「仮定演繹法による結論をパルスが真であるとしている、そのパルスのベースラインに従ったのだ」とかいうとんでもない間違いをしているだけだった。
σ(o´・Å・`o)???
何 言 っ て ん だ ?
とある人物が無実か否かを考察する際に
法律や常識など社会通念上の判断に頼るようなことはせず
シミュレーション仮説の可能性さえ考慮するほど厳密な論理的視座で推論する
この水準がベースにあったはずだ。
仮説演繹法、つまり『人生のストーリーすべてが完全に記録されていたならば(仮定)無実を証明できる』ってことだろ?
- シミュレーション仮説などの可能性を排除しきれないので
完璧に証明する(100%の蓋然性を示す)ことは不可能。 - しかし、参照するデータが人生すべてを記録したものだと仮定することにより
完璧に近似する内容の証明を行う(蓋然性を100%に近似させる)ことは可能。
っていう内容のベースラインだったハズだろーがよ。
脳みそ溶けてんのか?
それに加えて、無実を主張したいなら無実であることの蓋然性を高めればいいんだよな?
それってつまり『無実であることの蓋然性を100%に近似させようとする行為』じゃねーのかよ
仮説演繹法(とどのつまり推論)により無実である蓋然性を100%に近似させようとする行為について
他の誰でもないお前自身が『証明』と銘打ってたんだが?
あのな?
現代の論理の常識からするとな?
いくら演繹的な理論を繰り広げたところで太郎くんが無実かどうかは分からねーんだよ。
論理的に突き詰めて紐解いていけば、何事も最終的には公理や定理にぶち当たるからな。
三角形の内角の和は180度・・・という壁にぶち当たってしまったら、そこで論理はガイドの役目を終えるわけだ。
いわゆる、ゲーデルの不完全性定理ってやつよ。
防犯カメラの映像や目撃者の証言、指紋や採取されたDNA
・・・とかいう甘っちょろい証拠をいくら並べたところで
シミュレーション仮説やスワンプマンなんかの可能性が付け入る隙はいくらでもあるわけだ。
そういうベースラインの話だったよな?
「太郎くんは無実だ!」という主張は、すなわち無実かどうか分からないという論理的結論を否定する内容なわけで、その主張をおこなう場合は無実である蓋然性を100%に近似させようとする必要性が生じてくるだろう?って話だ。
詰めが甘いとか散歩に行くとか言ってる場合じゃねーぞ?