帰納法で意見を構築するにせよ
その根底には公理の役目を果たす何らかの土台が必要になってくるだろうが。
この一言で大体の部分に反論できちゃうわけだが?
- 三角形の内角の和が180度なんてのも、言ってしまえば単なる信仰・・・いわば公理を教典にしたユークリッド教みたいなもんだからな。「数学的には正しい」とか「法的には正しい」とか教典を絞ることでカンペキの近似を得ることくらいしかできないだろうね。
- 「無実かどうかは分からない」という論理的結論に対して「否、無実である!」と否定的立場をとるのであれば、論理的な手段で無実を証明する必要性が出てくると思うんだけど、これって詭弁なんですかね?
- 推定無罪などの法的な公理には頼らず現代論理の視座から答えを追及していくならば、遅かれ早かれ証明する必要性が出てくるんじゃないスか?無実であることの証明ってのは「犯人である蓋然性が0の近似であることの証明」ってことスよね?そういうベースラインでの会話だと思ってたけど、違ったんスか?
コピペですまないが・・・ちゃんと読み直してくれんか?
トピックの表題には
【人生のストーリーすべてが完全に記録されていて何も悪事を働いていなければ無実は証明できる】
こんなことが書かれている。
論理的に考えるならそのデータに人生のストーリー全てが本当に記録されているかどうかは分からないので、その記録により導き出せる結論も「無実である見込みが非常に高い」といった内容であるはずだが、ここでは蓋然性を100%の近似に近付けようとする行為を証明として扱ってるわけだ。
いわばこれも公理の信仰に該当する内容だろう。
それを踏まえたうえで。
無実かどうか分からないという状況において「無実だと主張する」ってのは
即ち「無実かどうか分からない」に対して否定的立場をとることになるわけだが
その場合、無実である蓋然性を100%の近似に近付けようとする必要性は生じてこないのか?って話だよ。
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