「主張」に"必要なものである"なんて書いたか???
俺は「無実の蓋然性が高まってないと"無実の主張ではない"」なんて書いたか???
もちろん書いてねーよ。
俺がしてんのは「具体的な手段の話」だろうが。
論理云々に顔突っ込んできといて、必要条件と手段を履き違えるとか、そんなくだらねえアホみてえなことしてんじゃねーぞ。
根本的に履き違えてんのか知らないけど、俺は「無実の主張」は「内容の蓋然性に関わらず可能だ」って話をしてんのね。
俺の内容理解してない上に、そんなのあり得ない!って思ってるからそうやってゾンビやっちゃってんでしょ?
だから、「蓋然性要らずで無実の主張となり得る具体例」出すよ。
「弁論術」
こんな簡単にお前の主張崩れるものなんだな。理論上のものが具体例に批判されれば、理論に欠陥があるんだもの。
はい。わかったね?
。
。
次。詠み人くんのこの発言。
その通りだよ。
でも、上で俺が散々書いてた内容って、この厳密なる論理的視座には反しないから大丈夫だよね。
ところで、ちょっと気になったんだけど、
詠み人くんって最初さ、「パルスは無の証明はできるかどうかのベースライン敷いてたのに関係ないとこで批判してきやがって!!」とか大騒ぎしてたのに、
今はもう間違ってたこと否定しないんだ。
そらそーよね。
だってどこにもそんなベースライン無いんですもの。
まあでも冷静さを欠いちゃってただけだろうし、詠み人くんもそこまでバカじゃないだろうから、「無の証明というベースライン」についてに追求はこのぐらいに、ね?❤
もし異論があるとかいうならいくらでも返すけどね。
。
。
次いこう。
そうだよ。
それで、これを踏まえて詠み人くんは、「人生のストーリすべてが完全に記録されていない可能性を排除できない」って言いたいんでしょ?
ごめんね。君がこれ言ってるの見て、すっごく呆れた。
人生のストーリーすべてが完全に記録されていないケースでは無実を証明できないのなんて当たり前でしょ。
「完全には記録されていない可能性」を「シミュレーション仮説が否定できない」に言い換えて誤魔化したいのか知らないけど、なんの話か分かってる?
「仮定」だよ?
「か て い」
だからね?
"シミュレーション仮説が否定できないケース"は、"完全には記録されていないケース"に内包されるんだから、『仮定外』なの。『仮定には含まれていない』の。」
論理が集合であることを考えれば、こんなこと簡単に分かるでしょう?
。
。
次いこう。
うんだから俺それずっと言ってんだろ???
アホなんけ??
あくまでこのトピックで挙げた例っつーのは、「完全に記録がされていれば(仮定)、証明が可能」って話なんだよ。
その「仮定」が、現実的にあり得るものですか?って話をしてんの。
低次元なとこで勝手にぐるぐる回ってんのやめようぜ?
。
。
最後ね。
はいもう一度!
皆さんご一緒に!!!
「 弁 論 法 」
。
。
次にまた理解せずにおんなじ内容を反芻するようであれば、俺はお前を軽蔑するし、俺だけじゃなく多くの人間がお前を軽蔑するだろう。この喧嘩界での、井の中の蛙的な評価に泳がされるのも大概にな。
言っとくが、ここのランキングって「論争の強さのランキング」じゃねーぞ??ほんでネットに転がってるネット全体論争ランキングとやらも、「喧嘩のランキングだろ?」笑っちゃうよ。外出りゃ誰も宛にしてねーよ、喧嘩師のランキングなんぞ。お前の論理性は評価なんてされてねーっつうことだ。
だから何を言ってるんだお前は
俺が いつ どこで そんな内容について大騒ぎしていたんだ?
俺が言ってる「ベースラインのブレ」について理解せずに同じ内容を反芻しているのはお前で、しょうじき俺はとっくに呆れてたわけだが、ついにはランキングがどうのこうの~なんてラベルの話にまで手を出しちゃうのかよ。
論理学をリスペクトしておりバカなりに理論を遵守している・・・っていうお前の数少ない長所まで見事に崩れ去ってしまうぞ。軽蔑待ったなしはこっちのセリフだっつーの。
そうした社会通念上の信仰(常識や正しさ)に頼ることなく、徹底された論理的視座から無実か否かについて推論しましょう
とかいう水準をベース部分に敷いていたにもかかわらず
非論理的な内容であったとしても主張したことにはなる!
なんて見解が飛び出してきちゃった時点で、コッチとしては「あ~この子あれだ、会話が下手糞なタイプだ」って思ってたわけだが、いい加減そろそろベースラインのブレについて理解してくんねーかな?
分かるか?
野球には一応のルールがあるけど、ルールとは絶対的なものではない!
ランナーが守備をぶん殴ったり蹴飛ばしたりする競技を野球と呼んでもいいはずだ!
みたいなベースラインを敷いたのは、他の誰でもない、お前自身なんだよ。
そのお前が「守備妨害をしたランナーはアウトです、広く採用されているルールブック(公理を信仰する際の教典)にそう書いてあるので」とか言い出したもんだから、コッチとしては当惑せざるを得んわけよ。
さて、俺としては散々待ちくたびれたんだけど、必要条件がどうのこうのって段階までようやく追いついてくれたらしいので、話を進めさせてもらおう。
既に>> 41や>> 55で言った内容の反芻になっちまうわけだが
くれぐれも、理解せずに同じ内容をこれ以上反芻することがないようにしてくれよな。
『人生のストーリーすべてが完全に記録されていたならば(仮定)無実を証明できる』
お前はこの発言について、仮定がどうのこうの、ド・モルガンがどうのこうのと、実にくだらねー部分にこだわって必死の抵抗を見せているが、仮定はあくまで仮定だろうが?って話だ。
お前の言うように、論理ってのは同じ信仰対象(いわゆる公理)から派生した内容で構築された集合だよ。
いかなる証明であっても、その集合の中における蓋然性しか導出することはできねぇ。
だからこそ、公理や定理でさえも完璧な蓋然性を示すことができない仮定なわけだろ。
公理や定理に対する非論理的な信仰心を土台にして組み上げられたあらゆる証明は不完全であり、完璧な証明ではない、というベースラインが俺とお前の共通認識として敷かれていたはずだが?
「AするためにはBが必要」というフレーズにおいて
シミュレーション仮説の可能性なども考慮するのであれば、ある特定の論理体系内では自明なものとして信仰されている公理や定理でさえ疑うことが可能であり、『そもそもAする必要はあるのか?Aする必要がないのであればBをする必要も生じないのでは?』という疑念を挟む余地も当然あるわけだろ。
で、その問答を突き詰めていったら、最終的に行きつくのは公理なわけで。
逆に、弁論法が付け入る隙なんてどこにあるんだ?w
言っちまえば弁論法なんてのは「公理が自明であると信仰させる技術」のことだぞ?
お前はド・モルガンさんに謝ったほうがいいよ・・・
まあこれで既に、ベースライン云々で1つ、無実の証明における蓋然性云々の1つ、計2箇所で論破だね。
君に残されているのは、「俺(パルス)が最初に挙げた具体例がおかしいか否か」だけだね…w
よぉ、久しぶりだなお前ら。身の回りのドタバタが落ち着いて、ちょっと復帰すっぺな〜と思ったら、パルスくんは相変わらず頭の悪いことほざいてんのな。
「無の証明は不可能である」というのは、あくまで直接的な証明に限った話なのであって、間接的な証明は可能であり、その意味において「無の証明は可能」となるのは、もはや常識ですから(笑)
そもそも、「無の証明は不可能である」という言説自体、「無の証明は困難である」若しくは「無の証明は実質的に不可能である」に尾鰭が付いて流布されたものだろう。
そのような言説が流布された所以は、無の状態を立証するためには、それに関連する有の状態全てを列挙して論じなければならず、それはきわめて困難であるという考え方にある。
しかしながら、実のところは、有の状態を否定する明白な証拠、これが存在する事実を立証することにより、無の間接的な証明は可能となる。少し具体化するなら、有の状態が虚偽であることの証拠がそれにあたる。
一見すれば、お前は小難しく、またもっともなことを述べているように思えるかもしれないが、その実は至極当然な常識をトレースしているだけで、ハッキリ言えば中身がスカスカ。
ドヤ顔こいて高説垂れてるが、いやそれ当たり前じゃんw
って感じ。
まぁこれからもサンドバッグにしてやるから涙拭けよ^^