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無の証明は本当にできないのか / 53

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パルス 2019/11/26 (火) 21:36:22

アカシックレコードじみたものまで持ち出して主張としての最善策(証明できる/できない)に言及しはじめたのは、他ならぬきみ自身だぞ?

アカシックレコードは全然違う話。じみてはいるけどね。
なんで"最善策"に言及しだしたのがなんだ?
詠み人が必要あると言っているのは、実際は必要があるのではなく"最善策"に過ぎないだろという話だぞ?
それになんで%%{size:12pt}
例え話以外の新しい視点が欲しいってトピックなのに、「きみが出した例え話というベースラインに従っているのだ!」**になるの??

つまみ、俺はきみが設定したベースラインに立ったうえで

上記より詠み人の指摘するようなベースラインは設定していない。
※ただし「無の証明の実現の蓋然性」というベースラインは設定している。

ここにきて「証明しなくても主張すること自体はできる」とか「それは主張としての最善策の話に過ぎない」みたいな異なるベースラインの話をされても「・・・だから?」としか返せんよ。

???俺は確かに「無の証明の実現の蓋然性」というベースラインは設定したぞ。
このとき詠み人が、「主張する上で証明する必要がある!」とかベースラインにズレるだけでなく、論理的に問題があることを言い出したから、「主張する必要が無いことの証明はできるぞ」って皮肉を込めて、論理的な破綻を指摘したんだよ。
根本的に話の進行に支障が出るようなレベルの破綻の仕方だったからな。それを「だから?」で済まされても困るんだわな。俺の指摘が合ってると思うのか間違ってると思うのか言ってくれんと、元々のベースラインでバグる。

例えば、野球をしましょうというベースラインで、ランナーの詠み人選手が守備の人(論理)をぶん殴りました(破綻させました)。これに対して、パルス選手は「野球の進行に問題が出るし、そもそも今ここでぶん殴ること自体間違っている」という指摘をしました。すると詠み人選手は、「だから?」と言いました。

『人生のストーリーすべてが完全に記録されたデータの提示』って、蓋然性を高めるために行う証明の一例っスよね?

何を勘違いしちゃってるのか知らないが、「証明」というのは「演繹」のことだぞ???

証明したら蓋然性は「高まってカンストする」のな。

ただ、主張自体は蓋然性高めるだけでも成り立つし、もっと突き詰めていけば蓋然性すら高めなくても成り立つわけだが。

ここで、詠み人の発言を見直してみよう。

「無実かどうかは不明だ」と主張する場合は無実であることを証明する必要なんて確かにないけど
「無実だ(不明ではない)」と主張する場合は証明する必要が出てくると思うぞ。

というものだ。
でも、証明せずに主張は成り立つんだから、「必要」は別にないでしょう???
「○○がなけりゃ~~できない」ときに、「~~するには○○が必要」ってなるんだから。

そのことを>> 50で論理的に細かく説明しているんだよ。そのことについて、「だから?」で済まないことは分かっているだろう?
そもそもの話、詠み人自身が「必要が出てくる」と批判し出したんだ。
間違えていたんなら間違えていましたで何も悪くないと思うけどな。。。

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  • 55
    詠み人知らず 2019/11/27 (水) 05:29:05 >> 53
    • 人生のストーリーすべてが完全に記録されていて何も悪事を働いていなければ無実は証明できる
    • 同一時間に同一人物が1人しか存在しないことすら証明できないし、発展的には、シミュレーション仮説の可能性まで考慮すればもう証明のしようがない
    • 我々の行っている証明は、数学上のものでさえも「ユークリッド幾何学」等の仮定の上で成り立っていることを忘れてはならない

    こんな感じで『あらゆる主張は例えそれが公理と呼ばれるほど自明な内容であっても完璧ではない』みたいなベースラインで話してたヤツの口から
    まさかまさか「無実を主張する場合、頑張って認めさせようとするだけでいい」なんて見解が飛び出すとは思ってもいなかったわけよ。

    監視カメラの映像や目撃者の証言、押収したスマホのデータや採取されたDNAなどの物的証拠から「太郎くんが盗撮犯である蓋然性が100%の近似であることの証明」を突きつけられたとしても
    あくまで論理的な観点から見るなら「全く同じDNAを持つ人間が複数いる可能性を完全には否定しきれないので、その証明はあくまで仮説に過ぎません」みたいな反論が通っちゃうよね~完璧な証明って不可能だよね~・・・っていうベースラインで話してるつもりだったんスけど?

    もう一度聞くけど、上記の水準(論理的に突き詰めていく方針)において、無実であることの蓋然性をどうやって高めればいいわけ?

    「無実かどうかは分からない」に対して「否、無実である!」と否定的立場をとるのであれば
    推定無罪などの法的な公理には頼らず現代論理の視座から答えを追及していくのであれば
    遅かれ早かれ証明する必要性が出てくる

    ・・・というのが俺の意見なわけだが、理解してるか?

    「"◯◯するのに××が必要"なとき、"××がなかったら◯◯はできません"」ってことになる

    これは正にその通りなんだけど、俺が指摘してるのは「〇〇」の部分(条件)に関する掘り下げなわけで。
    論理的考察を突き詰めていけば、『主張としての最善策(証明の完遂)』が必要となる領域に遅かれ早かれ到達するだろうが。

    「三角形の内角の和は180度とされているが、それは仮説であり実は違うかもしれない」という不完全性定理に則った論理的結論に対して「否!三角形の内角の和は180度ではないことが明確だ!」と完 全 否 定する場合、どうやってその意見の蓋然性を高めればいいわけだ?
    おい、答えてみろ?

    社会通念上の正論だとかそういうステージを軽く超越し、シミュレーション仮説の可能性さえ考慮するほど厳密な論理的視座から無罪か否かを考察する、という水準において
    「無実を主張する場合は頑張って認めさせようとするだけでいい」・・・ってオイオイ何だそれ

    ベースラインをそこまで引き下げるのであれば、そりゃ証明する必要なんてねーよw