「あいつは無実であることを証明できていないから無実を主張するには証明する必要がある!」
これは現代の論理の常識からすれば間違った話、詭弁であるんだが、なんか新しい視点からの意見ってあったりしない?
例えば、有無の判断の対象を我々が認識しているものと限定する場合、無は証明できるよね。
というのも、先程の例で言えば、人生のストーリーすべてが完全に記録されていて何も悪事を働いていなければ無実は証明できる訳だし、現実的な話をすれば生まれたばかりの赤ちゃんの、犯罪における無実の証明は可能。
じゃあ・・・これは何だったんだよ・・・
アカシックレコードじみたものまで持ち出して主張としての最善策(証明できる/できない)に言及しはじめたのは、他ならぬきみ自身だぞ?
つまみ、俺はきみが設定したベースラインに立ったうえで
- 無実を証明することが出来なかったら「無実かどうかは分からない」ってのが論理的結論だと思う
- 一生が記録されていることの証明(データに抜け落ちがないことの証明)なんてのは到底不可能だろうし、無実をカンペキに証明することはできない
- 用いる公理(論理体系)を絞ることでカンペキの近似を得ることくらいしかできない
- 無実かどうかは分からないという結論に対して「否、無実である!」と否定的立場をとるのであれば、論理的な手段で無実を証明する必要性が出てくる
・・・これ等の主張を展開していたわけだ。
ここにきて「証明しなくても主張すること自体はできる」とか「それは主張としての最善策の話に過ぎない」みたいな異なるベースラインの話をされても「・・・だから?」としか返せんよ。
無実を主張したいんなら無実であることの蓋然性を高めればいいだけ
そうなんスけど、どうやって高めるんだ?って話なんスよ。
太郎くんは盗撮したのか、あるいはしていないのか。
無実なのか、あるいは無実ではないのか。
推定無罪などの法的な公理には頼らず現代論理の視座から答えを追及していくならば、遅かれ早かれ証明する必要性が出てくるんじゃないスか?
『人生のストーリーすべてが完全に記録されたデータの提示』って、蓋然性を高めるために行う証明の一例っスよね?
太郎くんが無実であることの証明ってのは「犯人である蓋然性が0の近似であることの証明」ってことスよね?
そういうベースラインでの会話だと思ってたけど、違ったんスか?