「あいつは無実であることを証明できていないから無実を主張するには証明する必要がある!」
これは現代の論理の常識からすれば間違った話、詭弁であるんだが、なんか新しい視点からの意見ってあったりしない?
例えば、有無の判断の対象を我々が認識しているものと限定する場合、無は証明できるよね。
というのも、先程の例で言えば、人生のストーリーすべてが完全に記録されていて何も悪事を働いていなければ無実は証明できる訳だし、現実的な話をすれば生まれたばかりの赤ちゃんの、犯罪における無実の証明は可能。(輪廻転生的な考えは除き、社会におけるその赤ちゃん自身に関しての話とする)
ただ上記の例は新しい視点でもなんでもないけどね
観測し得ない物は存在しない
観測者の認識外の(つまり五感のどれにおいても感じていない)物は存在しないという考え方は否定が難しい。
机の上にりんごが一個あることを認識できるのは、それを見た時(触れた時、嗅いだ時、食べた時など)でしかなく、それ以前は存在しないも同然である。感じ取れないからね。
>> 2
その考え方もいいね。
ただ、観測し得ない物は存在しないって言ってるけど、
今観測しているものが存在している、というのは本当に事実だろうか?
あ、バレた?
俺がまだ
観測しているものが存在するのか否か
については是も否も述べてないこと。
観測できるとも言っているし、認識できるとも言っているが、
だからと言って存在するかと言われると別問題。
まあ人間の認識というのはガバガバなもので、
俺が小2の頃に生で見て感動した水戸芸術館も、今となってはなんの感動も及ぼさない。
この現象、人間側の都合でものの見え方が全く違う…という、既に議論され尽くした内容の話に繋がってしまうんだけど。
別の例を出すと、盲目の恋。
初恋の相手にどうしようもないくらいの恋愛感情を寄せて、毎晩おかしくなりそうだった。決して話しかけることはできない隣のクラスのあの子だ。宿泊学習の夜中にみんなが好きな子をカミングアウトしている中、自分だけが「は?いねーし」と強がっていた(もしくはカモフラで「クラスで一番ブスなアイツが好きだ」と言っていた)頃の、あの誰にも言えない恋愛感情。
同窓会で久々に再開した時にはなんの感動もない。ただただそこにそいつがいるだけ。この盲目の恋はいつどうやって覚めてしまったのか。
はじめから存在しなかったのではないか。
過去すらも観測できない。あるのは自分の中にある記憶(そして、人によっては付けているかもしれないちぐはぐな日記)。
俺が絶対に存在していると自信を持って言えるのは、今紛れもなく思考をしている自分自身と、自分が今実感している周囲の存在だけだ。
そして、その二つとも決定的な証拠を他人に提示できない(おそらく不可能)ことがもどかしくてならない。
提示できないのであれば、存在しないと言われても仕方ないのである。
お、出たなデカルト
我思う、ゆえに我あり
俺もおんなじような考えだよ。
ところで質問いい?
「A⇒B B⇒C
よってA⇒C」
これってこの世界じゃないところでも成り立っていると思う?