ヴコール政権は、資本主義に準ずる経済政策を共産党時代の経済システムを少しずつ置き換えていく形で進めていった。1964年に連邦民憲章が施行され、イストリア、スラヴォニア、ダルマチア、パンノニア、北ボスニア、スロヴェニア、東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム地区の7つの地域からなる連邦国家となり、連邦としての首都はザグレブに置かれプーラにはダルマチア共和国の首都がおかれた。労働者不足を補うべく各国からの移民の受け入れ、外国資本の積極的な誘致、インフラ整備などにより1966年から1973年にかけての急速な経済成長が齎された。北ボスニアの領有権を巡る第二次西波戦争では、戦局を優位に進めサラエボを攻略。親シャホヴィニツィア政権を樹立し、1972年に連邦へと加盟した。
連邦にもたらされた経済成長と特需の影響からヴコール政権は支持率を伸ばし、1973年まで3期にわたって政権を維持した。しかし1973年の石油危機によって主要産業である機械製造業、食品加工業が大打撃を受けたことで経済成長は失速。政権は補助金などで対策を打ち出したものの後手に回り急速に支持率を失った。ヴコールの退陣後に大統領となったユーリー・ブリノフの経済対策も失敗に終わり財政難が加速、軍事費の削減を行ったことで軍部の不満を煽った。1974年にアドリア海艦隊旗艦ジェリコの乗組員が賃金未払いを理由に反乱を起こし、艦隊の水兵などを率いてプーラを占拠し救国軍事評議会を設立してダルマチアとイストリアを掌握した(8月クーデター)。救国軍事評議会はイリュリア国民政府を名乗りユーリー政権が維持する領土へ侵攻し内戦へと発展した(第一次連邦内戦)。ユーリー政権軍は諸国からの支援を募りつつ抵抗し、欧州諸国などの仲介を受けてカシュテラ合意を締結して停戦。国民政府とユーリー政府の連立政権設立で合意したものの、翌年に合意を破棄してユーリー政権がプーラやスプリトを奪還し、1978年のドゥブロヴニクの戦いを経てアドリア海艦隊は一部を除いて自沈し国民政府は降伏した。ユーリー政権は救国軍事評議会を追放し、野党第一党であった社会民主同盟との連立政権を成立させ国民の不満の払拭を図った。さらに不満を反らすべく、諸外国へ「地中海連邦構想」を発表し地中海沿岸諸国による国家連合設立を目指した。