えっと、読み取れれるか?と聞かれれば問題なく読み取れるけど、そんなことはどうでもよくて・・・
法的シーンにおける推定無罪の原則は、数学で言うところの公理や定理のようなものである。
法的シーンでは推定無罪の原則が公理的な働きを担うため、無実であることの説明責任(証明の必要性)が免除され得る。
しかし、推定無罪は無実であることを論理的に担保しているわけではない。
↓
「無実を主張するには証明する必要がある」という文言が現代論理の常識からすれば詭弁となってしまう理由は何?
・・・という行程を辿ってるつもりなんですケド😟
>> 41で説明したように、司法と現代論理ではそもそも教典が異なるんだよ。
法的な結論を出すことが目的なら無実を証明する必要はない。
無実の証明なんてせずとも、有罪である信憑性を十分に削ぐことさえできれば無罪を勝ち取れるからな。
しかし、だからといって論理的な結論を出す際にもその法則が当てはまるとは限らないわけだ。
無実を証明できていない人は「無実かどうか分からない」というのが論理的な結論であるはず。
例えば、防犯カメラの映像や目撃者の証言、指紋や採取された頭髪など数々の物的証拠を突きつけられたときに
「裁判長!スワンプマンという言葉をご存知でしょうか?」なんて司法の場では通用しないわけだが
論理的な視座からカンペキの近似(結論)を得ようとする場合においては、一理ある言及と見なされ得るわけだろ?
「無実かどうかは分からない」という論理的結論に対して「否、無実である!」と否定的立場をとるのであれば
論理的な手段で無実を証明する必要性が出てくると思うんだけど、これって詭弁なんですかね?
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①「"◯◯するのに××が必要"なとき、"××がなかったら◯◯はできません"」ってことになるわけじゃん。(A⇒B のとき、¬B⇒¬A ※ド・モルガンの法則)
じゃあ逆に考えて、「"××がなくても◯◯ができるとき、◯◯するのに××は必要ないです"」ってことになるわけだ。(¬B⇒Aのとき、¬(A⇒B) )
これら2つの事実を踏まえて考えてみよう。
太郎くんは女子高生盗撮の罪に問われました。ここで、太郎くんは無実を主張したいです、と。
ところで、主張というのは「相手に認めさせようとして強く言い張ること」であって、内容が絶対的に正しい必要はないでしょう?
つまみ、「太郎くんが頑張って認めさせようとしたら、それだけで"主張"が成り立つ」 わけだ。
確かに演繹法を使って完全に証明できるなら、そっちの方が良いのかもしれないでもない。しかしそれは主張としての最善策の話に過ぎない。
太郎くんの言っていることが主張になるためには全く必要ないことだよね。
具体的には、無実を主張したいんなら無実であることの蓋然性を高めればいいだけだよね
※同じ色同士で話が対応しています。
上記のように、"必要ではないもの"を
"必要であるとしてしまっていること"が「詭弁」とされる理由だよ。
じゃあ・・・これは何だったんだよ・・・
アカシックレコードじみたものまで持ち出して主張としての最善策(証明できる/できない)に言及しはじめたのは、他ならぬきみ自身だぞ?
つまみ、俺はきみが設定したベースラインに立ったうえで
・・・これ等の主張を展開していたわけだ。
ここにきて「証明しなくても主張すること自体はできる」とか「それは主張としての最善策の話に過ぎない」みたいな異なるベースラインの話をされても「・・・だから?」としか返せんよ。
そうなんスけど、どうやって高めるんだ?って話なんスよ。
太郎くんは盗撮したのか、あるいはしていないのか。
無実なのか、あるいは無実ではないのか。
推定無罪などの法的な公理には頼らず現代論理の視座から答えを追及していくならば、遅かれ早かれ証明する必要性が出てくるんじゃないスか?
『人生のストーリーすべてが完全に記録されたデータの提示』って、蓋然性を高めるために行う証明の一例っスよね?
太郎くんが無実であることの証明ってのは「犯人である蓋然性が0の近似であることの証明」ってことスよね?
そういうベースラインでの会話だと思ってたけど、違ったんスか?