SNっぽい聖杯戦争こと第五次土夏聖杯戦争用のSSや怪文書などを投下する用途のスレッドです。 アーカイブとしての保存や、絡み後の後日談などにお使いください。
② 「………サーヴァント………」 「せぇかぁい。すぐバレるだろうしクラスまではサービスしてあげようかな。キャスターのサーヴァントだよ。セイバーのマスターくん」 「………2日前、大橋のところで………」 「あは、よく覚えてたねぇ。えらいえらい。ま、あの時は私にとっても偶然の遭遇だったけどね」 キャスターの腕が伸び、わざとらしく俺の頭をやんわりと撫でる。 身体を引きたくても、腕も足も全く動かず首すら満足に回せないのでは抵抗することなく受け入れるほかない。 相手はサーヴァント。その気になれば今こうして頭を撫でている腕ひとつで俺の命を奪えるだろう。 怖気に身を震わせながら呂律の回らない舌へなんとか鞭を打ち、少しでも情報を引き出そうと俺は会話を重ねようとした。 「………マスターと分かっているなら………どうして俺を殺さないんだ」 「うん?だっていきなり殺してしまっては魔力を吸い上げられないじゃないか。非効率的でしょ? それに、君はあの花屋のお嬢ちゃんともマスターとして仲良くしているみたいじゃないか。 君を人質に取ればセイバーはもちろんあの子たちも愉快に踊ってくれそうだからね。私の巣までご招待出来れば、後は煮るなり焼くなり………」 ………腑抜けた肉体でもなお、噛み締めた奥歯はぎりりと鳴った。 ダメだ。それだけはダメだ。俺は今、セイバーたちの厄介な荷物になっている。それは認められない。 彼らに助けられるだけの、面倒を見られるだけの存在になるのは例え死んでも御免だ。 きっと睨みつけた俺の視線を受けて、キャスターはぺろりとその潤んだ唇を舐めた。 「いいね。そういう顔。すごくいいよ。私は人がそうやって嫌がる顔を見るのが………おや?」 急にきょとんとした顔をキャスターがした。 ただでさえ近かった距離をさらに詰めてくる。もう互いの呼吸が感じられそうなくらい顔と顔が接近した。 きらきらと炎のように光る瞳が俺の顔を擦り上げるようにじっくりと見つめてくる。顔つきは真剣そのものだ。 「な………何だよ」 「君………こうしてよくよく見てみたら、ずいぶん可愛い顔をしてるねぇ。顔だけなら割と、いや、かなり好みかな」 キャスターはチェシャ猫のようににんまりと笑った。 まるで頬ずりをするように吊り下げられたままの俺の身体に身を寄せ、耳打ちする距離まで口を俺の耳に近づける。 「どうかな。私のおもちゃになってみる?セイバーのマスターなんてやめちゃってさ」 「っ!?」 敵のサーヴァントだと分かってはいても、その糖蜜を溶かし込んだような甘ったるい囁き声が耳朶を打つと生命として自動的に心臓が高鳴った。 思わず顔に血が上るのがはっきりと感じられた。顔が動かせないのでキャスターの表情を伺うことも出来ない。 ただ、キャスターの菫色の髪とその香りが鼻先をくすぐった。 くつ、くつ、くつ。キャスターの面白おかしそうな笑い声が鼓膜のすぐ近くで響く。 それは巣にかかった哀れな犠牲者を前にして舌鼓を打つ蜘蛛そのものの笑声だった。
「ふぅん。いやに素直に信じるんだね。ひとまずの協力関係とはいえ私は君のサーヴァントじゃないんだよ」 「だって、キャスターは筋の通らないことは嫌いでしょ? 自分からそれを捻じ曲げるとは俺には思えないよ。 それに他ならぬキャスターが編んでくれた礼装だ。織り手アラクネの外套なんて凄く心強いよ。ありがとう」 「―――…………」 何故かキャスターは口をぱくぱくとさせた後、眉を寄せて俺を睨んだ。 菫色の髪を神経質に指へくるくる巻きつけ弄んでいる。何かを誤魔化すかのように。 こころなしか、キャスターの白い頬にはいくらか赤みがさしているようだった。 「君は、なんだ。誰にでもそういうことを言うんだね」 「誰にでもって、そんなわけないじゃないか。 確かにこの関係が終われば敵同士かも知れないけど今は味方だ。なら本音だってぶつけるよ。 最初こそ酷い目に合わされたけど、あなたには世話になった。ならきちんとお礼を言わなきゃ気がすまない」 キャスターは自分の髪を弄んでいた指で頬を掻くと、くるりと後ろを向いた。 「………やれやれ。この私としたことが可愛いだけの子犬と見誤ったか」 俺には聞こえない独り言を呟いて、それから横顔だけ見せて微笑んだ。困ったように、眼尻を下げて。
① 『先程百合が段ボール箱を抱えてあちらへ行ったのだが………テンカ、話は聞いているか?』 セイバーの報告を受けて、俺は一目散に教えられた方へと向かった。 何考えているんだあの先輩。この家にいったい何を持ち込んだというんだ。 スリッパで床をぺたぺた叩きながら小走りで廊下を横切る。 ………気配を探っていた俺の耳に飛び込んでくる、ガラスとガラスがぶつかり合うような涼やかな音。 急いでいた足がある客間の前で止まることになった。 長らく―――それこそ、間違いなく18年間は定期的に掃除しに来る俺以外誰一人入ったことのない部屋から物音がする。 なんだろう。妙な緊張感がある。俺は恐る恐る客間のドアの前に立った。 ノックをしようと腕を上げてから考え直し、その手でノックをせずにそのままドアノブを握る。 ゆっくりとドアノブを捻り、そうしてほんの少しだけ扉を開けて隙間からそっと部屋の中を覗き見た。 ―――俺の知らない部屋があった。 正確には間取りなどは記憶の一致しているのだが内装はすっかり変わってしまっていた。 最低限のものしか置かれていなかったはずの客間にはすっかり物が溢れ、混沌とした世界になっている。 まず気になったのは部屋全体に漂う香りだ。俺の温室に負けず劣らずの独特の芳香がドアの隙間から漏れてくる。 正体は言わずもがな。これでもかと部屋の隅に並べられた鉢植えたちだ。 色とりどりの花々が何らかの規則性を以てずらりと配置されていた。よくよく見ると、鉢植えの下には何やら魔術の陣が………。 「………って!?じ、絨毯!絨毯の上に!直接!?なんてことを!?」 そんなことをしたらシミになってしまうじゃないか!大問題だ! 洋館と絨毯の平和を守るため、こっそり覗いていたことも忘れてドアを開け放ち鉢植えのある方へ踏み出した。 2歩、3歩………。辿りつきそうになったところで、俺の背中から声がかかった。 「そこ、時間を弄って花の成長速度を調整してるし、一応結界で施錠もしてるから断りなしに踏み込むと危ないよ?」 「え………」 きょとんとなって振り向くと、腕組みをした百合先輩が俺のことをどこか呆れたような顔をしていた。 トパーズの瞳が生暖かい温度になってとろんとこちらを見ている。 「そもそも女の子の部屋にノックもなしに踏み込むというのは正直感心しないなぁ、トカゲくん」 「トエイです、じゃなくて………え、その………すみません………? じゃなくて!どうして先輩はこの客間を自分色に染め上げようとしているんです!」 俺の中では完璧な指摘だったが、百合先輩はそれをまるで見当違いなことを言った学生を見る教師のような表情でひと睨みした。 「何言ってるの。仕方ないから最後まで面倒を見るって私は言って、君も頷いたでしょ? ならどうしようもないくらい半人前な十影くんをせめて魔術使いと言えるくらいには引っ張り上げないといけないじゃない。 時間なんてかけていられないから超突貫の即席コースだよ。というわけで店とは往復することにしてしばらくここに泊まり込むから。 三食分の食事は任せるね。どちらかといえば中華が好みだけど献立に文句まではつけないし美味しいのをお願い。 そうそう開けていない荷物がまだあるから手伝って十影くん。大丈夫、魔道具はまっさきにやっつけたから後は日用品だけで危険はないよ」 立て板に水を流したようにつらつらと述べると百合先輩はそれが当然のように未開封の段ボール箱を指差した。 こう言われるとなんだか先輩が正しい気がしてくるから不思議だ。 我が家の一部屋が今まさに占拠されようとしていながら、『まぁ仕方ないか』という気分になってくる。 釈然としない思いを抱えながら俺はガムテープで封すらされていない段ボール箱の蓋を開けた。 なるほど言われたとおり百合先輩の私物と思しきものがたっぷりと詰まっていた。………もう1泊か2泊するとかいうレベルじゃない。 気分は一人暮らしを始めた大学生。これだけあればあとは電化製品さえ揃っていれば生活できてしまうだろう。
② 「先輩は………暮らすとなるとまず自分のテリトリーを作るタイプなんですね………」 「そうだね。むしろ魔術師なんてみんなそんなものだよ。自分のとっての世界を造っている、みたいな感じかな」 「世界?」 「そう。私からすると、この部屋のここからあそこまでが私の簡易的な工房。ここからここまでが私の居住スペース。 きっぱり分けているけれどどちらが欠けてもダメ。東洋的には陰陽合一の理念に近いかな。全部が相まって私にとって有利な世界を形成しているの」 指差されるままに視線を動かす。言われてみれば、客間はまるで真っ二つに分けられたように雰囲気を二分していた。 鉢植えのある一方は鉢植えの他にも怪しげな術具や木枠に並べられたドライフラワー。整理整頓された書籍など、いかにも魔術師らしい空間になっていた。 反対側、ベッドのある方は………さて、なんと言うべきか。意外とと言うべきか。思った通りと言うべきか。 色使いや小物など、多くが丸みを帯びたファンシーという概念に満ちている。女の子しているというか。とにかく可愛らしい感じだ。 俺にとって最も身近な女性である流姉さんがあの惨状なので、こういうのは未知の雰囲気だった。男としてやや居心地悪さも覚える。 「だから、私はここでは外にいるときよりも魔術師としていくらか強い力を発揮できる。 レッスン1。自分にとってなるべく有利な状況を整えるというのは魔術師としての考え方として重要なのです。覚えておいて。 十影くんで言うと………あの温室がそれじゃないかな?あそこにいて居心地いいと感じるんじゃない?」 「まぁ、あそこにいると確かに落ち着きは覚えますね。………ん?なんだこれ」 ふたつめのダンボール箱を開けると、中には布製の何かが詰まっていた。無造作に取り出す。 その形状を見て、俺は首を傾げてしまった。 「………サメ?」 「………ッ!サメリアッ!!」 瞬間、セイバーが踏み込んで放つ神速の袈裟斬りもかくやという速度で俺の手元からそれは奪い取られた。 がるるる。手負いの獣のように威嚇する先輩がひっしと抱きしめているのは、明らかにサメらしい形状のぬいぐるみである。抱き枕サイズ。 雌熊となって俺への敵意を見せていた先輩だったが、ふとしたタイミングで我に返ったのか。慌てて取り繕い出した。 「な………なんでもないよ?そう、部屋のインテリアだから。このぬいぐるみも。ほら可愛いでしょサメ。サメって可愛いよね。 だけどいい?君は何も聞かなかったし見なかった。サメリ………サメのぬいぐるみを私に渡しただけ。そうだよね?」 「………ハイ、ソウデスネ」 ………と。俺は平坦な声音で答える他なかった。 先輩は俺にそう言い含めている間にも、強火にかけた薬缶みたく湯気を吹き出しそうな勢いで顔を真っ赤に染めていたからだ。 先輩とそのぬいぐるみの間に如何な真実があるのか―――問えば殺されそうだったので面白がって問いかけるチョイスは俺にはなかった。 追伸。照れる先輩はびっくりするほど可愛かったと付け加えておく
1/2 ───────1991年、長野県某市。7月。
「やっと見つけた!」 ショートカットの女性が繁華街の裏手で大声を上げ、通行人が首を傾げながら通り過ぎる。
「………また、あんたかよセンセー」 女性に声を掛けられた男、少年はウィンドブレーカーのフードを外すとため息をついた。 「また私よ、って言うか私以外に気に掛けてくれる美人教師いるの、黒瀬君?」 「すっげー自信、センセー鏡見たことある?」 女性は少年、黒瀬のセンセー、先生であるらしい。親しい様子で話すとやれやれと言わんばかりに路肩の自販機の前に座り込んだ。 「で、君は学校には来ない!家にも帰らない!なにやってるわけ?」 「別に関係ねぇだろ、誰にも迷惑かけてねぇ、なんか飲む?」 座り込んだ黒瀬に怒りを隠せない先生。 その言葉に耳を貸すつもりはないのか、黒瀬自販機で飲み物を買った。 「要らないわよ、迷惑掛けてないっていうけどね、君。そのお金どうしたの?」 「拾った」 もう一度座り込むと缶コーヒーのプルタブを開け、口を付ける。 今使っている財布は街中金を持ってそうなチンピラからスったものだ。 自分の起源からしてどうせ証拠は出てこないし、捕まらない。 (……苦っ、良くこんなもん好き好んで飲んでるな) 粋がってブラックコーヒーを買ったが、口に合わなかった。
2/2 「…………嘘をつくのは止めなさい!!」 先生の怒鳴り声に驚き、黒瀬の肩がピクリと動いた。 「なんで、嘘だって疑うんだよ」 意図的に声を震わせる、出来るだけ繊細な思春期の少年を装う。 「それ、他の人には通じても私には通じないわよ、黒瀬くん。 何しろ私の方が嘘つきだから」 座り込んだ黒瀬の肩を掴み、じっとその眼を見つめる。 黒瀬の心臓の鼓動が早まる。嘘を見抜かれたからか、それとも 「私は貴方が何をしてるか大体把握してるけど、それを糾弾するつもりはないの」 眼を真っ直ぐに見つめて先生は続ける。 「貴方が学校に来ないのも、家に帰らないのも貴方の意思ならそれでいいとさえ思ってる。ただ、自分に嘘をついて逃げるのは止めなさい」 「おれは、別に嘘なんて……」 まるで心の奥底を見抜かれたようで、思わず口ごもる。 「それがまず嘘。 ……黒瀬くん、貴方に言いたくない、言えない事情があるのはなんとかなく分かる。それを人に相談出来ないことも」 「でも今の貴方は周りが気に入らないから好き勝手してるって自分に嘘をつき続けてる。 黒瀬くん、嘘って言うのはね、人だけでなく自分も傷つけるのよ」 「センセー……俺、どうしたらいいかわかんねぇんだよ……家にいても学校にいても街にいても誰も俺を、俺自身を見てくれねぇ……俺、どうすりゃいいんだ?」 先生の真っ直ぐな眼に堪えきれず遂に眼を反らした。 感情が溢れ出て涙が出てくる。 「黒瀬くん……………甘えるな!」 ばちん!と平手が一発 「…………はぁ!?なんで!?」 「貴方の事情を相談しないんだからどうすればいいかなんて私に分かるわけないでしょ!」 思わず仰け反って混乱する黒瀬に先生は続ける。 「まずは話せる範囲で話して見なさい!そして一個一個解決法を探るの!ほら、立ちなさい、夕飯もまだでしょ?奢るわよ」 右手を黒瀬に向かい差し出す。 「……無茶苦茶言うね、『先生』。何奢ってくれるの?」 少し考えて、先生の手を掴む。
この人はきっと自分の事情なんて分かりもしない、でも先生は自分を見つけて話してみろと言ってくれた。 なら、話してみよう。全ては無理でも少なくとも多少は解決の手助けをしてくれるかもしれない。
「ラーメン!餃子もつけていいわよ!」 「半チャーハンは?」 「……まぁ、いいわ」 黒瀬の顔に久しぶりに心から笑みが浮かんだ。 はじめて信頼してもいいと思える大人に出会った気がした。
───────2009年土夏市、旧土夏。5月深夜。
街灯すら疎らな裏通りをウィンドブレーカーを着てフードを被った一人の男が走っていた。 時折酔っぱらいや所謂不良達が男とすれ違うもこんな深夜に走る男をいぶかしむことさえない、まるで男の存在に気づいていないかのようだ。
(あぁそうともそれで良い。今の私、俺はあってないようなものだ) 男、火蜥蜴学園現国教師黒瀬正峰は時たまこうして夜の闇の中を走る癖があった。ストレス解消と言う訳ではない。 ただ時々自分が何者なのか、そう言う悩みを感じた時にはこうして夜の街を走るのだ。今回の原因は本家に旧土夏の怨霊祓いを頼まれた事だった。 (私は退魔でも祓い屋でも魔術師でもないと言うのに……) 苛立ちと鬱憤めいた思いを胸に無心で走る。こう言うときに思い出すのは恩師である先生の言葉だ。
ねぇ黒瀬くん、これから先、生きてれば自分が本当に正しいのか悩んだり或いは自分を見失ってしまうこともあるでしょう。 ……貴方の在り方はきっと人に影響されやすいから。 そう言う時は走りなさい。なにも考えられなくなるまで走りなさい。 そして何か考えられるようになった時に最初に思った事。それが嘘偽りのない貴方の本心って奴よ。
「はぁ…はぁ……」 かれこれ数時間数十キロは走って息切れした正峰は街灯の元で息を整える。 (そうだ……そろそろ中間テストだ。 今から問題をつくっておかないと。 今度は例文を見てどう思ったか、個人の思いを述べなさい。なんて問題の配点は5点位にしないと主任や校長にまたお小言言われるな……) そこでふっ、と苦笑した。 良かった自分は教師だ、少なくとも自分はそう思っている。 そこでポケットから取り出した護符を見る。 (ならこんな野暮用はさっさと済ましてしまおう) 息を整え終えた正峰は目的地に向けて今度は憂いなく足を動かしはじめた。
第五次土夏市聖杯戦争の開始する2ヵ月か前の事だった。
1/2 ───────2009年、6月初旬夕方。火蜥蜴学園。
梅雨の季節、朝から降っていた雨は昼過ぎには止み、澄色の光が火蜥蜴学園の廊下を照らしていた。 部活終わりに帰宅する生徒達とすれ違い、各々挨拶を返しながら黒瀬は自身の受け持つ2年C組の教室へと向かっていた。 「あ、黒瀬先生!」 後ろからの声に振り向くとそこには見知った三人組の姿があった。 松山茉莉、竹内太桜、梅村海深。松竹梅、などと呼ばれることもある黒瀬の受け持ちである三人の女生徒だった。 松山が手を振りながら黒瀬に向かい歩き、少し離れて竹内はペコリと頭を下げている。……梅村は竹内の後ろに身を隠すような姿勢だったが、黒瀬と目があったのに気付き静かに会釈をする。
梅村海深はどこか黒瀬に苦手意識があるのか、距離を取っているようだった。 それは黒瀬も知っているが、何か問題があるわけではなく無理に距離を詰める必要はないと考えていた。 だが人として何が悪かったか、程度に気にする機敏はある。 早い話、珍しく人並みに傷ついてはいた。
「珍しいな、松山。部活終わりか?」 「ボクは先生と違って忙しいからね」 「確かに部活の顧問はやっていないが、代わりに先生方の雑務を引き受けている。決して暇ではないぞ」 と、松山がキョロキョロと誰かを探しているよう様子に気付く。 「誰かを探しているのか?」 「……凄いね、分かるんだ」 「これでも教師をやって大分長い。十影か?」 驚く松山になんの事はないとでも言わんばかりに答える。実際には人の表情を読むのは裏の顔で培ったものだが。 「十影なら八守と下校しているのを見かけた。もう校内にはいないだろう」 「あー……だってさ、海深!」 「太桜ちゃん、声大きいよ……」 二人の様子、梅村の表情からおおよその推測は付くが、口に出しては野暮と言うものだろう。黒瀬ははて?と首を傾げて見せた。 「ほら、下校時間はもう過ぎてる。帰るぞ、二人とも。黒瀬先生失礼します」 「しかたないなぁ、さようなら先生」 「し、失礼します」 「ああ、さようなら。気をつけてな」 三人の後ろ姿を見送り、再び教室へと向かう。
2/2 下校時間を過ぎて校内に残っている生徒がいないな確認するのは部活の顧問をやっていない黒瀬の仕事だった。 各クラスを回って居残りがいないか、確認する。たまにおしゃべりが楽しくて居残っている生徒がいれば帰るように促す。 そして、自身の受け持つクラスにたどり着いた。 扉に手を掛けた瞬間、中からの人の気配に気づいた。……思わず身構え、臨戦態勢に入る。 埋まれた時から染み付いた悪癖だ。 深呼吸をひとつして意識を切り替え扉をあける。 「おーい、誰か残っているのか?」 「あ……黒瀬先生」 そこには夕焼けと似た色の髪の青年、自分の机に座る十影典河の姿があった。 「十影? 忘れ物か?」 松山に言ったことは嘘ではない。黒瀬は確かに十影は友人である八守と共に学園の門を通ったのを確認していた その二人が教え子であり、魔術師見習いとどこかの組織に所属していない魔眼持ちという事で校内にいる限りは出来る限り気にするようにしていたからだ。 「ええ、実は宿題を……」 「そうか、熱心なのは構わないが、もう日が暮れるぞ」 何かがあったかと一瞬いぶかしむが、少なくとも自分の事情に踏みいられる事を十影は望んではいない。 喘息だったからか、独り暮らしをしているからか、自立心の強い青年で誰かの手を借りるという事を極端に嫌がるところがあった。 保険委員の姫島円と少し揉めたのは記憶に残っている。幸い二人は友好な関係を築けたようだが。
「ごめんなさい、今帰ります」 既に帰り支度を整えていたのか、鞄を手に立ち上がる。 「ああ、…………気を付けて帰れよ、最近はその、物騒だからな」 何故か胸騒ぎがして途中まで送っていこうか?と言いそうになったのを飲み込む。心配ではあるが、それは十影の自尊心を傷付ける事になる。
「はい、何かあったら学校に逃げ込みますよ。先生もいますしね」 笑みを浮かべると、頭を下げて教室から出ていく十影。 「…………ふむ」 少なくとも信頼はされているらしい。 嬉しさとあの態度は過保護過ぎるか、などと考えながら黒瀬は次の教室へと向かうのだった。
───────2009年、火蜥蜴学園2年C組教室。6月下旬夕方 数日掛けた中間テストを終えた教室ではどこかやりきったような弛緩したような空気が流れていた。 そこに扉の開く音。 夕礼の時間ぴったりに現れた担任、黒瀬正峰は教壇に付いた。
「起立、気をつけ、礼、着席」 日直の生徒の言葉にクラスが儀礼的な挨拶をすると黒瀬は生徒を一瞥して口を開いた。 「では夕礼をはじめます。中間テストも終わりも明日からテスト休みだ。もう一ヶ月もすれば夏休みなので、気が緩んでいるものもいるが、休みを楽しんでも決して気を緩め過ぎないように」 と、そこで黒瀬にしては珍しく咳払いを一つ。 「休み中に繁華街に行くのもいいが、気をつけないとエアマックス狩りやGショック狩りに合うからな、はは!」 空気が固まる。 決して黒瀬が冗談を言った事にではない、これは何を言っているのかという困惑だった。
「あの……先生……エアマックスってなんですか?」 そこで勇気を出した生徒の一人、松山茉莉がおずおずと手を上げて黒瀬に問い掛ける。
嘘……だろ…… 黒瀬は思わず崩れ落ちた。 まだ自分は若いと思っていた黒瀬にとってはじめてのジェネレーションギャップだった。
「あら、黒瀬先生どうしましたか?そんなに落ち込んで?」 「ああ、いえ大した事ではありません。……凍巳先生、エアマックス狩りって知っていますよね?」 「……えあまっくす?」 「……すみません、忘れてください」
「なんで貴方がトエーの家に居るの?クロセ?」 一見すれば少女といっても通じる見掛けの魔術師、ニコーレは思わずその美しい顔立ちを苦虫を噛み潰したように歪ませて目の前の男に吐き捨てるように言った。 「何故、何故か……君の魔術で俺…私の両大腿骨が折れ、逃走しようと縮地を使おうとして骨が完全に砕けて十影に助けられたからという答えでは不満かね?」 その男、黒瀬正峰はニコーレの表情や態度など意に解さないかのように淡々と答える。 黒瀬はソファーに横にされており、その両足は太ももから下がギプスでガッチリと固定されていた。 「私のせいって言いたいわけ?重傷なら自分のサーヴァントに背負って貰って病院に行けば良いじゃない」 「ははは……面白いジョークだ。実践したら私は明日には変死体として見つかるだろうね。……まぁ実際帰りたいのは山々だが、こんな深夜ではタクシーも捕まらんし、手負いの俺は他のマスターからすれば良い獲物だ。俺も命は惜しい、悪いが帰らんぞ」 黒瀬はニコーレの皮肉に愛想笑いを浮かべると、もう会話をするつもりはないと言わんばかりに顔を背けた。
黒瀬とニコーレは聖杯戦争の敵対者として数日間幾度か刃を交えていた。 これまで決着はつかず、お互い後に残る傷はなかったのだが、つい数時間前の戦闘で黒瀬が負傷。 その数分後には決着がつく筈だった。 それを遮ったのはニコーレと同盟を結んだ黒瀬の教え子である十影典河と栗野百合であり、不倶戴天の敵だった二組がこうして一時的に休戦。 十影邸に避難しているのも典河の意向(実力行使で二組を止めたのは百合)によるものだ。 意地を張って退けない32歳と24歳が17の少女にただただ正論でガチ説教される様はやる気だったサーヴァント達ですら居たたまれなくなるほどだったという。
とそこへ家主である典河が戻ってきた。 典河は二人が言い争いでもしていると思ったのか、思いの外静かなことに不思議そうに首を傾げる。 「……あれ?もしかして二人は以外と仲がいいのか?」 「「良くない」わよ!」 (やっぱり仲良いじゃないか……)
① セイバーがふと足を止めた。廊下の中途、掃除用具の納められたロッカーのあたりだ。 俺の胸あたりの高さのロッカーなのだが、セイバーが気に留めたのはその上にあるものだった。 「マスター。これはなんですか?」 しげしげとパッケージを見つめている。何か琴線に触れるようなことがあったのだろうか。 特に隠すようなものでもない。ゆっくりとセイバーに後ろから追いつきそれを手にとった。 「キャットフードだよ。要するに猫の餌。 あんまり人間が食べるものと同じものをあげると猫にとっては栄養が偏っちゃうからね」 特別なことはなにもない、普通に市販されているキャットフードだ。グレインフリーがどうのこうので若干お高いくらいか。 なるべく良いものを買ったからそこは仕方がない。シンプルなパッケージのデザインが如何にもな高級感を出していた。 それを聞いたセイバーが小首をかしげた。 「猫、ですか。そういった動物の気配はこの屋敷の中からは感じなかったのですが………」 「ちょっと前まではね。最近になって事情が変わったというか………そろそろ来る頃だと思うんだけど」 その時だった。なーお、と鳴き声がしたのは。 いつの間にか庭に面したガラス戸から黒くて小さな生き物がこちらを覗き込んでいる。 ビー玉のように丸くて青い目がくりくりと動いて俺たちの様子をうかがっていた。 「はいはい。ご飯の時間だね。分かった分かった」 ガラス戸を開けてやると我が物顔でその黒猫は洋館の中に入ってくる。 廊下をのっしのっしと歩き、俺たちの前で優雅に座った。さっさと飯を寄越せと言わんばかりの態度だ。 ロッカーの上から皿を取り出し、カップできっちり分量を計ってキャットフードをよそってやった。 すると黒猫は「まぁ食べてやらないこともないわ」とでも言うようにふんと鼻を鳴らしてから齧り始めた。 「なるほど。この猫のためのものなのですね。しかし、飼い猫という風でもありませんが………?」 「うん。セイバーと出会うよりちょっと前かな。傷だらけでうちの敷地にいてさ。 放っておけないから治療をしたら居着くようになったんだ。普段はこの庭のどこかにいるよ」 俺は話題に上がった庭をガラス戸越しに眺めた。丁寧に整備しているのでちょっとした洋風庭園となっていた。 トキワマンサクの生け垣で仕切られた庭内は薔薇が綺麗に咲いていた。四季咲きの薔薇は手間がかかるがそのぶんいつでも花をつけてくれる。 「なるほど。小さき命であろうと大切にする心がけには感心します。 きっとこの猫も恩人であるあなたを快く思ったからここを住処としているのでしょう」 出会った時からずっと凛とした、悪く言えば硬い表情を浮かべてばかりのセイバーがそう言って微かに微笑んだ。
② 「――――――」 不意打ちだった。庭の薔薇にも負けないほど流麗で愛らしく、胸を打つ仕草だった。 そのまま見つめられ続けていると何かボロが出てしまいそうな気がして慌てて目の前の猫へ視線を戻す。 「そ、そうかな。この庭は広いし外のコンクリートの上よりは涼しいからここにいるだけかもしれないよ」 話を誤魔化すように俺は食事を終えて顔を舐めていた黒猫の額へ向けて手を伸ばした。 猫は伸びてくる俺の手をじろりと睨みつけると――― 「あっ」 セイバーがやや気の抜けた声を上げた。 俺の指にがぶりと噛み付いた黒猫は器用に前足2本で俺の手を保持して何度も牙を立てる。 その間、俺の指には丸い小さな穴が刻まれていくのだった。ちなみにちょっと痛い。 「ま、マスター!噛まれています!止めなければ!」 「うーん。これ甘噛みってやつじゃないのかな。かわいいよね」 「これは獣の甘噛みではありません!それは相手の身体に傷をつけたりしないのです!」 「そうなんだ………。猫なんて飼ったことないから、てっきり。介抱した時からずっとこうなんだよね」 噛んだり、引っ掻いてきたり。黒猫は俺の指に開いた穴から流れ出る血をそのざらついた舌でぺろぺろと舐めていた。 なんだかまるで血を啜っているかのようだ。まあ猫は肉食性の生き物だからそういうものだろう。ちょっとくすぐったい。 「いけませんマスター………!こら、マスターはあなたの命の恩人なのだろう?無体なことはするものではない」 そう言って猫を叱りつけながら、脇の下を両手で支えてひょいとセイバーが黒猫を抱えあげる。 俺の指を噛んだり舐めたりすることを中断させられた黒猫は不服そうに唸ったが、ちらりとセイバーを一瞥すると大人しくなった。 されるがままにだらんと身体を垂らし、セイバーが抱きかかえるのに任せている。首の下を軽く撫でられるとごろごろと喉を鳴らした。 ………俺とは全然対応が違うじゃないか!俺に向けた牙や爪はなんだったんだ! 「ふむ、おとなしいですね。こうして近寄ってくるのだからマスターの事を嫌っているのではないのでしょうが。 いいかい、もう彼のことを噛んだりしてはいけないぞ?義は義で返すのが正しい筋というものだ」 セイバーがそうやって諭しながら頬や額を撫でると嫌がる素振りも見せずに尻尾をぶらぶらと揺らしていた。 くそう。やっぱりセイバーが美人の女の子だからそういう反応をするのだろうか。 俺は臍を噛むような思いをしながらセイバーが黒猫を可愛がる姿を見守るしかなかった。
① 薄暗い照明の中、携帯電話を開いて時刻を確認する。11時半。そろそろ昼時だ。 開館と同時に入った、この土夏市が誇る大型水族館『アクアパーク土夏』を出た頃には昼食のタイミングだろう。 先輩は『楽しみにしておきなさい』と言って食事処の選定を予め禁じていたが。さて、どうするつもりなのやら。 俺は携帯電話を閉じ――最近はスマホというのが流行りらしいが俺は旧式のものだ――視線を館内へと戻す。 「あ、ほら。見てみてセイバーちゃん。これなんて虹色に光ってるわよ」 「む、どれどれ………ああ、本当ですね。きらきらと輝くあのさまはかつての妖精たちにそっくりです」 女性陣が水槽のガラス面を覗き込んでいるのを俺は少し後ろから見ていた。 百合先輩はどこかはしゃいでいる様子だ。声を弾ませながら水槽を次々に梯子してはセイバーを連れ回している。 セイバーも今は緊張感より好奇心のほうが勝っているようだった。百合先輩に言われるままにしげしげと水槽の中の魚を見つめていた。 こうしているとセイバーと百合先輩は仲の良い友人同士に見える。 ふと百合先輩が振り返り、ちらりと俺の方を見た。照明を絞られた薄い室内の中、稚気に富んだ瞳が夜空の星のように光っていた。 「何してるの十影くん、早くこっちに来てよ!」 「………はいはい。了解しました。えーと、こっちの水槽はなんだって?」 「パネルによればチョウクラゲだそうだテンカ。ほら、あなたも見てみるといい」 ふたりが間を開けてくれるのでその間のスペースに挟まるようにして俺も水槽へと近づいた。 水槽の中をふわふわと無数に漂っているクラゲはまるでネオンサインのように虹色のラインを輝かせていた。 透明な身体に虹の流線を持ったその姿はどことなく近未来的なSFを感じさせる。こうしてみると確かに美しい。 とはいえ………俺はどちらかといえば、水槽の中ではなく両脇に立つ二人の女性に視線を奪われていた。 百合先輩はいつもの赤いスカーフとバックリボンワンピースにTシャツを合わせていた。 西洋の血の影響か、東洋人離れした透き通った鼻梁と蒲公英の花に似た色合いの瞳がとても印象的だ。 こうしてぎりぎりまで近くにいると甘い花の香りがこちらにまで漂ってきて、ついどきりとしてしまう。 セイバーは百合先輩によって着せかえ人形と化し、今やどこにでもいる…いや、何処を探してもいないような可愛い女の子になっていた。 ノースリーブのシャツとパーカー、レギンスの上からはホットパンツを履いて、ポップなデザインのスニーカーで足を包んでいる。 青みがかかった髪が俺の視界のすぐ横で揺れていた。もともと綺麗な人だとは思っていたけれど、こんな格好されると落ち着いてなんかいられない。 ………こんな甲乙つけがたい美少女ふたりに挟まれて、俺はちゃんと釣り合い取れているのだろうか。背丈も170cmに届かないしな………。 閉口してしまう俺を他所にふたりは水族館トークで盛り上がっているようだった。 「セイバーちゃん的にはどう?こういうところって。さすがに古きブリテンの騎士でも全く未体験でしょう」 「ええ。海の中の魚を捕まえてきてこうやって誰でも鑑賞できるようにするとは当時では考えられない発想ですね。 聖杯を探す旅でいろんなものを見聞きしましたが初めての体験です。私にとって魚は食べられるかそうでないかというだけだった」 「ふーん、まぁそうだよね。魚を透明なガラス越しに観察するなんてこと200年くらいの歴史しかないもん。 でも久々に来るといいもんだね~。何回でも通っちゃう人の気持ち、分かる気がするな~」 「私も分かります。海の中の魚たちはまるで動く宝石のようです。これを知れば万人とこの光景を共有したいと願う気持ちは察します」 「そうだね………っとと!?」 セイバーに相槌を打った百合先輩が突然こちらに向かってつんのめってきた。 とっさに俺はその身体を抱きとめる。原因を視線で探ると子供の姿が近くにあった。 どうやら走ってこちらまで来てぶつかったらしい。近寄ってきた両親と思しき男女が頭を下げて謝るので、お気になさらずと返事をしておいた。 まあ、子供のすることだ。いちいち目くじらを立てるのもなんだろう。 なんて子供連れを微笑んで見送っていた俺へ向けてほんのり硬い形をした言葉が告げられる。それはごく近くから響いてきた。
② 「………ところで十影くん。もう離してもらっても大丈夫なんだけど?」 「え………あ!す、すみません先輩!」 結構な勢いで倒れかかってきたもので、まるで抱き締めるように抱えていたことに今更ながら気づいた。 そのせいで腕に何か柔らかい感触が…慌てて飛び退く離した。メーデーメーデー。心臓が弾けるように血を送り出して、頬が紅潮していくのを自覚する。 俺はそっと先輩の表情を伺って………そして、悪寒に背筋を貫かれるのだった。 「ふーん………そうなんだ。偶然で私の身体に触れられて役得だったのかなぁ?お気持ちは如何かな?トカゲくん」 「とえいです!違、そういうんじゃ」 天使のように微笑む先輩の表情に映るのは悪魔の悪戯心。一旦は離れた距離を至近まで近寄ってきて、腕を絡めるようにして手を握ってきた。 メーデーメーデー。先程よりも強く先輩の香りを感じ、耳まで熱くなっていく。あ、俺の左の二の腕に何か柔らかい何かというか何かが。 「ナニシテルンデス」 「え~?だって一応これはデートっていう名目だし~?せっかくだからちょっとは十影くんが喜びそうなことをしておこうかなってさ~」 「い、いいですからそういうのは………!………え」 そう先輩に必死で言ったのだが、俺の意識はそこで逆方向に割り振られることになった。 右手が誰かの手に握られる。先輩ではない。先輩は左にいる。なら右にいるのは決まっている。 ぎ、ぎ、ぎ。油の足りていない機械のようにぎこちなく右に視線を向けると、先輩と同じようにして俺と手をつないでいるセイバーの姿があった。 メーデーメーデー。俺の右の二の腕に謎の柔らかい謎のなんというか謎。ほんのりと頬を赤らめたセイバーがじっとこっちを青色の潤んだ瞳で見上げている。 「………セイバー?」 「なんだろうテンカ。私は百合がそう言うから先達に従って行動しているだけだ。特に問題はない。 私は現代の様式には無学だか、学ぶ姿勢は謙虚であろうと努めている。これはその一貫だ。だから問題はない」 「あるって!」 「問題はない!」 きっと俺を睨みながらセイバーは強い口調で否定する。にやにやと微笑む百合先輩がその様子を見つめていた。 「いいのよセイバーちゃん。勉強熱心なのはいいことだけれども、ここまで真似なくても」 「いいえ。主の喜びは私の喜びだ。これでテンカが喜ぶなら『せっかくだし』私もそうしましょう」 「ふふふ」 「ふふふ」 どことなく不気味な笑いを俺の腕を抱きかかえるふたりが発する。俺にどうしろというのです。 ………結局、アクアパーク土夏を出るまで俺は刑事に抱えられる容疑者のような格好で館内を連れ回されることになった。 その間、来館者の視線が痛かったことはわざわざ述べるまでもない。厳しい、試練の時であった。どして…。
① まるで雑巾の水をゆっくりと絞るかのように、だらだらと自分の中から水が零れ落ちていく。 グラウンドの隅にある塀で出来た日陰の下で海深はそんな錯覚を覚えていた。 「………暑………」 梅村海深。高校1年生。6月。恐るべきピンチを迎えている。 倦んだ視線をグラウンドの中央へ向ければそこにはいくつものテント、上がる歓声、ビデオカメラが回る保護者席。 火蜥蜴高等学校は今まさに体育祭の真っ最中だった。 とはいえ海深に体育祭へかける熱意やモチベーションなどは微塵もない。 年々厳しさを増すばかりの日本の気候は6月の時点で早くも外気温30度を優に超え、それは熱に弱い海深の体力を容赦なく奪っていく。 確かに柔道の選手として基礎体力はそれなりに培っているが、それで灼熱の中でも平気で動けるかどうかといえば向き不向きがあるのだ。 心なしかまだ羽化も果たしていないだろう蝉の鳴き声の幻聴すらする。ぐったりと手足を地面へ投げ出し、塀に背中を預けた。 塀に触れた背中はひんやりとしている………と思いきや、午前中の直射日光によって焼けた鉄板がやや冷えた程度には熱せられ全く冷たくない。 吐く息が体温より高く感じる。あと出場しなければならないプログラムはいくつだったか。考えるのも億劫だ。 そのくらいに海深は炎天下というものが大の苦手だった。季節は夏以外であれば春や秋がいいし、もっと言えば冬でも全然構わない。 喉が乾いた。だが立ち上がるのさえ面倒だ。高気温と高湿度のダブルパンチを受け、何もかも嫌になった。そんな時だった。 「どうしたの」 「………………?」 不意にかかった声。海深はゆっくりと目の前の人影を見上げた。 率直に言えば。まるで幽霊みたいだなと思った。それくらい唐突に、何の気配や存在感もなく彼は目の前に現れたのだ。 視線を上げていって顔を見るなりすぐ誰か分かった。彼はその顔つきだけで私たち1年生の間で有名な男子生徒だった。 まるで女の子みたいに端正な顔立ち。ちょっとびっくりするくらい抜きん出た美形。噂じゃ芸能事務所にスカウトされたこともあるという。 そんなふうに女子生徒の間で噂される、いわくつきの男子生徒。十影典河が体操着姿でじっと海深を見つめていた。 実を言えば自分こと梅村海深は彼と中学校を同じくしていたのだが在学中の三年間、大した接点も無く過ごした相手だった。 その間、その容姿の美麗さについては何度も耳にしたがほぼ会話することはなかった。だから、今この時が最初の接点ということになる。 今だって同じクラスだが、時折ふと目に飛び込む姿――薄ぼんやりと窓の外を見る、その儚げな仕草――に一瞬目を奪われるくらいだ。 近づいてくるまで気づかなかった存在の希薄さに驚きながら海深は疲れ切った表情へなんとか愛想だけ作って答えた。 「う、ううん。大丈夫。海深はちょっと暑いの苦手で………それだけだから、大丈夫だよ」 「………分かった。ちょっとここで待ってて」 そう言って彼はくるりと踵を返し、どこかへと歩いて行ってしまう。 呆然とその後姿を見つめながら海深はいろいろと記憶の反芻を行っていた。 曰く。十影くんは喘息持ちなのだという。身体が強くなく、この体育祭でも学年全体で行う競技以外にはエントリーしていない。 体育祭を億劫がる生徒の中ではそれをやっかむ者は幾人かいたが、体調の問題であれば仕方がないと決着が付いていた。 実を言えば、自分もほんの少し彼の立場を羨望して、直後に彼の肉体の問題を踏まえれば不謹慎だと慌てて脳内で自己却下した身だ。 そのようなものだから、海深はふと彼の心境を思った。 確かに自分のように暑さに参っているような者は体育祭など無ければいいと思っている。だがそれは実際に体育祭へ参加しているから思えることだ。 目の前でみんなが参加している体育祭に自分だけ加われない。それは、それ相応の疎外感が彼にはあるのではないか――― ………なんて。得体のしれないことを考えている内に、ふと気づくと帰ってきた典河がへたり込む自分の横に座ろうとしていた。
② 「十影くん?」 「はい、これ。濡らしたら使えるネッククーラー、あと冷却スプレー。ポータブルの扇風機は高いものでもないからあげるよ。 それと大事なのはこれ。ちゃんと水分補給して。全部とは言わないから、飲めるだけ飲んで」 「え………あの………?」 「いいから、飲んで」 普段の十影くんからは想像もできないような、静かだけれども有無を言わさない口振り。 背負ってきたリュックサックからあれよあれよという間に様々な防暑グッズが溢れ出してくる。 まともに口も交わしたことのない深窓の美少年から言われるままに海深は手渡されたペットボトルのキャップを開けて中身を口にした。 ペットボトルのラベルはスポーツドリンクとは違う、明らかに医療用と思われる無骨さに満ちていた。 最初の飛沫を口の中に受けて、ああ美味しい、と。そう思ったが最後、ペットボトルの半分くらいまで一気に空けてしまった。 こんなに一口に水を飲み干したのは初めてかもしれない。 そう戸惑っている私の前で十影くんはなんでもないことかのようにリュックサックのジッパーを閉じている。 「あ、あの………十影くん」 「ん?どしたの」 野生動物が水を飲むような勢いで飲料水を半分空けていた間に、海深の首筋にネッククーラーが添えられて今もひんやりと首を流れる血液を冷やしている。 それらでいろいろとひと心地がついて、ふうと溜息をひとつついた深海はその場から立ち上がって去ろうとしている典河を前にして慌ててしまった。 急にやってきて急に私を助けていった彼。何か言わなければならない。一瞬の内に必死で模索して、出ててきたのはありふれた言葉だった。 「あ、あのね、十影くん!………ありがとう」 「………」 ああ、その瞬間を今も尚言葉になど出来ない。 うまく形に出来ないからこそ格別なのだろう。うまく思い出せないからこそ特別なのだろう。 「………ううん。こちらこそ、お世話様」 立ち上がりかけた彼が私へ向けて、ほんのりと。蕾がほんの少しずつ綻ぶように。 薄い硝子細工のように繊細そうなその唇がぎこちなく弧を描いて歪んだだけで、海深は雷に打たれてしまった。 それがとてもとても綺麗だったから、海深は本当に、びっくりするくらいあっさりと――― 「………あ………うん…………気をつけて、ね………」 「………?ありがとう。俺、こういう身体だから熱射病なんかには特に気をつけててさ。 梅村さんも今渡したぶんで足りなかったら、後から俺に言ってね。予備はたくさんあるから。………それじゃ、円に呼ばれてるから」 十影典河はそう言い残して、真夏の幻のように陽炎の中をふらふらと去っていく。 ぽかんと呆ける海深の元へ入れ替わりにやってきたのは親友の松山茉莉と竹内太桜の二人組だった。 日陰とはいえ、日差しの暑さも忘れている海深の様子へ二人は首を傾げた。 「おーい。もしもーし。どうしたのさ、海深。なんだか心あらずって感じだけど」 「そうだぞ。まるで男子生徒に告白でもされたかというほど耳まで顔が真っ赤だ。もしや日射病なのではないか」 「えっ!?その、だって………」 指摘された顔面を明後日の方向へ背けて隠し、海深は消え入りそうな声で仲良しのふたりへ呟いた。 自分の顔が照りつける日差しにも負けないくらいかんかんに熱しているのを自覚しながら、そう言う他無かった。 「なんでもないの。本当に………なんでもないんだよ………?」 鼓動がうるさい。どきんどきんとけたたましく鳴っている。止められるならこの炎天下の下でどんなこともするのにと、海深は思った。
① 放課後を知らせるチャイムが鳴って5分と経ってはいなかった。 「―――失礼します」 几帳面なノックの後、クリーム色をした保健室の扉が静かにスライドした。 男子学生がひとり、淀みのない動きで入室してくる。ドアを閉める所作まで全て杓子定規で測ったような丁寧さだった。 室内を見回して状況を確認すると最後に俺へ向けて視線を投げかけてきた。 「養護教諭は留守、と。………ああ、典河。身体の方は大事ないか」 「もう大丈夫だよ。ありがとう円」 喋り方まで角ばっているというか、真面目さが滲み出ているというか。 それがもう2年ほどの付き合いになる円という男の味なので今更どうとも思わないが。 靴底のゴムを微かに鳴らしながら円は俺が上半身を起こした状態で横たわっているベッドの側までやってきた。 「すまなんだ。私としたことがお前の体調の変化を見落とした。気付いてればもう少し早く声をかけられたのだが」 「いいよ。こういうこともある。こっちこそ迷惑かけて悪かったね、本当に」 「お前に謝られては立つ瀬が無いな。まあ、なにはともあれ大事ないならば善き哉」 しなやかな視線で俺を見つめて頷く円はクラスの保健委員という立場であり、全員が集まる委員会でもその的確な発言と柔らかな物腰により次期会長は間違いないと言われている男だ。 生徒会、風紀委員会、保健委員会、部活連、更には体育祭や文化祭の実行委員会が複雑に利権を絡ませ合う火蜥蜴学園の権力闘争に円が巻き込まれていくのだと思うとなかなか複雑な思いがある。 ―――フルネームを姫島円。 お山にある松原寺の代理住職の息子で、中学もあと半年で終わりという頃にこちらへ引っ越してきて以来の俺の友人である。 文武両道を地で行く模範生とというやつで教師陣からの覚えは非常によろしい。 これで容姿も麗しく性格もやや堅物なのを除けば至って穏やかなのだから天は二物を与えずという言葉は嘘っぱちなのだろう。 「あまり調子が悪いようならば山の方へ連絡して住み込みの者に車を回してもらおうとも考えたが」 「大丈夫だってば。もうひとりで歩いて帰られる。それにそこまでしてもらっちゃ悪い。気持ちだけ貰っておくよ」 「そうか。………では渡すべきものをここで渡しておこう。 配られたプリント類。それとこれはお前が欠席した授業の板書きだ。私の分は自前で書き留めてあるので気にするな」 「そっか。いつも悪いな」
② 円は鞄からクリアファイルを取り出して俺に手渡してきた。 昼休みが終わったあたりから咳が出だして保健室に直行したのでおそらくその間の2限分だろう。 特に柄もない透明なファイルなので円がルーズリーフに書いた板書きの内容が透けて見える。 こういうことがあると円は必ず俺の分まで授業内容をこのようにして残しておいてくれるのだが、俺が板書きを写すより何倍も分かりやすい内容なのがいつも不思議だ。 と。それを自分の鞄に仕舞おうとした俺の目の前へ円が差し出すものがあった。紙片である。 「………なにこれ?」 「短冊だ、七夕の。お前も食堂前に葉竹が据えられてあったのを見たろう。義務はないが可能であれば今日中に提出、いや笹に飾ったほうが良かろう」 そういえばそんなものもあったような見かけたような。 どこの山から切ってきたのか、笹のついた竹がずらりと並べられて緑の竹林を形成していたのを思い出した。 変なところで思い切りが良いというか全力投球するのがうちの学園の校風である。 「願い事か………。円はなんて書いたんだ?」 「無病息災」 「だろうね」 むっつりと唇を結んだいつもの顔で円は事も無げに言った。円は寺の子なのに、いやだからか、こういう願掛けにはあまり興味を示さない。 しかし応じないのも不義理なので………と、たいていは差し障りのない無難な答えを口にする傾向があった。 「そういうお前はなんと書くつもりだ。典河」 「俺………俺か………」 指に挟んだ何の変哲もない黄色い色紙へ視線を落とし、少しだけ思いに耽る。 俺の中に夜空へかかる天の川へ託すような切実な願いが、もしあるとしたら。 もしあるとしたら、それは。決まっている。 「………救われたんだから。救われた意味に足る自分になれますように」 「典河?何か言ったか?」 「いや、なんでもない。そうだな。こういう身体だし俺も円に倣って無病息災ってことにしておこうかな。 さてと、起きるか。もう放課後だ。いつまでも寝っ転がったままじゃいられないもんな」 俺はベッドから起き上がって上履きに足を通す。 円は何か言いたげにしていたが、結局その場でそれについて言及することはなかった。 鞄を引っ掴んで保健室を後にする。途中、かさりと何かが音を立てたので音の出どころを探したら胸ポケットだった。 「………ああ、そういえば」 先日、栗野先輩から貰った魔除けだとかいう栞が入っている。今もどうにか脈を打っている、俺の心臓の真上に。
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────2009年、7月初旬深夜。土夏市新土夏のマンション、黒瀬正峰宅。
『なぁ正峰、聖杯戦争って知ってr』 10年来の友人からの懐かしい声とその口から発せられた不愉快極まる言葉を耳にした瞬間、“俺”は電話の受話器を叩き付けるように本体へと押し付けていた。 数十秒後、電話機が鳴った。いっそのこと電話線を引き抜いてやろうかと思ったが、深呼吸をして落ち着くと受話器を取る。 「はい、黒瀬ですが…」 『酷いじゃないか正峰、いきなり電話を切るなんて!』 いきなりやかましい。 受話器から耳を離しておいて良かった。 「酷いのは貴様の頭だ、何を言うかと思えばよりによって聖杯戦争とはな。俺を殺したいならそう言え」 友人の言葉に吐き捨てるように言い放つ。
聖杯戦争がなにか位は魔術については殆ど素人の俺でも知っている。 教会主導の聖杯と呼ばれる魔術的遺物を巡る戦い。 戦争とは言っても競売やクイズ、徒競走でも聖杯を賞品にすれば聖杯戦争になる。 聖杯と名のつく遺物も聞くところによれば1000近くは存在しているなどと聞くと聖杯戦争の存在すら与太話ではないかと疑わしい。 だが、確かにそれは実在する。裏の世界に少しでも足を踏み入れた事があるならきっと誰もが耳にするだろう。
それを前パン屋だったところに出来た新しいラーメン屋知ってるか?とでも言わんばかりに言うとは、会話の内容にしては扱いが軽過ぎる。 『何を言ってるんだ!俺達は友達だろ!?』 電話口の声は言い方からして動揺しているのが分かる。 電話先の友人、生家である長野の実家の再従兄弟は本気で聖杯戦争を日常会話の一つとして話すつもりだったらしい。イカれているのか? 再従兄弟は廃業した黒瀬の家とは違い、今も退魔や魔術師相手に殺し合いをしている。非日常にどっぷりと浸かった奴との会話は時々相手が正気か判断に迷う。 「貴様と会話する度に俺は貴様と本当に友人なのか、貴様に洗脳されていないか悩んで過去を洗い直すんだがな」 『かわいそ……待て、待て切るなって!俺が悪かったよ!』 此方の皮肉に失笑しやがった。 電話を切ろうとしたのを察したのか、慌てて謝ってくる。 「それで、聖杯戦争がなんだ? 調べろと言うならクソッタレ、参加しろ ならくたばれと返してやるが」 再従兄弟とは、子供の頃からの付き合いだ。お互い良くも悪くも遠慮がない、どうしても昔を思い出して口が悪くなる。 『じゃあ俺はクソッタレか。 調べるくらい良いじゃないか。どうせ、そろそろ夏休みで暇だろ?』 「ちっ、生徒と違って教師に夏休みはない。“私”には研修だの、新学期に向けた準備が山程ある」 やはり、“俺”に聖杯戦争について調べさせるつもりでいたか。わざと聞こえるように舌打ちをした“私”が発したのは皮肉ではなく愚痴だった。
教師も夏休みが長いと思われている風潮はなんだ?そんな訳がないだろう。下手をすると生徒にまで先生も休みなんでしょう?なんて言われるんだぞ。 私も好きでやっている仕事だから文句は言わないが、たまに愚痴くらい言いたくなる。
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『おーい、正峰? 聞いてるかー?』 「……聞いている」 いかん、思わず自分の中で愚痴っていた。夏休みが近いせいか? 『でも、あったらしいじゃないかお前のいるとこ、土夏だっけ?』 「らしいな」 感情を乗せない相づち。 それを知って珍しく俺に電話を掛けてきたかと、一人納得する。 聖杯戦争の手がかり、情報が聞きたいと言うのが本題だったらしい。 『はぁ? らしいって……調べてないのか?』 電話口からの困惑する声。 思わず口元が緩む。調べていないし、知らないが、知っていてもただでは教えん。 「土地の管理者や教会に訝しまれたくないからな」 『へぇへぇご苦労なこって。しかし、宛が外れたかぁ』 「……正直言うとな、俺は怖いんだよ。ガキの頃から散々言われてきた。“血を怖れろ、死に近づくな。それを忘れた時、お前は人ではなくなる”って」 再従兄弟の冗談めかした言葉に苦笑いをして、思わず手が震えた。 先生との出会いの以前、記憶の奥底に刻まれた何かが強迫観念のように、亡霊のように俺の両肩に手を掛け囁き掛けてくる。 「俺は、非日常の何かに深く関わって黒瀬正峰という人間が“俺”でも“私”でもなくなるのが、何よりも怖いんだよ」 そこまで吐露してようやく落ち着いた。 再従兄弟は察して黙って聞いてくれたようだ。 『……そうか、悪かったな。忘れてくれ。 ああ、最後に良いことを教えてやるよ、誰でも出来る詐欺師に騙されない方法だ。話を聞かない、これに限る。 簡単だろ、はははははは!!!』 前半の神妙な口調とうって変わった大爆笑。 そうだ、暫く会っていないので忘れていた、再従兄弟はこういう奴だった。 「…………俺は時々本当にお前が分からなくなるよ。あぁ、分かった。俺の敗けだ、18年前の事なら分かる限り調べて後で送ってやる」 狐に摘ままれたような気持ちの後、思わずつられて笑みが溢れた。 そんな事を言われたら電話を取った時点で詐欺師の口車に乗ったようなものじゃないか。 なんだか馬鹿馬鹿しくなった俺はいっそのこと詐欺師の片棒を担いでやろうと思った。 『おっ、サンキュー』 「俺に出来るのは当時の地方紙の記事や伝聞を漁って状況の推察材料を作る程度だ、期待するなよ。 忘れるな、この貸しは高くつくぞ」 返事を待たずに電話を切る。 流石にまた電話の呼び出し音がなることはなかった。 ため息をついた俺は外の空気が吸いたくなってベランダに出る。 空を見上げるが、長野と違って土夏では星はあまり見えない。 赴任してもう5、6年になるか、土夏は今や第二の故郷と言ってもいい。……まぁ、盆くらいは夏期休暇を使って久し振りに実家へ帰るか。 折角だ、調べたネタを使って再従兄弟に何か奢らせよう。
血ニ酔イ死ニ狂ウ
白刃が肉を貫き、血管を裂き、骨に中る。 つい先程まで人であったものが急速に熱を喪い、肉と血と骨の塊へと変わっていく。 白刃を振るうと、まだ生暖かい鮮血が顔にかかる。何を思ったのか、俺は思わずそれを舌で舐め取った。 鉄の味の奥底にある味をはじめて感じとる。 ─────あまい。 それを口にした瞬間、多幸感が電流のように脳を駆け巡った。 舌が蕩けるようなあまみと頭を溶かす刺激。嗚呼、きっと世界にあるどんな名酒でもこれには敵わない。
俺は今まで何を恐れていたんだ? なんだ、簡単じゃないか、人を殺すなんてのは。 嗚呼、そして今まで生きていた命を奪うのがこんなに愉しいなんて知らなかった。
待たせたね■■■■。さぁ、行こうか。聖杯戦争を、狩りを、殺し殺される夜を楽しもう。
2009年7月、土夏市で行われた5度目の聖杯戦争は密かに終結した。 参加者達は元の生活に戻る者、傷を癒す者、休養を取る者、それぞれ理由はあれど未だに土夏市に滞在していた。 そして、夏が終わり秋に差し掛かる数ヶ月が経った頃。 土夏市の女子学生を中心に奇妙な遊びが流行り始めた。
「ねぇねぇ、茉莉ちゃん知ってる? M様の噂!」 「M様?なにそれ?」 「梅村、またどこかから変な噂を聞き付けてきたのか」 「変じゃないよ太桜ちゃん!柔道部の先輩に教わったの!」 「それで、M様って?」 「うん、M様って言うのは噂っていうかおまじないかな? みんなで集まってM様を呼び出すと願い事を叶えてくれたり、未来を当ててくれるんだって!」 「えー……」 「胡散臭いことこの上ないな」 「なんでそう言うこと言うの!」 「おーい、松竹梅! 下校時間は過ぎてるぞ、遊んでないで早く帰れ」 「あっ、黒瀬先生ってことはもうそんな時間?」 「ほら、梅村帰るぞ」 「もう!そうやってちゃんと海深のきかないんだから!」 「気を付けてな! ……M様、か。これは不味いかもしれんな」
「トエー、私にはM様って遊びが私達を集める位の事とは思えないのだけど」 「君たちは知らないかもしれないが、90年代の日本ではこっくりさんというものが流行っていた」 「コックリ=サン? なにそれ呪いの一種?」 「魔術師のいうところのテーブル・ターニングよ」 「その通りだ狐、狗、狸でこっくりさんと読む。科学的には意識に関係なく体が動くオートマティスムの一種だが…」 「魔術的には所謂動物霊を降霊させる簡易儀式ね」 「その辺りは流石に君たちの方が詳しいか。90年代のオカルトブームは病的でな、魔術の知識もない学生でさえ降霊術が広まる位……私しか知らないか」 「聞いたことくらいはありますけどそれがなにか問題があるんですか?」 「そんな事も分からないの坊や?呼び出すのが動物霊であれば良い。だが、聖杯戦争の跡地、魔力や怨念が溜まっている土地で行えばどうなると思う?」 「推察になるが、動物霊でないものが呼び出されるということか?」 「正解よ、サーヴァント達の残存魔力につられて下手したらサーヴァントもどきが呼び出される可能性があるってことね」 「ヤバいじゃないですか、先輩!」 「ええ、かなりマズいわ。本来であれば自然に消費され減っていく筈の方向性のない魔力が噂、都市伝説という指向性を得て良くない形で現れようとしている」 「それはまるで……」 「その言い方だと似たような現象を知っているの?トゥーリベルク、クロセ?」 「トゥーリベルク女史と情報を付き合わせたが……」 「先生が言い淀むなら私が代わりに言おう。あり得ない事だが、今の土夏はタタリと呼ばれる霊的象の前段階に近い状態だ」 「タタリ……」
そして、闇の中よりあり得ざる9騎目のサーヴァントが顕現する。
「サーヴァント、アサシン。召喚に応じて推参した。問おう、貴公が小生のマスターか?」
───────────2009年、7月3日深夜。土夏市旧土夏の廃墟
。 人生とは後悔と反省の連続である。
誰が言ったわけではない、個人的な持論だ。 人は自分の行いに後悔して、反省をして、また何かをやって後悔する。 そうやって少しずつ後悔や反省を減らすわけだが、中にはわかっていても行動して後悔や反省の回数を減らせない者もいる。 具体的に言えば自分だが。 今の自分の心境は絶賛後悔中だ。
再従兄弟の頼みに応じて18年前の聖杯戦争について調べはじめたのはいい。 成果はあった。参加したと思われる人間をある程度(とは言っても数十人はいるが)絞る事が出来たし、18年前の土夏大火災が聖杯戦争を起因とするものであるという確証に近いものを得ることか出来た。 そして、そこから逆算して土夏市で数十年おきに奇妙な事件が起き続けている、つまりは聖杯戦争が行われているということも。
しかし、図書館や区役所で調べた資料だけでは満足出来ずに、調べあげた聖杯戦争の跡地と思われる場所に来たのは完全に誤りだった。 まさか、推定ではあるが魔術師の工房を見つけてしまうとは。 正確に言えば工房のような場所ではあるが。
土夏大火災によって被災した旧土夏。 旧土夏には18年前の土夏大火災で焼失したり、廃墟となった家は少なくない。 特に相続人が見つからず土地や廃墟には手をつけられず未だに廃墟が取り壊されていない場所さえある。 そんな旧土夏の一角、かつては住宅地であった場所にそれはあった。 それは聖杯戦争の参加者、或いは参加さえも出来なかった脱落者と思われる人物の邸宅。 18年前の土夏大火災直前に不審死を遂げ、しかも捜査が不自然に打ち切られている人物。 おそらく聖杯戦争絡みだろうと当たりを付けた俺は足を伸ばし、旧土夏まで来たわけだ。……期末テストの真っ只中に。
そろそろ忙しくなると言うより忙しいので、遠巻きに調査して適度な所で帰ろうとしていた俺は何かに呼ばれるような感覚を覚えた。 躊躇はしたが、結局は邸宅の跡地に足踏み入れてしまった。 そこで見つけたのは入念に隠された地下室の入り口。おそらくは人払いの結界が何かの切っ掛けで崩壊したのだろう。 地下室には火災が及ばなかったのか、中はおそらくは当時のまま残されていた。 室内は意外と広かった。およそ5畳程の空間にはクモの巣があちこちに張られており、木の机に椅子、パイプラックに何らかの薬品や呪物、本が置かれている。 こんな封鎖空間で良く生きていた物だと感心する。見れば害虫、黒くて早いあいつを餌にしていたようだ。 一見しただけではただの作業用の地下室にも見える。しかしそこに立てば、魔術の触りだけ知っている程度の俺でも分かる異質な雰囲気、人を拒絶する空間、魔術師の工房がそこにはあった。
最もしっかりした工房ではない。 どこか素人くさい、或いは突貫工事の仮の工房といった印象を感じた。
折角ここまで来たのだ、半ばヤケになって何か手がかりはないかと探る。 机の上にはノートと古文書のようなものが置いてある。 大半は掠れて読めないが、ラテン語や英語、日本語が混在しているようだ。
「……術式……英霊召喚…? サーヴァント?」 辛うじて読める文字に指を這わせる。どうも何かを召喚する際の手順のようだ。
素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。 閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。 繰り返すつどに五度。 ただ、満たされる刻を破却する。 告げる。 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。 聖杯の寄るべに従…
そこまで読んで妙に嫌な予感がした。 これ以上は取り返しの付かない事になる。 そんな胸騒ぎを感じ、ノートから指を外し、机から離れる。
辺りを見渡せば、足元に召喚用の魔方陣が描かれている事に気づいた。 触れては不味いと一歩退く。 退いた拍子に机に置いてあったガラス片に指が当たり指を切る、数センチほど深く切った。 「……っ!」 慌てて指を抑えるが血が飛び散り、召喚陣へとかかった。 瞬間、まるで数年ぶりに動く機械のようにそれは鈍い光を放ち始める。
「まさか、血を切っ掛けとして儀式が起動したのか!?」 直感が叫んでいる、これは止められない。 一瞬、すぐさま逃げ出す事も考えたが、この召喚陣から呼び出されるものを放っておくわけにはいかない。 俺が呼び出してしまったものなら始末は自分の手でつけなくては。
ウィンドブレーカーのフードを外し、右手で左腰に差していた短刀を抜く。右手がやけに熱く感じた。 召喚されたと同時に急所を狙って切りつければ最悪でも相討ちには持ち込める。…筈だ。
召喚陣の光が収束し、衝撃が疾った。 「……来る」 本能的な怯えから来る震えを理性と意識で抑え込む。 今更何をビビってる?化け物と相対したのは一度や二度じゃないだろう。 呼吸を整えろ、意識を集中しろ、俺は目の前のものを切り捨てる刃だ。
衝撃が止んだ時、召喚陣の上に何者かが立っていた。 粉塵に目を細めて辛うじて見えた後ろ姿は菫色に染めた修道士風のローブ。フードの横からローブと同じ色の長い髪が見えた。 少なくとも人型ではあるらしい。
「……何者だ」 唾を飲み込み、乾いた喉を潤すと警戒は解かずに誰何する。 「何者か、とは随分な言い方だね、自分で呼んだのに」 それは振り向くとフードを外す。 菫色の髪が揺れ、どこか愉快そうに赤い瞳がこちらを見据えていた。
「美しい……」 何を言ってるのか。 きっと俺は頭がぶっ壊れたに違いない。 くそっ、どうにかなりそうだ。或いはもうどうにかなっているのか。
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②
「………サーヴァント………」
「せぇかぁい。すぐバレるだろうしクラスまではサービスしてあげようかな。キャスターのサーヴァントだよ。セイバーのマスターくん」
「………2日前、大橋のところで………」
「あは、よく覚えてたねぇ。えらいえらい。ま、あの時は私にとっても偶然の遭遇だったけどね」
キャスターの腕が伸び、わざとらしく俺の頭をやんわりと撫でる。
身体を引きたくても、腕も足も全く動かず首すら満足に回せないのでは抵抗することなく受け入れるほかない。
相手はサーヴァント。その気になれば今こうして頭を撫でている腕ひとつで俺の命を奪えるだろう。
怖気に身を震わせながら呂律の回らない舌へなんとか鞭を打ち、少しでも情報を引き出そうと俺は会話を重ねようとした。
「………マスターと分かっているなら………どうして俺を殺さないんだ」
「うん?だっていきなり殺してしまっては魔力を吸い上げられないじゃないか。非効率的でしょ?
それに、君はあの花屋のお嬢ちゃんともマスターとして仲良くしているみたいじゃないか。
君を人質に取ればセイバーはもちろんあの子たちも愉快に踊ってくれそうだからね。私の巣までご招待出来れば、後は煮るなり焼くなり………」
………腑抜けた肉体でもなお、噛み締めた奥歯はぎりりと鳴った。
ダメだ。それだけはダメだ。俺は今、セイバーたちの厄介な荷物になっている。それは認められない。
彼らに助けられるだけの、面倒を見られるだけの存在になるのは例え死んでも御免だ。
きっと睨みつけた俺の視線を受けて、キャスターはぺろりとその潤んだ唇を舐めた。
「いいね。そういう顔。すごくいいよ。私は人がそうやって嫌がる顔を見るのが………おや?」
急にきょとんとした顔をキャスターがした。
ただでさえ近かった距離をさらに詰めてくる。もう互いの呼吸が感じられそうなくらい顔と顔が接近した。
きらきらと炎のように光る瞳が俺の顔を擦り上げるようにじっくりと見つめてくる。顔つきは真剣そのものだ。
「な………何だよ」
「君………こうしてよくよく見てみたら、ずいぶん可愛い顔をしてるねぇ。顔だけなら割と、いや、かなり好みかな」
キャスターはチェシャ猫のようににんまりと笑った。
まるで頬ずりをするように吊り下げられたままの俺の身体に身を寄せ、耳打ちする距離まで口を俺の耳に近づける。
「どうかな。私のおもちゃになってみる?セイバーのマスターなんてやめちゃってさ」
「っ!?」
敵のサーヴァントだと分かってはいても、その糖蜜を溶かし込んだような甘ったるい囁き声が耳朶を打つと生命として自動的に心臓が高鳴った。
思わず顔に血が上るのがはっきりと感じられた。顔が動かせないのでキャスターの表情を伺うことも出来ない。
ただ、キャスターの菫色の髪とその香りが鼻先をくすぐった。
くつ、くつ、くつ。キャスターの面白おかしそうな笑い声が鼓膜のすぐ近くで響く。
それは巣にかかった哀れな犠牲者を前にして舌鼓を打つ蜘蛛そのものの笑声だった。
「ふぅん。いやに素直に信じるんだね。ひとまずの協力関係とはいえ私は君のサーヴァントじゃないんだよ」
「だって、キャスターは筋の通らないことは嫌いでしょ?
自分からそれを捻じ曲げるとは俺には思えないよ。
それに他ならぬキャスターが編んでくれた礼装だ。織り手アラクネの外套なんて凄く心強いよ。ありがとう」
「―――…………」
何故かキャスターは口をぱくぱくとさせた後、眉を寄せて俺を睨んだ。
菫色の髪を神経質に指へくるくる巻きつけ弄んでいる。何かを誤魔化すかのように。
こころなしか、キャスターの白い頬にはいくらか赤みがさしているようだった。
「君は、なんだ。誰にでもそういうことを言うんだね」
「誰にでもって、そんなわけないじゃないか。
確かにこの関係が終われば敵同士かも知れないけど今は味方だ。なら本音だってぶつけるよ。
最初こそ酷い目に合わされたけど、あなたには世話になった。ならきちんとお礼を言わなきゃ気がすまない」
キャスターは自分の髪を弄んでいた指で頬を掻くと、くるりと後ろを向いた。
「………やれやれ。この私としたことが可愛いだけの子犬と見誤ったか」
俺には聞こえない独り言を呟いて、それから横顔だけ見せて微笑んだ。困ったように、眼尻を下げて。
①
『先程百合が段ボール箱を抱えてあちらへ行ったのだが………テンカ、話は聞いているか?』
セイバーの報告を受けて、俺は一目散に教えられた方へと向かった。
何考えているんだあの先輩。この家にいったい何を持ち込んだというんだ。
スリッパで床をぺたぺた叩きながら小走りで廊下を横切る。
………気配を探っていた俺の耳に飛び込んでくる、ガラスとガラスがぶつかり合うような涼やかな音。
急いでいた足がある客間の前で止まることになった。
長らく―――それこそ、間違いなく18年間は定期的に掃除しに来る俺以外誰一人入ったことのない部屋から物音がする。
なんだろう。妙な緊張感がある。俺は恐る恐る客間のドアの前に立った。
ノックをしようと腕を上げてから考え直し、その手でノックをせずにそのままドアノブを握る。
ゆっくりとドアノブを捻り、そうしてほんの少しだけ扉を開けて隙間からそっと部屋の中を覗き見た。
―――俺の知らない部屋があった。
正確には間取りなどは記憶の一致しているのだが内装はすっかり変わってしまっていた。
最低限のものしか置かれていなかったはずの客間にはすっかり物が溢れ、混沌とした世界になっている。
まず気になったのは部屋全体に漂う香りだ。俺の温室に負けず劣らずの独特の芳香がドアの隙間から漏れてくる。
正体は言わずもがな。これでもかと部屋の隅に並べられた鉢植えたちだ。
色とりどりの花々が何らかの規則性を以てずらりと配置されていた。よくよく見ると、鉢植えの下には何やら魔術の陣が………。
「………って!?じ、絨毯!絨毯の上に!直接!?なんてことを!?」
そんなことをしたらシミになってしまうじゃないか!大問題だ!
洋館と絨毯の平和を守るため、こっそり覗いていたことも忘れてドアを開け放ち鉢植えのある方へ踏み出した。
2歩、3歩………。辿りつきそうになったところで、俺の背中から声がかかった。
「そこ、時間を弄って花の成長速度を調整してるし、一応結界で施錠もしてるから断りなしに踏み込むと危ないよ?」
「え………」
きょとんとなって振り向くと、腕組みをした百合先輩が俺のことをどこか呆れたような顔をしていた。
トパーズの瞳が生暖かい温度になってとろんとこちらを見ている。
「そもそも女の子の部屋にノックもなしに踏み込むというのは正直感心しないなぁ、トカゲくん」
「トエイです、じゃなくて………え、その………すみません………?
じゃなくて!どうして先輩はこの客間を自分色に染め上げようとしているんです!」
俺の中では完璧な指摘だったが、百合先輩はそれをまるで見当違いなことを言った学生を見る教師のような表情でひと睨みした。
「何言ってるの。仕方ないから最後まで面倒を見るって私は言って、君も頷いたでしょ?
ならどうしようもないくらい半人前な十影くんをせめて魔術使いと言えるくらいには引っ張り上げないといけないじゃない。
時間なんてかけていられないから超突貫の即席コースだよ。というわけで店とは往復することにしてしばらくここに泊まり込むから。
三食分の食事は任せるね。どちらかといえば中華が好みだけど献立に文句まではつけないし美味しいのをお願い。
そうそう開けていない荷物がまだあるから手伝って十影くん。大丈夫、魔道具はまっさきにやっつけたから後は日用品だけで危険はないよ」
立て板に水を流したようにつらつらと述べると百合先輩はそれが当然のように未開封の段ボール箱を指差した。
こう言われるとなんだか先輩が正しい気がしてくるから不思議だ。
我が家の一部屋が今まさに占拠されようとしていながら、『まぁ仕方ないか』という気分になってくる。
釈然としない思いを抱えながら俺はガムテープで封すらされていない段ボール箱の蓋を開けた。
なるほど言われたとおり百合先輩の私物と思しきものがたっぷりと詰まっていた。………もう1泊か2泊するとかいうレベルじゃない。
気分は一人暮らしを始めた大学生。これだけあればあとは電化製品さえ揃っていれば生活できてしまうだろう。
②
「先輩は………暮らすとなるとまず自分のテリトリーを作るタイプなんですね………」
「そうだね。むしろ魔術師なんてみんなそんなものだよ。自分のとっての世界を造っている、みたいな感じかな」
「世界?」
「そう。私からすると、この部屋のここからあそこまでが私の簡易的な工房。ここからここまでが私の居住スペース。
きっぱり分けているけれどどちらが欠けてもダメ。東洋的には陰陽合一の理念に近いかな。全部が相まって私にとって有利な世界を形成しているの」
指差されるままに視線を動かす。言われてみれば、客間はまるで真っ二つに分けられたように雰囲気を二分していた。
鉢植えのある一方は鉢植えの他にも怪しげな術具や木枠に並べられたドライフラワー。整理整頓された書籍など、いかにも魔術師らしい空間になっていた。
反対側、ベッドのある方は………さて、なんと言うべきか。意外とと言うべきか。思った通りと言うべきか。
色使いや小物など、多くが丸みを帯びたファンシーという概念に満ちている。女の子しているというか。とにかく可愛らしい感じだ。
俺にとって最も身近な女性である流姉さんがあの惨状なので、こういうのは未知の雰囲気だった。男としてやや居心地悪さも覚える。
「だから、私はここでは外にいるときよりも魔術師としていくらか強い力を発揮できる。
レッスン1。自分にとってなるべく有利な状況を整えるというのは魔術師としての考え方として重要なのです。覚えておいて。
十影くんで言うと………あの温室がそれじゃないかな?あそこにいて居心地いいと感じるんじゃない?」
「まぁ、あそこにいると確かに落ち着きは覚えますね。………ん?なんだこれ」
ふたつめのダンボール箱を開けると、中には布製の何かが詰まっていた。無造作に取り出す。
その形状を見て、俺は首を傾げてしまった。
「………サメ?」
「………ッ!サメリアッ!!」
瞬間、セイバーが踏み込んで放つ神速の袈裟斬りもかくやという速度で俺の手元からそれは奪い取られた。
がるるる。手負いの獣のように威嚇する先輩がひっしと抱きしめているのは、明らかにサメらしい形状のぬいぐるみである。抱き枕サイズ。
雌熊となって俺への敵意を見せていた先輩だったが、ふとしたタイミングで我に返ったのか。慌てて取り繕い出した。
「な………なんでもないよ?そう、部屋のインテリアだから。このぬいぐるみも。ほら可愛いでしょサメ。サメって可愛いよね。
だけどいい?君は何も聞かなかったし見なかった。サメリ………サメのぬいぐるみを私に渡しただけ。そうだよね?」
「………ハイ、ソウデスネ」
………と。俺は平坦な声音で答える他なかった。
先輩は俺にそう言い含めている間にも、強火にかけた薬缶みたく湯気を吹き出しそうな勢いで顔を真っ赤に染めていたからだ。
先輩とそのぬいぐるみの間に如何な真実があるのか―――問えば殺されそうだったので面白がって問いかけるチョイスは俺にはなかった。
追伸。照れる先輩はびっくりするほど可愛かったと付け加えておく
1/2
───────1991年、長野県某市。7月。
「やっと見つけた!」
ショートカットの女性が繁華街の裏手で大声を上げ、通行人が首を傾げながら通り過ぎる。
「………また、あんたかよセンセー」
女性に声を掛けられた男、少年はウィンドブレーカーのフードを外すとため息をついた。
「また私よ、って言うか私以外に気に掛けてくれる美人教師いるの、黒瀬君?」
「すっげー自信、センセー鏡見たことある?」
女性は少年、黒瀬のセンセー、先生であるらしい。親しい様子で話すとやれやれと言わんばかりに路肩の自販機の前に座り込んだ。
「で、君は学校には来ない!家にも帰らない!なにやってるわけ?」
「別に関係ねぇだろ、誰にも迷惑かけてねぇ、なんか飲む?」
座り込んだ黒瀬に怒りを隠せない先生。
その言葉に耳を貸すつもりはないのか、黒瀬自販機で飲み物を買った。
「要らないわよ、迷惑掛けてないっていうけどね、君。そのお金どうしたの?」
「拾った」
もう一度座り込むと缶コーヒーのプルタブを開け、口を付ける。
今使っている財布は街中金を持ってそうなチンピラからスったものだ。
自分の起源からしてどうせ証拠は出てこないし、捕まらない。
(……苦っ、良くこんなもん好き好んで飲んでるな)
粋がってブラックコーヒーを買ったが、口に合わなかった。
2/2
「…………嘘をつくのは止めなさい!!」
先生の怒鳴り声に驚き、黒瀬の肩がピクリと動いた。
「なんで、嘘だって疑うんだよ」
意図的に声を震わせる、出来るだけ繊細な思春期の少年を装う。
「それ、他の人には通じても私には通じないわよ、黒瀬くん。 何しろ私の方が嘘つきだから」
座り込んだ黒瀬の肩を掴み、じっとその眼を見つめる。
黒瀬の心臓の鼓動が早まる。嘘を見抜かれたからか、それとも
「私は貴方が何をしてるか大体把握してるけど、それを糾弾するつもりはないの」
眼を真っ直ぐに見つめて先生は続ける。
「貴方が学校に来ないのも、家に帰らないのも貴方の意思ならそれでいいとさえ思ってる。ただ、自分に嘘をついて逃げるのは止めなさい」
「おれは、別に嘘なんて……」
まるで心の奥底を見抜かれたようで、思わず口ごもる。
「それがまず嘘。 ……黒瀬くん、貴方に言いたくない、言えない事情があるのはなんとかなく分かる。それを人に相談出来ないことも」
「でも今の貴方は周りが気に入らないから好き勝手してるって自分に嘘をつき続けてる。 黒瀬くん、嘘って言うのはね、人だけでなく自分も傷つけるのよ」
「センセー……俺、どうしたらいいかわかんねぇんだよ……家にいても学校にいても街にいても誰も俺を、俺自身を見てくれねぇ……俺、どうすりゃいいんだ?」
先生の真っ直ぐな眼に堪えきれず遂に眼を反らした。
感情が溢れ出て涙が出てくる。
「黒瀬くん……………甘えるな!」
ばちん!と平手が一発
「…………はぁ!?なんで!?」
「貴方の事情を相談しないんだからどうすればいいかなんて私に分かるわけないでしょ!」
思わず仰け反って混乱する黒瀬に先生は続ける。
「まずは話せる範囲で話して見なさい!そして一個一個解決法を探るの!ほら、立ちなさい、夕飯もまだでしょ?奢るわよ」
右手を黒瀬に向かい差し出す。
「……無茶苦茶言うね、『先生』。何奢ってくれるの?」
少し考えて、先生の手を掴む。
この人はきっと自分の事情なんて分かりもしない、でも先生は自分を見つけて話してみろと言ってくれた。
なら、話してみよう。全ては無理でも少なくとも多少は解決の手助けをしてくれるかもしれない。
「ラーメン!餃子もつけていいわよ!」
「半チャーハンは?」
「……まぁ、いいわ」
黒瀬の顔に久しぶりに心から笑みが浮かんだ。
はじめて信頼してもいいと思える大人に出会った気がした。
───────2009年土夏市、旧土夏。5月深夜。
街灯すら疎らな裏通りをウィンドブレーカーを着てフードを被った一人の男が走っていた。
時折酔っぱらいや所謂不良達が男とすれ違うもこんな深夜に走る男をいぶかしむことさえない、まるで男の存在に気づいていないかのようだ。
(あぁそうともそれで良い。今の私、俺はあってないようなものだ)
男、火蜥蜴学園現国教師黒瀬正峰は時たまこうして夜の闇の中を走る癖があった。ストレス解消と言う訳ではない。
ただ時々自分が何者なのか、そう言う悩みを感じた時にはこうして夜の街を走るのだ。今回の原因は本家に旧土夏の怨霊祓いを頼まれた事だった。
(私は退魔でも祓い屋でも魔術師でもないと言うのに……)
苛立ちと鬱憤めいた思いを胸に無心で走る。こう言うときに思い出すのは恩師である先生の言葉だ。
ねぇ黒瀬くん、これから先、生きてれば自分が本当に正しいのか悩んだり或いは自分を見失ってしまうこともあるでしょう。
……貴方の在り方はきっと人に影響されやすいから。
そう言う時は走りなさい。なにも考えられなくなるまで走りなさい。
そして何か考えられるようになった時に最初に思った事。それが嘘偽りのない貴方の本心って奴よ。
「はぁ…はぁ……」
かれこれ数時間数十キロは走って息切れした正峰は街灯の元で息を整える。
(そうだ……そろそろ中間テストだ。 今から問題をつくっておかないと。 今度は例文を見てどう思ったか、個人の思いを述べなさい。なんて問題の配点は5点位にしないと主任や校長にまたお小言言われるな……)
そこでふっ、と苦笑した。
良かった自分は教師だ、少なくとも自分はそう思っている。
そこでポケットから取り出した護符を見る。
(ならこんな野暮用はさっさと済ましてしまおう)
息を整え終えた正峰は目的地に向けて今度は憂いなく足を動かしはじめた。
第五次土夏市聖杯戦争の開始する2ヵ月か前の事だった。
1/2
───────2009年、6月初旬夕方。火蜥蜴学園。
梅雨の季節、朝から降っていた雨は昼過ぎには止み、澄色の光が火蜥蜴学園の廊下を照らしていた。
部活終わりに帰宅する生徒達とすれ違い、各々挨拶を返しながら黒瀬は自身の受け持つ2年C組の教室へと向かっていた。
「あ、黒瀬先生!」
後ろからの声に振り向くとそこには見知った三人組の姿があった。
松山茉莉、竹内太桜、梅村海深。松竹梅、などと呼ばれることもある黒瀬の受け持ちである三人の女生徒だった。
松山が手を振りながら黒瀬に向かい歩き、少し離れて竹内はペコリと頭を下げている。……梅村は竹内の後ろに身を隠すような姿勢だったが、黒瀬と目があったのに気付き静かに会釈をする。
梅村海深はどこか黒瀬に苦手意識があるのか、距離を取っているようだった。
それは黒瀬も知っているが、何か問題があるわけではなく無理に距離を詰める必要はないと考えていた。
だが人として何が悪かったか、程度に気にする機敏はある。
早い話、珍しく人並みに傷ついてはいた。
「珍しいな、松山。部活終わりか?」
「ボクは先生と違って忙しいからね」
「確かに部活の顧問はやっていないが、代わりに先生方の雑務を引き受けている。決して暇ではないぞ」
と、松山がキョロキョロと誰かを探しているよう様子に気付く。
「誰かを探しているのか?」
「……凄いね、分かるんだ」
「これでも教師をやって大分長い。十影か?」
驚く松山になんの事はないとでも言わんばかりに答える。実際には人の表情を読むのは裏の顔で培ったものだが。
「十影なら八守と下校しているのを見かけた。もう校内にはいないだろう」
「あー……だってさ、海深!」
「太桜ちゃん、声大きいよ……」
二人の様子、梅村の表情からおおよその推測は付くが、口に出しては野暮と言うものだろう。黒瀬ははて?と首を傾げて見せた。
「ほら、下校時間はもう過ぎてる。帰るぞ、二人とも。黒瀬先生失礼します」
「しかたないなぁ、さようなら先生」
「し、失礼します」
「ああ、さようなら。気をつけてな」
三人の後ろ姿を見送り、再び教室へと向かう。
2/2
下校時間を過ぎて校内に残っている生徒がいないな確認するのは部活の顧問をやっていない黒瀬の仕事だった。
各クラスを回って居残りがいないか、確認する。たまにおしゃべりが楽しくて居残っている生徒がいれば帰るように促す。
そして、自身の受け持つクラスにたどり着いた。
扉に手を掛けた瞬間、中からの人の気配に気づいた。……思わず身構え、臨戦態勢に入る。
埋まれた時から染み付いた悪癖だ。
深呼吸をひとつして意識を切り替え扉をあける。
「おーい、誰か残っているのか?」
「あ……黒瀬先生」
そこには夕焼けと似た色の髪の青年、自分の机に座る十影典河の姿があった。
「十影? 忘れ物か?」
松山に言ったことは嘘ではない。黒瀬は確かに十影は友人である八守と共に学園の門を通ったのを確認していた
その二人が教え子であり、魔術師見習いとどこかの組織に所属していない魔眼持ちという事で校内にいる限りは出来る限り気にするようにしていたからだ。
「ええ、実は宿題を……」
「そうか、熱心なのは構わないが、もう日が暮れるぞ」
何かがあったかと一瞬いぶかしむが、少なくとも自分の事情に踏みいられる事を十影は望んではいない。
喘息だったからか、独り暮らしをしているからか、自立心の強い青年で誰かの手を借りるという事を極端に嫌がるところがあった。
保険委員の姫島円と少し揉めたのは記憶に残っている。幸い二人は友好な関係を築けたようだが。
「ごめんなさい、今帰ります」
既に帰り支度を整えていたのか、鞄を手に立ち上がる。
「ああ、…………気を付けて帰れよ、最近はその、物騒だからな」
何故か胸騒ぎがして途中まで送っていこうか?と言いそうになったのを飲み込む。心配ではあるが、それは十影の自尊心を傷付ける事になる。
「はい、何かあったら学校に逃げ込みますよ。先生もいますしね」
笑みを浮かべると、頭を下げて教室から出ていく十影。
「…………ふむ」
少なくとも信頼はされているらしい。
嬉しさとあの態度は過保護過ぎるか、などと考えながら黒瀬は次の教室へと向かうのだった。
───────2009年、火蜥蜴学園2年C組教室。6月下旬夕方
数日掛けた中間テストを終えた教室ではどこかやりきったような弛緩したような空気が流れていた。
そこに扉の開く音。
夕礼の時間ぴったりに現れた担任、黒瀬正峰は教壇に付いた。
「起立、気をつけ、礼、着席」
日直の生徒の言葉にクラスが儀礼的な挨拶をすると黒瀬は生徒を一瞥して口を開いた。
「では夕礼をはじめます。中間テストも終わりも明日からテスト休みだ。もう一ヶ月もすれば夏休みなので、気が緩んでいるものもいるが、休みを楽しんでも決して気を緩め過ぎないように」
と、そこで黒瀬にしては珍しく咳払いを一つ。
「休み中に繁華街に行くのもいいが、気をつけないとエアマックス狩りやGショック狩りに合うからな、はは!」
空気が固まる。
決して黒瀬が冗談を言った事にではない、これは何を言っているのかという困惑だった。
「あの……先生……エアマックスってなんですか?」
そこで勇気を出した生徒の一人、松山茉莉がおずおずと手を上げて黒瀬に問い掛ける。
嘘……だろ……
黒瀬は思わず崩れ落ちた。
まだ自分は若いと思っていた黒瀬にとってはじめてのジェネレーションギャップだった。
「あら、黒瀬先生どうしましたか?そんなに落ち込んで?」
「ああ、いえ大した事ではありません。……凍巳先生、エアマックス狩りって知っていますよね?」
「……えあまっくす?」
「……すみません、忘れてください」
「なんで貴方がトエーの家に居るの?クロセ?」
一見すれば少女といっても通じる見掛けの魔術師、ニコーレは思わずその美しい顔立ちを苦虫を噛み潰したように歪ませて目の前の男に吐き捨てるように言った。
「何故、何故か……君の魔術で俺…私の両大腿骨が折れ、逃走しようと縮地を使おうとして骨が完全に砕けて十影に助けられたからという答えでは不満かね?」
その男、黒瀬正峰はニコーレの表情や態度など意に解さないかのように淡々と答える。
黒瀬はソファーに横にされており、その両足は太ももから下がギプスでガッチリと固定されていた。
「私のせいって言いたいわけ?重傷なら自分のサーヴァントに背負って貰って病院に行けば良いじゃない」
「ははは……面白いジョークだ。実践したら私は明日には変死体として見つかるだろうね。……まぁ実際帰りたいのは山々だが、こんな深夜ではタクシーも捕まらんし、手負いの俺は他のマスターからすれば良い獲物だ。俺も命は惜しい、悪いが帰らんぞ」
黒瀬はニコーレの皮肉に愛想笑いを浮かべると、もう会話をするつもりはないと言わんばかりに顔を背けた。
黒瀬とニコーレは聖杯戦争の敵対者として数日間幾度か刃を交えていた。
これまで決着はつかず、お互い後に残る傷はなかったのだが、つい数時間前の戦闘で黒瀬が負傷。
その数分後には決着がつく筈だった。
それを遮ったのはニコーレと同盟を結んだ黒瀬の教え子である十影典河と栗野百合であり、不倶戴天の敵だった二組がこうして一時的に休戦。
十影邸に避難しているのも典河の意向(実力行使で二組を止めたのは百合)によるものだ。
意地を張って退けない32歳と24歳が17の少女にただただ正論でガチ説教される様はやる気だったサーヴァント達ですら居たたまれなくなるほどだったという。
とそこへ家主である典河が戻ってきた。
典河は二人が言い争いでもしていると思ったのか、思いの外静かなことに不思議そうに首を傾げる。
「……あれ?もしかして二人は以外と仲がいいのか?」
「「良くない」わよ!」
(やっぱり仲良いじゃないか……)
①
セイバーがふと足を止めた。廊下の中途、掃除用具の納められたロッカーのあたりだ。
俺の胸あたりの高さのロッカーなのだが、セイバーが気に留めたのはその上にあるものだった。
「マスター。これはなんですか?」
しげしげとパッケージを見つめている。何か琴線に触れるようなことがあったのだろうか。
特に隠すようなものでもない。ゆっくりとセイバーに後ろから追いつきそれを手にとった。
「キャットフードだよ。要するに猫の餌。
あんまり人間が食べるものと同じものをあげると猫にとっては栄養が偏っちゃうからね」
特別なことはなにもない、普通に市販されているキャットフードだ。グレインフリーがどうのこうので若干お高いくらいか。
なるべく良いものを買ったからそこは仕方がない。シンプルなパッケージのデザインが如何にもな高級感を出していた。
それを聞いたセイバーが小首をかしげた。
「猫、ですか。そういった動物の気配はこの屋敷の中からは感じなかったのですが………」
「ちょっと前まではね。最近になって事情が変わったというか………そろそろ来る頃だと思うんだけど」
その時だった。なーお、と鳴き声がしたのは。
いつの間にか庭に面したガラス戸から黒くて小さな生き物がこちらを覗き込んでいる。
ビー玉のように丸くて青い目がくりくりと動いて俺たちの様子をうかがっていた。
「はいはい。ご飯の時間だね。分かった分かった」
ガラス戸を開けてやると我が物顔でその黒猫は洋館の中に入ってくる。
廊下をのっしのっしと歩き、俺たちの前で優雅に座った。さっさと飯を寄越せと言わんばかりの態度だ。
ロッカーの上から皿を取り出し、カップできっちり分量を計ってキャットフードをよそってやった。
すると黒猫は「まぁ食べてやらないこともないわ」とでも言うようにふんと鼻を鳴らしてから齧り始めた。
「なるほど。この猫のためのものなのですね。しかし、飼い猫という風でもありませんが………?」
「うん。セイバーと出会うよりちょっと前かな。傷だらけでうちの敷地にいてさ。
放っておけないから治療をしたら居着くようになったんだ。普段はこの庭のどこかにいるよ」
俺は話題に上がった庭をガラス戸越しに眺めた。丁寧に整備しているのでちょっとした洋風庭園となっていた。
トキワマンサクの生け垣で仕切られた庭内は薔薇が綺麗に咲いていた。四季咲きの薔薇は手間がかかるがそのぶんいつでも花をつけてくれる。
「なるほど。小さき命であろうと大切にする心がけには感心します。
きっとこの猫も恩人であるあなたを快く思ったからここを住処としているのでしょう」
出会った時からずっと凛とした、悪く言えば硬い表情を浮かべてばかりのセイバーがそう言って微かに微笑んだ。
②
「――――――」
不意打ちだった。庭の薔薇にも負けないほど流麗で愛らしく、胸を打つ仕草だった。
そのまま見つめられ続けていると何かボロが出てしまいそうな気がして慌てて目の前の猫へ視線を戻す。
「そ、そうかな。この庭は広いし外のコンクリートの上よりは涼しいからここにいるだけかもしれないよ」
話を誤魔化すように俺は食事を終えて顔を舐めていた黒猫の額へ向けて手を伸ばした。
猫は伸びてくる俺の手をじろりと睨みつけると―――
「あっ」
セイバーがやや気の抜けた声を上げた。
俺の指にがぶりと噛み付いた黒猫は器用に前足2本で俺の手を保持して何度も牙を立てる。
その間、俺の指には丸い小さな穴が刻まれていくのだった。ちなみにちょっと痛い。
「ま、マスター!噛まれています!止めなければ!」
「うーん。これ甘噛みってやつじゃないのかな。かわいいよね」
「これは獣の甘噛みではありません!それは相手の身体に傷をつけたりしないのです!」
「そうなんだ………。猫なんて飼ったことないから、てっきり。介抱した時からずっとこうなんだよね」
噛んだり、引っ掻いてきたり。黒猫は俺の指に開いた穴から流れ出る血をそのざらついた舌でぺろぺろと舐めていた。
なんだかまるで血を啜っているかのようだ。まあ猫は肉食性の生き物だからそういうものだろう。ちょっとくすぐったい。
「いけませんマスター………!こら、マスターはあなたの命の恩人なのだろう?無体なことはするものではない」
そう言って猫を叱りつけながら、脇の下を両手で支えてひょいとセイバーが黒猫を抱えあげる。
俺の指を噛んだり舐めたりすることを中断させられた黒猫は不服そうに唸ったが、ちらりとセイバーを一瞥すると大人しくなった。
されるがままにだらんと身体を垂らし、セイバーが抱きかかえるのに任せている。首の下を軽く撫でられるとごろごろと喉を鳴らした。
………俺とは全然対応が違うじゃないか!俺に向けた牙や爪はなんだったんだ!
「ふむ、おとなしいですね。こうして近寄ってくるのだからマスターの事を嫌っているのではないのでしょうが。
いいかい、もう彼のことを噛んだりしてはいけないぞ?義は義で返すのが正しい筋というものだ」
セイバーがそうやって諭しながら頬や額を撫でると嫌がる素振りも見せずに尻尾をぶらぶらと揺らしていた。
くそう。やっぱりセイバーが美人の女の子だからそういう反応をするのだろうか。
俺は臍を噛むような思いをしながらセイバーが黒猫を可愛がる姿を見守るしかなかった。
①
薄暗い照明の中、携帯電話を開いて時刻を確認する。11時半。そろそろ昼時だ。
開館と同時に入った、この土夏市が誇る大型水族館『アクアパーク土夏』を出た頃には昼食のタイミングだろう。
先輩は『楽しみにしておきなさい』と言って食事処の選定を予め禁じていたが。さて、どうするつもりなのやら。
俺は携帯電話を閉じ――最近はスマホというのが流行りらしいが俺は旧式のものだ――視線を館内へと戻す。
「あ、ほら。見てみてセイバーちゃん。これなんて虹色に光ってるわよ」
「む、どれどれ………ああ、本当ですね。きらきらと輝くあのさまはかつての妖精たちにそっくりです」
女性陣が水槽のガラス面を覗き込んでいるのを俺は少し後ろから見ていた。
百合先輩はどこかはしゃいでいる様子だ。声を弾ませながら水槽を次々に梯子してはセイバーを連れ回している。
セイバーも今は緊張感より好奇心のほうが勝っているようだった。百合先輩に言われるままにしげしげと水槽の中の魚を見つめていた。
こうしているとセイバーと百合先輩は仲の良い友人同士に見える。
ふと百合先輩が振り返り、ちらりと俺の方を見た。照明を絞られた薄い室内の中、稚気に富んだ瞳が夜空の星のように光っていた。
「何してるの十影くん、早くこっちに来てよ!」
「………はいはい。了解しました。えーと、こっちの水槽はなんだって?」
「パネルによればチョウクラゲだそうだテンカ。ほら、あなたも見てみるといい」
ふたりが間を開けてくれるのでその間のスペースに挟まるようにして俺も水槽へと近づいた。
水槽の中をふわふわと無数に漂っているクラゲはまるでネオンサインのように虹色のラインを輝かせていた。
透明な身体に虹の流線を持ったその姿はどことなく近未来的なSFを感じさせる。こうしてみると確かに美しい。
とはいえ………俺はどちらかといえば、水槽の中ではなく両脇に立つ二人の女性に視線を奪われていた。
百合先輩はいつもの赤いスカーフとバックリボンワンピースにTシャツを合わせていた。
西洋の血の影響か、東洋人離れした透き通った鼻梁と蒲公英の花に似た色合いの瞳がとても印象的だ。
こうしてぎりぎりまで近くにいると甘い花の香りがこちらにまで漂ってきて、ついどきりとしてしまう。
セイバーは百合先輩によって着せかえ人形と化し、今やどこにでもいる…いや、何処を探してもいないような可愛い女の子になっていた。
ノースリーブのシャツとパーカー、レギンスの上からはホットパンツを履いて、ポップなデザインのスニーカーで足を包んでいる。
青みがかかった髪が俺の視界のすぐ横で揺れていた。もともと綺麗な人だとは思っていたけれど、こんな格好されると落ち着いてなんかいられない。
………こんな甲乙つけがたい美少女ふたりに挟まれて、俺はちゃんと釣り合い取れているのだろうか。背丈も170cmに届かないしな………。
閉口してしまう俺を他所にふたりは水族館トークで盛り上がっているようだった。
「セイバーちゃん的にはどう?こういうところって。さすがに古きブリテンの騎士でも全く未体験でしょう」
「ええ。海の中の魚を捕まえてきてこうやって誰でも鑑賞できるようにするとは当時では考えられない発想ですね。
聖杯を探す旅でいろんなものを見聞きしましたが初めての体験です。私にとって魚は食べられるかそうでないかというだけだった」
「ふーん、まぁそうだよね。魚を透明なガラス越しに観察するなんてこと200年くらいの歴史しかないもん。
でも久々に来るといいもんだね~。何回でも通っちゃう人の気持ち、分かる気がするな~」
「私も分かります。海の中の魚たちはまるで動く宝石のようです。これを知れば万人とこの光景を共有したいと願う気持ちは察します」
「そうだね………っとと!?」
セイバーに相槌を打った百合先輩が突然こちらに向かってつんのめってきた。
とっさに俺はその身体を抱きとめる。原因を視線で探ると子供の姿が近くにあった。
どうやら走ってこちらまで来てぶつかったらしい。近寄ってきた両親と思しき男女が頭を下げて謝るので、お気になさらずと返事をしておいた。
まあ、子供のすることだ。いちいち目くじらを立てるのもなんだろう。
なんて子供連れを微笑んで見送っていた俺へ向けてほんのり硬い形をした言葉が告げられる。それはごく近くから響いてきた。
②
「………ところで十影くん。もう離してもらっても大丈夫なんだけど?」
「え………あ!す、すみません先輩!」
結構な勢いで倒れかかってきたもので、まるで抱き締めるように抱えていたことに今更ながら気づいた。
そのせいで腕に何か柔らかい感触が…慌てて飛び退く離した。メーデーメーデー。心臓が弾けるように血を送り出して、頬が紅潮していくのを自覚する。
俺はそっと先輩の表情を伺って………そして、悪寒に背筋を貫かれるのだった。
「ふーん………そうなんだ。偶然で私の身体に触れられて役得だったのかなぁ?お気持ちは如何かな?トカゲくん」
「とえいです!違、そういうんじゃ」
天使のように微笑む先輩の表情に映るのは悪魔の悪戯心。一旦は離れた距離を至近まで近寄ってきて、腕を絡めるようにして手を握ってきた。
メーデーメーデー。先程よりも強く先輩の香りを感じ、耳まで熱くなっていく。あ、俺の左の二の腕に何か柔らかい何かというか何かが。
「ナニシテルンデス」
「え~?だって一応これはデートっていう名目だし~?せっかくだからちょっとは十影くんが喜びそうなことをしておこうかなってさ~」
「い、いいですからそういうのは………!………え」
そう先輩に必死で言ったのだが、俺の意識はそこで逆方向に割り振られることになった。
右手が誰かの手に握られる。先輩ではない。先輩は左にいる。なら右にいるのは決まっている。
ぎ、ぎ、ぎ。油の足りていない機械のようにぎこちなく右に視線を向けると、先輩と同じようにして俺と手をつないでいるセイバーの姿があった。
メーデーメーデー。俺の右の二の腕に謎の柔らかい謎のなんというか謎。ほんのりと頬を赤らめたセイバーがじっとこっちを青色の潤んだ瞳で見上げている。
「………セイバー?」
「なんだろうテンカ。私は百合がそう言うから先達に従って行動しているだけだ。特に問題はない。
私は現代の様式には無学だか、学ぶ姿勢は謙虚であろうと努めている。これはその一貫だ。だから問題はない」
「あるって!」
「問題はない!」
きっと俺を睨みながらセイバーは強い口調で否定する。にやにやと微笑む百合先輩がその様子を見つめていた。
「いいのよセイバーちゃん。勉強熱心なのはいいことだけれども、ここまで真似なくても」
「いいえ。主の喜びは私の喜びだ。これでテンカが喜ぶなら『せっかくだし』私もそうしましょう」
「ふふふ」
「ふふふ」
どことなく不気味な笑いを俺の腕を抱きかかえるふたりが発する。俺にどうしろというのです。
………結局、アクアパーク土夏を出るまで俺は刑事に抱えられる容疑者のような格好で館内を連れ回されることになった。
その間、来館者の視線が痛かったことはわざわざ述べるまでもない。厳しい、試練の時であった。どして…。
①
まるで雑巾の水をゆっくりと絞るかのように、だらだらと自分の中から水が零れ落ちていく。
グラウンドの隅にある塀で出来た日陰の下で海深はそんな錯覚を覚えていた。
「………暑………」
梅村海深。高校1年生。6月。恐るべきピンチを迎えている。
倦んだ視線をグラウンドの中央へ向ければそこにはいくつものテント、上がる歓声、ビデオカメラが回る保護者席。
火蜥蜴高等学校は今まさに体育祭の真っ最中だった。
とはいえ海深に体育祭へかける熱意やモチベーションなどは微塵もない。
年々厳しさを増すばかりの日本の気候は6月の時点で早くも外気温30度を優に超え、それは熱に弱い海深の体力を容赦なく奪っていく。
確かに柔道の選手として基礎体力はそれなりに培っているが、それで灼熱の中でも平気で動けるかどうかといえば向き不向きがあるのだ。
心なしかまだ羽化も果たしていないだろう蝉の鳴き声の幻聴すらする。ぐったりと手足を地面へ投げ出し、塀に背中を預けた。
塀に触れた背中はひんやりとしている………と思いきや、午前中の直射日光によって焼けた鉄板がやや冷えた程度には熱せられ全く冷たくない。
吐く息が体温より高く感じる。あと出場しなければならないプログラムはいくつだったか。考えるのも億劫だ。
そのくらいに海深は炎天下というものが大の苦手だった。季節は夏以外であれば春や秋がいいし、もっと言えば冬でも全然構わない。
喉が乾いた。だが立ち上がるのさえ面倒だ。高気温と高湿度のダブルパンチを受け、何もかも嫌になった。そんな時だった。
「どうしたの」
「………………?」
不意にかかった声。海深はゆっくりと目の前の人影を見上げた。
率直に言えば。まるで幽霊みたいだなと思った。それくらい唐突に、何の気配や存在感もなく彼は目の前に現れたのだ。
視線を上げていって顔を見るなりすぐ誰か分かった。彼はその顔つきだけで私たち1年生の間で有名な男子生徒だった。
まるで女の子みたいに端正な顔立ち。ちょっとびっくりするくらい抜きん出た美形。噂じゃ芸能事務所にスカウトされたこともあるという。
そんなふうに女子生徒の間で噂される、いわくつきの男子生徒。十影典河が体操着姿でじっと海深を見つめていた。
実を言えば自分こと梅村海深は彼と中学校を同じくしていたのだが在学中の三年間、大した接点も無く過ごした相手だった。
その間、その容姿の美麗さについては何度も耳にしたがほぼ会話することはなかった。だから、今この時が最初の接点ということになる。
今だって同じクラスだが、時折ふと目に飛び込む姿――薄ぼんやりと窓の外を見る、その儚げな仕草――に一瞬目を奪われるくらいだ。
近づいてくるまで気づかなかった存在の希薄さに驚きながら海深は疲れ切った表情へなんとか愛想だけ作って答えた。
「う、ううん。大丈夫。海深はちょっと暑いの苦手で………それだけだから、大丈夫だよ」
「………分かった。ちょっとここで待ってて」
そう言って彼はくるりと踵を返し、どこかへと歩いて行ってしまう。
呆然とその後姿を見つめながら海深はいろいろと記憶の反芻を行っていた。
曰く。十影くんは喘息持ちなのだという。身体が強くなく、この体育祭でも学年全体で行う競技以外にはエントリーしていない。
体育祭を億劫がる生徒の中ではそれをやっかむ者は幾人かいたが、体調の問題であれば仕方がないと決着が付いていた。
実を言えば、自分もほんの少し彼の立場を羨望して、直後に彼の肉体の問題を踏まえれば不謹慎だと慌てて脳内で自己却下した身だ。
そのようなものだから、海深はふと彼の心境を思った。
確かに自分のように暑さに参っているような者は体育祭など無ければいいと思っている。だがそれは実際に体育祭へ参加しているから思えることだ。
目の前でみんなが参加している体育祭に自分だけ加われない。それは、それ相応の疎外感が彼にはあるのではないか―――
………なんて。得体のしれないことを考えている内に、ふと気づくと帰ってきた典河がへたり込む自分の横に座ろうとしていた。
②
「十影くん?」
「はい、これ。濡らしたら使えるネッククーラー、あと冷却スプレー。ポータブルの扇風機は高いものでもないからあげるよ。
それと大事なのはこれ。ちゃんと水分補給して。全部とは言わないから、飲めるだけ飲んで」
「え………あの………?」
「いいから、飲んで」
普段の十影くんからは想像もできないような、静かだけれども有無を言わさない口振り。
背負ってきたリュックサックからあれよあれよという間に様々な防暑グッズが溢れ出してくる。
まともに口も交わしたことのない深窓の美少年から言われるままに海深は手渡されたペットボトルのキャップを開けて中身を口にした。
ペットボトルのラベルはスポーツドリンクとは違う、明らかに医療用と思われる無骨さに満ちていた。
最初の飛沫を口の中に受けて、ああ美味しい、と。そう思ったが最後、ペットボトルの半分くらいまで一気に空けてしまった。
こんなに一口に水を飲み干したのは初めてかもしれない。
そう戸惑っている私の前で十影くんはなんでもないことかのようにリュックサックのジッパーを閉じている。
「あ、あの………十影くん」
「ん?どしたの」
野生動物が水を飲むような勢いで飲料水を半分空けていた間に、海深の首筋にネッククーラーが添えられて今もひんやりと首を流れる血液を冷やしている。
それらでいろいろとひと心地がついて、ふうと溜息をひとつついた深海はその場から立ち上がって去ろうとしている典河を前にして慌ててしまった。
急にやってきて急に私を助けていった彼。何か言わなければならない。一瞬の内に必死で模索して、出ててきたのはありふれた言葉だった。
「あ、あのね、十影くん!………ありがとう」
「………」
ああ、その瞬間を今も尚言葉になど出来ない。
うまく形に出来ないからこそ格別なのだろう。うまく思い出せないからこそ特別なのだろう。
「………ううん。こちらこそ、お世話様」
立ち上がりかけた彼が私へ向けて、ほんのりと。蕾がほんの少しずつ綻ぶように。
薄い硝子細工のように繊細そうなその唇がぎこちなく弧を描いて歪んだだけで、海深は雷に打たれてしまった。
それがとてもとても綺麗だったから、海深は本当に、びっくりするくらいあっさりと―――
「………あ………うん…………気をつけて、ね………」
「………?ありがとう。俺、こういう身体だから熱射病なんかには特に気をつけててさ。
梅村さんも今渡したぶんで足りなかったら、後から俺に言ってね。予備はたくさんあるから。………それじゃ、円に呼ばれてるから」
十影典河はそう言い残して、真夏の幻のように陽炎の中をふらふらと去っていく。
ぽかんと呆ける海深の元へ入れ替わりにやってきたのは親友の松山茉莉と竹内太桜の二人組だった。
日陰とはいえ、日差しの暑さも忘れている海深の様子へ二人は首を傾げた。
「おーい。もしもーし。どうしたのさ、海深。なんだか心あらずって感じだけど」
「そうだぞ。まるで男子生徒に告白でもされたかというほど耳まで顔が真っ赤だ。もしや日射病なのではないか」
「えっ!?その、だって………」
指摘された顔面を明後日の方向へ背けて隠し、海深は消え入りそうな声で仲良しのふたりへ呟いた。
自分の顔が照りつける日差しにも負けないくらいかんかんに熱しているのを自覚しながら、そう言う他無かった。
「なんでもないの。本当に………なんでもないんだよ………?」
鼓動がうるさい。どきんどきんとけたたましく鳴っている。止められるならこの炎天下の下でどんなこともするのにと、海深は思った。
①
放課後を知らせるチャイムが鳴って5分と経ってはいなかった。
「―――失礼します」
几帳面なノックの後、クリーム色をした保健室の扉が静かにスライドした。
男子学生がひとり、淀みのない動きで入室してくる。ドアを閉める所作まで全て杓子定規で測ったような丁寧さだった。
室内を見回して状況を確認すると最後に俺へ向けて視線を投げかけてきた。
「養護教諭は留守、と。………ああ、典河。身体の方は大事ないか」
「もう大丈夫だよ。ありがとう円」
喋り方まで角ばっているというか、真面目さが滲み出ているというか。
それがもう2年ほどの付き合いになる円という男の味なので今更どうとも思わないが。
靴底のゴムを微かに鳴らしながら円は俺が上半身を起こした状態で横たわっているベッドの側までやってきた。
「すまなんだ。私としたことがお前の体調の変化を見落とした。気付いてればもう少し早く声をかけられたのだが」
「いいよ。こういうこともある。こっちこそ迷惑かけて悪かったね、本当に」
「お前に謝られては立つ瀬が無いな。まあ、なにはともあれ大事ないならば善き哉」
しなやかな視線で俺を見つめて頷く円はクラスの保健委員という立場であり、全員が集まる委員会でもその的確な発言と柔らかな物腰により次期会長は間違いないと言われている男だ。
生徒会、風紀委員会、保健委員会、部活連、更には体育祭や文化祭の実行委員会が複雑に利権を絡ませ合う火蜥蜴学園の権力闘争に円が巻き込まれていくのだと思うとなかなか複雑な思いがある。
―――フルネームを姫島円。
お山にある松原寺の代理住職の息子で、中学もあと半年で終わりという頃にこちらへ引っ越してきて以来の俺の友人である。
文武両道を地で行く模範生とというやつで教師陣からの覚えは非常によろしい。
これで容姿も麗しく性格もやや堅物なのを除けば至って穏やかなのだから天は二物を与えずという言葉は嘘っぱちなのだろう。
「あまり調子が悪いようならば山の方へ連絡して住み込みの者に車を回してもらおうとも考えたが」
「大丈夫だってば。もうひとりで歩いて帰られる。それにそこまでしてもらっちゃ悪い。気持ちだけ貰っておくよ」
「そうか。………では渡すべきものをここで渡しておこう。
配られたプリント類。それとこれはお前が欠席した授業の板書きだ。私の分は自前で書き留めてあるので気にするな」
「そっか。いつも悪いな」
②
円は鞄からクリアファイルを取り出して俺に手渡してきた。
昼休みが終わったあたりから咳が出だして保健室に直行したのでおそらくその間の2限分だろう。
特に柄もない透明なファイルなので円がルーズリーフに書いた板書きの内容が透けて見える。
こういうことがあると円は必ず俺の分まで授業内容をこのようにして残しておいてくれるのだが、俺が板書きを写すより何倍も分かりやすい内容なのがいつも不思議だ。
と。それを自分の鞄に仕舞おうとした俺の目の前へ円が差し出すものがあった。紙片である。
「………なにこれ?」
「短冊だ、七夕の。お前も食堂前に葉竹が据えられてあったのを見たろう。義務はないが可能であれば今日中に提出、いや笹に飾ったほうが良かろう」
そういえばそんなものもあったような見かけたような。
どこの山から切ってきたのか、笹のついた竹がずらりと並べられて緑の竹林を形成していたのを思い出した。
変なところで思い切りが良いというか全力投球するのがうちの学園の校風である。
「願い事か………。円はなんて書いたんだ?」
「無病息災」
「だろうね」
むっつりと唇を結んだいつもの顔で円は事も無げに言った。円は寺の子なのに、いやだからか、こういう願掛けにはあまり興味を示さない。
しかし応じないのも不義理なので………と、たいていは差し障りのない無難な答えを口にする傾向があった。
「そういうお前はなんと書くつもりだ。典河」
「俺………俺か………」
指に挟んだ何の変哲もない黄色い色紙へ視線を落とし、少しだけ思いに耽る。
俺の中に夜空へかかる天の川へ託すような切実な願いが、もしあるとしたら。
もしあるとしたら、それは。決まっている。
「………救われたんだから。救われた意味に足る自分になれますように」
「典河?何か言ったか?」
「いや、なんでもない。そうだな。こういう身体だし俺も円に倣って無病息災ってことにしておこうかな。
さてと、起きるか。もう放課後だ。いつまでも寝っ転がったままじゃいられないもんな」
俺はベッドから起き上がって上履きに足を通す。
円は何か言いたげにしていたが、結局その場でそれについて言及することはなかった。
鞄を引っ掴んで保健室を後にする。途中、かさりと何かが音を立てたので音の出どころを探したら胸ポケットだった。
「………ああ、そういえば」
先日、栗野先輩から貰った魔除けだとかいう栞が入っている。今もどうにか脈を打っている、俺の心臓の真上に。
1/2
────2009年、7月初旬深夜。土夏市新土夏のマンション、黒瀬正峰宅。
『なぁ正峰、聖杯戦争って知ってr』
10年来の友人からの懐かしい声とその口から発せられた不愉快極まる言葉を耳にした瞬間、“俺”は電話の受話器を叩き付けるように本体へと押し付けていた。
数十秒後、電話機が鳴った。いっそのこと電話線を引き抜いてやろうかと思ったが、深呼吸をして落ち着くと受話器を取る。
「はい、黒瀬ですが…」
『酷いじゃないか正峰、いきなり電話を切るなんて!』
いきなりやかましい。
受話器から耳を離しておいて良かった。
「酷いのは貴様の頭だ、何を言うかと思えばよりによって聖杯戦争とはな。俺を殺したいならそう言え」
友人の言葉に吐き捨てるように言い放つ。
聖杯戦争がなにか位は魔術については殆ど素人の俺でも知っている。
教会主導の聖杯と呼ばれる魔術的遺物を巡る戦い。
戦争とは言っても競売やクイズ、徒競走でも聖杯を賞品にすれば聖杯戦争になる。
聖杯と名のつく遺物も聞くところによれば1000近くは存在しているなどと聞くと聖杯戦争の存在すら与太話ではないかと疑わしい。
だが、確かにそれは実在する。裏の世界に少しでも足を踏み入れた事があるならきっと誰もが耳にするだろう。
それを前パン屋だったところに出来た新しいラーメン屋知ってるか?とでも言わんばかりに言うとは、会話の内容にしては扱いが軽過ぎる。
『何を言ってるんだ!俺達は友達だろ!?』
電話口の声は言い方からして動揺しているのが分かる。
電話先の友人、生家である長野の実家の再従兄弟は本気で聖杯戦争を日常会話の一つとして話すつもりだったらしい。イカれているのか?
再従兄弟は廃業した黒瀬の家とは違い、今も退魔や魔術師相手に殺し合いをしている。非日常にどっぷりと浸かった奴との会話は時々相手が正気か判断に迷う。
「貴様と会話する度に俺は貴様と本当に友人なのか、貴様に洗脳されていないか悩んで過去を洗い直すんだがな」
『かわいそ……待て、待て切るなって!俺が悪かったよ!』
此方の皮肉に失笑しやがった。
電話を切ろうとしたのを察したのか、慌てて謝ってくる。
「それで、聖杯戦争がなんだ? 調べろと言うならクソッタレ、参加しろ ならくたばれと返してやるが」
再従兄弟とは、子供の頃からの付き合いだ。お互い良くも悪くも遠慮がない、どうしても昔を思い出して口が悪くなる。
『じゃあ俺はクソッタレか。 調べるくらい良いじゃないか。どうせ、そろそろ夏休みで暇だろ?』
「ちっ、生徒と違って教師に夏休みはない。“私”には研修だの、新学期に向けた準備が山程ある」
やはり、“俺”に聖杯戦争について調べさせるつもりでいたか。わざと聞こえるように舌打ちをした“私”が発したのは皮肉ではなく愚痴だった。
教師も夏休みが長いと思われている風潮はなんだ?そんな訳がないだろう。下手をすると生徒にまで先生も休みなんでしょう?なんて言われるんだぞ。
私も好きでやっている仕事だから文句は言わないが、たまに愚痴くらい言いたくなる。
2/2
『おーい、正峰? 聞いてるかー?』
「……聞いている」
いかん、思わず自分の中で愚痴っていた。夏休みが近いせいか?
『でも、あったらしいじゃないかお前のいるとこ、土夏だっけ?』
「らしいな」
感情を乗せない相づち。
それを知って珍しく俺に電話を掛けてきたかと、一人納得する。
聖杯戦争の手がかり、情報が聞きたいと言うのが本題だったらしい。
『はぁ? らしいって……調べてないのか?』
電話口からの困惑する声。
思わず口元が緩む。調べていないし、知らないが、知っていてもただでは教えん。
「土地の管理者や教会に訝しまれたくないからな」
『へぇへぇご苦労なこって。しかし、宛が外れたかぁ』
「……正直言うとな、俺は怖いんだよ。ガキの頃から散々言われてきた。“血を怖れろ、死に近づくな。それを忘れた時、お前は人ではなくなる”って」
再従兄弟の冗談めかした言葉に苦笑いをして、思わず手が震えた。
先生との出会いの以前、記憶の奥底に刻まれた何かが強迫観念のように、亡霊のように俺の両肩に手を掛け囁き掛けてくる。
「俺は、非日常の何かに深く関わって黒瀬正峰という人間が“俺”でも“私”でもなくなるのが、何よりも怖いんだよ」
そこまで吐露してようやく落ち着いた。
再従兄弟は察して黙って聞いてくれたようだ。
『……そうか、悪かったな。忘れてくれ。 ああ、最後に良いことを教えてやるよ、誰でも出来る詐欺師に騙されない方法だ。話を聞かない、これに限る。 簡単だろ、はははははは!!!』
前半の神妙な口調とうって変わった大爆笑。
そうだ、暫く会っていないので忘れていた、再従兄弟はこういう奴だった。
「…………俺は時々本当にお前が分からなくなるよ。あぁ、分かった。俺の敗けだ、18年前の事なら分かる限り調べて後で送ってやる」
狐に摘ままれたような気持ちの後、思わずつられて笑みが溢れた。
そんな事を言われたら電話を取った時点で詐欺師の口車に乗ったようなものじゃないか。
なんだか馬鹿馬鹿しくなった俺はいっそのこと詐欺師の片棒を担いでやろうと思った。
『おっ、サンキュー』
「俺に出来るのは当時の地方紙の記事や伝聞を漁って状況の推察材料を作る程度だ、期待するなよ。 忘れるな、この貸しは高くつくぞ」
返事を待たずに電話を切る。
流石にまた電話の呼び出し音がなることはなかった。
ため息をついた俺は外の空気が吸いたくなってベランダに出る。
空を見上げるが、長野と違って土夏では星はあまり見えない。
赴任してもう5、6年になるか、土夏は今や第二の故郷と言ってもいい。……まぁ、盆くらいは夏期休暇を使って久し振りに実家へ帰るか。
折角だ、調べたネタを使って再従兄弟に何か奢らせよう。
血ニ酔イ死ニ狂ウ
白刃が肉を貫き、血管を裂き、骨に中る。
つい先程まで人であったものが急速に熱を喪い、肉と血と骨の塊へと変わっていく。
白刃を振るうと、まだ生暖かい鮮血が顔にかかる。何を思ったのか、俺は思わずそれを舌で舐め取った。
鉄の味の奥底にある味をはじめて感じとる。
─────あまい。
それを口にした瞬間、多幸感が電流のように脳を駆け巡った。
舌が蕩けるようなあまみと頭を溶かす刺激。嗚呼、きっと世界にあるどんな名酒でもこれには敵わない。
俺は今まで何を恐れていたんだ?
なんだ、簡単じゃないか、人を殺すなんてのは。
嗚呼、そして今まで生きていた命を奪うのがこんなに愉しいなんて知らなかった。
待たせたね■■■■。さぁ、行こうか。聖杯戦争を、狩りを、殺し殺される夜を楽しもう。
2009年7月、土夏市で行われた5度目の聖杯戦争は密かに終結した。
参加者達は元の生活に戻る者、傷を癒す者、休養を取る者、それぞれ理由はあれど未だに土夏市に滞在していた。
そして、夏が終わり秋に差し掛かる数ヶ月が経った頃。
土夏市の女子学生を中心に奇妙な遊びが流行り始めた。
「ねぇねぇ、茉莉ちゃん知ってる? M様の噂!」
「M様?なにそれ?」
「梅村、またどこかから変な噂を聞き付けてきたのか」
「変じゃないよ太桜ちゃん!柔道部の先輩に教わったの!」
「それで、M様って?」
「うん、M様って言うのは噂っていうかおまじないかな? みんなで集まってM様を呼び出すと願い事を叶えてくれたり、未来を当ててくれるんだって!」
「えー……」
「胡散臭いことこの上ないな」
「なんでそう言うこと言うの!」
「おーい、松竹梅! 下校時間は過ぎてるぞ、遊んでないで早く帰れ」
「あっ、黒瀬先生ってことはもうそんな時間?」
「ほら、梅村帰るぞ」
「もう!そうやってちゃんと海深のきかないんだから!」
「気を付けてな! ……M様、か。これは不味いかもしれんな」
「トエー、私にはM様って遊びが私達を集める位の事とは思えないのだけど」
「君たちは知らないかもしれないが、90年代の日本ではこっくりさんというものが流行っていた」
「コックリ=サン? なにそれ呪いの一種?」
「魔術師のいうところのテーブル・ターニングよ」
「その通りだ狐、狗、狸でこっくりさんと読む。科学的には意識に関係なく体が動くオートマティスムの一種だが…」
「魔術的には所謂動物霊を降霊させる簡易儀式ね」
「その辺りは流石に君たちの方が詳しいか。90年代のオカルトブームは病的でな、魔術の知識もない学生でさえ降霊術が広まる位……私しか知らないか」
「聞いたことくらいはありますけどそれがなにか問題があるんですか?」
「そんな事も分からないの坊や?呼び出すのが動物霊であれば良い。だが、聖杯戦争の跡地、魔力や怨念が溜まっている土地で行えばどうなると思う?」
「推察になるが、動物霊でないものが呼び出されるということか?」
「正解よ、サーヴァント達の残存魔力につられて下手したらサーヴァントもどきが呼び出される可能性があるってことね」
「ヤバいじゃないですか、先輩!」
「ええ、かなりマズいわ。本来であれば自然に消費され減っていく筈の方向性のない魔力が噂、都市伝説という指向性を得て良くない形で現れようとしている」
「それはまるで……」
「その言い方だと似たような現象を知っているの?トゥーリベルク、クロセ?」
「トゥーリベルク女史と情報を付き合わせたが……」
「先生が言い淀むなら私が代わりに言おう。あり得ない事だが、今の土夏はタタリと呼ばれる霊的象の前段階に近い状態だ」
「タタリ……」
そして、闇の中よりあり得ざる9騎目のサーヴァントが顕現する。
「サーヴァント、アサシン。召喚に応じて推参した。問おう、貴公が小生のマスターか?」
───────────2009年、7月3日深夜。土夏市旧土夏の廃墟
。
人生とは後悔と反省の連続である。
誰が言ったわけではない、個人的な持論だ。
人は自分の行いに後悔して、反省をして、また何かをやって後悔する。
そうやって少しずつ後悔や反省を減らすわけだが、中にはわかっていても行動して後悔や反省の回数を減らせない者もいる。
具体的に言えば自分だが。
今の自分の心境は絶賛後悔中だ。
再従兄弟の頼みに応じて18年前の聖杯戦争について調べはじめたのはいい。
成果はあった。参加したと思われる人間をある程度(とは言っても数十人はいるが)絞る事が出来たし、18年前の土夏大火災が聖杯戦争を起因とするものであるという確証に近いものを得ることか出来た。
そして、そこから逆算して土夏市で数十年おきに奇妙な事件が起き続けている、つまりは聖杯戦争が行われているということも。
しかし、図書館や区役所で調べた資料だけでは満足出来ずに、調べあげた聖杯戦争の跡地と思われる場所に来たのは完全に誤りだった。
まさか、推定ではあるが魔術師の工房を見つけてしまうとは。
正確に言えば工房のような場所ではあるが。
土夏大火災によって被災した旧土夏。
旧土夏には18年前の土夏大火災で焼失したり、廃墟となった家は少なくない。
特に相続人が見つからず土地や廃墟には手をつけられず未だに廃墟が取り壊されていない場所さえある。
そんな旧土夏の一角、かつては住宅地であった場所にそれはあった。
それは聖杯戦争の参加者、或いは参加さえも出来なかった脱落者と思われる人物の邸宅。
18年前の土夏大火災直前に不審死を遂げ、しかも捜査が不自然に打ち切られている人物。
おそらく聖杯戦争絡みだろうと当たりを付けた俺は足を伸ばし、旧土夏まで来たわけだ。……期末テストの真っ只中に。
そろそろ忙しくなると言うより忙しいので、遠巻きに調査して適度な所で帰ろうとしていた俺は何かに呼ばれるような感覚を覚えた。
躊躇はしたが、結局は邸宅の跡地に足踏み入れてしまった。
そこで見つけたのは入念に隠された地下室の入り口。おそらくは人払いの結界が何かの切っ掛けで崩壊したのだろう。
地下室には火災が及ばなかったのか、中はおそらくは当時のまま残されていた。
室内は意外と広かった。およそ5畳程の空間にはクモの巣があちこちに張られており、木の机に椅子、パイプラックに何らかの薬品や呪物、本が置かれている。
こんな封鎖空間で良く生きていた物だと感心する。見れば害虫、黒くて早いあいつを餌にしていたようだ。
一見しただけではただの作業用の地下室にも見える。しかしそこに立てば、魔術の触りだけ知っている程度の俺でも分かる異質な雰囲気、人を拒絶する空間、魔術師の工房がそこにはあった。
最もしっかりした工房ではない。
どこか素人くさい、或いは突貫工事の仮の工房といった印象を感じた。
折角ここまで来たのだ、半ばヤケになって何か手がかりはないかと探る。
机の上にはノートと古文書のようなものが置いてある。
大半は掠れて読めないが、ラテン語や英語、日本語が混在しているようだ。
「……術式……英霊召喚…? サーヴァント?」
辛うじて読める文字に指を這わせる。どうも何かを召喚する際の手順のようだ。
素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 降り立つ風には壁を。
四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する。
告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従…
そこまで読んで妙に嫌な予感がした。
これ以上は取り返しの付かない事になる。
そんな胸騒ぎを感じ、ノートから指を外し、机から離れる。
辺りを見渡せば、足元に召喚用の魔方陣が描かれている事に気づいた。
触れては不味いと一歩退く。
退いた拍子に机に置いてあったガラス片に指が当たり指を切る、数センチほど深く切った。
「……っ!」
慌てて指を抑えるが血が飛び散り、召喚陣へとかかった。
瞬間、まるで数年ぶりに動く機械のようにそれは鈍い光を放ち始める。
「まさか、血を切っ掛けとして儀式が起動したのか!?」
直感が叫んでいる、これは止められない。
一瞬、すぐさま逃げ出す事も考えたが、この召喚陣から呼び出されるものを放っておくわけにはいかない。
俺が呼び出してしまったものなら始末は自分の手でつけなくては。
ウィンドブレーカーのフードを外し、右手で左腰に差していた短刀を抜く。右手がやけに熱く感じた。
召喚されたと同時に急所を狙って切りつければ最悪でも相討ちには持ち込める。…筈だ。
召喚陣の光が収束し、衝撃が疾った。
「……来る」
本能的な怯えから来る震えを理性と意識で抑え込む。
今更何をビビってる?化け物と相対したのは一度や二度じゃないだろう。
呼吸を整えろ、意識を集中しろ、俺は目の前のものを切り捨てる刃だ。
衝撃が止んだ時、召喚陣の上に何者かが立っていた。
粉塵に目を細めて辛うじて見えた後ろ姿は菫色に染めた修道士風のローブ。フードの横からローブと同じ色の長い髪が見えた。
少なくとも人型ではあるらしい。
「……何者だ」
唾を飲み込み、乾いた喉を潤すと警戒は解かずに誰何する。
「何者か、とは随分な言い方だね、自分で呼んだのに」
それは振り向くとフードを外す。
菫色の髪が揺れ、どこか愉快そうに赤い瞳がこちらを見据えていた。
「美しい……」
何を言ってるのか。
きっと俺は頭がぶっ壊れたに違いない。
くそっ、どうにかなりそうだ。或いはもうどうにかなっているのか。