16世紀にボジヴォイ・シュテフカがシサクの戦いにて功績を上げ、その功績から皇帝からホジヴォイへクロアチア伯の称号を与えられ、同地はクロアチア辺境伯領として成立した。クロアチア辺境伯は異教徒に対する防波堤としての役割を果たし更に略奪で荒廃した地区の再建を行っていった。その中で、各地に城塞都市が築かれプーラに公宮を置いた。バニャ・ルカの戦いにて異民族を撃退、ボスニアへと進出して領域を拡大しホジヴォイは教皇から戴冠を受けてシャホヴィニツィア王を名乗り、シャホヴィニツィア王国を建国した。依然としてイスラム勢力の脅威にさらされ続ける南方は軍政国境地帯としてキリスト教圏の防波堤としての役割を果たし続けた。
18世紀にはイスラム勢力のヨーロッパ進出はなくなり軍政国境地帯は王国へと編入され、城塞は次々と解体された。長らく王国の中心地にあったプーラはイグナーツ・ヴィクトラ(イグナーツ3世)の国策の下で大規模な都市改造が行われた結果、城壁が解体され環状道路が整備された。道路の整備などによりプーラ市街地は拡大し農村部からの人口流入により文化が発展していった。
世界大戦では歴史的な関係から中央同盟国側で参加し、セルビアを攻撃したものの1918年に敗戦。ザグレブ条約によりボスニアの一部を喪失したものの国体は維持された。戦争を主導したとしてイグナーツ4世が断頭台で公開処刑され、生後6か月のレオシュがイグナーツ5世として即位し成人するまでの間、ドイツ系のエアハルト・ヨアヒム・ローゼンシュティールが摂政となり政治を執り行うこととなった。しかしドイツ系を優遇する政策が多く、1924年に不満を募らせた王国軍第2師団が反乱を起こしプーラへと進軍する事態が発生し、鎮圧のため動いた軍がプーラを包囲すると混乱は全土へと拡大した(大反乱時代)。
混乱の収束のため軍を増強せざるを得ず、反乱は鎮圧されたものの軍の発言権が大きくなり政権は軍の意見を無視できなくなった。エアハルトは摂政を辞することを余儀なくされ近衛師団の推薦するヴァシリー・カリャーギンが1932年に摂政に就任した。元軍人のヴァリシーは大シャホヴィニツィア主義を提唱し軍備増強と工業化を推し進めた。体制に反対する人物に対しては治安維持法などを制定して逮捕するなど強権的な政策が目立つようになる。
1939年に世界大戦へと参加し大シャホヴィニツィア主義実現のためセルビアやバルカン半島南部へと侵攻した。初戦では優位に戦いを進め1940年にベオグラードを陥落させセルビア全土を、アルバニア北部まで領土を拡大させるもフリストフォル・セレズニョフ率いる共産ゲリラやセルビア人ゲリラとの散発的な戦闘により拡大は鈍化し徐々に劣勢となった。1943年にフリストフォルが中心となり正統な権利評議会(英:Legitimate Council of Rights)を結成し、セルビアやアルバニアを解放する連合国軍と協力してシャホヴィニツィア軍などと戦った。1945年にはプーラを解放し公宮を包囲し降伏を迫りイグナーツ5世は流血を避けるためにこれに同意し近衛師団と共に降伏した。イグナーツ5世降伏以降も各地で軍の抵抗が続いたが、6月末までには王国は無条件降伏した。
16世紀にボジヴォイ・シュテフカがシサクの戦いにて功績を上げ、その功績から皇帝からホジヴォイへクロアチア伯の称号を与えられ、同地はクロアチア辺境伯領として成立した。クロアチア辺境伯は異教徒に対する防波堤としての役割を果たし更に略奪で荒廃した地区の再建を行っていった。その中で、各地に城塞都市が築かれプーラに公宮を置いた。バニャ・ルカの戦いにて異民族を撃退、ボスニアへと進出して領域を拡大しホジヴォイは教皇から戴冠を受けてシャホヴィニツィア王を名乗り、シャホヴィニツィア王国を建国した。依然としてイスラム勢力の脅威にさらされ続ける南方は軍政国境地帯としてキリスト教圏の防波堤としての役割を果たし続けた。
18世紀にはイスラム勢力のヨーロッパ進出はなくなり軍政国境地帯は王国へと編入され、城塞は次々と解体された。長らく王国の中心地にあったプーラはイグナーツ・ヴィクトラ(イグナーツ3世)の国策の下で大規模な都市改造が行われた結果、城壁が解体され環状道路が整備された。道路の整備などによりプーラ市街地は拡大し農村部からの人口流入により文化が発展していった。
世界大戦では歴史的な関係から中央同盟国側で参加し、セルビアを攻撃したものの1918年に敗戦。ザグレブ条約によりボスニアの一部を喪失したものの国体は維持された。戦争を主導したとしてイグナーツ4世が断頭台で公開処刑され、生後6か月のレオシュがイグナーツ5世として即位し成人するまでの間、ドイツ系のエアハルト・ヨアヒム・ローゼンシュティールが摂政となり政治を執り行うこととなった。しかしドイツ系を優遇する政策が多く、1924年に不満を募らせた王国軍第2師団が反乱を起こしプーラへと進軍する事態が発生し、鎮圧のため動いた軍がプーラを包囲すると混乱は全土へと拡大した(大反乱時代)。
混乱の収束のため軍を増強せざるを得ず、反乱は鎮圧されたものの軍の発言権が大きくなり政権は軍の意見を無視できなくなった。エアハルトは摂政を辞することを余儀なくされ近衛師団の推薦するヴァシリー・カリャーギンが1932年に摂政に就任した。元軍人のヴァリシーは大シャホヴィニツィア主義を提唱し軍備増強と工業化を推し進めた。体制に反対する人物に対しては治安維持法などを制定して逮捕するなど強権的な政策が目立つようになる。
1939年に世界大戦へと参加し大シャホヴィニツィア主義実現のためセルビアやバルカン半島南部へと侵攻した。初戦では優位に戦いを進め1940年にベオグラードを陥落させセルビア全土を、アルバニア北部まで領土を拡大させるもフリストフォル・セレズニョフ率いる共産ゲリラやセルビア人ゲリラとの散発的な戦闘により拡大は鈍化し徐々に劣勢となった。1943年にフリストフォルが中心となり正統な権利評議会(英:Legitimate Council of Rights)を結成し、セルビアやアルバニアを解放する連合国軍と協力してシャホヴィニツィア軍などと戦った。1945年にはプーラを解放し公宮を包囲し降伏を迫りイグナーツ5世は流血を避けるためにこれに同意し近衛師団と共に降伏した。イグナーツ5世降伏以降も各地で軍の抵抗が続いたが、6月末までには王国は無条件降伏した。
1945年にLCRがプーラを解放し、フリストフォルがシャホヴィニツィア立憲王国の建国を宣言し連合国側に鞍替えした。世界大戦が終わるとフリストフォルは東側諸国の支援の下で社会主義国の建国を目指し、反対するヴァリシー政権とその支持者の粛清を強行した。さらにイグナーツ5世に退位を迫ったが、これを拒否するイグナーツ5世は近衛師団と共に反乱を起こしたが公宮での籠城戦の最中でイグナーツ5世は崩御し反乱は失敗した(イグナーツの反乱)。シャホヴィニツィア最後の君主の崩御により、王家は滅亡しフリストフォルは立憲王国を解体しシャホヴィニツィア社会主義共和国の建国を宣言した。企業の国有化、集団農業など社会主義的な政策を推し進めて国力増強を図った。またいくつもの国家共同事業が進められ発電所や工場、ダムなどが建設された。一次大戦後に失った領土の回復のため、1951年にボスニアへと侵攻するも全土を掌握するには至らず年内にボスニアから撤退した。
LCRの一部はフリストフォルの強権的な姿勢を非難し、プーラから離れカルロヴァツに抵抗の拠点を置いた。カルロヴァツは反逆者の収容区があり、離脱した勢力はひそかに接触を図りつつ支持者を集めた。1955年に自由連合軍(英:Free Coalition Forces)を結成しフリストフォル政権に対抗した(反共抗争)。
1963年に賃金引上げに対するデモ運動がヴェリカ・ゴリツァを行進した。デモ行進に学生や労働者達が参加し規模を徐々に拡大、更に賃金引上げに収まらず民主化を求める運動へと変容した。政権は警察や軍を動員してデモ行進を妨害、一部が暴徒化し紛争が発生(ヴェリカ・ゴリツァの惨劇)。政府はヴェリカ・ゴリツァに非常事態宣言を発布したが混乱は収まらず、地方報道局がヴェリカ・ゴリツァの惨劇を報道し政府への不信感はより深まることとなりこの情勢に乗じて自由連合軍は支持を集めてプーラを占拠、政府機能を掌握した。自由連合軍は民主党や共産党、軍上層部と交渉してフリストフォルらを逮捕して、共産党と民主党の連立政権のイリュリクム臨時政府を樹立、自由連合軍と軍は各地の混乱収束に努めた。
フリストフォルの後任には穏健派のチムール・レオーノフが共産党書記長として任命され、評議会に承認された。チムールと評議会の決定に基づきフリストフォルと軍指導者ら8人は裁判にかけられた。イグナーツ5世の殺害やヴェリカ・ゴリツァの惨劇などの犯罪により死刑判決を言い渡され、死刑はその日のうちに執行された。チムール政権は1963年中に国民総選挙を実施し、民主党と自由連合軍の合併により誕生し国民の支持を受けた民主・自由党が単独政権を成立させた。民主・自由党党首であるヴコール・ムズィカンツキーが書記長へと就任し、社会主義の終焉と共にシャホヴィニツィア連邦の成立を宣言した。
ヴコール政権は、資本主義に準ずる経済政策を共産党時代の経済システムを少しずつ置き換えていく形で進めていった。1964年に連邦民憲章が施行され、イストリア、スラヴォニア、ダルマチア、パンノニア、北ボスニア、スロヴェニア、東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム地区の7つの地域からなる連邦国家となり、連邦としての首都はザグレブに置かれプーラにはダルマチア共和国の首都がおかれた。労働者不足を補うべく各国からの移民の受け入れ、外国資本の積極的な誘致、インフラ整備などにより1966年から1973年にかけての急速な経済成長が齎された。北ボスニアの領有権を巡る第二次西波戦争では、戦局を優位に進めサラエボを攻略。親シャホヴィニツィア政権を樹立し、1972年に連邦へと加盟した。
連邦にもたらされた経済成長と特需の影響からヴコール政権は支持率を伸ばし、1973年まで3期にわたって政権を維持した。しかし1973年の石油危機によって主要産業である機械製造業、食品加工業が大打撃を受けたことで経済成長は失速。政権は補助金などで対策を打ち出したものの後手に回り急速に支持率を失った。ヴコールの退陣後に大統領となったユーリー・ブリノフの経済対策も失敗に終わり財政難が加速、軍事費の削減を行ったことで軍部の不満を煽った。1974年にアドリア海艦隊旗艦ジェリコの乗組員が賃金未払いを理由に反乱を起こし、艦隊の水兵などを率いてプーラを占拠し救国軍事評議会を設立してダルマチアとイストリアを掌握した(8月クーデター)。救国軍事評議会はイリュリア国民政府を名乗りユーリー政権が維持する領土へ侵攻し内戦へと発展した(第一次連邦内戦)。ユーリー政権軍は諸国からの支援を募りつつ抵抗し、欧州諸国などの仲介を受けてカシュテラ合意を締結して停戦。国民政府とユーリー政府の連立政権設立で合意したものの、翌年に合意を破棄してユーリー政権がプーラやスプリトを奪還し、1978年のドゥブロヴニクの戦いを経てアドリア海艦隊は一部を除いて自沈し国民政府は降伏した。ユーリー政権は救国軍事評議会を追放し、野党第一党であった社会民主同盟との連立政権を成立させ国民の不満の払拭を図った。さらに不満を反らすべく、諸外国へ「地中海連邦構想」を発表し地中海沿岸諸国による国家連合設立を目指した。
1979年にユーリー連立政権は、スペインのロドリゴ・パルティダ政権と交渉し経済連携協定、共同事業計画、技術提供などを立て続けに締結し準備作業を進めた。1981年に10年後の国家統合を見据えてアリカンテ条約を結び、地中海連邦を成立させた。各国の政権はそのままに、上位組織として統一政権を設立し統一大統領が地中海連邦の元首となり、初代統一大統領にはベネディクト・ララサバルが就任した。ただ、多民族を抱えていることに配慮して統一大統領府への全面的な政治権限意向は見送られ、ユーリーとロドリゴによる連立政権が両国間の調整役となり政治を執り行うこととなった。翌年のモナコ協定による越境規制の廃止、ザグレブ議定書による統治機構の再編などを締結し、一国二制度体制から一国化を推し進めていった。1984年にスペインの構成領(二等国)であったガリシアとカタルーニャをシャホヴィニツィアやスペインと同じような連邦構成国(一等国)へと昇格させるよう連邦評議会へ議題として提出され、ガリシアとカタルーニャは共和国として一等国への昇格を果たした。翌年にはシャホヴィニツィアの二等国であるボスニアも連邦評議会へ議題を提出したものの、賛成するスペイン首相や統一大統領などの勢力を押し切ってシャホヴィニツィア首相のボフスラフ・シマーチェクと与党勢力が反対し否決させた。これに対してボスニア世論は反シャホヴィニツィアの様相を強めるようになり、1985年にサラエボで開かれた統一憲法改正記念式典中に反シャホヴィニツィアを掲げる武装勢力による銃乱射事件が発生し、ボフスラフや統一大統領など重鎮、民間人などが多数犠牲となった(サラエボ銃乱射事件)。警備部隊は武装勢力を逮捕し、ボスニアにて裁判を開いた。裁判はシャホヴィニツィア側の圧力もあり全員死刑を決定し、死刑のためシャホヴィニツィア政府へ引き渡すようにボスニア自治政府へと要求し、ボスニアは引き渡しに応じざるを得なかった。ボスニアの弱腰に対して各地で暴動が発生し、暴動鎮圧を名目にシャホヴィニツィア政府は軍を独断で派遣した。統一政府はシャホヴィニツィアに対して軍の撤退を再三要請したがシャホヴィニツィア首相ザハリアーシュは強硬姿勢を崩さなかった。独断での軍派遣に反発する形でボスニアの暴動はさらに拡大し、民族問題へと発展した(ボスニア暴動)。
ボスニア暴動に始り、セルビア人が蜂起し派遣された部隊の一部が離反するなど軍の士気は崩壊しシャホヴィニツィア方面軍は再起不能に陥った。
シャホヴィニツィア方面軍が再起不能となり部隊が散り散りになると略奪行為や反乱が相次ぎ、バルカン情勢は更に悪化した。ザハリアーシュはザグレブにいたところを統一政府側に残留した第5師団に捕らえられその場で処刑された。ボスニア地域を完全に失陥し無政状態化すると、第5師団はザトゥーリン臨時政権を組織して敗走する部隊や親政権の武装勢力を吸収しクロアチア地域の治安維持に努めた。スペイン政府は旧シャホヴィニツィア領に在留するスペイン人などの避難を優先し軍民問わず徴用して避難船団(移民船団とも呼ばれた)を組織したが、海賊化した海軍や武装勢力の襲撃に会うこともあり損害は無視できなかった。対象にならなかった人々も紛争地域から逃れるべく船団の寄港するドゥブロヴニクやスプリト、プーラへと殺到した。
ザトゥーリン臨時政権は1985年末までクロアチア地域で優勢を守り続けたものの、部隊の消耗と頻発するゲリラの襲撃に耐えられず戦線を後退させクロアチア圏での影響力を保てなくなり1986年に崩壊した。以降旧シャホヴィニツィアにて強い影響力を持つ勢力はいなくなり多数の軍閥などが「連邦の正統な後継者」を自称して群雄割拠する状態となった。スペイン領でも民族運動が本格化しカタルーニャ共和国が連邦からの離脱を問う国民投票を統一評議会を通さずに行い87%が賛成した。独立を阻止すべく軍を派兵したがバルカン領や各地の民族運動への対応のため十分な部隊を動員できず、阻止したがカタルーニャ軍との散発的な戦闘は続いた。ガリシア、ナバラなどはカタルーニャに続く形で独立宣言を行うが、いずれも連邦軍の介入を招き戦争を拡大させた。
1982年にスロベニアのトールミンにてマンフレード・メアッツァが君主守護騎士団を設立し、シャホヴィニツィアに王権を再興すべく活動を開始した。ただ行動が過激すぎた故にスロベニア当局に暗殺者を差し向けられ殺されかけると、態度を改めてトールミンから辺境のイェセニツェへ本部を移動した。内戦勃発以降、民族浄化などに心を痛めた彼はいち早く正統かつ強力な政府を立ち上げ、内戦を終わらせるべく血縁者の捜索を行ったものの、イグナーツ5世以降血筋は途絶えており王政復古を断念した。諦めかけていたマンフレードはたまたま立ち寄った酒場にて、スペインで領主を輩出していたアステシア家のヴァイオレットと出会った。シャホヴィニツィア家が仕えていたハプスブルク家の分家たるスペイン=ハプスブルク家の血筋であるアステシア家に生涯をささげることを誓ったマンフレードは、ヴァイオレットのスペインへの帰還を支援することとなった。
1987年にマンフレード率いる君主守護騎士団は、クロアチアのプーラにてアデレードと、ヴァイオレットの兄弟であるディートリヒらと合流して規模を拡大させ皇帝権へと名称を変更した。スプリトにて旧海軍勢力の協力を取り付けて移民船団と共にイベリアへたどり着き、現地戦力との戦闘を行いつつジブラルタルを目指した。1989年に皇帝権といくつかの武装勢力が共にグラナダへと突入し、駐留する旧連邦軍との戦闘が起こり大きな被害を被ったもののグラナダの占領は達成された。マンフレードはヴァイオレットを君主としてグラナダにて戴冠式を行いモルトラヴィス帝国ヴァイオレット朝の成立を宣言し、連邦の後継者として発表した。マンフレードは大宰相に就任しスペイン地域の統一を掲げて皇帝権の部隊と帝国に加わった武装勢力を統合して帝国軍を組織しガリシア、ナバラなど北方やバルカン半島への派兵を開始した。その過程で、反政府運動を未然に防ぐべく各地で帝国に従わない勢力を徹底的に攻撃し粛清を行ったためアデレードやヴァイオレットとの対立を深めた。無謀な派兵の下、第10次ヴィス島攻防戦、ドゥブロヴニクの戦いなどにて敗北しバルカン領から撤退を余儀なくされると帝国の求心力の低下は顕著となり、帝国から離脱する勢力も発生した。状況に危機感を覚えたアデレードとディートリヒは結託してマンフレードを政府から排除して政権を握った(薔薇革命)。ヴァイオレットはマンフレードを止められなかったと、皇帝位をディートリヒへと譲ることを議会へと公表し議会はこれを承認したことで、ヴァイオレット朝は2ヵ月で倒れた。ディートリヒはヴァイオレットの帝位を継承しモルトラヴィス1世として即位。帝都をグラナダからジブラルタルへと遷都し、エレクシアへと名称を変更した(ディートリヒ体制)。ディートリヒ体制下の帝国とバルカン領の武装勢力群は停戦交渉を開始し、1991年3月12日にシャホヴィニツィア暫定新政府と帝国などはマドリード合意を締結して正式に第二次連邦内戦の終結を宣言した。終結宣言後、ディートリヒは国名をヴァイオレット朝からモルトラヴィス帝国アステシア朝へと変更しスペインの統一を宣言した。
1991年に内戦終結宣言後、内戦中に独立したカタルーニャやガリシアなど小国群との交渉を行い、同君連合下である程度の自治を認める形で帝国へと統合しスペイン統一を実現した。帝国はアンダルシアやエレクシアなどの皇帝直轄領、カタルーニャやガリシアなどの王国、多数の自治領から構成される、さながら連邦のような体制を取った(1991年体制)。統一政府である帝国宰相府大宰相にはアグスティン・パドロンが任命され、帝国憲法の草案作成や法整備を進めた。諸国は軍を持つことが許可されているものの、あくまで小規模に収め自国領内の防衛に留めるものとし帝国全体の防衛は新たに設置された帝国軍に一任された。連邦内戦時の問題の解決を進めるべく宰相府に復興省と移民省を設置し、内戦期に帝国領に住み着いた移民(旧連邦移民)への補償や公民権の付与を行った。旧連邦移民の数は約200万に及ぶとされ、連邦内戦を引き起こした当事者として迫害の対象になることも少なくなく待遇や境遇に不満を持った人々が過激化しテロを起こすなど帝国の悩みの種となる。
翌年に隣国のポルトガルを協定の下で帝国との同君連合を結成しポルトフィーノ王国となりイベリア統一を達成した。
故郷を持たない旧連邦移民は、迫害や嫌悪の対象となることが多く規制の緩く比較的文化の受容に寛容なポルトフィーノやナバラ連合自治領(ナバラ、バスク地域の連合体)へと流れた。特に連合自治領で盛んな自動車産業や漁業では安い労働力として雇用されていった。連合自治領では経済格差が広がり、比較的豊かであるナバラ系へバスク系と旧連邦移民などが不満を持つようになった。1995年にGMCの自動車部品工場にて旧連邦移民の従業員が賃金の引き上げを求めてストライキを起こすと、ストライキ運動は連合自治領へと広がった。企業側は保障拡充などで対応を図るも労働者側は認めずこれまでの不満を暴発させ主張が過激化した。やがて連合自治領解消を求める運動と旧連邦移民の権利向上、独立運動が並行して起こるようになり各地で暴動が発生した。この混乱に乗じる形で反政府勢力FLLEがゲルニカの地下鉄を占拠し、ナバラ系の乗客を虐殺した(1996ゲルニカ地下鉄テロ)。一部の移民やバスク系がFLLEのテロを支持し各地で蜂起、非常事態宣言を発布した連合自治政府の軍や警察の動きを撹乱して対応を遅らせた。結果的に戦火は連合自治政府全土へと広がり紛争へと発展した(ナバラ紛争)。
アグスティン政権は、ナバラ紛争を勃発させるなど民族問題対応に失敗して支持率を失い、1998年に行われた大宰相選挙の対抗馬のアデレードに大敗した。
アデレード政権は、ナバラ連合自治政府の要請を受けて軍を派遣したものの限定的であった。1999年モルトラヴィス航空223便がラトビア軍により撃墜されると、国内世論に同調する形で帝国はアーリュン紛争へ本腰を入れて介入することを決定し部隊や武器を送った(モルトラヴィス航空223便撃墜事件)。
アーリュン紛争へ介入していた最中、アステシア家に代わりガリシア王国を統治していたヴァルナ家の代替わりが起きた。内戦期に独立し王家となったヴァルナ家は、帝国成立後も帝国の構成国となる変わりとして王国の統治を継続しており当主カルロス・エドゥアルド・ファン・ヴァルナの死後、後を継いだカルロスが民族問題で揺れる帝国からの離脱を一方的に宣言した。離脱を阻止するべくアストゥリアス王国、ポルトフィーノ王国、レオン王国の連合軍、更にアーリュン紛争から手を引いた帝国軍がガリシアへと侵攻した(ガリシア継承戦争)。ガリシアの首都ア・コルーニャは1年足らずで陥落しヴァルナ家は降伏し、王位はモルトラヴィス1世が継承した。
民族問題を抑えるべく、モルトラヴィス1世は1991年体制の解体を目論んだ。独自の王権の続いていたアラゴンやカタルーニャなどの王位はすべて皇帝が継承し、完全な同君連合(物的同君連合)となった。帝国政府は各国、各自治領政府をまとめる中央政府となり、同君連合全体の外交、軍事および財政の権限が付与された。各国政府は自国の軍事、財政に関する権限が限定的ながら付与された(2005年体制)。
2002年にナバラ最大規模の抵抗勢力であったFLLEが各国軍の攻勢や内部抗争により、ミスリルとイベリア民族統一解放戦線(INUL)、ナバラ軍事評議会政府の3つに分裂した。軍事評議会政府は連合自治政府との停戦合意を締結し連合自治政府軍へと加わったが、他2勢力は抵抗をつづけた。中でもミスリルは2011年から本格的に戦闘に参加し始めビトリアやビアナ、更には連合自治政府の首都パンプローナを攻略し2014年にナバラ地域の大半を占領するまでに勢力を拡大させた。ミスリルの拡大に対して帝国も本腰を入れて介入をせざる負えなくなり、戦線は徐々に後退し2017年のビルバオの戦いを機に劣勢は決定的となった。2019年にエステーラ近郊で指導者のナディームを殺害すると求心力を失ったミスリルは敗北宣言をした。
ナバラ紛争末期、各国の警察機関を纏めて平時の任務に加えて占領地などの治安維持任務を遂行する組織である神聖皇帝領統治機構(HEGO)が設立された。HEGOには装甲車など軍と変わらない武器類が導入され、ナバラ紛争における反抗勢力への対応、南フランスの北バスクから越境してくるゲリラとの戦闘などのために規模を拡大した。旧連邦移民が待遇などから反乱軍に加わることも少なくなく、内戦においてゲリラ戦の経験を積んだ彼らに実戦経験が浅い帝国軍や諸王国軍は苦しめられており各戦争においても少なくない損害が出ていた。これに業を煮やしたモルトラヴィス1世は2019年に旧連邦移民の「刈り取り政策」を開始。反乱軍へと参加していた旧連邦移民とその家族を帝国の敵と見なして逮捕した。刈り取り政策には、中央政府であるアデレード政権や中央評議会、諸王国政府が激しく非難し皇帝との対立を深めた。結果的に刈り取り政策は当初の規模から縮小されたものの、皇帝が廃止を明言することはなく崩御まで約5万人の旧連邦移民が逮捕された。
2022年1月にモルトラヴィス1世は崩御し、モルトラヴィス1世が後継者として指名していた息子のジークヴァルトは交通事故により死亡したため皇帝位は先帝ヴァイオレットへ引き継がれた。しかしヴァイオレットは病により先は長くないと推測されており自らも即位を拒否した。残るボニファティウス系も即位を拒否した。ヴァイオレットの息子であるウルリッヒと妻のペルタは既に死亡していたため、ウルリッヒの長女であり当時17歳だったサビーネ・パトリツィア・ルートヴィッヒ・フォン・アステシアへと継承権が引き継がれた。アデレード政権と中央評議会、諸王国政府は緊急会議を開いて即位を承認し、12日にサビーネがモルトラヴィス2世として即位した。
サビーネは未成年だったこともあり、大宰相であるアデレードが摂政として政治を補佐した。真っ先に刈り取り政策を廃止し、不当に逮捕されていた人への謝罪と補償を行った。国内問題に対応するため現地に直接赴いて意見を聞き、政策の決定に反映するなど国民からの信頼回復に努めた。旧連邦移民を含む新公民権法の制定、軍事費の最適化、企業への支援などにより、紛争で疲弊した帝国経済は回復し成長を遂げた(青薔薇政策)。新興企業グループであるエレナ・ニーナは青薔薇政策の恩恵を受けて投資や買収を積極的におこない戦後の復興を牽引してきたGMCを追い抜くなど市場競争が活発化した。
サビーネの反戦思想に反して、帝国の戦争は対外へと拡大した。ナムルノ公国やグラトスとマドリード条約機構を結成し、軍事的結束を強めた。クレタ島からのミサイル攻撃に対する軍事制裁は、オーガスレリア王国やプルマー(現リバティニア)などとの紛争へと発展した(クレタ紛争)。帝国は占領した西部地域に傀儡政権であるクレタ共和国を成立させたものの、派遣された艦隊がクレタ沖海戦にて全滅し、両陣営の全面戦争化を危惧した両陣営によって、クレタ島分割を含めたアラスカ条約を締結した。西側にはクレタ共和国が存続したものの東部は西部諸国の占領地となり、以降の統一問題を残すこととなった。
グラトス内戦や台湾危機など対外情勢へ介入することも多くなり強国として国際社会での存在感を強めていった。それと共に帝国民は国外への関心を強め、「強い帝国」を求める運動が拡大した。